針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

酒倉 宗玄が立ち直った。

2024-01-31 21:26:23 | 針の政治談議

 従業員がほとんど被災しているのも関わらず、会社に泊まって再建に寄与したとあります。その方法しかとか関係なく、会社に対して日頃から、恩義をかんじているからそういう方向で再建に携わったんだろう。こういうのが本当の会社に対する忠誠心だろう。

 一方で国会議員の自民党の安倍派、二階派の輩は人間としてどうなんだ?。みッともない事、この上ない。良く恥ずかしくないもんだ。中国の共産党軍、所謂、紅衛兵は大半が貧乏で飯もろくに食べれない青年庶子が軍に入って飯を食えるようになるので国家に忠誠を尽くすなんてありますが、金で釣られて恩着せがましい義理人情で結ばれた議員共はこれ良より酷いね

 中国の紅衛兵は「食足りて礼節を知る」というように生きていくうえで根底の問題である程度仕方がないが、裏金作りに専念している議員はもっと酷い。国民なんてどうでもいいと多寡を括っている。大体官僚は何でも官僚の筋書き通りに答弁してくれる自民党はとてもやり易いのだね。大体道理を引っ込ましているから官僚が作った答弁書は支離滅裂で言っている事が滅茶苦茶だ。

                    

 今回の裏金に関して国民がもう行き着くところまできてしまった。岸田ももうごまかし切れないと悟ったのかこの際派閥を無くして自分の弱い環境を打破しようとしているのか分からないけど,兎に角、献金の規制と透明性が出てくればもう二度とやる事は出来なくなるだろう。

 ところで二階と茂木に関して言及が無いのはどうしてなんだろう。どこかの記事で二階は5年で45億、茂木は9億せしめているみたいと出ていたこれを隠して皆で分配なんて言う事は無いだろうね。

 マスコミも変に汚いとこがある。暴露されてしまった問題に関してはしょうがないが、国民が気が付かないのか、そういう時は妙に黙っているところがある。テレビ画面というマジックで裏金に集中させて、茂木と二階には行かないようにしている節がある。大体麻生にしてもそれなりに人が集まるという事は、それなりに金の匂いがするもんだ。

後、忘れてならないのが、森だ!。こいつは世の中の道理なんて糞食らえとばかりに自分勝手に平気な顔してすましている。何とかせにゃーいかん!。こいつはオリンピックで企業から半ば恐喝して資金を集めるのが得意ときているからなんだかんだ言っていつも逃げ切っている。

               

私からするとこういう奴ほど早くとっ捕まえてもらいたい。安倍派の5人衆もこいつが育てたという事で自分が出て処理しないといけないという事で検察に行って恫喝したらしいじゃないか。こういう時に一番迷惑なのは自民党の地方の議員だね。地域に貢献していても上がこんなじゃいっぺんで台無しにされてしまう。

今回こういう問題を中途半端に終わりにしたら、国民が許さないばかりか、下手したら「暗殺」だって起こりかねないね。昔の議員は暗殺があるから下手な事はしなかった。そんなことしたら一族全部殺されてしまうかも知れないからね。でも、日本は義侠の士の登場を待つしかないのか?。

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安倍派の議員が

2024-01-29 13:15:50 | 針の政治談議

 今回の裏金問題で地検が立件しない方針だとか。

あ~、やっぱりね。当の議員に尋問して、「当時の(安倍)会長のそういう指示があったからやったんだと」と。だから立件するのは難しいんだと。

全く馬鹿野郎だね。だから今の法曹界は駄目(バカ)だと言われているんだよ。裏金があったことは事実だろ!。上からの指示とか・・・そんなの関係ないんだよ。じゃ、罪人の意見を聞いてそれを供述の根本にするのかよ。それからどうするんだよ。裏金があったのは事実だし、その当事者は自民党の議員だろ。帳簿だって会計責任者のせいきんだとかではなく、その当時者の責任だろ!。そう仕組んだ人間(安倍)が死のうが、議員も当事者なんだから当然公民権剝奪なんだよ

           裏金だってそいつの会計だろ。それを有罪にしないでどうするんだ

                                             これが国民だったらもっと厳しい追及されるだろ!

