散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

西欧帝国主義が背負う「罪と罰」~時間の遅れを伴ったデモ

2015年01月30日 | 先進諸国
「西欧人にとって、公海の外の世界は「免責」に値する道徳外の領域であった」、「かつて、旧世界では、パスカルが『子午線が真理を決定する』といったとき、そこでは、秩序づけられた「市民社会」(文明の領域)と混沌と無法の自然状態(野蛮の領域)の深淵を彼は垣間見ていた…」(永井陽之助「冷戦の起源」P32)。

先の記事で述べた「赤道のかなたに罪業なし」との言葉も同じ意味を持ち、欧州に内在している暴力性は帝国主義と共にアフリカへ向かった。それは、ハンナ・アーレントが指摘した様に、資本主義の発展の中で景気の波が恐慌となり、失業者として吐き出された一群の階層から生じたモブが担った役割であった。
 『中東の聖戦へ参加する西側の若者150110』
 http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/da258a4ef4c006e1c09417321e3a52ff
帝国主義を具体的に担ったヨーロッパ人の暴力性が、それに対抗する現地人のゲリラ・テロを生み出したのだ。それと共に現地人においても、宗教各派での抗争が、権力を巡って激化し、多数派対少数派の宗派戦争の様相を示す。

先ず、1979年2月に起こったイラン革命は、世界史的な転換であった。ホメイニを指導者とするイスラム教シーア派の法学者たちを支柱とする革命勢力が、国王の専制に反対して、政権を奪取した。

その後は、米国大使館人質事件、イラン・イラク戦争…アルカイダの活動、イスラム国の出現に至っている。その中で、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件は、「市民社会」(文明の領域)へのテロを象徴している。

今回のシャルリー・エブド襲撃テロ事件は、「市民社会」に巣くうテロリストの犯行であり、抵抗主義の時代において、「赤道のかなた」での暴力を容認し、市民社会から体よく追放していた西欧社会が、ブーメランの如く蘇った内部での暴力に対応せざるを得なくなった状況を示している。

これが西欧帝国主義の「罪」が、時間の遅れを伴って招いた「罰」なのだ。

しかし、時間の遅れを少し元に戻すと、
アルジェリアでアルジェリア人独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、アルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加、アルジェリア戦争を戦い、FLNのスポークスマンとして活動したフランツ・ファノンがいる。

その著作、「地に呪われたる者」の序文は哲学者・ジャン・ポール・サルトルが書いたものだが、その中で、「地に呪われたる者が人間になるのは、凶暴な激怒を通してである」と書いている。更に、「ひとりのヨーロッパ人を殺すのは一石二鳥である。後には、死んだ人間と解放された人間が残る」と云う。

50年前のサルトルならば、原罪を表現できるが、現代人にそれを望むのは難しいのだろう。報道によれば、1月11日、フランス各地で犠牲者を悼むための大行進が実施され、その数は全国合計で少なくとも370万人に達したと推計される。ちパリの行進に加わったのは160万人超とみられ、キャメロン英首相やドイツのメルケル首相ら欧州主要国を中心とする40人超の各国首脳も参加した。また、ブリュッセルやロンドンなど周辺国の都市でも追悼行進やデモが行われた。

これは、ヨーロッパ社会として見えない敵に宣戦布告したようなものだ。逆に言えば、敵を明確にすることで、結束を高めようとする狙いもあるのだろう。やはり、強靱な精神と云うべきなのだ。欧州主要国を中心とする40人超の各国首脳が参加したことも眼を見晴らす様だ。

安倍首相は参加せず、また、中東訪問時の2億ドルの援助金も人道的支援と述べ、中立性を強調した。これがどの様に受け取られるのかは、また別の話であるが。今後の人質事件の成行で明らかになるであろう。

      

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広がるワールドディスオーダー~永井陽之助1991年

2015年01月29日 | 永井陽之助
イスラム国による日本人人質事件は、1週間以上経過した。この事件を通して、彼の地の戦乱の激しさとテロの凄まじさを、改めて知らされたと感じる。安倍首相の首脳外交での人道的支援2億ドルを逆手に採られ、人質を捕えられ、同額の身代金を要求された。

日本国は“無秩序化”の震源地からの振動を身に滲みて感じた処であろう。しかし、半年前の記事で示した様に、25年前、永井陽之助は日経新聞紙上で民族主義とエスニックパワーの台頭で世界は震駭させることを予測している。ここでは、当時の新聞の切抜きを示し、重複もあるが、内容をより詳細に伝えていく。
 『民族・宗教の対立による世界的無秩序の広がりを予測140617』

