針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

一人鍋

2021-03-31 19:40:49 | 針でも出来る簡単料理・食い物の話し。

料理がからきし駄目な針外しですが、SBのフォンドボーを使ってシチューを作ってみました。 これだけの種類があれば事足りるね。カレーは別物ですがやり方一緒なので載せました。


                 

そのうちの鳥と野菜のシチュー、鳥の手羽元なんかをフライパンで炒めておきます。野菜は人参、玉ねぎ。ジャガイモは大きいの一個を煮て後で分けます。最初から一緒に入れておくと煮崩れしてしまいますからね。

       
鶏肉と野菜を混ぜてフォンドボー入れて出来上がりね。針は一寸前に、lodge社の鉄オーブンを買ってあり、これを使って料理します。

       

一人鍋って案外、お金掛かってしまいますね。残った具材がある時なんかに作るようになりますね。それでも、そこそこの量が出来てしまいます。
写真は普通のフライパン、鍋で作ってますが、Dオーブンで直に作っても十分です。レシピ通りに作るのがベストですが残り物をいかにして活用するかが料理の腕になりますね。この場合鶏の肉はないと話になりませんが。


       

料理は「応用だ」なんて恰好のいい事言ってますが、残った具材を集めて何にするか!?」が要点です。
応用が利きそうな具材は、キャベツ、白菜、玉ねぎ、ジャガイモ、人参、が定番ですかね?。針外しは其処迄腕が無いのでこういった物を積み重ねて、美味しい物を作れたら、さぞかし美味しいだろうし、お酒も進むってーもんだ。

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最近、表の道路に

2021-03-24 07:11:12 | 立科・信州の話。

山の様子は、いつもは「コナさん」のライブカメラを見させて頂いて居るのですが、最近表の道路にライブカメラが設置されました。これでより多くの情報が得られますね。

                
                      コナさん宅のライブカメラ

 山の道路は県道40号線(諏訪白樺湖小諸線)と言います。茅野、諏訪、小諸、上田、佐久と多方面に通ずる道路で細いながらも幹線道路です。だから、結構ひっきりなしに車の往来がありますね。遠くに見えますのは、浅間山、このカメラでは見えませんが右を向くと蓼科山です。浅間山は男山、蓼科山は女山ですね。都会でもそうですが、一寸中に入ると別世界が待っています。此処も中に入ると自然が豊かで車の音もあまり聞こえません。              

                http://www.tcv21.co.jp/livecamera/live6.htm

                

       
                  蓼科第二牧場前

晴れていると、「雲海」が広がっています。しかし、ライブカメラ、何処についているんだろうね?。この他にも、彼方此方にライブカメラが設置されました。蓼科町の様子が分かるようになりました、「女神湖」「2IN1スキー場」「権現の湯」「道の駅蓼科」等です。

       
       2in1スキー場                        女神湖                東御教習所 
 
       
      白樺高原スキー場                      権現の湯              道の駅 女神の里蓼科

  「権現の湯」からは浅間山が目の前に見えますよ。最近は行かなくなりましたがね。山に行くと心が和むね。セワセワした都会の押し迫った時間と山のゆったりとした時間には差がありますね。日本の川は海に流れる距離が短いですが、それ故、色々なエキスが入らないので、俗に言う「柔らかい水」です。お風呂を沸かしても刺激が少ない。

針は体の中心線がずれているので、顔に湿疹なんかができやすかったけど、整体して、この水で沸かしたお風呂では綺麗になります。早く暖かくなって、ワンコと遊んで好きな植木をいじりたいもんだ。

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今回の目玉。

2021-03-21 09:09:17 | サボテン・植木・花

木瓜の花の色で黄色花は案外と少ないんですね。金鵄殿とか黄木瓜、黄雪とか品種がありますが、現在では金牡丹、金鵄殿、黄華位しかありません。前にも言いましたが、「花付きが悪い」とか「成長が良くない」「棘がきつい」等の理由でどんどんと品種改良がなされて現存しなくなっています。

サボテンの団扇サボテンで「オーストラリア―ナ」(駒込にある「鶴仙園」さん、今は亡き旦那さんの命名です)という黄色花の品種がありますが、黄色の花弁の中心が鮮紅色という綺麗な花を咲かせます。こんなだったらもっと鮮やかなんですけどね。

           
  近い品種の花がありましたので載せました。こんな感じの花です、こんなのあったらいいですね。

      