法曹界の論理は全くと言って間違っているね。こんな事やっているから政治が綺麗にならないんだ。

        前から言ってるだろ!。政治に司法の思惑なんか入れちゃダメなんだよ!             
           逆に司法に政治の思惑を入れたらもっと駄目だ!。

安倍が生きている頃「私は誓ってやっていない。もしそうなら議員を辞める」なんて言って国税局の佐川の意見を受け入れてとうとう無罪にしてしまった。

                                        こんな地検なんて只の盆暗の集まりだ。

 茂木にしても葉梨にしても国民が見ればどれも通らない供述ばかりじゃないか。あんな馬鹿にした供述をまともと認めている司法の連中は全くどうかしている。

あいつらは泥棒と同じだ。泥棒が「自分はやっていません」っていったら地検はそれを信じて「立件出来ません」なんていうのかよ!。国民を馬鹿にするにも体外にしろよ。


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此奴ら許せねえ

2024-01-21 10:36:52 | 針の政治談議

政治規制法の限界だあ?。マスコミも評論家も皆、政府に忖度して「法の限界」をほざいているが下っ端の端っこにいる議員を立件しているのに安倍派の五人は何故立県出来ないんだ。立件しないのを、こいつは此処で潰したんだよ。

 よくよく調べて見ると、こいつらが浮かび上がった、畝本 毅(うねもと つよし)と畝本 直美(うねもと なおみ)安倍の立件見送りもこいつ等が関与したんだそうだ。今回もそういう風にならないように祈っていたけど、やっぱりやりやがった。

      これだけ国中が批判しているのに平気で見送りやがった。見る目がないのなら目玉をくり抜いてやりたいね。

        

履歴を調べると・・・。経歴はまあごりっぱだこと。政府のいう事何でも聞き入れているから出世も早いんだろう。

畝本 毅
(うねもと つよし、1970年7月17日- )は、日本の検察官。東京地方検察庁特捜部、副部長や、大阪地方検察庁等総部長、大阪高等検察庁次席検事、大阪地方検察庁検事正等を経て、高松高等検察庁検事長。東京都出身。中央大学法学部卒業後、1989年検事任官(名古屋地方検察庁)。東京地方検察庁特別捜査部副部長、東京高等検察庁検事等を経て、2012年大阪地方検察庁特別捜査部長。2014年最高裁判所司法研修庁、検察上席教官。2016年金沢地方検察庁検事正。2017年から大阪地方検察庁次席検事を務め、2018年には森友学園問題の捜査の終結を受けて、大阪中ノ島合同庁舎で行われた記者会見に山本真千子大阪地方検察庁特別捜査部長らと出席して対応にあたるなどした。2019年大阪高等検察庁次席検事兼、法務省法務総合研究所、大阪支所長。2021年大阪地方検察庁検事正

大阪中ノ島合同庁舎、下級裁判所裁判官指名諮問委員会地域委員会委員。2022年高松高等検察庁検事長。2023年辞職。(逃げを打って退職したが裏で工作している)

畝本 直美(うねもと なおみ、1962年7月9日 - )は・・・・女房も似たり寄ったりで面倒なので削除だ。

森友では御存知、安倍晋三の時だ。あの佐川がいい加減な辻褄が全くといっていい証言をした時だ。あの時も立件しないで収束している。あの赤木さんが自殺しているのにそれに森友夫妻に罪をおっかぶせて安倍は知らぬ存ぜぬだ。

               今回もまるでこの時と同じゃねーか

                          こいつは許しちゃ置けねーぞ



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戦国四君 春申君

2024-01-19 09:00:08 | 漢詩・古典・エトセトラ
春申君(しゅんしんくん)楚の春申君

 中国戦国時代の楚の政治家。本名
黄歇(こうあつ)と言います。戦国四君の一人に数えられる辣腕政治家ですちなみに彼だけが戦国四君の中で唯一王族ではありません。史書に初めて登場するのは韓。魏と結託して楚を攻めようとしていた秦の昭襄王(始皇帝の曾祖父)を説得する使者になった時であり、昭襄王を説得し国難を回避することに成功しました。

その後秦への人質として出された公子完の侍従として秦の国へ赴いたが、楚の頃襄王が危篤となると危険を顧みず昭襄王へ届け出無しに勝手に完を楚に帰国させた。当然昭襄王は怒り黄歇を殺そうとしたが、秦の名宰相・范雎に庇われて取りなしを得た。