 「日経新聞(1991/10/19)」

表題は「知的探検―広がるワールド・ディスオーダー」、
副題に『際限なき民族主義が世界的な無秩序を招く』とある。

まとめると、
『冷戦構造の終焉を喜んでばかりはいられない。
近代文明とイデオロギーという普遍主義の求心力を失った世界は、
再現のない民族主義とエスニックパワーによって拡散しつづけている。
歴史の不確実性はいよいよ深まり、いま、静かに進行しているのは「新世界秩序」ではなく、「ニュー・ワールド・ディスオーダー」という危険の増大だ』。

ここでは、探求の結果としての著作物を先ず、紹介している。
「『現代と戦略』は永井氏の代表作であるばかりではなく、日本人による数少ない本格的な戦略論である」。そう聞くと、他に本格的な戦略論が何かあるかなぁ、と考えてしまう。『平和の代償』には、孫子から毛沢東、キッシンジャーに至る文献が紹介され、日本人の『戦略論』は無かったはずだ。

『日本人はあまり知らないが…冷戦時代の戦略の基本は奇襲攻撃を如何に防ぐかという「青天の霹靂シナリオ」で、パールハーバーの教訓に基づいている』。
『米国はこれまで24時間体制を敷いていたが、その体制を解除し、一方的に核軍縮を進める…それにゴルバチョフ大統領が応えた…各共和国に分散している核兵器は非常に危険…全部キャンセルに…それに米国が救いの手を差しのべた』。

政治の世界は予測可能性によって担保される。これは基本の「キ」だ。
『冷戦時代の方が、確実性があったし、予測可能だった…ソ連はイデオロギーの国…その枠組で行動…今では、ソ連はイデオロギー国家ではない…この核大国の行動は全く予測不可能…それに民族問題が噴出している』。

『…冷戦の二極構造が求心力になって、東西両陣営に潜在していた“エスニック・コンフリクトをほぼ完全に凍結…その求心力が融解…ソ連は共産主義という普遍主義が崩壊したことの二つが重なって、民族問題が噴出…』。

『…米国は「アメリカン・デモクラシー」という強力なイデオロギーで成立…その統合の原理、普遍主義が近年急速に力を失って…エスニックごとに自己隔離化…』
『…文化相対主義、文化多元主義に基づく、エスニック・アイデンティティを主張する潮流が米国に始まって…世界中に広がって本当に火がついたら大変…』。

『「近代」という普遍主義をテクノロジー中心の文明…今世界で起こっているのは「文明対文化」の対立の図式…求心力を失って、世界が猛烈な勢いで拡散…』。

記事の最後に印象的なフレーズがある。
『民族自決を際限なく進めていけば、世界が“バルカン化”する』。
『エスニック・ナショナリズムは性欲と似て、崇高な愛に昇華することもあるが、嫉妬、怨念、憎悪をかきたてる可能性のほうが大きい。その意味で今日の世界は、危険と不確実性をいよいよ深めている』。

      
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イスラム国による人質事件~世界の“バルカン化”

2015年01月21日 | 国際政治
『民族自決を際限なく進めていけば、世界が“バルカン化”する。エスニック・ナショナリズムは性愛と似ていて、崇高な愛に昇華することもあるが、嫉妬、怨念、憎悪をかきたてる可能性のほうが大きい。その意味で今日の世界は、危険と不確実性をいよいよ深めている』。先に紹介した永井陽之助の言葉だ。
 『民族・宗教の対立による世界的無秩序の広がりを予測140617』

1978年のイラン革命から10年余り経過した1991年での指摘になる。フクヤマの「歴史の終わり」が世界的に注目されていた頃、氏はイスラム全体の動向を注目していたのであろう。

日本赤軍が世界同時革命を掲げて、テルアビブ空港乱射事件から始まり、ドバイ日航機、ダッカ日航機のハイジャック等を起こし、多くの死傷者を出した事件が周り回って、今回の人質事件、即ち、イスラム国が日本人を人質として身代金を要求する事件に変わっているかの様である。

ダッカ事件において、当時の福田赳夫首相が身代金、支払い、過激派メンバー釈放という超法規的決断をした。「一人の生命は地球より重い」という福田発言は多くの人が覚えている名(迷)台詞なのだ。しかし、当時は欧米各国から批判を受けたはずだ。一方、今回の安倍首相は「テロには屈しない」と宣言している。

