針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

趙高

2024-03-30 21:29:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

趙高

趙 高(ちょう こう)、(? - 紀元前207年)は、秦の政治家。弟に趙成。趙高は隣国の趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。この時、趙高が宮刑(腐刑)に処されており、のち秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が残されています。実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に一切記されておらず、不明である。勤勉で法律に詳しいことから、始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。これが後になって秦を滅ぼす原因になったのを誰として予想出来なかったですね。

皇帝の操り手

始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。沙丘の変と言います。

この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った口癖の決まり文句

断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一つ)。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡(かいらい)ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。

また、蒙恬(もうてん)と秦の公子将閭(しょうりょ)や2人の弟たち・公子高など有力者や敵対者を悉く冤罪で処刑した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。

秦帝国の滅亡と趙高の最期

天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将,章邯(しょうかん)が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。しかし、項羽の群には兵糧が乏しく結果、二十余万の兵を谷底に駐屯させて一気に穴埋めにしてしまった。以前,章邯も同じような事をしたのでその報いを受けてしまったんですね。

その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽(かんよう)のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。

趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。

このエピソードが「鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。

二世3年(紀元前207年)8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した。これを望夷宮の変と言います。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や宮中百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。どこまで汚い奴なんだ。

同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰(しえい)に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談(かんだん)らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。始皇帝も全国統一を成し遂げたのは良かったが、一番かわいがっていた胡亥が大馬鹿ときていて趙高は自分の懐ばかり肥やしてばかり。こんなんじゃ滅亡は最初から決まっていたようなものだ。

始皇帝が苦労して築き上げた秦の国家でしたが、皮肉にも一番目を掛けていた胡亥に台無しにされたしまった訳です。

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リムニーのベル

2024-03-29 17:37:52 | ギタ-・ロックの話

何時もギターを弾くときはお酒を飲んでいる時が多いので、CDかけて音を拾うのだが、この曲のサビの部分がリッケンバッカーの12弦だしアルペジオで微妙だったのでなかなかとれなかった。

曲はバーズのファーストアルバム「Mr.Tambourine Man]に入っている「リムニーのベル」だよ。

                 

 何十年も面倒くさくて取れなかったのだが、やっとまじめにやって取ることが出来た。(と思う)→おいおい!。

 でここで針の爺さん、湯治を兼ねて山に保養に行ってきます。バーズのロジャーマッギンの真似をしてさ。針もジョージハリスンモデル(←ジョージ針さんではないよ・爆)の12弦を持ってね。色はミッドナイトブルーでっせ。

             


 山の管理地は本来カラオケ、とか楽器の大音量は御法度なんですが、大体が一番奥で、人のいないところ。特に冬はスタッドレスを履いてこないとこれないので、そこいらは無人。自由気儘なのさ。

曲の歌詞は何かの繰り返しで、日本人の針には意味がよく分からないんです。アメリカの人は由緒とか、言われを知っているんだろうね。

      THE BELLS OF RHYMNEY
D            G      F#m  Em        D
Oh what will you give me ?   Say the sad bells of  Rhymney   

D                                   C            Bm    A7   D
Is there hope for the future  Sey the brown bells of  Rhymney
D                                       C             Bm    A7   D
Who made the mine owner  Say the black bells of Ronda
D            G    F#m       Em     D 
And who killed the miner  Say the grim bells of bliana

Throw the vavdals in court  Say the bells of  NewPort                 
All world be well if  if  if  if  if  Say the green bells of Cardiff        
Why so worried sisters , why? Say the silver bells why  
Oh what you give me? Say the sad bells of Rhymney

D     D     Bm    Em    Gm    Em (ここの部分)
 
しかしまだ完全ではない
かも知れない。

Oh what you give me? Say the sad bells of Rhymney
Is there hope for the future  Sey the brown bells of  Merthyr
Who made the mine owner  Say the black bells of Ronda
And who killed the miner  Say the grim bells of Bliana 

                             G Bm  Em   D

             G F#m Em D
 たかが此処だけの部分なのだが、CDからとるのが実に難しかった。単純だから、尚更なのね、どのコードを持って来ても、合わない感じなんだね。ピアノを現役でやっておられる方が近くにいたら、よかったんだけど、残念ながら、誰もいなかった。 これを弾きに行って完璧にしてきます。

