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長谷川哲さんは1946年生まれ、愛知拠点の、写真を素材とした現代美術の作家。
慶応大法学部の卒業で、アートは独学だということです。
北海道との縁は、97年の第26回現代日本美術展で「北海道立帯広美術館賞」を受賞し、作品「HOME」シリーズの1点が同館所蔵となったこと。
当時の学芸課長だった寺嶋さんが現在は後志管内ニセコ町の有島記念館長を務めていることを知った長谷川さんが、昨年、さっぽろ天神山アートスタジオで寺嶋さんとの再会を果たし対談も行ったそうです。
それがきっかけで、今回の、道内では初となる個展につながりました。
「HOME」シリーズの前には、体に光源を取りつけて撮影するといった作品も手がけていたそうです(よく似た着想による、佐藤時啓さんの作品よりも早いと思われます)。
「HOME」は、写真のコピーを、住宅を残してその周囲の風景を消していくという手法で制作されています。コピーのトナーをゴシゴシと削り、作業後にあらためて写真を撮って、それを展示しているのだそうです。
つまり、この手法は、コピー直後に紙にさわるとトナーが指に真っ黒くついたような、昔のコピー機だからこそ可能だったわけです。なんと長谷川さんは、リコー社に、古いタイプのコピー機を特注していたそうです。
しかしその機械も古くなり、長谷川さんは現在は「HOME」シリーズを制作していません。
さて、実際に作品の前に立ってみて、気づくことが2点あります。
ひとつは、横1メートルを超すものもあるなど、かなりサイズが大きいこと。
もうひとつは、モノクロ写真の粒子が粗く、周辺の擦過の跡も手の運動をはっきりと感じ取れることです。
この、画像とこすり取りの「荒さ=粗さ」は、少し古いフィルムとコピーでこそ実現できる、独特の質感だといえそうです。
だからこそ、筆者は、真ん中に残った家のイメージに「あたたかみ」のような情緒的な何かを感じ取ってそれで良しとするような見方は、断固として排したい。もちろん、見る人の自由だといわれればそれまでですし、見る人が何でも投影可能であるこそ「家」だったのでしょうが。
実見した人は同意してもらえると思いますが、残った家は、むしろ荒れたところにかろうじて残ったような、そんな凄絶ささえたたえています。
そもそも長谷川さんの世代では、その手の情緒は「マイホーム主義」として軽蔑されるのが当たり前だったのではないでしょうか。
なので、仮に「わが家のあたたかみ」を言いたかったとしても、それはアンビバレンツな、両義的なものにならざるを得ません。
筆者は長谷川さんがアーティストトークで、ダイアン・アーバスやロバート・フランクに言及したことが気にかかっています。
彼らは、一世代前のアンセル・アダムスらのように、確かに現前する対象を素直に切り取って表現したのではありません。
目の前の現実が不確かであり、その不確かさと対峙しあいながら、なんとか現実と切り結んでいった写真家だといえます。
中平卓馬流にいえば、まず確からしさの世界を捨てざるを得なかった写真家なのです。
おなじように長谷川さんの写真も、見えている現実は、本当にそういうものなのか? と、鑑賞者に突きつけているのではないでしょうか。
その作品は、世界やメディアのリアリティというものを、あらためて問い直しているのだと筆者は思うのです。
2024年1月20日(土)~2月11日(日)午前11時~午後6時、火曜休み
ギャラリー創(札幌市中央区南9西6)
慶応大法学部の卒業で、アートは独学だということです。
北海道との縁は、97年の第26回現代日本美術展で「北海道立帯広美術館賞」を受賞し、作品「HOME」シリーズの1点が同館所蔵となったこと。
当時の学芸課長だった寺嶋さんが現在は後志管内ニセコ町の有島記念館長を務めていることを知った長谷川さんが、昨年、さっぽろ天神山アートスタジオで寺嶋さんとの再会を果たし対談も行ったそうです。
それがきっかけで、今回の、道内では初となる個展につながりました。
「HOME」シリーズの前には、体に光源を取りつけて撮影するといった作品も手がけていたそうです(よく似た着想による、佐藤時啓さんの作品よりも早いと思われます)。
「HOME」は、写真のコピーを、住宅を残してその周囲の風景を消していくという手法で制作されています。コピーのトナーをゴシゴシと削り、作業後にあらためて写真を撮って、それを展示しているのだそうです。
つまり、この手法は、コピー直後に紙にさわるとトナーが指に真っ黒くついたような、昔のコピー機だからこそ可能だったわけです。なんと長谷川さんは、リコー社に、古いタイプのコピー機を特注していたそうです。
しかしその機械も古くなり、長谷川さんは現在は「HOME」シリーズを制作していません。
さて、実際に作品の前に立ってみて、気づくことが2点あります。
ひとつは、横1メートルを超すものもあるなど、かなりサイズが大きいこと。
もうひとつは、モノクロ写真の粒子が粗く、周辺の擦過の跡も手の運動をはっきりと感じ取れることです。
この、画像とこすり取りの「荒さ=粗さ」は、少し古いフィルムとコピーでこそ実現できる、独特の質感だといえそうです。
だからこそ、筆者は、真ん中に残った家のイメージに「あたたかみ」のような情緒的な何かを感じ取ってそれで良しとするような見方は、断固として排したい。もちろん、見る人の自由だといわれればそれまでですし、見る人が何でも投影可能であるこそ「家」だったのでしょうが。
実見した人は同意してもらえると思いますが、残った家は、むしろ荒れたところにかろうじて残ったような、そんな凄絶ささえたたえています。
そもそも長谷川さんの世代では、その手の情緒は「マイホーム主義」として軽蔑されるのが当たり前だったのではないでしょうか。
なので、仮に「わが家のあたたかみ」を言いたかったとしても、それはアンビバレンツな、両義的なものにならざるを得ません。
筆者は長谷川さんがアーティストトークで、ダイアン・アーバスやロバート・フランクに言及したことが気にかかっています。
彼らは、一世代前のアンセル・アダムスらのように、確かに現前する対象を素直に切り取って表現したのではありません。
目の前の現実が不確かであり、その不確かさと対峙しあいながら、なんとか現実と切り結んでいった写真家だといえます。
中平卓馬流にいえば、まず確からしさの世界を捨てざるを得なかった写真家なのです。
おなじように長谷川さんの写真も、見えている現実は、本当にそういうものなのか? と、鑑賞者に突きつけているのではないでしょうか。
その作品は、世界やメディアのリアリティというものを、あらためて問い直しているのだと筆者は思うのです。
2024年1月20日(土)~2月11日(日)午前11時~午後6時、火曜休み
ギャラリー創(札幌市中央区南9西6)