一方、今回のイスラム国の注文である人質2名に対する身代金要求は、2億ドルであり、安倍首相の中東訪問にあたって関係諸国へ約束した援助金と同額に設定されている。これが用意周到に行われたのか、新聞社襲撃事件とフランスでのデモに対応して決定したのか、後者であれば、素早い反応になる。

これに対して日本政府は不意打ちを食らったようだ。しかし、国家安全保障会議設置後、初の国家的事件になる。安倍政権として、事態を適切に処理できるのか、その手腕が問われる。

先のパリ新聞社襲撃事件に続く人質事件はバルカン化の震源地から、世界へ向けて様々な形でのテロ行為の分散にも見える。更に、事件の毎に、これに対応するかのような人間類型が表れてくることも注目に値する。

襲撃事件は、テルアビブ空港事件(1972年)を想い起こすような「無差別性」を有し、人質事件は、資金稼ぎに手段を選ばない形での「計画性」を有する。当然、コミュニケーションの形も極端な一方向性しか持たないことになる。

しかし、今回の場合、人質の成り方にも普通の市民からは異なる類型の人が含まれているように、筆者は感じた。
ジャーナリストの後藤氏は、戦況あるいは戦争行為ではなく、一般市民や子供を取材するために危機の地帯へ入った。今までも同じ様な取材をしている。

氏は、「何か起こっても責任は私自身にある…日本の皆さんも…シリアに責任を負わせないで下さい」との言葉を残し、敢えて、イスラム国へ向かったとNHKニュースは伝えた。イスラム国の行動様式は調べてあるだろうから、人質として捉えられることは十分有り得るとの認識はあったはずだ。いや、あったからこそ、自らの映像と言葉を残していったとの解釈が妥当だ。

自分自身で設定したミッションに従っての行為であり、それをビデオに残したことは、用意周到な仕事と云って良いだろう。組織的活動ではなく、フリージャーナリストであるが故にできる活動だ。
ここにも世界のバルカン化に対応した“確信者”の人間類型が見られる。バルカン化は様々な形で、少数者であるが、確認者を生みだし、それと共に進む。

しかし、この行動の結果が、日本への240億円の身代金の要求を招いたことになる。先の福田発言が50年後まで響いている。一国の首相の発言は、世界にとって空体語(イザヤ・ベンダサン)ではないことを、私たちは思い知るべきだ。

一般住民としての私たちは、この事件にどんな反応を示せば良いのか、ジレンマの中から探り出す以外にない。

      

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子どもと生活するフランス人~子どもを可愛がる日本人

2015年01月19日 | 現代社会
日本社会の少子高齢化を巡って、出生率2以上を確保しているフランスの論客の意見を紹介した。先ず、日本で活躍する女性、ドラ・ドーザン

「男女が恋愛をすれば、一緒に暮らす。あるいは、親や周りの知人・友人に相手を紹介する。これらは事実婚と呼ばれ、若い世代に好まれ、現在では結婚するより多く、また、新生児の半分以上が婚外子になる。
 『フランスの社会を変えた事実婚140717』

「国は社会の動向に対応して、安心して出産・育児ができるよう環境を整備した。
出産奨励手当から子育て手当まで、種々の手当が充実、育児休暇の手当は父母どちらの休暇でも支給される。フランスの税金は高いけれど、教育と家族計画について良い使い方をしていると国民は考えている」。

続いて、歴史人口学のエマニュエル・トッド。云っていることは同じだ。
「特に教育が重要だ。フランスでは政府の教育費補助によって、幼稚園から大学までほとんど無料になっている…中流階級の女性にとって、子供を産むことは人生での劇的な決定ではない…教育費の負担は幼稚園からほんの少しだ」。
 『少子高齢化という「衰退」を楽しむ日本150118』

「そういう状況で子供を産むという決断は、国が手厚い支援をしない限り、重大なものになる…日本人は出生率の問題を意識しているが、それが唯一の問題であることに気づいていない…中流階級が明確に国家の介入を求めることだ。」

ふたり共に、フランス人の自由な選択と、社会の要求を受けて教育を国の事業とした政府の判断を要因として上げている。トッドには、現状を楽しんでいると皮肉られるほど、有権者の要求は少ないし、政府の対応も遅い。

しかし、フランス人の積極的な行動の中には、身につけた家族観を基盤にして確固たる人生観が含まれている様に感じる。
それが表題の“子どもと生活するフランス人”という表現なのだ。