此の品種は、「黄華」です。この形状を見ると所謂「草木瓜」ですね。日本の」古来の自生種が多く強い品種です。「金牡丹」は咲き終わりに近づくと、少しサーモンピンク掛かってきますがこの「黄華」は純粋の黄色です。でももう少し色が濃いといいんですが。

この品種の良い処は、背丈が低いですが花芽を沢山付ける処ですね。庭が広ければどんどん広がって沢山花を見る事が出来ます。庭の縁取りに植えたりすればいいアクセントになるかも知れません。勿論単体での植え付けも、GOOです。中が混んでくると、スッキリ感が損なわれてしまうので、ある程度、間引くといいかもね。当然間引いたものは挿し木にすれば簡単に付きますね。

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木瓜が咲いてきました・

2021-03-18 07:12:38 | サボテン・植木・花

東京も大分春めいて、草木も勢いを増してきました。我が家の盆栽君達も新しい土に植えられて、肥料も貰ったので元気いっぱいです。昨年、ピンク系、黄色系で購入した物で沢山花芽を付けてくれ目を楽しませてくれてます。

前と違って大株が多いせいか、勢いもあり成長も早いみたいです。


                   
          名札の通り樺長寿                    金牡丹
樺長寿も今回はオレンジ色ではなくて少しサーモンピンクみたいね。環境とか土壌とかで色も少し変化するんですかね?。隣は金牡丹。花の色は例えですので金と言えは黄色を指しますね。ピンク系の苗は夢、愛の月です。下の剪定後に咲いている苗は山に持って行った「宴」です。切って指して置いたら無事ついて今年花が咲きました。

            
           愛の月                         夢


              
           夢
宴の色も少しサーモンピンクですね。カタログだともっとピンクピンクしていました。

           
           花海棠
他に、「花海棠」も咲き始めました。これは芝公園のワン友さん「モカパパさん」事、鈴木さんから頂いたものです。立派な苗でしょ?。何年も植え替えしていなかったのでまだ寒いうちに抜いて、根を少々カットしました。新しい用土に植えたら途端に花芽が出てきたような。早めに植え替えて良かったですね。花の咲き始めは綺麗ですね。針的には満開よりもこの位が大好きです。

        
                                                 

最後は丹頂紅、針はこの花の色がお好みですよん。今年新芽が出てより大きくなって欲しいもんです。

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今の政治家

2021-03-15 09:03:45 | 針の政治談議

思惑で政治。実態と掛け離れた政治をしてしまうので全く頓珍漢。

接待が問題になっていますが、食事を同席したからと言って「接待」ではないとしていますが、何の用事があって「会食」したんだろうね?

兎角こういう問題は、「逢っただけで駄目」なんですね。大臣が自分の所属の省庁に呼んで、其処で打合せすれば済む問題だ。菅にしても野田にしても何で料亭で高い会食しなければならないんだ。

NTTの会長と会食が歴代の会長交代の形式的な事だったなんて理由にならないね。自民党の議員の寺田元総務大臣にしても武田大臣にしても「流れ」が代々行われていたという事じゃないか?。野党も突き詰め方が生温いですね。

最近思ったのは、「野党も一つ穴のムジナ」なんじゃないかって?。官僚が全てを仕切って議員はそれに乗っかって政策を進める以上何も変わりがない。官僚に取り込まれるという結果になってしまう訳だ。

自民党の4悪。二階、麻生、安倍、森(本当はもっといるのだが)なんかも悪党は間違いないけれど、官僚の作った路線、文章をそのまま鵜呑み。その時の総理の足りない頭なんて全く関係ないね。

こんな奴等だから、全部官僚の方を向く。官僚もこんな馬鹿ばかりだから御し易いので、自分にとって安泰な政策、政治を仕向けるね。今中国が近海で物騒な行動をしていますが、下手をすると、中国にやってしまいかねない。実際二階なんかは「尖閣は中国の領土」だなんてうそぶいています。

だから云う訳ではありませんが、孫氏の兵法に「敵を知りて己を知らば、百戦して百戦危うからず」とあります、政治とは思惑でする事ではなくて敵状の分析が基本になっていなければなりません。

この情勢を直視しないで、接待ばかりしていていいんですかね?。こんなんだったら昔の江戸時代、中国の清朝の方がよっぽどいいね。少なくともこういう輩は即、弾劾、処罰を受けるだろうからね。下手をすると、流刑、死刑になりかねない。