 公子完は帰国後楚の王位を継いで考烈王となり、黄歇はその功績を認められて令尹(楚の国における宰相の地位)に任じられ、春申君と呼ばれるようになった。

政治家として辣腕を振るい、傾いていた楚を立て直すことに成功した。彼の元には優れた人材が食客として3千人も集まり、中には思想家として名高い荀子も参列していた。

その後は趙の首都・邯鄲が秦に攻められた時に魏の信陵君と共に救援に赴き救援を成功させている。

信陵君の死後、覇道を進む秦を打倒すべく連合軍を率いて侵攻するも、結果的に失敗したため考烈王からは疎んじられるようになった。

見た目は端正で非常に若々しく見えるが、活躍してきた年代を考えると中年の域に入っているとみて間違いない。見た目に似合わず歯に衣着せない荒っぽい言動の人物で、性格も意外と感情の起伏が激しい。楚を攻める白起に対し、「オレの武器は舌だ」と白起に対して殺戮をやめるよう弁舌する。が、白起は楚の王陵(王の墓)を焼いてしまい、気落ちした春申君は楚王へ和睦交渉をすることになる。

                                                       

それ以前、考烈王に子が生まれなかったことを気にもんでいた春申君は世継ぎを誕生させることに腐心していた。春申君の食客の一人に李園という者がおり、その妹は美人で春申君の愛人であった。

やがてこの妹が身ごもると春申君と李園はこの子供を楚の王位に就けようと暗躍する。春申君は李園の妹を考烈王に差し出し、生まれた子供は考烈王の子として王位を約束されることとなった。こうして春申君は楚を影から支配できる立場となったが、共犯者である李園から危険視される。食客の中には李園を始末する進言もあったが、春申君は李園を軽んじていたためにその進言を取り入れなかった。その後暗殺され一族も悉く討たれてしまった。ちなみにその春申君の子が楚の幽王となった。戦国四君最後の生き残りとして名をはせた宰相の最後としてはあまりにあっけないものであった。このため司馬遷からは「春申君、老いたり」と評されてしまった。

楚の宰相。中国全土に知られるやり手の政治家で、楚の君主考烈王の右腕として活躍していて合従軍参加者の中で最も大物とされており、李牧楚の総大将に推挙された。合従軍の敗戦後は、責任を負って左遷された。最期は食客の李園に暗殺された。

何処にも低いレベルの人間がいるものですが、そういう人間に限って、人を陥れる、暗殺する等、そういう行動に出るんですね。反対に、高い意志を持っている人は自分に照らし合わせてしまって他人も同等の人間と思い込んでしまって、悪さをしないと判断してしまうので、いとも簡単に陥れられてしまうんですね。

どっちにしても、始皇帝により国家は併合されて一つの群になってしまったわけですけど。

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戦国四君 信陵君(魏弟)

2024-01-16 20:29:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

「是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り」という言葉があります。信陵君は戦国四君の一人です。

信陵君(しんりょうくん)紀元前244年、中国戦国時代の魏の公子であり、政治家でもあり軍人でもあります。昭王の子。姓は、氏は諱(いみな)は無忌

 大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、異母兄の安釐王(あんりおう)に疑われ憂死(ゆうし)した。前漢の魏無知の祖父と伝わ。異母兄の兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えたと言われています。

魏の公子と食客

 ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火(のろし)が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の手柄・力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。普通の君主と軍師・丞相とかの関係なら普通に上手くいくのに、兄弟だからですかね?。


             
                六 博」を打っている

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。

 そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である
朱亥(後に侯嬴は自分が高齢なのでこの肉屋の朱亥を信陵君の従者として贈った)と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を再び、上席へと座らせた。

 他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席に座らせたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑すむ一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
          
              

 趙への援軍安釐王19年(紀元前258年)長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲(かんたん)を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙(しんひ)を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。

 信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した

 ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための(わりふ)は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう(恩義があった)」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥(しゅがい)に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命(自分の命)を手向けとさせて頂きます」といった。

 そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなくが40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ向かって自刎した。

 信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。

 趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだもはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言います。

 安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。

 毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙鷔(もうごう)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。

 これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。

これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。異母兄の安釐王がもっと明君だったなら、信陵君がもっと活躍できただろう。人間いくら力量があっても処を得ないと封じ込められてしまうんですね

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ピザ用の石板をゲット。

2024-01-14 19:43:45 | 針でも出来る簡単料理・食い物の話し。

もっとピザの出来上がりを充実しようと考えて、ピザ用の石板買いました。値段も大差ないので、どうせなら40×40の日本製をゲットです。うたい文句はピザ生地が引っ付きにくい事です。

          