社交を論じて、丸山眞男は「集まって、ご馳走を食べたり、ダンスを踊ったりすることではなく」、「社交的精神とは、相互の会話をできるだけ普遍性があって、豊饒にする心構えを不断に持っていること」、「生活の中から詩を作り出していくための精神の働きかけが必要」と論じた(「肉体文学から肉体政治まで」)。

更に、コクトーの映画「恐るべき親達」の中での家庭内の会話について、「あれだけの精神の燃焼が、(日本の映画や劇)のどこに感じられるのか」と、自らに反問し、「日常生活が既に作品」と自答しているのだ。

対比としての日本では、極端に云うと、「逝きし世の面影」(渡辺京二著)に描かれている様に、「(大人は)子どもを可愛がる」。
勿論、これも身につけた家族観を基盤にして確固たる人生観が含まれているのだ。物心が付いた後は、生活の面倒は密着してみるが、距離を保った人間関係では無く、子どもは自分たちだけの社会生活になる。

結局、子どもが結婚し、孫ができ、祖父母になって、再度の役回りとして孫を可愛がるのだ。そこにあるのは、「親―子」関係ではなく、孫がいて成立する「祖父母―親」関係だ。三代にわたる「抱擁家族」を形成しているかのようだ。そこで、可愛がり、密着する軌跡から外れると、どうしたら良いのか判らなくなるのだ。

「時間の稀少性」と「時間=カネ」の感覚が支配する状況の中で、子どもを育てることが、社会との繋がりにおいて、豊かな人生になるとの感覚を、日本人は持てなくなっているのかも知れない。

比較の話であるが、フランスでは、恋愛から子どもを持ち、共に生活することまで、家族は一つの小社会を構成し、社会のミニチュア版として機能する側面を持っているのだろう。即ち、それぞれ個人として精神的に自立して、社交的精神で家族内において交流する。抱擁家族では無い。また、明確なイメージとそれを支える社会制度がある。

日本では、祖父母が孫の学資を出す様な考え方がまかり通る。また、安倍政権の「金看板」である「女性が輝く社会」とは、生産年齢人口の減少によって、低下している労働力を、女性の労働力で補い、経済成長に繋げる。つまり女性が高い能力を発揮し、日本は再び成長軌道を描くことなのだ。

合わせて、子育ても女性の役割として、だから、保育待機児童をゼロにする政策を進めている。しかし、どこかピントの当て方がおかしいのではないか。

      
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少子高齢化という「衰退」を楽しむ日本~人口歴史学的な見方

2015年01月17日 | 現代社会
『帝国以後』(2002年)で米国の衰退を予言した歴史人口学のエマニュエル・トッド氏が「日本の少子高齢化」について、フランスとの比較を語った。

先ずは、人口統計学の現代的事象との関わりについて述べる。
「日本では速水融・慶大学名誉教授が歴史人口学の父だ。彼は仏、英の手法を持ち込んだ。私は現代に関連する研究に関心を持つ。人口統計は誤魔化せない。歴史人口学は、人々の行動、結婚、出産など文化的背景が分かるから面白い」。

「歴史人口学と経済の統計の手法は同じではない。前者の統計は単純で、人が生まれて死ぬという人間行動が対象だ。データに内部一貫性があるから、統計を勝手に変更できない」。
「例えば、ソ連の経済統計は完全にデタラメだ。その統計は、上向きのものばかり、生産では、壊れない製品を創造できるが、人は必ず死ぬ。乳児死亡率が上昇していることを示すデータを、改竄できるかといえば、それは不可能だ」。

「また、乳児死亡率では米国は千人当たり6人。日本は非常に低くて2.5人。フランスは3-4人。ロシア、ウクライナは、米国と同じく6人。米国はGDPでは、強国だが、乳児死亡率では、ロシア、ウクライナ並みだ」。
「この事実は、米国が単に世界で最も偉大な国ではなく、社会に問題が潜むことを示す。経済データだけでは、社会に潜む問題に到達するのは不可能だ。GDPだけでは、そういう問題を見極められない」。
「米国ではネガティブな統計だけではない。10代女性の妊娠率が大幅に下がっている。これは、米国社会が以前より少し安定してきていることを示している。

続いて、仏の例を日本へ向けて紹介する。
「仏は合理的だ。子供を産むことはフランス人の唯一得意なことだ。産児制限、堕胎を最初に実行した国だからだ。勤労者階級が子供を生むのはどの国でも普通だが、仏では中流や上流階級でも出生率が高くなっている。」

