針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

ラマ僧

2023-02-28 11:02:11 | 漢詩・古典・エトセトラ

チベット問題
中国によるウィグル自治区 チベットの侵略は目に余る問題ですね。針外しが「ラマ僧」の文字に接したのは学生時代、「ダライ ラマ14世」のインドの亡命の時だった。
         

 チベット仏教にもとづく、政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立ないし高度な自治を求めていることから生じている紛争、および諸問題。近来、当局に抵抗する僧侶の焼身自殺が頻発し、チベットでの宗教や自由への圧迫が人権問題だとして国際問題化している。

 宗教指導者ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命、ダラムサラに亡命政府(ガンデンポタン)をつくっている。中国に住むチベット人は682万人、うち270万人がチベット自治区に、他は青海(せいかい)・甘粛(かんしゅく)・四川(しせん)・雲南(うんなん)などの自治州に住む(2010年中国人口センサス)。

               
  中国共産主義の欠点は自分勝手な論法でチベットが嘗て中国領だったとか、だと「相手の事などお構いなし」に越境して中国による自治を強要したりすることだ。これは現代に至っても未だその傲慢さは変わっていない。

 中国はまだ文化的に見ても途上国だ。いくら飛行機や車、船を他所の国の技術を「パクっ」ても人間の頭のレベルが付いていけてない。そのレベルで他国を配下に置こうとしているから始末に悪い。

 チベット問題は新疆(しんきょう)ウィグルや内モンゴルの問題より複雑である。まず「実際上の独立」の歴史が長く、中華人民共和国になっても1959年3月の反乱でようやく本土への統合が始まり、行政系列に入ったのは1965年にチベット自治区ができてからである。次にチベットがもつ政治的、宗教的、文化的特殊性、さらには海抜4000メートルを超える自然の要害という条件も統合をむずかしくしている。

 また、「チベットとは何か」が中央権力とチベット人の間で異なっている。ダライラマ14世・(チベット亡命政府が主張する「大チベット」構想では)、ウツァン(中央チベット)を囲む周辺チベット(アムドは青海ほぼ全域と甘粛の一部、カムはかつての西康西部、いまの四川西部と雲南北部)に多数のチベット人が散在し、彼らは「大チベット」「チベット人がすむところ」が「チベット」だと考える。つまり、三つのチベットがあることになる。いまの自治区の2倍の領域である。1987年以来、ダライ・ラマ14世は、この「大チベット」を念頭に、「中国との提携関係のもとで」「民主チベット、核兵器のない中立のチベット」を求めている。他方、中央政府のいうチベットはチベット自治区に限られる。  

 1951年の中国人民解放軍のチベット進攻後、チベット側3方(ダライ・ラマ勢力、パンチェン・ラマ勢力、アワン・ジグメNgapoi Ngawang Jigme(1910―2009)勢力)と中央政府の間で「17条の和平協約」が結ばれ、チベットが「共和国の大家庭にもどった」ことが確認される一方、チベット地域の当時の政治制度、宗教制度は変えないことが約束された。だが、1957年から情勢は激変する。「民主改革」、農牧業の集団化が始まるのである。

 1959年3月、ラサを中心にチベット仏教僧侶、旧支配者が反乱を起こした。中共当局がダライ・ラマ14世を観劇に招待すると、「ラマが北京(ペキン)に拉致(らち)される」と考えたラサ住民(一説では3万人)がノブリンカ離宮を包囲、「チベット独立、漢人は帰れ」と騒いだ。離宮では旧チベット政府のカロン(閣僚)が人民会議を開き、チベット僧俗人民の名で政教一致のチベット独立を宣言した。

 中国中央政府は、旧チベット政府軍と武装した反乱者(一説では7000人)が人民解放軍に抵抗したので、3月20日解放軍が5000人のチベット勢力を殲滅(せんめつ)したという(死者は545人)。この間にダライ・ラマ14世は5000メートルの山々を越えてインド北部に脱出、チベットの事実上の独立の歴史や、中共によって1951年協約が反故(ほご)にされたことなどを国際社会に訴えた。

 このチベット反乱の背後には、カム、アムドで土地改革、農牧業の集団化、宗教的特権の廃止などが始まって旧社会を破壊し、旧支配者や僧侶が「衛教軍」などをつくって抵抗したことがあり、チベット社会旧勢力の多数がこの反乱に加わった。対して中央政府は、1959年から1962年にかけて人民解放軍が熾烈(しれつ)な殲滅(せんめつ)作戦を展開し、おびただしい死者を出した。毛沢東が一方で10代の見目麗しい女子を「房中術」と称して毎晩「夜伽」をさせていた。(長江の鮒の数より多かったとさ)

 話は変わって当時「カンフー」物が流行り始めまして、「ジミーウォング」の『片腕ドラゴン』が、皮きりで、中の登場人物に「極悪非道のラマ僧」左龍、左虎が出ていました。全くの人格者揃いなのにね。国の息の掛かった民族洗脳(プロパガンダ)によって中国国民から教化されてしまった訳だ。

   

まだ中国も共和国になりたての頃で香港も「イギリス領」でジミーウォングもこの映画を撮ったのが「台湾」だったそうな。ダライラマとこのラマ僧とのギャップに当時随分と面喰いました。国の立ち位置はその国の人間でないと分からないと言いますけど、今からすると随分と「えげつない洗脳された描写」だったんですね。

こういうプロパガンダに洗脳されているのに「ジャッキー チェン」もいますよね。(もしかしてスパイとして中国共産党に加入しているのかもしれませんが)

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体だけじゃなくて

2023-02-25 05:28:14 | 日記

 針外しは、大腸癌になったり、(CT撮って癌は無くなりましたが、次の日にインフルエンザンなってしまった)また大腿骨を折ってしまった母(訪問診療の先生のお陰で次の日に手術出来ました)を持ち上げる時に背骨を圧迫骨折したりした事はお話した通り。でも話はこれで終わりではありません。まだまだ話のつづきがあるんよ。

 やっと抗癌治療が終わったと思ったら何と「水道の水の出が極端に細い」お風呂を入れるのも普通15分もあれば入るのに35分~40分掛かってしまいます。業者さんを呼んでみてもらうと配管のあっちこっちが錆びて膨れてしまっています。「あー、だから出が悪くなったんだ。」うちは5階建てなんですが屋上にあるポンプも故障気味らしいしね。

                                                

