十勝管内清水町出身の画家、森健二さんが亡くなったようだという話を聞いたのは、この夏、札幌に転居してくる直前のことでした。
2013年5月10日の十勝毎日新聞に死亡記事が載っているそうです。
森さんの経歴については、2001年8月26日の北海道新聞「人に詩あり」で詳しく紹介されています。社会面の半分近くを占める大きな記事なので、ここでその全文を引用することはできませんが、かいつまんで書きますと、森さんは清水町生まれで、帯広の旧制中学→新制高校を卒業後、デザイン事務所を経て札幌でデザイナーとして独立。
企業のPR看板の仕事がたくさんあった時代で、「もうかって、もうかって、自分で小切手に書いた数字がわからないほど飲み歩いた」といいます。
ところが、1963年、近所の放火で、自宅が全焼。交通事故でけがを負ったり、手形不渡りで借金ができたりした直後のことで、落ち込んだ森さんが、屋根のない自宅跡で夜を過ごしていたところ、満天の星空が見えたそうです。
66年、森さんはデザインの仕事をたたんで帯広に喫茶店を開き、店の奥をアトリエとして、あの日見た星空を描き続けました。道展の会員にもなり、93年には札幌に戻りました。2001年には「人生最後の花に」と、ニューヨークで個展を開くことになりました。
…ここまでが、記事の要約です。
なお、この記事の時点で、道展は退会しています。
ところが、この記事の年月日を見ればおわかりでしょうが、直後の9月11日、ニューヨークで、旅客機2機が超高層ビルに激突したのです。
森さんは迷ったでしょうが、予定通り、10月に、2×4メートルの大作などによる個展の開催にこぎ着けました。
森さんの絵は抽象画に分類できると思いますが、宇宙や星空をモティーフにしており、誰でもすぐに作品世界に入っていける、わかりやすい作品です。題名はほとんど「光年の導べ」とつけられていました。
そのスケール感の大きさは、道内の画家でも屈指のものだったと思います。
かつて円山北町にあった temporary space での個展は、強く印象に残っています。
一度、札幌・平岸の高層住宅にあるアトリエにおじゃましたことがあります。
まだお昼過ぎなのに
「よく来た。まあ、一杯」
とビールをすすめられました。
このとき、森さんからお聞きした話で今も記憶に刻まれているのは、かつて自身が所属していた団体公募展で、会員(審査する立場)になったとたん、一般出品者から贈答品がどんどん届くようになったこと。森さんはぜんぶ送り返したとのことですが「これじゃ、とても公平な審査なんてできやしない」と、その公募展の風習にあきれたというお話。
晩年、千葉県に転居してしまいましたが、2006年には帯広で個展を開いています。
帯広市民大ホールの緞帳や、池田町の十勝川資料館の壁画なども、森さんが手がけているそうですが、筆者はまだ見ていません。
大宇宙を描き、ときにはギターをつま弾き、自由人だった森さん。
絶望のどん底で見上げた星空が、その後の人生を導いた森さん。
ご自身が宇宙に旅立っていかれたのでしょうか。
ご冥福をお祈りします。
できれば、道立帯広美術館などで回顧展が見たいです。
■郷土作家作品展 森健二展 壮年の十勝 (2008)
■森健二「光年の導(しる)べ」 (2006)
2013年5月10日の十勝毎日新聞に死亡記事が載っているそうです。
森さんの経歴については、2001年8月26日の北海道新聞「人に詩あり」で詳しく紹介されています。社会面の半分近くを占める大きな記事なので、ここでその全文を引用することはできませんが、かいつまんで書きますと、森さんは清水町生まれで、帯広の旧制中学→新制高校を卒業後、デザイン事務所を経て札幌でデザイナーとして独立。
企業のPR看板の仕事がたくさんあった時代で、「もうかって、もうかって、自分で小切手に書いた数字がわからないほど飲み歩いた」といいます。
ところが、1963年、近所の放火で、自宅が全焼。交通事故でけがを負ったり、手形不渡りで借金ができたりした直後のことで、落ち込んだ森さんが、屋根のない自宅跡で夜を過ごしていたところ、満天の星空が見えたそうです。
66年、森さんはデザインの仕事をたたんで帯広に喫茶店を開き、店の奥をアトリエとして、あの日見た星空を描き続けました。道展の会員にもなり、93年には札幌に戻りました。2001年には「人生最後の花に」と、ニューヨークで個展を開くことになりました。
…ここまでが、記事の要約です。
なお、この記事の時点で、道展は退会しています。
ところが、この記事の年月日を見ればおわかりでしょうが、直後の9月11日、ニューヨークで、旅客機2機が超高層ビルに激突したのです。
森さんは迷ったでしょうが、予定通り、10月に、2×4メートルの大作などによる個展の開催にこぎ着けました。
森さんの絵は抽象画に分類できると思いますが、宇宙や星空をモティーフにしており、誰でもすぐに作品世界に入っていける、わかりやすい作品です。題名はほとんど「光年の導べ」とつけられていました。
そのスケール感の大きさは、道内の画家でも屈指のものだったと思います。
かつて円山北町にあった temporary space での個展は、強く印象に残っています。
一度、札幌・平岸の高層住宅にあるアトリエにおじゃましたことがあります。
まだお昼過ぎなのに
「よく来た。まあ、一杯」
とビールをすすめられました。
このとき、森さんからお聞きした話で今も記憶に刻まれているのは、かつて自身が所属していた団体公募展で、会員(審査する立場)になったとたん、一般出品者から贈答品がどんどん届くようになったこと。森さんはぜんぶ送り返したとのことですが「これじゃ、とても公平な審査なんてできやしない」と、その公募展の風習にあきれたというお話。
晩年、千葉県に転居してしまいましたが、2006年には帯広で個展を開いています。
帯広市民大ホールの緞帳や、池田町の十勝川資料館の壁画なども、森さんが手がけているそうですが、筆者はまだ見ていません。
大宇宙を描き、ときにはギターをつま弾き、自由人だった森さん。
絶望のどん底で見上げた星空が、その後の人生を導いた森さん。
ご自身が宇宙に旅立っていかれたのでしょうか。
ご冥福をお祈りします。
できれば、道立帯広美術館などで回顧展が見たいです。
■郷土作家作品展 森健二展 壮年の十勝 (2008)
■森健二「光年の導(しる)べ」 (2006)