「フランスで何が起きているかというと、基本的に個人主義の国で、個人が自由に行動できる。実際、出産の55%は非嫡出子だ。非嫡出子を不都合であると気にしない。国家がそうした家族を援助する重要な役割を果たしている。」

「特に教育が重要だ。フランスでは政府の教育費補助によって、幼稚園から大学までほとんど無料になっている。中流階級の女性にとって、子供を産むことは人生での劇的な決定ではない。教育費の負担は幼稚園からほんの少しだ。」

「少子化の解決策は、国による家族支援が効果を発揮するということだ。現在の日本ではかなりの割合で大学などの高等教育を受けている。子供を産んで高等教育を受け、有能な大人に成長するまでに25年はかかる。」

「そういう状況で子供を産むという決断は、国が手厚い支援をしない限り、重大なものになる。ヨーロッパと違い、日本では女性が働いて同時に子供を産むということが非常に難しい。フランスのように中流階級の家庭に国から大きな支援はない。膨大なコストを要するからだ。」

「私はフランスがお手本だとか、その教育制度を導入すべきと言っているわけではない。フランスの出生率が高く、特に中流階級の女性が国から手厚い援助を受けていることが出生率上昇の背景にあるということだ。」

「米、西欧諸国、日本でも、仏、スウェーデンのような国は、政府支出の大半が社会サービスに注入されているとの誤った見方をされている。低所得層ではなく、中流階級がその教育制度の恩恵を受けている。」

「中流階級が明確に国家の介入を求めることだ。日本人が、国家の介入に賛成することを祈っている。そう主張すると、国家に批判的な左翼ではなくなるが。仏、スウェーデンは中流階級に多くの資金を投じている。」

「日本人は出生率の問題を意識しているが、それが唯一の問題であることに気づいていない。長い歴史を見ても、出生率が日本にとって、唯一の重要事項だ。日本人は完璧なまでに見事に少子高齢化という「衰退」を楽しんでいる様に感じる。過去10年、少子化問題が騒がれている割に、少しも変わっていない」。

最後に世界への見方を歴史人口学の立場から次の様に述べる。
「欧州が生み出しそうな大惨事に気づいている。一方、米国社会では明るい兆候も見えている。2002年頃、ヨーロッパの将来は非常に有望であり、英米をはじめ英語圏のパワーは低下すると予言した。今、それが逆に動いて、ヨーロッパが非常に大きな過ちを犯しそうで、英語圏が何らかの形で復帰しているという形でバランスがシフトしている。」

      
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ブラックスワンの衝撃~中東革命による西欧内部の暴力化

2015年01月16日 | 政治

 
この本の説明として以下のことが書かれている。
「ブラックスワン」とは、先ず有り得ない事象のことで三つの特徴を持つ。
1)予測できないこと 2)非常に強い衝撃を与えること
3)いったん起きると、それらしい説明が作りあげられ、偶然には見えなくなったり、予め判っていたように思えたりすること
しかし、実際に起きるまで、「黒い白鳥」に気が付かないのは何故か?

3)の説明が、やけに長い。しかし、そこと、その次の「気が付かない」ことを合わせて解明することがこの本のポイントとなる。

上記の3)を読んだ時、永井陽之助の“国債情勢と予測”についての言葉を想い起こした。(『序にかえてー国際情勢と予測』「多極世界の構造」P13)。
それは「…事件が生じた後になって、まるで昔からすべてを知っていたかのように、その必然性を説明するのが常であった」というセリフだ。
これはまた、別の機会に説明しよう。話を戻してブラックスワンだ。

その著者であるタレブが「フォーリン・アフェアーズ リポート 2011年7月号」に寄稿した論文を偶々読んだので紹介しよう。
ブラックスワンの政治・経済学
ボラティリティを抑え込めば世界はより先の読めない危険な状態に直面する。

人間は本能的に、自分たちの世界を改革し、それが作り出す結末を変化させようと現実に介入するが、特にその介入対象が複雑系である場合、想定外の事態につきまとわれることになる。

誤解が生じるのは、人類が直線系の領域において歴史的に洗練度を高めてきた分析を、複雑系にもそのまま当てはめて考えようとするからだ。最近の中東における革命はその具体例だ。従って、状況を変化させるより、柔軟なシステムで、対応していくべきだ。変動や衝撃を抑えようと政策的に模索するのは、結果的に非常に大きな事態急変のリスク、つまり、テールリスクを高める。