これとは別に前に「サッカー戦」見ていた時、雷が「パラボラアンテナの受信口に落ちてテレビがBSが見えなくなって買い替えたりしたんですけど、その時建物内を這わせている「地デジ、BS」兼用のアンテナコードも少し焼けてしまったんだろうね。ここへきて大部分の店子さんのテレビが映らなくなってしまいました。もっと悪いのはこういうアンテナ線は天井とか内張がない時に屋上から這わせてくるので取り換えがきかないんだね。

                                                                                 

        ただ、救いようのない事ばかりではありません。うちには昔テレビの映りが悪くこの地区を重点的に「ケーブルテレビ」が入っています  。(12chなんか人が10人にも重なってゴーストで見るどころではなかった。東京タワーの膝元)。そのお陰で、ケーブルの会社からビル全棟、核部屋迄にケーブル配線を無料で設置してくれました。で、その受信口から「ケーブルの地デジ」が見れてしまう事です。それも埼玉、千葉も余計にね。これはお得だった。     

問題は水道です。

                                                           
   中が錆びて菟穴が細くなってしまっています。うちの上水は下に受水槽があって5F、屋上にもって行き、そこから加圧で下に分水するもので、4Fから下は圧があって水道の出がいいにですが、5Fは距離が短いので最後にあるポンプを噛ませて圧を稼がなくてはなりません。

                                                      
            ボロボロに錆びています。     5F、このポンプも交換しないと駄目です。

業者さんに見せてもらったんですが、メーターまでの水圧は消火器並みの強さですが、その先が細いのか少し落ちますね。風呂のお湯出しが少し不満が残ります。がマアマア、事無きを得たと言っていいでしょう。しかし、身辺の周りを軽くしておこうとしてたんですが、いっぺんに災難が来た感がありますね。

皆さんも水回りは25年を過ぎたら早めの配管交換をお勧めしますよ。(結局それが一番経費がかからないね。)

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通臂拳 鉄腕 武田 煕 師範

2023-02-22 08:22:05 | 武道・拳法の話

 通背拳(つうはいけん)は中国武術の1つ。別名を通臂拳(つうひけん)ともいう。腕を鞭のように伸ばし、柔らかく素早く遠くへ伸びる打撃を特徴とする。

通背拳の名は、中国の伝説上の猿「通臂猿猴」(つうひえんこう)に由来する。西遊記にも出てきますよね)

 通臂猿猴の左右の腕は1本につながっており、右腕を伸ばせば左腕が短くなり、左腕を伸ばせば右腕が短くなる。通背拳の武術家が打撃を繰り出す際、その腕が予想を超えて遠くまで伸びて相手を攻撃する様子からの命名とされる。

 正確な起源は不明だが、河北省を中心に中国北方に古くから伝わっており、清代より、北京と天津の2都市を中心に、東北地方でも行われている。その伝播にともなって、現在では多くの系統が存在する。祁氏通背、五行通背拳、劈掛通背拳、回族拳法の白猿通背拳、六合通背、両翼通背、少林通背拳、合一通背などである。

通背拳の有名な武術家には、祁信、修剣痴武田 熙氏(たけだ ひろし、日本人。北京大学留学中に賀振芳より通背拳を学んだ。著書に『通背拳法』他。)などがある。現地では鉄腕ウーデン シーと親しまれてこう呼ばれていました。

                                                                     
                     武田 煕 (バンドやってた時の ギターの 石本先生にそっくりだぞ。)


                                                            通背門の歴史

           小架式を中心とした系図(遼寧省大連市)

       一世   二世    三世   四世   五世   六世

       (大架)┌王占春─
      ┌陳 慶─┤
      │    └張 策┬──呉図南─
  祁 信─┤        │                ┌曲維礼
      │        └┐               ├張安福
      └祁太昌──許天和─┼─修剣痴─┬于少亭─┬陳功年─┴王同順
       (小架)    ┌┘     │王耀亭 │常松勝
               │      │薜義恒 │劉延善
          ?─賀振芳┴──武田熙 │韓鵬遥 │孫徳超
                      │成伝鋭 │王桂芸
                      │王之和 │朱恩成
                      │劉伯央 │張朝善
                      │沙国政 │肖国源
                      │高紹先 │田子華
                      │王家瑞 └張雲珊
                      │高鶴令
                      │王九経
                      │趙恵卿
                      │王侠林
                      │薜春普
                      └林道生


通臂」は、架空の動物「通臂猿猴」からの命名と言われている。通臂猿猴とは、左右の腕が一本に繋がった架空の猿の事で、右腕を伸ばせば、左腕が短くなり、左腕を伸ばせば、右腕が短くなると言われている。(一説にはテナガザルではないかとも言われている。通臂門に伝わる独特の身法に習熟した者は、あたかも腕が遠くへ伸びるように見える
 それが、この通臂猿猴のようである事から、通臂門と名乗ったと言われ、通臂、通臂、通背、通備の中では、最も古い表記であると考えられている。また、場所によっては、劈掛拳を通臂拳、通背拳と呼ぶ事もある。『通背』とは「腰背から生じた力を肢体へ通じさせる」の意味である。また、『通臂』とは「臂(腕)から生じた力を肢体へ通じさせる」の意味もある。しかし、『臂』の力も本来は『背』から発するものであるため、『通臂』の意味も含めて『通背』と表記される事が多いようである。通背門(通臂門)は、河北省を中心とした中国北方に古くから伝えられてきた武術で、現在では多くの分派の存在が確認されている.。

 例を上げると、祁氏通背、五行通背、白猿通背、劈掛通背、少林通背、合一通背、六合通背等である。しかし、そのために起源は、はっきりとしない。一般に言われているのは『猴拳(猿拳)』が元になっているのではないかという事である。猿というと日本では、あまり良いイメージはないかもしれないが、中国において猿は神聖な生き物とされ、特に白猿は神の使いとされている。

 


祁氏通背小架式(五行通背拳)について

晩年には研究の成果を「勢」「法」「理」の三部にまとめあげた拳譜も残している。この拳譜は、中国国家が行った民間武術発掘事業の時に、修の関門徒弟 林道生によって国家に提出され、優秀賞に選ばれている。(優秀賞は全国で三つだけであった)