「独裁制が行き着くと民主主義になり、民主主義が腐敗するとまた独裁制に戻る」アリストテレスの政治転換論っていいますが、一度、大鉈振って粛正しないと日本は腐敗天国になってしまいますね。国民がこれだけ不満を持っている中で国のトップがこんなんじゃね。

若い子達が正社員になれずに、期間雇用社員にさせられ、苦しい生活を強いられて今、先々、大正の米騒動じゃないけど、暴動が起きなければいいなと思います。

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名前が混同して

2021-03-08 09:24:48 | 武道・拳法の話

 少林寺の功夫で、名前が飛び交って同一人物かどうか判別がつかないね。特に少林寺四侠女は良く分からない。

例えば厳永春方永春方七娘がどうも判別しない。とWEb検索してみたらある程度の事が分かりました。

方 七娘

 ある日、白蓮寺に顔起誕と曽四という拳士が訪れた。七娘と顔たちは拳法を巡る口論の末、七娘と顔が試合をすることになった。しかし顔の技量は七娘に及ばす、敗れた顔の遺言により曽四は七娘の門下生となったという。後に七娘と曽四は夫婦となり、10数年後に曽四は白鶴拳の全伝を得て、全国に白鶴拳を広めるための旅に出た。その後、清朝によって白蓮寺を追われた七娘と曽四は再会を果たし、福建省東北部の詠春で白鶴拳を広めたという。ただ、方慧石は還俗していないなら娘がいたというのは少し信じられないですよね。

厳  詠春
詠春拳という名称については、厳詠春という女性の名から取ったとされている。彼女は中国武術史上、最も強い女性拳法家「少林四侠女」と呼ばれ詠春。色々と謂れが多くてどれが本当かはわかりません。厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をし、そこで豆腐を売って生活をしていた。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学ぶ。厳詠春はそれらを父から学び改良したという。また厳詠春が鶴と蛇の闘争を元に創案にしたとする説もある。

 蛇鶴双形拳法は洪拳(はんけん)の洪熙官(ハンシークアン)との合作だという説も有名です。(傍ら、厳詠春という名は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であったという実在の人物を疑う意見もあるうえに諸説も存在する。たとえば古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れそこで詠春拳を作ったという伝承や、至善禅師が南少林寺の「永春殿」で練習していたためという説など)。

五枚尼姑=方 七娘
 彼女をルーツとする拳法で、もっとも有名なのは永春拳。厳永春という尼僧が五枚師姑の弟子で、彼女の拳法を簡化させて防身術として永春拳を編み出したという説もあります。 これは父親の羅漢拳から娘の方七娘が永春白鶴拳を編み出し、その簡化として永春拳が分派したという説とは若干差異がありますが、いずれにせよ仮託でありましょうからそのように語られたエピソードの向こうに真相はあるのでしょう。あるいは方家の七番目の娘というのが還俗前の五枚師姑を現していたとしてもおかしくはない。いずれにせよ、永春白鶴拳の女性開祖説武術の祖とされているのが五枚師姑です。白鶴拳(はっかくけん)とは、白鶴門拳法の総称。鶴拳。福建省とその対岸の台湾で大流行し、台湾では非常に有名な拳法である。実戦的で修練に即効性があるとされ、修する者は多い。技の豊富さではなく、深めていくメソッドに武術としての凄みを主眼においている。

 白鶴門に伝わる開祖伝説によると、清朝康煕年間(1662年 - 1722年)に生まれた福建少林寺の僧で少林十八羅漢拳の使い手である方慧石(方種とも)の娘、方七娘によって創作されたとされる。方七娘は16歳の折、鶴(白鶴仙人とも)の動きに触発され、父親から習得した少林十八羅漢拳に鶴の形意、姑娘歩(クーニャンホと言われる歩法。纏足の女性が歩くような歩法)を合わせて白鶴拳を編み出したといわれる(沖縄に伝わった白鶴拳の古文書「沖縄伝武備志」によれば「三年にして学成る」とある。)。その後方七娘は、白蓮寺を教練所として白鶴拳の普及を始めたとあります。