<ブラックスワンの衝撃>
なぜトップエリートは、事態の展開に驚き続けるのか。現実には、危機が回避できないことを示す分析は数多く示されていた。中東革命についても、重要なポイントは、安定を維持するため、現状が頻繁に大きく変化する「ボラティリティ」を人為的に抑えつけようとし、結局は、事態の急変に直面したことだ。

明確でないリスクを「かなりの確率で大きな帰結を伴う統計的リスク」とみなして、確率は低いが高い衝撃と大きなリスクを伴う「テールリスク」を政策決定者の意識から消し去るのは間違いだ。チュニジア、エジプト、リビアの事態は、大きく抑えつけられたシステムが破裂したときに何が起きるかの具体例だ。

人為的に「ボラティリティ」を抑えた複雑なシステムでは、平静を保っている現実がもろくも崩れることがある。水面下でリスクが高まっているときにも、表面は非常に穏やかで、もろさは感じ取れないことが多い。

「ブラックスワン」化したシステムでは、統計的規範からは想像もつかず、専門家が予測できない大規模な変動が起きやすくなる。

通常のシステムに対するミスパーセプションが、アラブ世界における現在の混乱を呼び込んだ。システムを力強いものにするには、すべてのリスクが明白で、しかも開放的でなければならない。制度は揺れ動いても、沈んではいけない。

アメリカ政府は、見せかけの安定のために独裁体制を支援するのを止め、むしろ、体制に対する政治的な雑音が表面化するのを認めるべきだ。

イスラム国が出現して以降の混乱する中東情勢は、フランスでのテロとして跳ね返り、西欧諸国は国内に<暴力>を抱え込むようになった。おそらく、タブレの方法もここで試されるだろう。

     
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巨額の「地方財政計画」の行方~創生か、悪循環か

2015年01月15日 | 現代社会
地方創生に必要なのは「おカネそのもの」ではなく、「おカネを継続的に生み出すエンジン」なのだという木下斉氏の主張を昨日の記事で紹介した。更に、そのことは日本社会のおける「都市と地方」の問題が、「公と私」及び「官と民」の問題と深く結びついていることを暗示すると述べた。
 『地方創生における「公と私、官と民」150114』

しかし、報道によれば、具体的な施策も、それを導く方策も明らかではない中で、来年度予算の「地方財政計画」には、1兆円の事業費が計上されるなどの大盤振る舞いがされた。
下図は日経ニュース



1.2014年度補正予算…自治体向け交付金、4200億円
  商品券、旅行券の配布、灯油の購入補助等
2.2015年度予算案…地方創生関連、7225億円
  新規就農への支援、地方大学の活性化等
3.2015年度自治体予算…まち・ひと・しごと創生事業、1兆円

上記のグラフに示されるように、地方財政計画は2014年度比、1兆9100億円増の85兆2700億円に膨らみ、自治体の予算は大幅に増えて、2003年並に近づいた。10年ぶりのことだ。

しかし、これはアベノミクス、第2の矢の「その2 地方自治体事業版」としか見えない。初めの公共投資は経済成長への寄与はあったが、それをベースに第3の矢が続く、というストーリーは単に話だけであって、何も表れずに終わった。

それでも公共投資は、民間企業にカネがおりて使われるから、それだけを使う仕組みは長年の経験によって、形成されていたと思う。しかし、地方創生の場合は、先に述べたように、エンジンができていない処に、カネをばらまくだけのように思える。あるいは、旧来からのバラマキが姿・形を変えて表れるかもしれない。というよりも、その方が圧倒的に多いと思われる。

アベノミクスの悪循環は、抜き差しならない処まで行くのだろうか。

      
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地方創生における「公と私、官と民」~戦前的発想を打破できるか

2015年01月14日 | 現代社会
来年度予算案が決定した。96兆3420億円だ。先の選挙で自民・公明の与党側がしきりに「地方創生」を宣伝していたが、報道では何を具体的に実施していくのか、トント明らかではない。

筆者が住んでいる地域では、「農のある風景」というテーマで市から補助金をもらい、農産品を販売している処がある。しかし、どこかサロン的であり、個人の趣味でお店を営んでいるようにも見える。

補助金が本当に地域の中を循環して、その振興に役立っているのか、何とも心細い“風景”ではある。それよりも、近くの農家で作っている野菜を100円程度で売っている処のほうが素朴で、かつ、安い物が得られるようだ。