完成度を高めるのにどうしても恰好から入る針外しの悪い癖です。ちょっと重いけど、どうせ山で持ち運びしないので、妥協の範囲です。ピザ生地を捏ねるのに、良く円盤を空中でくるくる回すなんて言う芸当はできっこありませんがせめて丸くしたのを引っ張ってそれを右手に持って行って、石板にパンっと叩きつけるようにして伸ばすやり方をマスターしたいですね。

         

 

         

 写真じゃ上手く伝わらないのでYouTubeで探して見てね。とやってみたがやはり上手くいかないね。またピザ生地の大きさが24cmと20cmとでは粉の量が大きく左右します。いつもは強力粉140g、薄力粉140gでやって、24cmの円盤を作りますが、先日東京のオーブンが24で作ると入らないので、20で止めたら生地が厚くなってしまったね。あまり厚いと美味しさが感じられない。やはり120g/120g位に粉の量を調整したいですね。

この動作の理屈(どこが伸びているのかとか)が今一良く分からないですね。

ピザ道もなかなか奥が深いと感じましたぞ。トッピングはお店で売っているので調達するので「サラミ」一つとってもおいしいので味は左右されません。やはり生地が良く出来ないと見た目、味ともよろしくありません。所詮、ど素人の域を越えられないのでこのあたりで妥協です。

今回はシーフードでも挑戦ですので、ホワイトソースは簡単に出来ますが具材のシーフードミックスをキッチンペーパーで拭いてからフライパンで水気を飛ばさないと良く焼けませんね。これをすると塩気が足りなくなってしまうので、クレージーソルトとかで調整します。(普通の塩でもOKです)
あとピザ窯は立ち上がりに時間が掛かるので却下です。

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呂氏春秋を買ってきた。

2024-01-09 09:09:53 | 漢詩・古典・エトセトラ

こうして色々文献を見ていて以前から「呂氏春秋」という本があったのは知っていますが呂不葦の書き示した書だと知って見て見たくなりました。

 書名の由来は、1年12カ月を天人相関説(時令説)をもとに春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』八覧から『呂覧』とする。呂不韋は完成後に一般公開し、一字でも添削ができれば千金を与えると公言した、これが「一字千金」の由来とされています。 呂不韋は「奇貨居くべし」と言う言葉が残っていてそれが商才が優れているという意味と思われるかもしれませんが一寸違いますね。
 呂不韋については、『史記』の呂不韋傳と『戦国策』の秦策五とに見える。両書の記述には若干の相違があるが、呂不韋傳を主として、その人物像を紹介しています。
呂不韋は陽翟の大賈人なり。往来して賤(値段が安いこと)に販(買う)い貴(値段が高いこと)に賈(あきな)り、家に千金を累(かさ)ぬ。(積み重ねるの意)
諸国を往来して商売をし、巨万の富を築いた豪商である。

 趙の国に行った時、秦の太子である安國君の子供で人質として趙に住んでいた嬴異人(後の子楚)に出会った。呂不韋傳は記す、呂不韋、邯鄲に賈(商用で赴く)しに、見て之を憐れみ、曰く。「此れ奇貨なり居く可し。」と。これが有名な「奇貨居く可し」の出所です。

 子楚に投資して、安國君の太子にさせ、将来王位につければ、巨額の富を得られると読んで、資金をつぎ込み、それを実現させた。秦の宰相となり、富と権力を手に入れた。しかし秦王政、後の始皇帝が長ずるにつれて、疎んぜられて遂に嫪毒の亂に連座して罪を得て服毒自殺をする。十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家等、諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。天文暦学や音楽理論・農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。また「刻舟求剣」などの寓話や説話も収録されています。

                                             
 
 呂不韋も食客を3000人集める。呂不韋は丞相となり10万戸を授けられて権力を握ると、戦国四君である孟嘗君、平原君(趙の趙勝)、信陵君(魏王の弟),春申君(楚)にならったのか食客を3000人集めたとされています。
孟嘗君などは3000人の食客がいても、泥棒もいたり物まね名人がいたり玉石混交状態でした。しかし、呂不韋の場合は質にかなり拘ったようで食客たちも一流の文化人だったり学者だったりと、クオリティが非常に高かったようです。