てな訳で、来年の3日まで行ってきます。ブログはお休みね。しばしのお別れで御座りまする。

いつも針の拙いブログにお付き合い頂きまして有難う御座います。みなさん、来年はより良きお年をお迎え出来るようにお祈りします。

 

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胡亥

2024-03-28 15:43:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

胡亥(こがい)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称され、姓は(えい)、氏は(ちょう)。始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、始皇17年(紀元前230年)生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、始皇26年(紀元前221年)生とされています。

始皇帝には二十数人男子がいたとされるが、また、姚氏は隠士が遺した章邯(しょうかん)の書物にある「李斯は17人の兄を廃(殺して)して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録があるから、始皇帝の18番目の男子であると推測します。

始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾(ひょうきょしつ)が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。

巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった(始皇帝は長寿の薬として水銀を服用していた)。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽(かんよう)で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。

同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。左丞相の李斯はこの知らせを秘密裏にし、すぐには発表しなかった。同時に宦官の趙高は胡亥にこの事を伝え「扶蘇様が即位すれば、他の公子にはわずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は「父が決めた事に、私が何を口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高はさらに帝位の簒奪(さんだつ)を促し、「殷の湯王や周の文王は主(夏の桀王(けつおう)・殷の紂王(ちゅうおう)を誅し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。小事に拘って大事を蔑ろにすれば、後に害が及ぶものです。ためらえば必ず後悔することになります」と述べた 。度重なる訴えについに胡亥は趙高の謀略に同意し、その後趙高は宰相の李斯をも説得し、謀略に引き入れた。3人は始皇帝の詔を偽って胡亥自身は皇太子に即位し、長男の扶蘇と将軍の蒙恬には使者を送り、始皇帝の筆と偽って多数の罪状を記した書状を渡して、両名に死を賜った。

書状を受け取った扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬はこれを疑って再度の勅命を要求した。胡亥は蒙恬を許すことを望んだが、趙高はかつて蒙恬の弟である蒙毅が、自身を法に基づいて死罪にしようとしていたことを恨んでいたため「先帝(始皇帝)は長らく優れていた胡亥様をこそ、太子に立てようと望んでおられました。しかしこれに蒙毅が反対していたため、実現に至らなかったのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」と唆した。胡亥はこれを聞くと蒙恬・蒙毅を投獄した。胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。

蒙恬・蒙毅の処刑

同年9月、始皇帝を驪山(りざん)に葬った。胡亥は始皇帝の後宮の女官らを、全て始皇帝に殉死させた。また始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄 である子嬰(しえい)は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。

また、時期は不明ながらこの頃、胡亥は趙高を召して「私は耳目に心地よいものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことを可能にする手立てはあろうか?」と尋ねた。趙高は「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた

胡亥は蒙毅に使者を遣わして「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)」と言い渡した。蒙毅は弁明の機会を要求したが、使者はこの言葉に耳を傾けず蒙毅を殺害した。続いて、胡亥は蒙毅の兄の蒙恬にも使者を遣わし、蒙毅の罪を糾弾した。蒙恬は胡亥への諫言の後に罰を受ける事を要請したが、使者は「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。

公子らの粛清

胡亥は法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時「大臣は私に服しておらず、官吏はなお力を持っている。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」と尋ねた。趙高は「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥はこれを受けて大臣や諸々の公子の粛清を実行した。公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人は杜(地名)において車裂の刑に処された上に市場で晒し者とされ、財産は朝廷に没収された公子の一人であった高などは逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れ、自ら始皇帝への殉死を訴え出た

同年4月、胡亥は始皇帝の開始した阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。また郡県に物資や食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることすらできなくなったという。また、法令や誅罰は日々厳しさを増していき、道路の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった

陳勝・呉広の乱

同年7月、秦の朝廷への大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱が、南方の楚にて勃発します。反乱を起こした陳勝たちは陳を制して長楚の王を名乗り、また国内各地に武将を派遣して秦の官軍の攻略を命じ、反乱には数え切れないほどの農民が参加した。

