ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

きようは沖縄慰霊の日

2013年06月23日 | イベント
 1945年、昭和20年8月15日が日本が無条件降伏した第二次世界大戦の敗戦記念日だが、その約50数日前の6月23日に、沖縄での地上戦で組織的な日本軍の米軍との戦いが終了したとのことで、この日は沖縄県人にとってのみならず、日本国民にとっても大切な日であり、忘れてはいけない歴史的な日なのです。

 そうです。この年の4月1日に読谷村から上陸した米軍の部隊による沖縄本島での地上戦は、日本軍の兵士のみならず多くの沖縄の民間人を巻き添えにした殺戮と逃亡の日々だった様で、あの歴史教科書でも有名な「白旗の少女」の投降も、今の平和の礎という形で戦没者の慰霊碑に20数万人の名が刻まれている摩文仁の丘に近い場所だった様で、現在も戦争の悲惨さを伝える語り部として生きる70代の老女の幼き日の姿である。

 日本本土では今日は都議会議員選挙とやらで、マスコミが騒ぎ、あと二週間ほどで始まる参議院選挙の話題の方が関心が高いようであるが、この「沖縄慰霊の日」を私たちは決っして忘れてはならないのである。

 敗戦を覚悟し国の存亡を意識せざるを得なかった当時の軍部と内閣、そして天皇らはどのように考えていたのだろうか。

 多くの犠牲者が出て、日本軍の戦いも限界を超え、誰もが敗戦を自覚したと思われるのにも関わらず、日本は全面降伏と言う決断に至るまでに50数日の無駄な時間を要したが故に、広島、長崎に世界史上初めてとなる原子爆弾を投下され、併せて30数万人以上の民間人の犠牲と、その後に現在に至るまで続く、被爆者の痛みと苦しみと言う二重のリスクを背負うこととなったのである。

 一説にれば、日本軍と時の政府は本土決戦を覚悟しつつ、その時期を少しでも遅らせるために、敢えて沖縄を犠牲としたとも言われる、この沖縄戦は今考えれば、間違いなく沖縄の人々を差別視した政策、戦術でもあり、゛戦後の日米安保体制の下での沖縄の米軍基地の異常な多さと、今も続く騒音、事故、不祥事など、いまだに続いていると言わざるを得ない「沖縄差別」の実態だと思うのである。

 多くの沖縄県民たちの先祖が傷つき亡くなったという歴史的事実と共に、今も続く米軍と日本政府による沖縄の土地の支配と県民の生活面での支障や悩み、そして大きな不安が続いているのである。

 私はあの普天間基地のある宜野湾市を数度訪れて、この普天間基地に突き出した形で建てられている、佐喜間美術館をそのつど訪れているのだが、あの丸木俊、位里夫妻によって描かれた大作、「沖縄戦の図」を忘れることは出来ないのである。

 丸木夫妻は、広島の原爆の図をはじめ、多くの悲惨な戦争や平和への願いなどを描かれたが画家であるが、、是非多くの日本人と平和を熱望する祈り有る人たちに見てほしいと願うものである。

 今日の慰霊の日の追悼式典でも、地元沖縄の小学生が真剣なまなざしで、平和の沖縄と世界の永遠の安全を願うスピーチをしていたが、日本政府の安倍首相をはじめとする国会議員たちや米国の政治家や米軍と自衛隊関係者はどのような心境たのだろうか。

 たぶん、式典やセレモニーに関心を寄せたようにも見えるが、一種のパフーマンスに過ぎない様子で、特に日本政府関係者の一大関心事は都議選であり、七月の参議院選挙の結果であり、沖縄戦や本日の沖縄慰霊の日は過去の記念日としての記憶だけなのである。

 敢えて言うが、この沖縄慰霊の日に再び日本が悲惨な戦争や武力攻撃の嵐の中に出陣しかねない、憲法の改悪や国軍化や徴兵制、専守防衛とかいって戦争行為を行なえる体制にユーターンすることのない様にと、願わざるを得ない日なのである。
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