        五行通臂拳と日本

五行通臂拳の実践者として日本人である武田 熈氏が有名である。

五行通臂拳を日本において最初に紹介したのは、当時の天津武術館所属の鄧洪藻(とうこうそう)であり、鄧は13歳の時に著名な武術家張策、張喆に師事している。

1952年、天津で開催された武術大会において、鄧洪藻は第3位に入賞している。現在鄧洪藻の弟子達が活躍しているが、その1人「楊建生」が一度来日している。

拳法を日本人には教えるな」という風潮の中よく伝授された。これは武田 煕氏の人間性が優れていたんだろうね。

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陳家太極拳

2023-02-19 18:38:50 | 武道・拳法の話

陳家太極拳

張三丰からの流れで陳家溝に伝承された拳法です。(そうだっけ?)陳家溝の人間しか教えを乞う事が禁じられて、用人にやっとなれた楊露禅くらいしかいません。確かに燕青拳(迷踪芸)とかと同じ様に武術として使うとなるとなかなか難しい拳法ですね。

陳家太極拳
(ちんかたいきょくけん、陳氏太極拳陳式太極拳)は、中国河南省温県、陳家溝在住の陳氏一族を中心に伝承されている中国武術です。20年も昔、どっかのテレビ局の女子アナ(中国・元祖太極拳村に・・高野志穂が出会った。この記事は無くなりました。)がこの陳家溝を訪れて,推手を教えて貰ってたのを覚えています。

  陳家太極拳は現在分派した全ての太極拳の源流であり、その動作は剛柔相済、快慢兼備を理想とし、太極拳に特徴的な柔軟さや緩やかな動作だけではなく、跳躍動作や震脚(全身を沈め、大地を強く足で踏む動作)など激しく剛猛な動作をも含んでいる。

 発勁(中国武術でいう全身を協調一致させて威力を発する技術)は太極拳の得意とする暗勁(大きな動作を伴わない発勁法)ばかりではなく、明勁(大きな動作を伴う発勁法)をも得意とし、纏絲勁(てんしけい)・らせん状の捻りを伴った勁)によって全身の勁力を統一的に運用することが他派の太極拳に比べ特異です。
                        
                            
                                     陳 王廷老師                 陳 発科老師

                
                      陳 小旺老師


                                                             

                  
                   

                 楊 露禅老師                      楊 兆甫 老師

一般的な太極拳のイメージからすると豪快な印象を持たれやすいが、慢練(型をゆっくりと練習すること)や、高齢の達人の拳風は剛柔が相済され、和(か)式太極拳や楊家太極拳を連想させるかのように柔らかく緩やかである。楊式太極拳の祖、楊露禅は陳長興(陳氏十四世)に陳家太極拳を学び、陳発科、杜毓沢、陳延(陳氏十六世)に学んだとされる。また松田隆智氏は杜毓沢氏の弟子の戴志哲氏より陳家太極拳を伝授されたとあります。

異説はあるが20世紀に入り、陳発科が北京で大架式系統を教授してから、一般に普及しはじめたといわれる。因みに陳発科が金剛搗捶をやると石畳が割れてしまったとあります。                                                                             
                                                                   
                                NHKの中国語」講座でお馴染みだった楊 名時師範(楊家の直系なんですよ)


拳架(陳式套路の各種スタイル)

起源については現在も議論がある。武術史研究家唐豪以来の通説は、元朝に加担したため明の太祖・洪武帝による「犬の子一匹、生きて残すな」という殺戮によって無人地帯と化していた中国河南省温県常陽村(現・陳家溝村)に1374年、一族の長老、陳ト(これを陳氏初世とする)に率いられ強制移住させられた陳氏一族に家伝として伝えられていた武術が起源であるとされる。その制定者についても諸説ある。陳氏九世の諸家の武術を参考に創始したとする説が有力である。

陳氏十九世陳小旺によると、陳王廷が制定した套路は、洪砲捶百八拳、五套捶、陳式長拳、十五洪、十五砲の五種。

陳氏十四世、陳長興は煩雑な套路を整理し、一路(洪砲捶百八拳、五套捶)、二路(陳式長拳、十五洪、十五砲。これを砲捶とも呼ぶ)を制定した。これを老架式と称する。

さらに陳氏十四世陳有本、有恒兄弟が(世代は同じであるが年代的には少し下がる)これを小架式に改変し、以後、陳長興が制定したものを老架式、陳有本、有恒が制定したものを新架式と呼んで区別していた。その後、陳氏十七世、陳王廷1600年頃 - 1680年頃 明末の文痒生、清初の武痒生)が家伝の武術(陳氏一族が温県に強制移住を命じられるまで住んでいた山西省臨分市洪洞県に今も伝わる通背県?)や、戚継光の『紀效新書』、、陳発(陳氏中興の祖と称される)が新たに新架式(大架式)を制定するに及び、以後、陳有本が制定した新架式を小架式と称するようになった。但し、正式な制定が中華人民共和国成立後のため、今も台湾では小架式を新架式と呼んでいる。そのため日本では呼称に混乱がみられる。

陳式太極拳が広く外部に伝わったのは中華民国初年、第十八世、陳照丕が北京(当時は北平)に出てからだと言われる。照丕が当時の首都、南京中央国術館に呼ばれ、代わりに北平に赴いたのが陳発科である。そういった関係で陳家溝以外では新架式が専ら行われているが、南京付近では老架式も普及している。

この他の陳氏のスタイルとしては陳有本の甥で、陳家溝の隣村の趙堡鎮に婿入りした陳清萍の拳架である趙堡架式と、陳清萍の弟子の李景炎によって考案された忽雷架式がある。

陳式の学習者の間では大架式に対し小架式、趙堡架式、忽雷架式は、形的には非常に似ていて同一視され易い傾向にあるが、動作的にはどれも特徴ある表演(演武)スタイルをとる拳架である。

陳式太極拳の理論書としては、陳鑫(陳品三)の陳氏太極拳図説(陳氏小架式の拳譜)などがある。また、戚継光の『紀效新書』が編纂した『紀效新書』の本文十八巻の一つである拳経には、陳式太極拳と共通する技法が見られる。

伝承者

17代目  陳発科(ちん はっか、陳 發科、1887年 - 1957年)達人。
陳氏太極拳正宗の家系で、陳長興の曾孫。清国河南省温県陳家溝の出身。
1928年に、請われて北平(北京)に出向き陳家溝の武術(陳氏太極拳の大架系統)を指導する。
18代目 陳照旭(ちん・しょうきょく、(1909年~念1960年
父は陳発科。息子は陳小旺。清国河南省温県陳家溝の出身。の出身。最後の第五層功夫と言われる。

 我が家には息子さんの陳小旺「陳氏38勢」のDVDがありますがやはり実際にやられているのを見て真似てからやらないとむりだね。
松田隆智師範の本見てからDVD見たほうがいいね。
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間違えてアップしちゃった。