胡亥は使者から反乱の事実を伝えられたが、これに怒って使者を獄に繋いだ。その上で諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」と尋ねた。多くの者は「これは反乱ですので、すぐに軍を出して討伐してください」と答えたが、学者の一人であった叔孫通(しゅくそんつう)は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意し、全ての学者に対して改めて「反乱と捉えるか、盗賊と捉えるか」と答えさせた。胡亥は「反乱である」と答えた学者を取り調べさせ、「言うべきではないことを言った」との理由で投獄した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに朝廷から逃亡したという

この頃から、丞相の李斯はしばしば胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に「私には私の考えがある。古代の聖人君子であった堯・禹らは、衣食住を質素とし、捕虜よりも重いほどの労役を自ら行ったが、これは愚か者の行為であり、賢君の行為ではない。賢君とは天下を己の思い通りに治めるものであり、自分を満足させることさえできないのに、天下を治めることができるだろうか」と反論した。李斯は保身のために忖度して「堯や禹のやり方は間違っていました。君主が独断専行を行い、厳しい刑罰を実行すれば、天下の人々は罪を犯す事はないでしょう。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけるべきです。臣下への統制が厳格なものとなれば、天下は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになるでしょう」と上書したので、胡亥はこれに喜んだという以降、胡亥は臣下への圧迫・刑罰がますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また民衆の中にあっても刑罰に処されたものは国民の半数にも達し、処刑されたものは日々市に積み上げられたという

丞相・李斯の刑死

この頃、胡亥は、趙高から「陛下は若くして皇帝に即位されたばかりであるため、陛下に過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。これ以降胡亥は常に禁中にこもり、大臣たちは趙高を介してしか対面できなくなった

丞相の李斯はこの措置に不満を持ったが、趙高は表向き李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が酒宴を行っている時に限って李斯に上殿を要請したため、胡亥は李斯が酒宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。すると趙高は「李斯は故郷の近しい陳勝たちと内通し、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。これを聞いた胡亥は、李斯への取り調べを開始した李斯は上書して「趙高には謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は「趙高は忠義によって昇進し、信義によって今の地位にあるのだ。趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。朕は趙高をすぐれた人物と思っている。君も彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。李斯はなおも「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」と処断を求めたが、胡亥は李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこの頃を告げた。趙高は「私が死ねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と答え、胡亥は李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた

胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた。

李斯に五刑 を加え、咸陽の市場で腰斬(ようざん)するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった

この頃、王離(おうり)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇(ちょうけつ)・張耳(ちょうじ)らの籠る鉅鹿(きょろく)を包囲した。

鹿を謂いて馬となす

二世三年(紀元前207年)胡亥は李斯に代わって趙高を中丞相に任命し、諸事は大小に関わらず全て趙高が決裁することとなったこの頃、秦の将軍の章邯は、朝廷に背いて王を名乗った趙歇の居城・鉅鹿の包囲に向かっていたが、同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。翌年1月には楚軍の項羽率いる諸侯連合軍により、秦の将軍で王翦(おうせん)(始皇帝の中華統一に貢献し、項羽の祖父の項燕を戦死させた)の孫の王離が捕らえられ、さらに同年3月には同じく楚軍の劉邦が秦将の趙賁(ちょうふん)・楊熊(ようたい)らを破った。楊熊は滎陽へ敗走したが、胡亥は使者を派遣し、楊熊を処刑して見せしめとした

同年4月、項羽率いる楚軍は章邯を攻め、章邯はしばしば退却を取ったため、胡亥は使者を派遣して章邯を叱責した。章邯は副将の司馬欣を首都咸陽に派遣して援軍を要請しようとしたが、司馬欣は趙高に捕縛され処刑されそうになったため、司馬欣は咸陽から逃げ出した。そのため最終的に、章邯は司馬欣の勧めもあって楚軍に降伏し、項羽によって章邯は雍王に封じられた(鉅鹿の戦い)。

この頃から、趙高は胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として群臣たちの思惑を問い質そうとした。そこで趙高は鹿を用意し、「馬です」と称して胡亥に献上した。胡亥は「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は何を間違えたのだ」と笑って答えたが、胡亥が左右の群臣たちに問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高に阿り従って「馬です」と言い、ある者はその通りに「鹿です」と言った。趙高は「鹿です」と答えた諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。これが、いわゆる「指鹿為馬」(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。

