-ニューヨークでの1ヶ月間の軌跡-という副題を持つ個展。
「絵画の場合」展などで発表を重ね、海外でも活動している安藤さんだが、意外にも札幌での個展は初めてだ。
北海道美術ネットの表紙にも引用した、個展の概要。
会場で思ったこと。
「作者」とは誰なんだろう?
壁にかかっている平面作品で、茶色の絵の具で線を引いたり「Don’t bother me」と書いているのは、安藤さんではなく、会場を訪れた一般の市民なのだ。
にもかかわらず、これらは彼女のコンセプトによって制作されたので、彼女の作品ということになる。
安藤さんは近年、line projectなど、実際の線を引く作業などを他人にゆだねるプロジェクトを多く手がけている。
作品をある才能を持った個人が作り上げる-というのは、じつはそんなに自明のことではない。
わたしたちは、学校で
「源氏物語の作者は紫式部」
などと習うけれども、紫式部が最初から最後までひとりで書き上げたのではないことも、また、彼女の書いたとおりの文章が平安時代から今まで伝わっているわけではないことも、文章にあたってみれば、あきらかである。
これは、ホメロスとイーリアスなどでも同じであろう。
美術であれば、ルーベンスのサインが入った絵を、すべて彼が仕上げたわけではないことは、ご存じの方も多いと思う。
べつにルーベンスが偽画をこしらえたのではなくて、当時は弟子たちが制作を手伝うのは、ごく普通のことだったのだ。
「作者」という観念が滲透したのは、独立した自我を持った近代的個人というデカルト的、ホッブズ的な考えが行き渡ったことと、軌を一にしているのではないだろうか。
しかし、そういう近代的個人とは、じつはフィクションにすぎない-という流れになってきたのが、20世紀以降の芸術だろう。
いろんな言い方ができるけれど、作品の成立には読者なり観客なりが不可欠-という考えもそのひとつだろう。テキストや絵画は作者の手を離れ、自由な鑑賞にゆだねられるのだ。
その結果、「セザンヌはピカソの影響を受けている」という見方も可能になる。
言いかえれば、のちにピカソやマティスがその影響下に出発したからこそセザンヌは美術史上で高く評価されているともいえるのだ。
もうひとつ。
旧来の発想でいけば、わたしたちは、独立した個人がまずあって、その次に、それぞれの個人の間に関係が生じる-と思いがちだけど、じつは、関係の束のほうが先で、その束の結果として人間像が浮き出てくるというイメージの方が正しいのかもしれないのだ。
安藤さんの取り組みは、近代の「作者独裁」ともいえる事態に、風穴を開ける試みともいえるのだと、筆者は思う。
ひとりの作者と多くの鑑賞者とがいて、お互いにまったく別の存在で、しかも作者の方がエラそーな顔をしているのではなく、相互にかかわりあってなにかを企画し成し遂げるということが、「社会における芸術」の新しいあり方・方向を指し示しているのではないか。
彼女の作品から受ける「優しさ」の印象は、たぶんそんなところからきているんじゃないかと思う。
2009年4月2日(木)-28日(火)12:00-24:00(日曜-21:00)、水曜定休、4月7日(火)は臨時休業
CAFE ESQUISSE(カフェ エスキス 中央区北1西23 メゾンドブーケ円山 地図D)
□fumie in NY 2009 http://fumieinny2008.blogspot.com/
□fumie ando http://fumieando.blogspot.com/
■「分子のかたち」展-サイエンス×アート (2008年9月)
■絵画の場合(2007年)
■絵画の場合(2005年)■アーティストトーク
「絵画の場合」展などで発表を重ね、海外でも活動している安藤さんだが、意外にも札幌での個展は初めてだ。
北海道美術ネットの表紙にも引用した、個展の概要。
エスエアアワード受賞により、今年の2月、NY(ニューヨーク)に滞在し、IAM ENCOUNTERという3日間のアートカンファレンスで作品を制作し発表してきました。会場にベッドを設置し、そこに集まった人々の手でそのベッドを絵具で塗ってもらうという参加型の作品を展開。NY滞在中、体験し感じたことを土台に、人々とともに形づくりあげた作品の報告。
会場で思ったこと。
「作者」とは誰なんだろう?