方 永春

 永春白鶴拳と詠春拳の両派の創始期に、五枚大師が関与しているとの逸話が伝えられている。一説では五枚大師が永春白鶴拳と詠春拳の原型を弟子に伝え、それらが独立し永春と詠春となったという伝説もある。
技術的には福州鶴拳、他白鶴門、他福建南拳などと同系列にある。永春白鶴拳は、文字通り白鶴拳の一派である。その由来は、伝説によれば五枚大師の弟子である方詠春が創始したと言われている。福建省の永春県地方で始まったため、永春の名前を拳種に冠するようになったという説である。
さらに、もう一つの説に、泉州少林寺の永春殿ない内で練習されていたことから「永春」の名を掲げられたという説が、雑誌「武林」1984年5月号で紹介されている。
「方永春説」
方永春は浙江省の方振東の娘である。方振東は武術と医術に長けた人物であった。永春は方振東晩年の子供だったため溺愛し、その衣鉢をつがすべく医術・武術をのニ術を熱心に伝えた。成人するとともに永春は結婚するも、その生活は続かず、不幸な結末を迎えた。
結婚生活に失敗した方永春は浙江を離れ福州の地に下り尼僧となった。この地で鶴の動きに学び、父振東に教わった技法を合わせ編んだのが永春白鶴拳であると言われている。
一方で、方永春ではなく方七娘とする説もあるが、名前以外は同じ説であることからもともと同一人物であるとの説もある(方七娘の父の名は方掌光という)。

ちなみに、少林寺の、有名処を紹介します。

広東十虎 王隠林、蘇乞兒、鐔済筠、黄麒英、鐵指陳、蘇黒虎、黄澄可、鄒泰、黎仁超
東莞三傑 莫清嬌、皮碟、王老佐
少林五老(五雄) 五枚尼姑白眉道人、憑道徳、至善和尚、苗
少林三雄 方孝玉、方美玉、方世玉
少林四侠女 苗翠花陸阿采、方永春、紅小雲
少林八傑 陸飛鵬、竜彪、尚志、謝福、李錦綸、洪熙官、胡恵乾
少林七奸 李流芳、陳景昇、高進忠、宋承思、方魁、馬雄、白安福

方 世玉 伝説の人物?。

 広東省肇慶の出身とされ、この地域を中心に伝承されてきた。父は方徳、母は武林の名手である苗翠花。幼い頃から母から武術の訓練を受ける。方孝玉、方美玉、方世玉の3人兄弟。
10歳のときに武術の達人を試合で殺してしまい、追っ手から逃れるために福建少林寺に入山。そこで修行を積む。
下山後、民衆を苦しめる悪人たちと戦い、人々から尊敬を集めるが、清朝政府による福建少林寺焼き討ちの際に若くして死亡してしまう。


黄 飛鴻   ワンスアポン ア チャイナで有名な方だね。

流派は南派少林洪家拳で、始祖・洪煕官の直系の弟子。素早く的確な蹴り技は「無影脚」と賞された。「無影脚」はもともと女性武術家の技であったが、その夫である宋輝鏜から洪家鉄線拳の型と交換で教わったといわれる。
広東省南海の人、1847年生まれ。黄飛熊とも。父の黄麒英は「広東十虎」の一人に数えられた武術の達人。黄麒英は息子には学問を修めさせたいと当初は武術を教授しなかったというが、十二歳頃には家伝の拳法をほぼ修得し、さらに黄麒英の師である陸阿采、また林福成、鐵橋三に師事したとされる

 鉄線拳は鉄橋三の創始した型であるが、鉄橋三の高弟・林福成が仏山の街頭で演舞中、誤って見物人に怪我を負わせてしまった際、治療を助けた黄飛鴻に感謝して伝授したとも。空手のナイファンチ(鉄騎の型)はこの鉄橋三の流れと解釈しています。

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ダッチオーブンのシーズニングをし直してみようと、、、。

2021-03-04 08:33:24 | DIY

web上でダッチオーブンのメンテナンスのやり方が書いてあったので、思い切ってやってみる事にしました。針のキッチンオーブンは、鶏専門に使っていたせいか、ゴワゴワと一杯、シーズニングの上にこびり付きが付いてしまって、これでは「シーズニング」とは言えません。何よりも、調理していて剥がれてしまう処が出てしまっています。

重曹を使ってこのこびり付きを剥がせると思ったのですが、採れるところとしつこくこびり付いている処が有ります。何回か湯を沸かして重曹を入れてヘラを使って剥がしていくんですが、どうしても剝がれません。


    

鍋の上の方は案外容易く剥がれますが、底の方に行くにつれかなり強度があり剥がれませんね。

    

これじゃ埒があきません。其処でバーナーを使って燃え尽くしてしまおうと思いました訳。こうなった以上、炙って、墨状にして、取り除くしかありませんね。このキッチンダッチオーブンは山に置いてあるので、次回、山に行った時に再度、この「剥がし」の作業をしようと思っています。その結果はその時まで保留です。