望夷宮の変とその後

この頃胡亥は、1匹の白虎が自分の馬車を轢く左の馬を食い殺してしまう、という夢を見て不安を感じ、夢占いの博士と相談した後に、咸陽宮から涇水周辺にある望夷宮へと移った。その後も趙高による謀反の計画は進行しそしてついに同年の某日趙高の娘婿の閻楽(えんらく)が「宮中に賊が入った」と称して兵士たちを率いて宮中に押し入り、胡亥の寝所にまで押し寄せ、胡亥の罪状を数え上げて「あなたは無道な君主であり、天下の者は皆あなたに背いている。あなたは自裁するべきである」と言い渡した。

胡亥は「丞相(趙高)に会うことはできないのか」と尋ねたものの聞き入れられず、さらに「(位を退くから、せめて)郡王にしてくれないか」と求めたが、閻楽は同意しなかった。胡亥はなおも「(それならさらにせめて)万戸侯(ばんここう)にしてくれないか」と臨んだが、閻楽はこれにも同意しなかった。そして最後に胡亥は、「妻子ともども、平民百姓としてでも良いから生かしてほしい」と懇願した。しかし閻楽は「私は丞相の命を受け、天下の百姓(ひゃくせい)に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。胡亥は生き延びられない事を知り、自害させられた。これが『史記』始皇本紀に記された、胡亥の死の顛末であります。(望夷宮の変)。

趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄 である子嬰に玉璽を渡し、同年9月、子嬰は正式に秦王に即位する。胡亥は庶民の礼式のみを以て、杜南の宜春苑の中に葬られた。悪政をすればその報いがあるし、無能で傍に付いていた趙高も悪い力量ばかりで自分の保身と欲ばかりだから秦が滅びるのは当然の結果でしたね。

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韓非。

2024-03-16 21:56:13 | バス釣りレポート

韓 非(かん ぴ)

(紀元前280年?-紀元前233年)は、中国戦国時代の思想家です。韓非子の著者です。法家の代表的人物。韓非子(かんぴし)とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人、韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化しました。戦国列強の中、一番小さい国の出です。韓という名前の通り皇族の一人です。自分の国が真っ先に滅ぼされてしまいますので色々策を練って対抗しますが、むなしく併合されてしまいます。

                 

韓非の生涯は司馬遷の『史記』、「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられていますが、非常に簡略に記されているに過ぎません。『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解をされています。いずれにしろ、『韓非子』や他の書にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわかっていません。分かっているのは当時では「俊才」で名をはせていたという事です。

韓非は、生まれつき重度のどもりであり、幼少時代は王安や横陽君成を含む異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下され続けていたが、非常に文才に長け、書を認める事で、自分の考えを説明するようになった。この事が、後の『韓非子』の作成に繋がったものと思われます。

荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因します。戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに紀元前260年の「長平の戦い」以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない状況でした。

故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。

韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。

以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったといいます。この背景には当時、既に最強国となっていた秦の動向を探るための各国密偵の暗躍、外国人の立身出世に対する秦国民の反感など、秦国内で外国人に対する警戒心、排斥心が高まり「逐客令(ちくきゃくれい)(外国人追放令)」が発令されたため、韓非は「外国人の大物」としてスケープゴートにされたという経緯があります。

以上が『史記』の伝える韓非の最期だが、これには異聞もあります。『戦国策』「秦策」では、韓非が姚賈(ようか)という秦の重臣への讒言をしたために誅殺されたと伝わる。貝塚茂樹は、『史記』が誤りで『戦国策』が正しいと推察している。または姚賈(ようか)が韓非の事を(間者(かんじゃ)スパイの事)だと見破り、当時は車引き,腰斬の刑にあたったのだが牢に毒酒が届けられて、服毒して果てたとも言われています。

韓非はすぐれた才能があり、後世に残る著作を記したが、そのために同門の李斯のねたみを買い、事実無根の汚名を着せられ自殺に追い込まれた。司馬遷は『史記』の韓非子伝を、「説難篇を著して、君主に説くのがいかに難しいかをいいながら、自分自身は秦王に説きに行って、その難しさから脱却できなかったのを悲しむ」と、結んでいる。

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李斯。

2024-03-07 07:08:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

李斯

李斯(り し)(?~紀元前208年は、中国秦代の宰相。字は通古、子供は李由、李執がいる。法家を思想的基盤において度量衡の統一、焚書などを行い、、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後に宦官の趙高との権力争いに敗れて処刑されてしまった。