2023-02-17 10:28:22 | 日記

 今ブログのフォントを入れ替えていたら間違えてアップしちゃった、(ん?)どういう事かっていうと、昔最初の頃はあんまりブログも書きなれないでいてそのままアップしてたんですが、見返してみると字が間違っていたり脱字していたんですがフォントも字が小さいまんま。でフォント4になおしていたんですが気が付かないうちにアップしてしまいました。という事で、今回はお許しを頂きたいのですわ。ごめんね。

で先日、東京タワーの下のプリンスのバラの庭で、「省エネの何とかかんとか・・・・」って言う催しがありました。と言って、出店が出る訳ではなく、詳しく説明をしてもらった訳ではなんおでよくわかりませんが。

三菱自動車の「電気自動車」が野天に展示されたり丸い芝生の中に花弁がハート型の電飾があったらり、街路灯に緑やら赤、青のプラ、フードカバーを付けてそれをソーラーで蓄電して照らす事もしていました。

下の芝生の園地では、植え込みの樹木にLED(たぶん)で照らしたりしています。

                                         

 ま、殺風景な冬が少しは、見た目でカラフルになった程度ですね。これを冬の間ずーっと設置しているなら、いいかも知れませんが、長きに渡ってあると、これまた「うっとうしい」のかも。

                              

 自然の紅葉とかなら、目に障らないけど、人工的な、照明はやはり、違和感があるね。自然光で、夜桜を照明したり、紅葉を照らすのは趣があるけど、ここに色が付くと、途端に毒々しくなるから不思議だ。

                                    

 やはりこういうのは短期間がいいんだね。東京タワーのライトアップだって普段は自然光。たまにクリスマスツリーやろうそくをイメージしたものをやるから、感動が生まれる。

                                                                      

 

                                    
             
    大きい花をイメージしているんだけど、これは高いホテルのお客や東京タワーから見るのに適している。同じ地表に立ってみても、なんの感動もない。よく友人達が、ライブに誘ってくれますが、一見ライトアップされたステージと一緒だと思われがちですが、全然違う!。ライブには永年培われた、ギターテク、舞台度胸(針はチキンハートだからやらないのね)、そのバンドのキャパ。各メンバーの人格、人柄がすべて凝縮されている点が違うのだ。

え”-!、この電飾だってそうじゃないかって!?。う~んそうだねえー!。ここに音楽があれば良かったのかね?。それも針の好きなリバプールサウンズ(マージービーツって言います。リハビリーサウンズとも言いますが)が流れていればこうは思わなかったかも知れません。

この記事当時は内容が分かっていたんですが、見返してみると何かいていたかおもいだせません。ごめん。

コメント (2)
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張三丰太極拳の祖

2023-02-15 08:46:07 | 武道・拳法の話

                                              張 三丰

張 三丰(張三豊)(ちょう さんぽう、簡体字:张三丰 (1247年- ?)は、南宋、元、明代に生きた遼陽府、懿州出身の道士・仙人・字は君宝。幼名は全一。日本においては張 三豊とも表記される。伝説的な人物で、存在したかどうかは定かでないね。

武当山太极张三丰.JPG

 しかし、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度である考証学の祖である黄宗羲が記した『王征南墓誌名』に張三丰のことを記録しており、その中で内家拳の祖であるなどを記していることから、伝説は多いが内家拳の祖として確かに実在したとする説もある。

ある時(宋の時代であるとも、元の時代であるとも、明の時代であるともいわれています)、武当山で修行をし、陰陽太極の理を究めた張三峯が、カササギと蛇(または孔雀と蛇、あるいは鶴と蛇)が争っているのを目撃し、インスピレーションを得、太極拳をあみ出したというものです。

伝説では、少林寺で修行した後、武当山(湖北省十堰市で)武当派をつくり、太極拳を創設したとされる。

 登場する歴史資料は『明 志』『三丰全集』『広陽雑記』『諸真宗派総簿』『三迤随筆』『淮城夜語・張玄素入点蒼』等。幼少の頃より、才知が抜群で経典・歴史に精通しており、一度目に通したものはすぐ暗唱できた。体や耳が大きく、ひげが矛のようだった。最初に碧落宮白雲長老に師事し、人格を磨き修養を積んでから、全真教の道士、長春子(丘 処機)の教えを学んだ。丘 処機は後に成吉思汗より招聘されて不老長寿の道を問われたが「養生」こそ肝要と問われてその道のない事を説いた。

                                                  ます

    1314年(延祐元年)、67歳になったとき、火龍真人に道教を学び不老長寿の術を得ます。(長春子が不老長寿の道は無いといっているのに之は変だね。)

それから、宝鶏金台観で道教を研究し「三丰道人」と称します。

1324年(泰定元年)77歳になった張三丰は武当山に到達。玉虚台で太極剣を研究し、さらに剛と柔の「両儀四象」で太極拳の三功(内丹太極剣三百八十四招、両儀太極拳三百八十四拳、陰陽拳)を創造した。この成功により仙人となる。仙人になった張三丰は、130歳のときに一度息を引き取るが、埋葬される段階でまた生き返る。

張三丰の名声は朝廷に伝わり、1384年(洪武17年)、明の洪武帝(朱元璋)は137歳になった張三丰を招聘するも辞退される。さらに1416年(永楽14年)に、永楽帝が169歳の張三丰を招聘するがまたも辞退された。

  そんなに生きられたのかよ!?。

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前の記事と合わせて読んで下さい。

2023-02-12 19:32:54 | 針の政治談議

前の小泉純一郎と竹中平蔵を再度あげますが、今回の岸田の件と抱き合わせで、考えて見て下さい。

少子化を防ぐとか、給料を上げるとか言っておきながら、ガス代、電気代をとんでもなく上がっていますがこれは岸田が、ガス 電気の会社に裏で手を回して料金を上げています。面と向かっての料金を上げるとは憚れるので裏でこっそりと示し合わせて上げています。今回の電気代等にしても料金を上げなくても結局は足りているじゃないか。

 あの猛暑の時の電力不足だって、足りなくなって大変だと言いながら結局は何ともなかったじゃないか。国の役人議員はやり方がきたない。どこで読んだか忘れてしまいましたが岸田は。パーティー券で1億何千万と稼いだそうだ。そりゃーそうだろー、何の苦労もしないあぶく銭がザクザクと懐に入ってくるじゃ国民に対する増税論議なんて「屁」でもないわさ。統一教会の話も尻つぼみになってしまっているし。

