久々に漢詩を一つ。柳宗元の江雪です。有名な言葉に「肝胆相照らす(かんたんあいてらす)」があります。
「肝胆相照らす」とは、「互いに心の底を打ち明けて話し合えたり、深く理解しあって親しく付き合うこと」です。四字熟語では「肝胆相照(かんたんそうしょう)」です。
「肝胆」は肝臓と胆嚢(たんのう)のことで、どちらも生命を支える大事な臓器であることから、転じて「心の奥底」「真実の心」という意味です。「照らす」は知り合うということです。
柳宗元 江雪
千山鳥飛絶 千山 鳥飛絶へ すべての山から鳥の飛ぶ姿が絶え
萬徑人蹤滅 万径 人蹤(じんしょう)滅す あらゆる小道に人の足跡が消えた
孤舟蓑笠翁 孤舟 蓑笠の翁 小舟が1つ,みのと笠をまとった老人が
獨釣寒江雪 独り寒江の雪に釣る 寒々とした川で独り釣りをしている
柳 宗元(りゅう そうげん、は、中国唐代中期の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本貫(生まれたところ)の河東郡解県から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また柳州の刺史であったことから「柳柳州」と呼ばれることもありました。
柳宗元という人
王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興を実践し、唐宋八家門の一人に数えられます。
柳鎮の子として生まれた。同時代の著名な文人の白居易・劉禹錫に1年遅れて長安で出生。生まれも育ちも長安であるが、12歳から16歳まで地方官の父の柳鎮に従って江南、江西から潭州の間を歴遊した。
貞元9年(793年)に進士に挙げられ、貞元14年)には難関の官吏登用試験(科挙)の博学宏詞科に合格、集賢殿正字(政府の書籍編纂部員)を拝命した。新進気鋭の官僚として藍田県、尉(警察官僚)から監察御史(行政監督官)を歴任しました。
徳宗の治世の8世紀末の唐は、宦官の勢力を中心とする保守派に対決姿勢を強める若手官僚グループの台頭が急であった。王叔文を頭目に戴くこの改革派へ、政界の刷新を標榜する柳宗元は盟友の劉禹錫とともに参加するが、既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発に遭い、加えて徳宗の崩御後の永貞元年(805年)担ぎ上げた頼みの順宗も病弱で、その退位と同時に改革政策はわずか7カ月であえなく頓挫。礼部侍郎に就任し、これからという時に柳宗元の政治生命は尽きた(永貞改新)。
政争に敗れた改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、長安を遠く離れた邵州へ、刺史(州の長官)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州のへ、員外司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元33歳。
以後、永州に居を構えること10年、元和10年(815年)にはいったん長安に召還されるものの、再び柳州刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま、元和14年(819年)、47歳で亡くなりました。