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■存在の美学 第3回伊達市噴火湾文化研究所同人展 (2014年6月21日~7月6日、札幌)

2014年09月01日 01時09分09秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 この展覧会の代表格であり、現代を代表するリアリズム画家として知られる野田弘志は、著書「リアリズム絵画入門」(芸術新聞社、2010年)で、次のように記していた。

 私の展覧会を見に来られて「写真みたいに描いていてすごい」と言って感心してくださる方がいらっしゃいます。でも、もし写真のように描くことが目的ならば、写真を撮ればいいのだと私は考えてしまいます。


 このくだり、好きだなあ。

 「実物に似ている」と「写真に似ている」は、違う。
 そんな当たり前のことを、多くの人はわすれているのだ。




 では、写真がある時代に、「写真ではないが、実物に迫る絵画」というものが必要なのだろうか。

 写真と同程度に、本物に似せて描くだけの絵画であれば、別に存在しなくてもいいはずである。

 こんなことをいまさら筆者が言わなくてもいいのだが、写真が発明されたからこそ、印象主義以降、絵画は写真が表現できないものを求めて発展を遂げてきたのだと言って差し支えないだろう。

 しかし、この何年か、日本の画壇では、本物そっくりに描くスーパーリアリズム絵画がもてはやされている。ミニマルアート以降、絵画に残されたフロンティアはあまり広くないことがわかり、爆発的な表現領域の拡大にもかげりが見えてきた。そうなると、めんどうくさい理論や美術史を踏まえての、分かる人には分かるというような表現よりも、「わー、写真みたい、すごい~」という、誰にでもそのすごさが直ちにわかる作品に耳目が集まるというのも、理解できよう。

 ただ、野田弘志は、自分とその弟子たちの絵は、違うと断じる。
 違うことを論じるために、フッサール、ハイデッガー、シモーヌ・ヴェイユなどをひきあいにだし、自分(たち)の絵画が西洋の存在論哲学の系譜に連なることを縷々述べるのだ。

 その意気込みは良い。
 でも、疑問がわいてくる。
 野田は、そういう言説を総動員しなければ、自分の作品と、凡百のリアリズム絵画を差別化できないのか、と。

 筆者は、野田の作品に限って言えば、そんな必要はないだろうとも思う。
 彼の絵は、単に写真そっくりなだけでなく、人間の存在の根源に迫ろうとしている。それは確かである。

 今回は19人もの画家が出品しており、前半の画家には、同様の姿勢がたしかに感じられる。 
 しかし、展示場所が末尾に近い画家の絵は、要するに『団体公募展』の絵であって、野田が哲学者の名前を列挙して必死に擁護するほどの絵でもないように思う。

 言い換えれば、ここにある絵の一部は、野田がいくら言説で擁護を図ったとしても、その結果が
「ふーん、写真みたい」
で終わってしまう程度の作品にしか見えないのだ。



 2年も3年もかけて事物の存在の本質に肉薄する絵画を制作すること、それ自体に異議のあろうはずがない。
 だが、そのことが生業になるかどうかといえば、別問題である。一瞬で人間の本質に迫る写真をはるかに凌駕する結果を示さなくては、そんな悠長な絵画制作に価値があるとは言いづらいのではあるまいか。

 そもそも、モダニスム以降の絵画に残された道は、それが現実社会と切り離された地点で制作されている限りにおいて、きわめて細いのは確かだと思うが、写実絵画も、写真と異なる地平を切り開くのは、かなり困難な道なのではないかと思う。
 この展覧会はこれで終わりらしいが、この後、どういう展開になるのだろうか。


 出品作家は次の通り。
 ほとんどは裸婦や肖像画で、ときに静物画や、遺跡の絵も。最後のコーナーにあった、人物が立体になっている作品は、だまし絵のようでおもしろかった。

青木敏郎、石黒賢一郎、磯江毅、今井良枝、今村圭吾、大畑稔浩、小尾修、五味文彦、沢田光春、永山優子、野田弘志、廣戸絵美、松村卓志、松永瑠利子、水野暁、森永昌司、芳川誠、李暁剛、渡抜亮 


2014年6月21日(土)~7月6日(日) 午前9:45~午後5:30、会期中無休
札幌芸術の森美術館(南区芸術の森2)

一般1,000円 高校・大学生600円 小・中学生400円

□伊達市噴火湾文化研究所 http://www.funkawan.net/


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