結局、時の総理にしてもしょせん「人事」なのかもね。

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今更ながら

2023-02-12 19:15:10 | 針の政治談議

 元、総理の小泉純一郎と竹中平蔵が推し進めた「郵政民営化」をやってしまった結果、日本の隅々までの配達が困難になってしまった。確かに特定郵便局等の改革には役には立ったが、問題はアメリカの意向で中国、北朝鮮に対する軍備を打診されたのだが、そのブッシュから言われた通りの金を何処から捻出したかと言うと、郵便局員の社員、保健所、保育園の社員の待遇を削って、期間雇用社員にしてしまった事だ。

「船頭多くして船山に登る」という言葉があるように、頭でっかちの糞の役にも立たない郵便局員(上層部)がのこってしまい、当時山のようにいた局員の給料は温存して、末端の社員を期間雇用にしたという事は、どういうことかと言うと、一年の雇用契約にして退職金をなくしてしまった事だ。1年経つと雇用関係が無くなり新たな「雇用関係」を結ばなければならないからだ。これによって当時の社員達は相当不満が生まれたと言うことだ。

 これはつまり「退職金」が発生しなくなったと言うことです。小泉純一郎と竹中平蔵は平気な顔してこれをやってしまった。総務省は高市が大臣をやっていて社員化を口では唱えながら結果何もやっていない。

 これの成功に気を良くしてか「かんぽの宿」を坪1000円で「オリックス」に売却してそれを高額で売ろうとしたり、郵便局の養老年金を「公的資金」に流用しようとした。アメリカからの軍備の為に取り上げようとした訳です。これには国民も流石に気がついた。こんな所に自分達の貯金が使われてしまったら、いつ返って来るか分からないね。それも多分税金で賄おうとするかも知れないね。あのオスプレイにしても郵便、保健所、保育園の犠牲の上に成り立っている訳だ。小泉純一郎と竹中平蔵は今回死んだ安倍よりも酷いことをしたと思っています。安倍も底抜けの大馬鹿ですがね。

 国民生活をなし崩しにしている人間を遊説か何かで来て握手をされるとテレビを見ているときは批判を繰り返しているのに、大喜びで大騒ぎして歓迎している姿をみると、「馬鹿じゃねーのか」と思わざるを得ない。政治家と言う人間は目的の為には「国民なんかどうでもいい」と思っています。今回の統一教会にしても盲目の信者」で安倍を信じ切ってしまっている。小泉進次郎にしても「女ったらし」で有名な話なのに、「きゃーきゃーと」と良く媚び諂って取り巻いていますね。武道館の国葬に出向いた方々はどんな事を基本にして生きているんだろう?。

 国の政治家は国民を「馬鹿の状態にしておく」。この一言に尽きる。国民の大半は「高い教育を受けた偉い人間が政治を行っているから任せていれば大丈夫だ」と思っている人が多いね。議員の思う壺にハマってしまっています。今国民と為政者たる議員の差がなくなって来ている。ごまかし切れないのによく平気で政治を行っているんだろう。

結局は、議員等位奴らは、テメーの政治生命を温存したいばかりに「国民を食い物にしている」の一言に尽きますね。

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やっと食べられる

2023-02-12 07:36:54 | 針でも出来る簡単料理・食い物の話し。

  8回の抗癌治療をしてやっとCT撮って癌は完治したようだが、薬の後遺症がまだだいぶ残っています。口とか腕のしびれは消えましたが、指先なんかまだまだです。とりわけ「食い物が美味くないね」よくコロナでは味覚症状が欠落して味がしないと言いますが、抗癌治療は味がするけれども、美味しくない。

 それがここ2,3日で大分治ってきました。朝の味噌汁、納豆。オムレツ、かつフライなんかは大分抵抗なく食べれるようになりました。カレーもちょっと前までは美味しくなかったですけど、ここにきて前と変わりなく食べれます。

           
        結構食べちゃったぞ。

口が治るまで毎朝、「おかゆ」ばかり食べてました。これは人によって違うらしく、針外しの友人のお兄さんは3回目で治療断念です。(別の治療法になりました)

でも、これは癌の重さとか関係ないみたいね。前にも書きましたが、水を飲むと「砂を口に入れているみたい」手を洗うと「ドライアイス」で洗っているみたい。点滴を打った方の腕が痺れる。体中の力が抜けて脱力感が酷い。等色々症状が出て、各個人によってその度合いがかなり「差」が得るようだね。

普通、抗癌剤の効力は8か月~1年と聞きました。弱いにしろ強いにしろそれだけの期間が係るみたいだ。

まあ、針外しもそこそこ、きつかったけど幸い緩やかで終わったので「不幸中の幸い」と言っていいだろう。

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今の中国についてあれこれ(2)

2023-02-09 08:36:18 | 針の政治談議

これも以前投稿したものです。もう一度出します。

今、中国は大気汚染、工場から排出される、汚染水が大変大きな問題となっています。浙江省のとある小学校では20人もの生徒が鼻血を出したり、白血病、胃がん等、死亡者が激増している。後ろ脚が6本あるウシガエル、頭が二つある、仔牛、豚、4本足のアヒル。尤も中国では、双頭蛇(そうとうだ)とか双尾蠍(そうびかつ)なんて名前の盗賊が水滸伝に出てくる位だから、平気なのかもしれないね。

上流では足尾銅山や熊本のいたいいたい病のように工場から汚染水が大量に流れて川が赤い色をしている。下流ではその色が真っ黒になっています。

                                                   

 川に生活排水が流れているなんていうレベルではない。テレビを見た人も多かったんだろうと思いますが、「こりゃー酷い!」。中国国民は良く黙っているもんだ。前回の話ではありませんが、歴代の君主国家にしても今の共産党の国家にしても、上の人間は多少の人民の犠牲はやむを得ない!という事が根底にある。共産党国家になってそれがより顕著になった。

 北朝鮮の張 成沢氏が粛清された。世界に衝撃が走ったが、中国も北朝鮮もまったく良く似ている。どっちも共産主義の名を借りた独裁国家だという事は世界中の誰もが知っていますが、なんで国民はこうも言いなりになっているんだろう?。心有る優秀か人がいるだろうに。でも、国家となると必ず利権を貪る奴=強欲な奴が権力を持つ。そうすると必ずと言っていい程、無理な手前勝手な法律が施行される。この法律は、権力者の利権を守る法律と言って間違い無い。

                                          