 これらの食客たちと作り上げたのが呂氏春秋であり市場で1字でも添削することが出来れば1000金を与えると宣伝しました。呂不韋は余程、自信があったのでしょう。尚、呂氏春秋は初の百科事典ともいえる様な内容です。
呂氏春秋は徳についてのお話しも多い
 私も呂氏春秋を読んでみましたが、様々な事が書かれています。夏・殷・周の王様がどのように考えて政治を行ったなども多く書かれているわけです。周の文王が病に掛かった時に、災いを払うために臣下は宮殿の増設を提案しましたが、周の文王は許しませんでした。代わりに、生活を質素にして徳を積む事に努めた話もあります。 これを繰り返したところ周の文王は病が全開したとあります。他にも、甯(ねいえつ)という人物はたゆまぬ努力を行った事で30年で成し遂げる事を15年で出来たなどの努力する事を大事だとする話も掲載されていました。現代人がみても役立つ感じの自己啓発系のネタもかなりあります。
天下は一人の天下に非ず
 呂氏春秋は百科事典のような内容なので、様々な事が書かれているわけです。歴史作家の宮城谷昌光さんは戦国名臣列伝の呂不韋の部分で「天下は一人の天下に非ず」という言葉に注目しています。キングダムの呂不韋は武力による統一ではなく貨幣による秦中心の国家を理想としていました。しかし、呂氏春秋の天下は一人の天下に非ずという言葉を解釈すれば、民主主義を提唱している」というわけです。

秦王・政は史実では、自分に権力が集中するように、中央集権化を進める政策をしています。ここが呂不韋と始皇帝が相いれない部分となるでしょう。もしかすると、嬴政は仲父とする呂不葦を尊敬する一方で呂不葦を疎ましかったか、それの反動だったのかも知れませんね。呂不葦の唱える処は諸子百家が根本であるのでそれに抗するように焚書坑儒になったとも言えます。李斯は荀子の元で韓非と共に学んだが嬴政には何一つ言えなかったのかも知れません。しかし書籍だけでなく儒家を始めとする思想家を生き埋めにしてしまうなどやはり嬴政は残虐だったと言えます。ちなみに、始皇帝は自分一人の独裁国家にしようとした為に、統一後わずか15年で滅んだとも考えられるわけです。

 史実だと秦には王翦(おうせん)、王賁(おうふん)蒙恬(もうてん)李信(りしん)などの名将もいましたし、政治を行う大臣も昌平君、昌文君、李斯などがいたわけですが、秦王政に諫言する臣下はいなかったようです。

 ここが秦が短命国家に終わった原因だとされています。呂不韋が秦の相国を務めた状態で、秦が天下統一を成し遂げていたら、趙高の暴政や扶蘇の廃位と胡亥の擁立なども無かったのかも知れません。陳勝呉広の乱などが発生しても、章邯や王離らは秦の中央政府と協力し、もっと楽に戦えた可能性もあります。トップに権限が集中しやすい体質だった為に、秦は滅んだ可能性もあるでしょう。
呂氏春秋の中身の抜粋【勇気の行き着く所?】
呂氏春秋は奇妙な普通ではありえない様な話も掲載されています。
斉の国の東と西に勇者気取りの男がいたそうです。東と西の勇者気取りの男が道であってしまいました。

この二人は一杯飲む事になったのですが、「肉が食べたい」と言い出します。そして、醤油だけを用意して、お互いの肉を刻みあい食べたと言うのです。もちろん、交互に食べ合い結局は二人とも死んでしまったそうです。呂氏春秋では「このような勇気なら、ない方がマシだ」と述べています。こういう滑稽な話が載せられているのも呂氏春秋の特徴です。
【盗賊に助けられた男】
呂氏春秋にあるこれは正しいのか?と考えてしまうような話も紹介しておきます。ある所に潔癖な男がいて旅に出たそうです。この潔癖な男は道で飢えてしまいました。

たまたま通りかかった盗賊が潔癖な男に食べ物を与えて飢えから回復しました。潔癖な男が名を聞いた時に、盗賊だと言うと、潔癖な男は悪事に手を染めた男から食べ物の援助をもらうわけには行かない。そう言うと食べたものを全て吐き出してしまいます。その結果、潔癖な男は飢えて死んでしまいました盗賊の食べ物を受け取る事は正義なのか?という事を考えさせられる内容です。私なら「もしかして盗賊は改心したに違いない」と勝手に判断して食料を貰ってしまう可能性もあります。しかし、道徳の授業でも使えそうな内容も含まれているのが呂氏春秋です。日本では、孫子や史記などに比べると知名度は落ちますが、考えさせられる内容も多いです。