その間に事情について、地方創生に必要なのは、「おカネ」ではない、として、却って「地方は補助金をもらっても衰退する」と指摘する木下斉氏のインタビュー記事がある(2015/1/7)。地方創生に必要なのは「おカネそのもの」ではなく、「おカネを継続的に生み出すエンジン」なのだという主張だ。

「地方に必要なのは、一回しで終わらない、一度資金を入れたらそれをもとに、地域内経済を取り込んで回り続けるエンジンです。税金を用いた活性化事業の限界は、利益を出してはいけない、出せないという、その資金の性質と諦めで縛られてしまっているわけです」。

「地域活性化に取り組むという名目で資金が流れ、そのひと廻しのシステムの中で食っている人たちにとっては「税金での地域活性化」は不可欠です。しかし地域全体においては、その効果は全く波及しません」。
「成果を出している事業は、補助金に頼らない」というより、補助金に依存した段階で、もはや「衰退の無限ループ」にハマってしまうわけです」。

「地方創生に必要なのは、資金調達が可能な事業開発であり、民間が立ち上がって市場と真正面から向き合い、利益と向き合って取り組むことが必要です。成果をあげているのは、民間が立ち上がり、事業を推進している地域ばかりです」。

「そもそも行政は、利益を出すことなど、やったことがないし、そんな目的で作られていません。政治も同様で、分配の内容やルールこそ決めることができても、稼ぎを出す集団ではありません。つまりは、民間が立ち上がるほか、地方が活力を取り戻すなんてことはないのです」。

「「仕事がない」→「人もいなくなる」→「ますます仕事がなくなっていく」、という負の循環をいかにして断ち切るかしかありません。そのためには、利益を生み出す事業と向き合わなくてはなりません」。

「税金を用いた活性化事業の限界は、利益を出してはいけない、出せないという、その資金の性質と諦めで縛られてしまっているわけです」。

「行政が関わった途端に、官民両方が根から利益は出ない、出していけないという固定観念も未だ強いです。とある自治体の研修で「金儲けを考えるいやしい民間が嫌だから、役所にきた」と、言われたことがあります」。民間は民間で「地域活性化は利益が出ない、行政の仕事」だなんて普通にいってしまう」。

木下氏が指摘する実態は、日本社会のおける「都市と地方」の問題が「公と私」及び「官と民」の問題と深く結びついていることを暗示する。
即ち、上記の自治体の研修における“金儲け=いやしい=民間”との話は、民の動機は私利私欲に閉ざされており、公は官が独占するもの、との発想を含んでいる。これは将に、戦前の官と民の関係そのものになる。

民の位置づけをはっきりとしていかないと、滅私奉公のアナクロニズムに陥ることになってしまう。これは地域活動に携わる人たちの共通の課題だろう。おそらく、そのなかでも、活動を継続していくエンジンを造り出すことが最大の問題だろう。

      
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西欧の植民地支配が育てた暴力性~国内へ跳ね返る現代的テロ

2015年01月11日 | 政治理論
映画『おじいさんと草原の小学校』は、世界最高齢の小学生としてギネス記録を持つキマニ・マルゲの実話を描いた人間ドラマだ。筆者は岩波ホールで見たのだが、その時のパンフを見ると、ロンドン映画祭2010年出品になっている。


ケニア政府の教育政策により、84歳にして小学校に入学した彼の勉強に懸ける情熱、下の写真にあるように、それを支える若き女性教師及び幼い級友たちとの交流を、ケニア独立戦争の戦士として戦った過去を織り交ぜて描いている。

ところが、筆者が強く印象に残しているのは、勉学に掛けるおじいさんの情熱よりも、独立戦争時の回想に表れる当地の英軍による現地の独立派に対する凄惨な圧迫だ。勿論、ゲリラによるテロに対する軍の反撃であるから、それが“絶対の的”との対峙になることは確かなのだが。

マルゲが家族とともに英軍に捉えられ、若い妻と赤ちゃんが兵士に銃を突きつけられた状態で仲間の居所を追及される。赤ちゃんが泣きわめく中で、彼が拒否すると、リーダーの合図と共に銃声一発、赤ちゃんの泣き声がピタッと止む。若き妻は取り乱すが、再度の合図で、その声も消える。

このシーンから、一昨日の記事で述べたアーレントの「帝国主義的性格」を思い浮かべ、帰宅してから早速、「全体主義の起原」第2巻『帝国主義』を取り出し、該当部分を探し出し、その部分を再読した。今回は部分的に3回目だ。
 『中東の聖戦へ参加する西側の若者~暴力性の問題150108』