李斯はもと楚の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)の人である。若くして地元で小役人になった。その頃、李斯は役所の便所に住むネズミを見た。便所のネズミは常に人や犬におびえ、汚物を食らっている。また彼は、兵糧庫のネズミを見た。兵糧庫のネズミは粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしている。彼は「人の才不才などネズミと同じで、居場所が全てだ」と嘆息した。そして役所を辞めると、儒家の荀子の門を叩いた。学を修めたのちは秦に入って呂不葦の食客となり、才能を評価され、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕える近侍になった。さらに政の命令で他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行い功績を立て、客卿(他国出身の大臣)となりました。

紀元前237年順調に出世していた李斯だが、この嫪毒

という他国出身者が反乱を起こしたために、秦の国内で他国出身者の評判が悪化し、やがて他国人の追放令((遂客令)が出た。事態に苦慮した李斯は、政に嘆願書を出して追放令の撤回を求めた。この『諌遂客書』は実に理路整然とした名文で、後世の『文選』にも収録されているほどである。政もこの名文に感じ入り、追放令の撤回を決めた。

実力者の呂不韋が自決した後、政は一層李斯を信頼するようになる。しかし、かつて共に荀子から学んだ同門である韓非が秦に迎えられ、その著作である『韓非子』を読んだ政は感心し「この作者と親しくできるのなら、死んでも悔いはない」と言うほどに韓非に傾倒していく。韓非が登用されれば自分の地位は危うくなると考えた李斯は、政に韓非の讒言を吹き込んで投獄させ、さらに獄中の韓非に毒を渡し、有無を言わせず自殺させた。こうして競争相手を抹殺した李斯は、秦の富国強兵策を積極的に推進し、その策で紀元前221年に遂に秦は中国を統一し、政は始皇帝となった。

                                                                           

始皇帝、天下統一のDVDでは,韓非が間者として捕らえられ始皇帝に毒酒を当てられるが李斯が命乞いをして李斯も」一緒に毒酒を飲むが後李斯だけが生き返ったとあります。今の中国政府による改竄が見え透いていますね。中国共産党はろくでもない事をするもんだ。

秦の統一後、丞相の王綰,御史太夫の馮劫(ひょうごう)ら重臣は始皇帝に、周の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地の王として封じるようにと進言した。だが、李斯はそれに猛反対して、周が何故滅んだかの理由を具体的に述べた上、一層強い集権統治である郡県制への移行を説いた。また、自らの法家思想と対立する学問に対し、大規模な思想弾圧を実施し、儒学を含めた思想書を集めて焼却させた(焚書)。この際に、多くの貴重な歴史的史料が失われた。また奉仕の盧生の逃亡から始まる告発により、罪を犯した学者を数百人規模で逮捕し、生き埋めにして殺害した。この中には多くの割合で儒者が含まれていたとされる(坑儒)。

紀元前210年秋7月に、始皇帝が巡幸の道中で崩御した。始皇帝の遺勅は「太子の扶蘇に後を継がせる」というものだったが、李斯は宦官の趙高と共に偽詔を作成し、始皇帝の末子で暗愚な胡亥を二世皇帝として即位させ扶蘇を自決に追い込んだ(一説では李斯は趙高に恫喝されて、胡亥の帝位をしぶしぶ認めたといわれる)。

 始皇帝の死で基盤が揺らいだ秦帝国だが、苛斂誅求の弊は改まらなかった。翌年から陳勝・呉広の乱を初めとして反乱が続発し、国内は大混乱になった。しかし暗愚な二世皇帝は遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。李斯は右丞相、馬去疾や将軍馮劫と共に、阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられず、馮去疾と馮劫は結局、自害した。

それでも李斯は諫言を重ねたが、かえって皇帝の不興を買い、さらに趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。紀元前208年、ついに李斯は捕らえられる凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川群守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(ようざん)(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えた。その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男の李執に対して「私は故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩りに出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたという。李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わるが、一族は全て誅殺され、李斯一族は根絶やしとなった。

李斯は法家理論の完成者の韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の中国統一において最も大きな役割を果たしていた。

司馬遷も、李斯が道を誤らなければその功績は周公旦・召公奭(しょうこうせき)に比肩したであろうとしている。

 