呂不韋の思考は呂氏春秋を通じて、未だに輝き続けていると言えます。始皇帝や李斯の焚書坑儒からも残った不滅の書でもあります。呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)。秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。
 先に述べたように『呂氏春秋』は秦の荘襄王から始皇帝の初期のころまで宰相を務めた呂不韋が、その権力と財力とを総動員して全国から集めた学者たちに著作編纂させたものである。その構成は、十二紀・八覧・六論の三部に分かれ、全二十六巻百六十篇からなっており、内容は多岐にわたり、一種の百科全書的な書であり、同じ性格の書として前漢に編纂された有名な『淮南子』の先駆けとなったものである。この書の成立事情について、『史記』の呂不韋傳は次のように記している。
  呂不韋の家僮万人あり。是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り。皆士に下り賓客を喜み、以て相い傾く(傾注、熱中すること)、呂不韋、秦の強きを以て、如かざるを羞じ、亦た士を招致し、厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時諸侯に弁士多く、荀卿の徒の如きは、書を著し天下に布く。呂不韋乃ち其の客をして人人の聞く所を著さしめ、集論(編集)し以て八覧・六論・十二紀の二十餘万言を為る。以為らく、天地の万物・古今の事を備う、と。号して呂氏春秋と曰う。
この書の編纂について、呂不韋は相当な自信を持っていたようである。之も有名な話であるが、呂不韋傳に以下の如く記されている。
   咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游子・賓客を延き(招きよせる)、能く一字を増損する者有らば、千金を予えん、
この様に自信を持って世に送り出した書であったが、歴代中国における評価は低いもので、清朝になってやっと見直されるようになったのである。

成程ね、始皇帝が李斯と共に「焚書坑儒」をしたのに反して 呂不韋は諸子百家が提唱する「徳」が基本だったんだね。しかし相容れないと言っても何でこんなに毛嫌いしたんだろう。

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秦の始皇帝。 嬴政

2024-01-03 19:10:15 | 漢詩・古典・エトセトラ
【始皇帝(しこうてい)】(紀元前259年2月18日-紀元前210年9月10日)は、中国の初代皇帝(在位221年- 紀元前210年)。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位紀元前247年-紀元前210年)6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または(ちょう)氏は趙(ちょう)諱は(せい)または(せい)。現代中国語では秦始皇帝または秦始皇と表現します。(おっかさんが趙の名家の娘、 李皓鑭です)
(文献から引っ張ってきていますので重複している処があります・あしからず)

                           

秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した

 治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規制の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦の始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる。統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで、秦に君臨した。
 周の時代およびその後の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。「始」は「最初(一番目)」の意味である。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる。「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られたここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている。さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた。元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた
                                         

生涯 幼少期
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた 。

人質の子、秦の公子であった父の異人(後の荘襄王・子楚) は休戦協定で人質として趙へ送られていた。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子 である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽婦人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫) 李皓鑭を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。諱を「政」と名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都、邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた。この子が後に始皇帝となるわけです
【実父に関する議論】
漢の時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じてしまいます]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた

【死と隣り合わせの少年】

政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。

昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された

【若年王の誕生と呂不韋の権勢】

荘襄王(嬴異人)と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ]。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した

秦王政6年(紀元前241年)、楚、趙、魏、韓、燕の五国、合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した。(函谷関の戦い)このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている

そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年、紀元前239年には『呂氏春秋』の編纂を完了した

だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后・趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の、嫪毒(ろうあい)を見つけた。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毒はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都、雍に移ったのち、嫪毒と太后の間には二人の男児が生まれた

秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毒が宦官ではないという告発があった と言い、同書「始皇本紀」では嫪毒が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毒の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毒が若王の父になると公言したことが伝わったともいう。これによってもう捨て置けなくなった。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毒が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毒は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。楚、趙、魏、韓、燕の五国、合従軍の丞相クラスがしきりにするがを味方に引き入れようとするが呂不韋はこれを断り後死亡した。

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新年明けましておめでとうございます。

2024-01-02 12:35:03 | 日記

とは言っても、元旦早々、能登の方で大きな地震があり、被害が出てしまいました。針の干支だった卯年も良くありませんでしたが龍年の今年も初っ端から良くありません。亡くなられた方のご冥福をお祈りしますと共に被災された方お見舞い申し上げます。

なんかご挨拶を申し上げる雰囲気ではありませんが皆様のご健康ご発展を祈願いたしまして新年のご挨拶とさせて頂きます

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