 共産国家は本来国民は皆平等で資を公平、平等に分けあって、皆が恩恵を分かち合うとするもんだが、今の時代、皆、意見をいうものなら、粛清の元、下手をすると、殺されかねない。かつて日本は中国に侵攻した事は間違い無いが、その反省に基づいて、かつて多額の援助をしたのだが、それは全部といっていい程、党の幹部の私服を肥やし、賄賂や、はたまた日本に向けて配備したミサイルに変わってしまった。日本の官僚共も形骸化して渡していたのも悪いのだが、あの江澤民にしても散々日本から金をもらっていたのに、自分の無能を隠して矛先が自分に向くのを避ける為に、「反日教育」を浸透させた。

 今の中国人民は教育がされているのだが、江澤民は戦時中の無教育の時代を過ごしてきたので、良い悪いの区別がつかない。住宅にしても、オリンピックの時強制立ち退きで何の保証もしなかったし、列車の事故だって、赤ちゃんがまだいるのに穴に埋めてしまおうとしたり。

すべてが、賄賂が邪魔をしていると言っても過言ではない。

 昔の中国の方が、立派な建物が残っていて、綺麗な国土で良かった。文化大革命で壊された孔子廟、や関帝廟。過度な乱開発でかえって荒廃してしまった国土、もうかつての綺麗な中国は戻らない。針は昔の中国が好きだから、歴史的建造物が壊されたり、文化資産排除されるのが残念でならないね。

 なんで中国は賄賂が温床となっているんだろう?。(これは昔からだけど)。私腹を肥やす共産党幹部とこの賄賂が無くなり、他人への思いやり、それと(これは中国の最も誇れるものだと思ってるんですけど)「義侠心」を大事にする、これなれば、中国は世界から尊敬されるだろうし、それこそ「世界に誇れる中華」になるだろうに。

 今の中国は大きくなって国民を潤そうとしていますが、私の考えだと全く逆だね。私だったら国を治るに、もっと小規模にして完全にまとめあげるね。その点では日本は理想に近い。まとまるのに簡単だし早い。今の中国は国がデカすぎる。だからいつまで経ってもまともな政治が出来ない。小さくして立派な腐敗の無い政治を心がければ周りの諸国がこぞって傘下に入りたくなる。やっている事が侵略じゃ嫌われるのは当たり前だ。このことに気がつかない党の幹部は今まで何を勉強してきたんだ。賄賂を持ってこさせる勉強ばかりしてきたに違いない。

                                                                     

 兎角税金に群がっている人間はこの事に気がつかない。そりゃそうだ!。何の苦労もしないで金がはいってくる。テレビの評論家だってそうだ。税金に似た体質から生まれてくる報酬を貰っているので、通り一遍な総論しか言わないで後は「野となれ山となれ」だ。

このあぶく銭を貰う体質を変えないと今の中国は衰退するか滅びるだろう。

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今の中国についてあれこれ。

2023-02-06 08:12:41 | 針の政治談議

今、ケーブルTVで、中国の秦代、嬴梁、商鞅からしばらく経った、恵文王 (前338-前311のの時代)始皇帝の前の映画をみています。秦の嬴駟(えいし)の考え方は、他の国を侵略して領土を広げると自国の民が裕福になるという富国強兵・侵略主義だ。確かにその頃の秦は斉、楚、魏、に比べると貧しい国だった。

中国の民というのは、国土の大きい割に貧しい。人の事を思っていると、自分が食べられない。だからどんな物でも食べる。犬だって、猫だって虫や蛇、猿、だって食べてしまう。昔、「峠の酒楼」で来客した客を品定めして、金持ちそうだと、酒の中に「しびれ薬」を盛って、気を失ったら、裏の大まな板でバラして、金品を奪い、肉を次の客に食わせる。「旦那、今日はついてるよ。いい羊の肉が2頭入ったね」

また、三国志では劉備玄徳がさすらって、ある農村に着いた時に、その家の夫婦が「我が家では、劉貴人を接待する、金も食べ物もない」そこで、そこの婦人を屠って劉玄徳に出したのであります。そうしたら、玄徳は「なんという事をしてくれたんだ(此処までは普通の会話)、其処までしてくれなくても・・・これが変だ。人肉を食するという事が根底にある話だ。

 話しは脱線しましたが、今の中国もまるで秦の時代そのもの。4000年の歴史があっても、未だにその国の体質、国民性はまるで変っていない。人の物を取ってでも自分さえ良ければいいという」考え方は4000年経ってもちっとも変っていない。前に中国と諸外国は30年の開きがあるって言っている中国の方がいましたが、針から言わせれば何年経ってもまるで黄河の「百年河清を待つ」位、未来永劫不可能に近いね。

国が貧乏なのは同情するけど、人の物を取る、強奪する、のは、中国風に言うと駄目だという事は「3歳の子供でも分かる」文字通り貧すれば鈍するだ。貧乏をすると、毎日その生活ばかり考えるようになって知恵や頭の回転迄衰えてしまい、賢人でさえ愚かになるという事だ。暮しが貧しくなれば、心までも貧しくなるものだという事だ。

中国、歴代の王朝は、民衆を武力に由って統一鎮圧してきたわけですが、国が大きい分だけ、貧富の格差も大きい。不満は昔からあった。清王朝が倒れ、中華民国を経て、中華人民共和国となった訳だが、理想だった共産主義も時が経つにつれ、腐敗、賄賂も酷くなって、歴代の王朝となんら変わりがなくなってしまった。

中華人民共和国の設立時は、小作農、農奴の人達が、「こいつ等は(富裕層の家族)地主階級だ!」と言った途端、横に並ばされて、紅衛兵に銃殺された。 (針の家の蔵書「赤い故郷を捨てた人々

               

同じ、国民に殺される恐怖に耐えられなくて、泳いで香港・台湾に渡ったり。韓国軍の捕虜を銃殺したり、人民解放の美名のもと、ずい分と人民を虐殺した。日本軍に負けて逃走する際に「日本軍には何も残すな」のもと、村全体を虐殺。焼き売って逃げた。


                                       



         

            

  特務(憲兵のスパイの札を掛けられた、何等関係のない人々が殺された。  
    

  紅衛兵に殺された韓国軍の捕虜。  韓国軍に追われて、逃げる時に人民を虐殺した。紅衛兵の事を赤匪と呼ばれた証拠だ。

よく南京大虐殺と、日本を悪逆非道のように何かあること毎に言われますが、もっととんでもない数の人民が殺された。このことを今の中国の人には知る人が少ない。報道規制等で無知にされている中国人民。水滸伝や義侠小説で、高球、童貫、蔡京のような悪徳官僚を嫌っているのに、今の腐敗して賄賂で固められた共産党幹部に関して何も言わないのは何故だ。一人の君主より人数が多い分だけもっと酷い!。孔子に「苛政は虎よりも猛き」とありますが、この国家の性格は治りそうにはないですね。