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長平の戦い

2024-03-01 15:09:31 | 漢詩・古典・エトセトラ
 長平の戦い(ちょうへいのたたかい):長平之戰、Chángpíng zhī zhàn)は、中国戦国時代の紀元前262年~紀元前260年にわたって秦と趙が長平(現在の山西省高平市の付近)で激突した戦い。秦の勝利に終わり、戦後に秦の白起将軍により趙兵の捕虜40万が生き埋めにされ、趙の国力が一気に衰える原因となった。しかしこの人数は誇張されているとも言われており、実際、この戦いの翌年には趙は軍を立て直しており、秦の邯鄲攻撃を阻止している。

                

当時、秦は商鞅、(衛鞅とも言います)。の改革によって強盛を誇るようになり、戦国七雄の中でも圧倒的な強国となっていた。その力を背景に他の六国、特に国境を接する韓・魏・趙・楚へ何度も侵攻していた。

紀元前262年、秦は白起軍を派遣し、韓の野王(現在の河南省泌陽市)を落とした。このことにより、韓の北方の領土である上党は飛び地になってしまい孤立してしまった。韓の桓恵王は上党を秦に割譲して和議を結ぼうと、上党の守りである靳黈に同地から引き上げる様に命ずるも、靳黈がこれを拒否。そこで靳黈を罷免して新たに上党の守として馮亭を派遣したものの、秦の支配下に入る事を恐れた上党の民衆は不安を募らせ馮亭に対し、秦には降らぬ様訴え、吏民は謀議を重ねて秦に遮断された韓との経路を打開すべく、趙に同地を献じて趙韓が協働して秦に挑める様に策を講じた。馮亭が着任して30日目、上党郡の十七の城邑は同地を趙へ献上する旨の使者を趙に派遣した

趙の孝成王はその当時の趙の実力者である平原君とその弟の平陽君に意見を求めた。平陽君は「秦と戦争となるのは明白であり、献上を拒否するべきです」と意見を述べ、平原君は「ひとりの血も流さず、一粒の金も捨てずに領地が得られるのに、なぜ悩むのか?早く献上を了承したほうがよい」と意見を述べた。孝成王は悩んだ末、平原君の献上を了承する方針を可とし、兵を送って上党を接収した。

秦の昭襄王はこれに怒り、紀元前260年に王齕を将軍とした遠征軍を趙に差し向け、上党を占領した。上党の人々は趙の長平に逃げ込み、王齕軍はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。これに対し孝成王は老将廉頗(れんぴ)を総大将に任命し、長平城の塁壁を補強し、物資を運び込み防衛体制を整えさせた。

対峙

長平に到着した秦軍と趙軍の間で三度、小競り合いが発生したが趙軍は全て敗れた。廉頗(れんぴ)は数で劣るものの精強を誇る秦軍との直接対決を避け、守りを固めて篭城を徹底し秦軍の疲労を待った。二年の歳月が過ぎた頃には廉頗の目論見通り、秦軍には持久戦の疲れと焦りが出始めた。范雎は状況を打開すべく趙の国内に多数の間者(スパイ)を送り、「秦は趙括(ちょうかつ)が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」という偽情報を流した。

これを聞きつけた孝成王は優勢な兵力を擁しながら積極策をとらない廉頗に不満を持っていたこともあり、廉頗を解任して趙括を総大将に任命する。経験が乏しい趙括の起用を群臣は危ぶみ、重臣の蘭相如(らんそうじょ)も廉頗の解任を思い止まる様、孝成王を諌めたが聴き容れられなかった。趙括は趙の名将、趙奢(ちょうしゃ)の子で自他ともに認める兵法の大家だったが、実際には実戦経験のない机上の兵法家で兵法書を丸暗記しているというだけの人物であった。父親である趙奢は趙括の能力の低さを見抜いており、生前妻に「王が括に大任を任されたときには、辞退するように」と遺言していた。そのため、趙括が総大将に選ばれた時、趙奢の妻は参内し、孝成王に趙括を総大将として派遣しないようにと嘆願した。だが孝成王は趙括を総大将として派遣させることは変更しないと断ったため、趙奢の妻は「では括が敗北しても、一族に罪が及ばないようお願いします」と懇願し、これを孝成王に約束させた。一方、秦は趙軍の総大将の交代を知ると、密かに白起を長平に派遣して総大将に任じ、王齕を彼の副将とした。

