goo blog サービス終了のお知らせ 

北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

永山武四郎像

2008年02月26日 01時25分28秒 | 街角と道端のアート
 永山武四郎は、第2代北海道庁長官、旭川の第7師団長などを歴任し、北海道との縁のとりわけ深い人です。
 大通公園の3丁目にあった大きな銅像は戦時中の金属供出で失われてしまいましたが、サッポロファクトリーのとなりに彼の旧邸が保存されていたり、旭川の地名に彼の姓が使われていたり、いまの北海道人にもなじみの比較的深い明治人といえそうです。
 旧永山邸はなかなか立派なつくりです。彼が一時的な腰掛けではなく、北海道に腰を落ち着けようとした姿勢が伝わってくるようです。墓も札幌にあるそうです(里塚霊園)。

 このサイトによると、ここでとりあげる永山像は、1967年に、北海道100年を記念して、開拓に功のあった4人の銅像を建立したときに設置されたそうです。ちなみに、のこる3人は、札幌の黒田清隆・ケプロン・岩村通俊とのことで、黒田とケプロンは大通公園10丁目に、岩村は円山公園に、それぞれ像がたっています。

 永山の像は高さ3メートル近くもあるそうです。
 作者は、日展の重鎮で、「長崎平和祈念像」で知られる北村西望。
 旭川・常磐公園の入り口にどーんとたっています。

 旭川に離宮をつくり、大きな都会にしようと提言したのは永山だそうです。
 まさに軍都・旭川の生みの親といっても過言ではないかもしれません。
 彼の目には、南下をうかがうロシアがしっかりと見据えられていたことでしょう。 


 「北海道大百科事典」で、彼の項目をひいておきます。

 1837(天保8)-1904年(明治37)
 軍人、第2代北海道庁長官。鹿児島藩士永山盛広の4男に生まれる。戊辰戦争に従軍して活躍し、1871年(明治4)陸軍大尉となる。翌年開拓使八東出仕となり札幌在勤を命ぜられ、開拓次官黒田清隆の下で屯田兵制度の創設と整備に従事する。(中略)
1885年屯田兵本部長に補せられ、さらにアメリカ、清国、ロシアに出張し、各国の移民兵制などについて調査した。1889年には、岩村通俊の後をうけて第2代北海道庁長官を兼任し、上川開発に尽力した。この間屯田兵司令官となり、さらに1896年第7師団長に補せられた。屯田兵育ての親といわれ、旭川市の永山の地名は彼の姓をとったものである。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。