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歴代王朝

2023-02-05 08:11:08 | 漢詩・古典・エトセトラ

  中国の歴代王朝の首都の位置が何処ら辺なのか前から気がかりだったのでちょっと調べてみる事にしました。中国の王朝は時に幾つもあってキリが無いので取り敢えず西周からにします。この「西周」読みはと言えば「セイシュウ」かと思いきや何と「サイシュウ」なんだってさ。永年勝手にセイシュウと読み続けてきました。(とても恥ずかしいぞ!)たまには、変換してみるのもいいね。ま、尤も、昔、「不朽の名作」を「フキツノ名作」と読んで大笑いされた事ありましたっけ。(もっと恥ずかしいね)  

 人間の記憶力なんて多寡が知れているね。で、こうやって見ると、秦の都が洛陽にあったのを除いて大概「西安」(せいあん)を中心に置かれていたことが分かるね。三国時代、魏の許昌(キョショウ)、呉の建業(ケンギョウ)蜀の成都(セイト),それと北、南の宋の開封(カイフウ、臨安(リンアン)は特別ね。 それは金に領土を割譲させられたからです。  

西周

鎬京(長安)

前1122―前771

東周

洛邑(長安)

前770―前256

咸陽

前221―前206

前漢

長安

前256-9年

長安

8年-23年

後漢

洛陽
長安

25年-190年

190年-196年

三国

許昌(魏) 

建業(呉)

成都(蜀)

 

196年-220年

西晋

洛陽

265年-316年

東晋

健康

317年-420年

大興(長安)

581年-618年

長安

618年-907年

北宋

開封

960年-112年7

南宋

臨安(杭州)

1127年-1279年

大都(北京)

1264年-1368年

南京
北京

1368年-1420年
1420年-1644年

盛京(奉天)

1634年-1644年

中華民国

北京
南京

広州
重慶
台北

1912年-1928年

1928年-1937年
1949年
1949年

1949年

中華人民共和国

北京

1949年

 世界の首都は案外、ロンドン、パリ、シカゴなんか見ると寒い地方に多い。(ロンドンなんか、外に、牛乳瓶をおいて置くと凍ってしまうから冷蔵庫にいれておくんだとか)

だから、絵本なんかで見る王様の衣装は分厚いコートが多いよね。西安にしてもそんなに温暖な地方じゃないから寒いのではないのかね?。

 針の同級生に芝の「味芳斉」の藤山君がいますが、彼の先代のお父さんが朝4時頃針の家の前を通って店に行くんですが、真冬でも白い「上っ張り」だけで(下素肌)自転車こいで行く姿をよく見かけました。父君は上海の人で、いくら江南の人でも寒さに強いんだな」と思いました。そういえば中国の人は「酒が強いね」。小学校のクラス会で、陳君の店でやったことがありましたが、茅台酒(まおたいしゅ)を持ってきて「針、カンペイ」といって、9本瓶が転がっていました。また、うちの長男が修学旅行で、北京に行ったらもの凄く寒かったってさ。それでも、モンゴル辺りに比べると寒くはないのかね。

        
           西安                   洛陽       許昌 

 中華民国と中華人民共和国は王朝ではありませんので除外です。尤も今の中国共産党は皇帝が何万人もいる国家みたいなものですがね。中国古代は色々尊敬出来ますが、今の中国は党の保身ばかりが目立っていて大嫌いと言うか、蔑みます。歴代王朝は、滅亡の繰り返しですが、我が国の天皇制は2500?年(詳しくは忘れてしまいました。)も一度でも途切れる事無く続いているのは奇跡なんだそうだ。

 歴代の国家も秦の始皇帝の理念そのまま、現代に至っているのでその点は、良くないですね。日本の封建時代も似たりよったりですけど。張儀の言葉に「楚を滅ぼせば、我が国が潤う」というのがありますが、「自分が裕福でいい暮らしをするならば他所を滅ぼす」という考えは昔だからの話ですみますが、それを未だに踏襲して振りかざしている中国はいただけません。  

何だか話が他愛も無く終わってしまったね。     

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有名な槍の李書文

2023-02-01 16:42:39 | 武道・拳法の話

李書文(り しょぶん、(1864年ー1934年)は河北省滄州市塩山県出身の武術家。字は同臣。八極拳の生みの親。

                                                       
                          李 書文

                                 

  武術の郷と名高い滄州の貧しい農民の家に生まれた。生活苦のため劇団に入ったが、足に重傷を負い家に帰されることになった。故郷に戻った李書文少年は、武術を学ぶことを決心し、黄四海、張景星、金殿臣(蘇昱彰の教則ビデオでは金殿陞 )より八極拳を、黄林彪より劈掛掌を学んだ。昼夜を問わず練習に没頭し、急速に実力をつけた李書文は、師や兄弟子からも一目置かれるようになっていった。ただ、練習の際、誰に対しても容赦がなく、常に対戦相手に怪我をさせ、殺傷してしまうこともあったため、李狠子とあだ名された。

                                       

滄県志の八極拳の記述は、1933年の韓化臣の口述によるもので、

その時、李書文と劉雲樵は山東省の友人の所を訪ねていて、滄県志の制作に関与出来なかった。

韓化臣は羅疃村の人間で、話す内容は主に羅疃村の事であり、八極拳発生の地、孟村に関する情報は少なく、誤りもある。

以下、劉雲樵の考察を記す。

李書文が黄四海の弟子だというのは、韓化臣の誤った情報であり、

李書文は金殿陞の弟子である。

劇団をクビになる程の脚の怪我を負った李書文が、(下肢の強大な功夫を必要とする)武術を修める事が出来たのは、

金殿陞が医術に堪能であり、金殿陞に脚を治してもらった為であり、それこそが金殿陞に弟子入りして八極拳を習う事になったきっかけであった。

そして彼は京劇などの軽業を一生の間最も忌み嫌い、学生達は彼の目の前で軽業をやらない様に警戒していなければならなかった。

しかし彼が機嫌の良く興が乗った時などは、椅子の上で回転して見せたりなど、軽業を演じて見せる事があった。

幼少期に李書文が負った脚の傷の痛みは、彼の生涯の性格を決定づけ、同時に近代の八極拳の歴史の中で最も突出した人物を生み出した事になる。

小柄で痩身だったが、その体格・外見に似合わぬ怪力の持ち主だったと言われる。燕京一の力自慢が李書文に力比べを申し込んだ際、李は長さ三尺の鉄棒を石壁に突き刺しこれを抜くよう言ったところ、男は半日にかけて棒と格闘するも終に抜く事は出来なかったという。また得意技・猛虎硬爬山の鍛錬においては、重さ100kg以上もある石製のローラーを、2m余りの段差がある畑の上階へ投げ上げていたと伝えられる