【超軍の大敗北】

着任した趙括は趙軍が大軍であることを恃みに数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと考え、廉頗の戦法を支持する指揮官を全員更迭し秦軍に対して攻勢に転じた。
白起は囮の部隊で退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、主力部隊で迎え撃つ間に予め伏せておいた2万5千の兵で趙軍の退路を遮断、更に5千の騎兵で分断するという作戦をとった。趙括率いる主力が秦軍を深追いしたために指揮系統が寸断され大混乱に陥った趙軍は、秦軍の猛攻により甚大な被害を受け長平城まで退却したが、白起はこれを包囲した。この報を受けた昭襄王は国内の壮丁男子を総動員して白起に援軍を送り、自らも前線まで赴いて将兵を励ました。完全に包囲された趙軍は46日間も兵糧が届かず、飢えた兵士たちは互いに殺し合ってその肉を食らい、飢えを凌ぐ有様であった。焦った趙括は僅かに残った健常な手勢を率いて秦軍へ突撃を敢行したが、全身に矢を射られあえなく戦死する。趙括の死によって残る趙兵20万は降伏した。

大勝利した秦軍だったが国内の総力をほぼ費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧もなく、秦に連行するだけの余裕もなかった。また白起はこのまま戦果を拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っていた。このような状況で、死線を彷徨い生き延びた趙兵達をこのまま趙に帰せば、秦に恨みを抱いた彼等が将来の禍根となるのではないかと白起は恐れ、少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにし処刑した。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万に上るという。実際に、1995年5月の発掘調査では大量の人骨が出土しているが、永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘済第一坑の屍体数は130人程度、ほかに18坑を発見、調査がつつけられ、2002年と2020年にも多量の人骨の埋葬穴が発見された。これらの人骨には、武器によると思われる損傷も多々見られたため、生き埋めで死んだものではないとみられるが、捕虜の虐殺によるものか、普通の戦死者の集団墓地なのかははっきりしない。

【戦 後】
 白起と不仲だった秦の宰相の范雎(はんしょん)は、趙攻略の大功を立てた際の白起の影響力が自分の地位を脅かしかねないと危惧するようになり、昭襄王を巧みに説いて秦軍の進撃を中止させるようにした。この不本意な停戦は、戦死した秦兵のみならず、趙の早期攻略のためにあえて生き埋めにした趙兵たちの多大な犠牲をも無駄にする決定だったので、激怒した白起は病気と称して以後の出仕を拒むようになった。

少し休戦した翌年、昭襄王は改めて王陵を将軍にした侵攻軍を興して趙の首都、邯鄲を包囲させた。しかし40万人を亡き者にされた恨みに燃える趙の軍民の激しい抵抗に遭って城攻めは難航した。加えて援軍に駆け付けてきた魏の信陵君と楚の春申君にも反撃されて苦戦を強いられた秦軍は敗退を重ねるようになり、王陵と交代した王齕(おうこつ)や鄭安平(ていあんぺい)もまた敗北した。業を煮やした昭襄王は繰り返し白起に出仕を求めて軍の指揮を取るよう要請したが、白起は病を理由に拒み続けて屋敷から出ようとしなかった。白起の頑なな拒絶に対する昭襄王の不満はやがて憎悪へと変わり、使者に命じて自決用の剣を白起の屋敷に届けさせた。白起は昭襄王からの剣を黙って受け取ると、秦のために戦った自分にこの仕置きは不本意だとしながらも、趙兵数十万を生き埋めにした後悔の念を語り、これは天が昭襄王の口を借りて自分に下した裁きであろうと答えてそのまま自刎した。「私は死ぬべきなのだ。私は数十万の軍卒を生き埋めにした。私は天に対して罪を犯したのだ。
後の項羽の時に秦卒,二十余万人を穴埋めにされてしまった。( 鴻門之会(史記)歴史は繰り返されますね。

子供頃は、戦争ごっこをして、敵の首を落とした蜀の寿亭侯・関羽なって英雄に憧れたもんだけど、白起将軍のように自責の念にかられるとさぞ辛いんだろうね。

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