壁にかかっている平面作品で、茶色の絵の具で線を引いたり「Don’t bother me」と書いているのは、安藤さんではなく、会場を訪れた一般の市民なのだ。
にもかかわらず、これらは彼女のコンセプトによって制作されたので、彼女の作品ということになる。
安藤さんは近年、line projectなど、実際の線を引く作業などを他人にゆだねるプロジェクトを多く手がけている。
作品をある才能を持った個人が作り上げる-というのは、じつはそんなに自明のことではない。
わたしたちは、学校で
「源氏物語の作者は紫式部」
などと習うけれども、紫式部が最初から最後までひとりで書き上げたのではないことも、また、彼女の書いたとおりの文章が平安時代から今まで伝わっているわけではないことも、文章にあたってみれば、あきらかである。
これは、ホメロスとイーリアスなどでも同じであろう。
美術であれば、ルーベンスのサインが入った絵を、すべて彼が仕上げたわけではないことは、ご存じの方も多いと思う。
べつにルーベンスが偽画をこしらえたのではなくて、当時は弟子たちが制作を手伝うのは、ごく普通のことだったのだ。
「作者」という観念が滲透したのは、独立した自我を持った近代的個人というデカルト的、ホッブズ的な考えが行き渡ったことと、軌を一にしているのではないだろうか。
しかし、そういう近代的個人とは、じつはフィクションにすぎない-という流れになってきたのが、20世紀以降の芸術だろう。
いろんな言い方ができるけれど、作品の成立には読者なり観客なりが不可欠-という考えもそのひとつだろう。テキストや絵画は作者の手を離れ、自由な鑑賞にゆだねられるのだ。
その結果、「セザンヌはピカソの影響を受けている」という見方も可能になる。
言いかえれば、のちにピカソやマティスがその影響下に出発したからこそセザンヌは美術史上で高く評価されているともいえるのだ。
もうひとつ。
旧来の発想でいけば、わたしたちは、独立した個人がまずあって、その次に、それぞれの個人の間に関係が生じる-と思いがちだけど、じつは、関係の束のほうが先で、その束の結果として人間像が浮き出てくるというイメージの方が正しいのかもしれないのだ。
安藤さんの取り組みは、近代の「作者独裁」ともいえる事態に、風穴を開ける試みともいえるのだと、筆者は思う。
ひとりの作者と多くの鑑賞者とがいて、お互いにまったく別の存在で、しかも作者の方がエラそーな顔をしているのではなく、相互にかかわりあってなにかを企画し成し遂げるということが、「社会における芸術」の新しいあり方・方向を指し示しているのではないか。
彼女の作品から受ける「優しさ」の印象は、たぶんそんなところからきているんじゃないかと思う。
2009年4月2日(木)-28日(火)12:00-24:00(日曜-21:00)、水曜定休、4月7日(火)は臨時休業
CAFE ESQUISSE(カフェ エスキス 中央区北1西23 メゾンドブーケ円山 地図D)
□fumie in NY 2009 http://fumieinny2008.blogspot.com/
□fumie ando http://fumieando.blogspot.com/
■「分子のかたち」展-サイエンス×アート (2008年9月)
■絵画の場合(2007年)
■絵画の場合(2005年)■アーティストトーク
これからも自分なりに一歩ずつ前に進めたらと思っています。
今回のテキストは、あんちゃんさんの作品をダシにして別の問題を論じているようなところがなきにしもあらずですが、いちおう、あんちゃんさんの作品の急所でもあると思って書きました。
なんだか舌足らずというか、作品全体を語りきれていないという反省はあるのですが、これからもよろしくおねがいします。