袁世凱が天津で兵站訓練を行った際、近隣の著名な武術家を教師として招いたが、師の黄四海は老齢を理由に弟子の李書文を推薦した。李書文は師の代わりに天津に赴き、兵士を教練するかたわら、他の武術家と交流を持った。

この時、会長に李瑞東(太極拳)、副会長に馬鳳図(通備拳)を据えて設立された武術家の団体中華武士会に、李書文も八極拳の実力派として参加した。(この時の李瑞東との交流により少林拳の金剛八式が八極拳に採用されたと言う説があり、李瑞東伝の太極拳には金剛八式が伝わっている)

李書文と交流を持った他武術家としては、張占魁(形意拳)張景星(八極拳)、郝恩光(形意拳)、強瑞清(八極拳)、馬英図(劈掛拳・八極拳)などがいる。

実子のなかった李書文は、甥を養子としてもらい育て(李萼堂は甥ではなく実子であると李萼堂の息子、李志成は証言している)武術を教えた。(軍事力の必要性が高まる時勢の中、地方軍閥の将軍に高く評価されていた李書文は、軍事・武術教練として各地に招聘された。1925年には李景林将軍に招かれ、弟子の霍殿閣と共に部隊の武術教官に赴任し、1926年には沈鴻烈に招かれて、息子の李萼堂や魏鴻恩らを伴って山東省へ赴くなどした。

中国各地でその高い実力を知られるようになると、滄州の一流派でしかなかった八極拳は、李書文の名声と共に有名になっていった。

数々の武勇伝(一部後述)に示されるように非常に気性の激しい人間として知られ、晩年は「凶拳李」と呼ばれ恐れられたという。また劉雲樵も李書文の弟子であった頃、(李書文の気性の激しさから)殺されるかと思ったことが何度もあったと述べている

しかし家族は「あまり怖いと思ったことはなかった」と述べており、家族や身内に対しては優しい人物であったと推察されている。大変迷信深い一面もあり、写真などその容姿を直接的に示す資料は一切残されていないとされているが、実孫に当たる李志成がパソコンで作らせた書文とされる写真が存在している(蘇昱彰(台湾)が大陸に残っていた古老に確認を取ったところほぼ正しいらしいと八極螳螂のHPに書いている。劉老師が生きているうちに確認出来なかったのは残念だと述べている)

晩年の李書文は子供好きで、子供たちに武術を教えた。近所の子供たちからは「把式爺爺(武術のお爺さん)」とあだ名されていた。

弟子には、開門弟子たる霍殿閣、後に、 愛新覚羅のボディガードとなる)を始め、長男・東堂、次男・萼堂、三男・義堂の三人の息子、娘婿の孟顕忠、台湾総統府侍衛隊の武術教官であった劉雲樵(関門弟子)張驤五、張立堂らがいます。

武術としては、生涯にわたって槍術(六合大槍)を重視し、拳術や他の武器術を軽視する傾向があった。毎朝起きると必ず槍を練習した。実戦主義であり、動作の大きい見た目だけの技法は、花法套子(華やかだが実戦に使えない技・型)として認めず、招法に重きをおいて、套路を重視しなかった。このため、李書文の八極拳は質実剛健な風格で実戦的として知られた。

八極拳の伝承について、霍殿閣には書文が師から受け継いだものをありのまま伝え、劉雲樵には書文の長年の経験により纏めたものを伝えたとされる。李書文の八極拳は、李氏八極拳と呼ばれ、直系としては孫の李志成に引き継がれている。一番弟子の霍殿閣の八極拳は、現在では霍氏八極拳と呼ばれ、一流を成している。

武勇伝

真剣勝負に於いては負け知らずであったと言われ、その強さに関する様々なエピソードが残されている。山東省で「鉄頭王」と呼ばれた武術家との果し合いにおいては、「あなたは私を三回打って良い、その後に私が一度だけ打つ」と言い放ち、怒った鉄頭王が渾身の力で書文を三度打つもびくともせず、その後に書文が脳天に掌打を打ち込むと、相手の頭は胴に沈み即死したという。また北京にて行われたある武術家との試合では、決め技の前の牽制の突きだけで相手を打ち殺してしまい、逮捕されぬよう慌てて滄州へ帰ったと言われている(劉雲樵のインタビューでは、仲良くなった武術家と武術談議に花が咲き、技を説明しようとごく軽く牽制の一撃を入れたら相手が即死してしまったと話している。)

このように、殆どの対戦相手を牽制の一撃のみで倒したことから「二の打ち要らず、一つあれば事足りる」と謳われた。弟子にも「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ(多くの技を身に付けるより、ひとつの優れた技を極めよ)」と説いている。八極拳の槍術・六合大槍も得意とし、燕景にて槍術の名人をことごとく倒し「神槍」とよばれ、壁に止まっていた蠅を壁を傷つけることなく全て槍で突き落としたという逸話も残されている。

最期

1934年6月、天津にて逝去、享年70。

死因に関しては、「試合に負けた武術家の遺族に毒殺された」という説と、「病を患ったまま鍛錬を行い、その後椅子に座ったままの姿勢で死亡した」という説が挙げられている

弟子の劉雲樵は毒殺されたと確信し犯人を探して回ったが、結局犯人は見つからなかった。家族は、その死因は病死(脳溢血)だったと述べている

武壇内部の噂として、劉雲樵が李書文の死が毒殺だったと確信したのは、国民党軍の特殊工作員の情報網を駆使した為と言われている。

末裔(家族)に関する諸説

 2006年に出版された書籍『達人 第一巻』 及び『達人 第参巻』 において中国の天津へ李書文の末裔を尋ねた記事がある。しかしながら、李書文が晩年を過ごしたという家屋や墓や練習場そして槍や刀剣など、溥儀のボディーガードを育て、軍の客人と扱われた人物の遺したものとするにはあまりにも(正式な弟子である)劉雲樵らの伝えるものとはかけ離れている。末裔たちの証言も証言者によって辻褄が合わない部分が散見されるが、取材した本人も文中にそれをもらしている。また、証言者によって没年月日すら一致しない。

(武壇内部の噂として、中国共産党に毒殺である事を口止めされているのではないか、とも言われています。)

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