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木瓜が咲き始めました。

2021-03-02 19:40:33 | サボテン・植木・花

購入した時は葉芽だか花芽だか分かりませんでしたが、暖かくなるにつれ、花芽がしっかりと膨らんできまして、開き始めました。今回は、サーモンピンクを選んで購入したんですが、条件を満たしているのは、「丹頂紅」位ですかね?。「宴」はピンク、「愛の月」は「濃鮭色」ですかね?。今回、意外に良かったのは「金牡丹」黄色花です。姿を見ると「草木瓜」みたいですが。

     
              夢                                愛の月
同じピンク系でも花だけ咲く「夢」と、花と葉が一緒の「愛の月」とでは見た目が全く違うね。

      
            金牡丹(黄色)                            樺長寿(橙花色)

      
               宴?                            丹頂紅

色々な色の花をゲット出来て、楽しみが増えたね。これに黒潮とか司牡丹、東洋錦、高嶺錦が加わると俄然華やかになる事請け合いだぞ。最後の宴?、だと思うのだが花芽の頭を取って挿し木にしたと思うのだが、一寸分からなくなってしまった。はなが大きく立派だね。

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管仲って、どんな人?。

2021-03-01 09:09:14 | 漢詩・古典・エトセトラ

陳寿は諸葛亮伝において、諸葛亮の才能を管仲・蕭何に匹敵すると評し、諸葛亮も自らを管仲・楽毅に比していた、と記した

管 夷吾(かん いご)は、春秋時代における斉の政治家。桓公に仕え覇者に押し上げた。一般には字のがよく知られており、以下本稿でも管仲かん ちゅう)として記す。三国時代の管寧はその後裔であります。鮑叔との関係が実際にどうであったか同時代の資料には残っていない。以下は史記など後世に作られた資料によるものです。

          
              管     仲

 有名な話しとしては、「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。

 私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。 私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」

二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ。

 二人は斉に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった。

 ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり春秋左氏伝などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして車を走らせてその場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は自分の死を確認する刺客が再度到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白とその臣下たちが既に国内を纏めており、管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。

 斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と管仲および召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した。しかし、管仲は斉に入ると拘束を解かれる。魯を攻めるにあたり、桓公は初め糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高けいの2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて考え直したためである。

覇者の宰相

鮑叔の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の徹底が必要だと説き、即日宰相に命じられた。鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。管仲は才を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮した。

管仲は内政改革に当たり、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分けた。物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。これらにより民衆は喜んで働き、産業が活性化した。

 安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、商業も活性化した。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用した。 一方で、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰をもってあたった。これらは高い規律と多くの税収を生んだ。

国内を整備した桓公は、桓公の5年(紀元前681年)魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍、曹沫は自らの敗戦を償おうと、桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹沬の首を取ってくれよう」と言った。しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。

桓公の23年(紀元前663年)北方異民族の山戎が隣国、燕へ侵攻し。燕からの援軍要請を受けた桓公は兵を纏めると山戎を討伐し、孤竹国まで行って引き返した。燕の君主は桓公を出迎え、自ら斉との国境まで見送りに来たが、その際に気付かぬ内に国境を越えて斉の領内に入ってしまった。これに気付いた管仲は桓公の下へ駆け寄り「国境を超えています。諸侯が他の諸侯を見送らせる場合、国境を越えて見送らせてはいけません。越えて見送らせて良いのは天子だけです」と述べた。桓公が「しかし、既に越えてしまった。どうすれば良い?」と問うと、管仲は「ここに溝を引き国境とすれば、越えたことにはなりません」と返答した。桓公は国境の変更に内心不満だったが、燕公に「燕公殿、見送りは国境までが礼です。(溝を見せ)ここが国境だから、見送りはここまでで結構です」と告げて帰還した。燕公は既に本来の国境を越えてしまった事を知り慌てたが、桓公が国境を変えてまで自らの無礼を帳消しにしてくれた事に感謝した。

これらの政策によって増大した国力と信頼を背景に、桓公は覇者への道を歩む。周王室内部の紛争を治め、北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。この功績により桓公は、周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。

桓公は度々傲慢に傾き、周王朝を蔑ろにしようとするが、管仲はその度毎に諌め、桓公も自らの意に逆らうことであってもその言を受け入れた。曹沬の件や燕斉の国境の不利な変更についても、自分では嫌だと思いながらも管仲の言に従った。

「管子」の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」の言葉があります。                    

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