過剰資本を論じた後に、アーレントは次の様に云う。
「資本主義のもう一つの副産物として…人間の廃物がそれである」(P47)。
「過剰となった資本と過剰となった労動力のこの両者を始めて結びつけ相携えて故国を離れさせたのは、帝国主義だった」(P47)。
「…19世紀的の異常な資本蓄積が生み落としたモッブが、生みの親のあらゆる冒険的探検旅行について廻ることになる」(P48)。

「帝国主義の時代には
…エリートは伝説もしくは擬似伝説に惹きつけられ、
…多数の平均的人間はイデオロギーに自らを委ね、
…モッブは地下の世界陰謀団に暗躍物語にうつつを抜かした
のである」(P138)。

この指摘は現代的思われる。
テロ、暗殺などに惹きつけられる過激派の暗躍は、その周囲にいるイデオロギーに自らを委ねた無言の集団の支持、暴力によって自らの時代が築けるとの物語に惹きつけられる指導者による指示によって、行動しているのだ。

イスラム勢力に代表される現代的過激派は、グローバル資本主義を現代版帝国主義として生み出された“鬼っ子”であるかのようだ。

     
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中東の聖戦へ参加する西側の若者~暴力性の問題

2015年01月10日 | 先進諸国
報道によれば、パリでの仏週刊紙銃撃事件は、更に別のテロ事件を伴い、仏特殊部隊が現場ですべての容疑者3名を殺害した。テロの犠牲者は計17名だ。容疑者2名はアルジェリア系フランス人で、イスラム過激派と関係があるという。

最近のイスラム国に関する報道の中で、英エコノミスト誌が「中東の聖戦に向かう西側の若者達」(2014/8/30 and 9/4)において、その理由とイスラム国の兵士として参加する方法、その後に母国へ帰る難しさを述べた後、最後に「今日のジハード主義者がロンドン、パリの殺人者になる恐れ」があることを警告した。図らずも、その予測は不幸なことに、今回、ほぼ的中した。
 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41633
さて、エコノミスト誌によれば、「西側出身の戦闘員の多くは、戦いに加わったり、新しいイスラム国家の建国に力を寄せたりする機会に自ら飛びついた者たち…。ニューヨークを拠点とする安全保障情報企業ソウファンの推計によると、5月末までに81カ国から1万2000人が戦闘に加わり、そのうち約3000人は西側出身だという(図参照)。



「欧米など西側出身の戦闘員が聖戦に引きつけられた理由を、貧困で説明することはできない。戦闘員の多くは中流階級だ。周りの社会に溶け込めなかったからという説明も当たらない。敬虔な宗教心だけでも説明がつかない。戦闘員の中にはこれまで宗教に関心を持ってこなかった者もいるという。」

「より説得力のある説明は、彼らは母国の退屈さから逃れ、自分のアイデンティティを見つける欲求から聖戦に参加…。図の参加人数第一位のベルギーの戦闘員の多くは、最も退屈な町の出身だ。過激派はそのような町で集中的に、新たな聖戦戦士を募る努力を費やしてきた」。

しかし、この説明、アイデンティティ探しだけでは説明は付かない。即ち、戦闘に魅力を感じる理由があるはずだ。

ハンナ・アーレントは浩瀚な三部作「全体主義の起源」(1951年)において、第二部を『帝国主義』として、19世紀末から20世紀の大戦を迎えるまでの、西欧国民国家の没落の過程と全体主義の勃興を素描した。

その第3章において「帝国主義的性格」を描いている。
資本主義の発展と共に余った富が資本として蓄積され、それと共に景気の波が恐慌に向かった時に、労働者群が失業者として吐き出された。そのような一群の社会階層の人間をアーレントは“モブ”と呼んだ。

そのモブと余剰資本とが結びついて、海外植民地を形成していったのが、帝国主義であった。「赤道の彼方に罪業無し」との言葉に表されるように、モブに付随した暴力はアフリカで開放され、暴力的人間はアフリカへ送り込まれた。

逆に、西欧諸国の各国内においては、秩序を維持するのに好都合であった。しかし、植民地がなくなると、暴力的人間は国内に止まり、暴徒と化すケースが増えてくる。そこで、現在では、「母国の退屈さから逃れ、自分のアイデンティティを見つける欲求から聖戦に参加」する人間が多く出てくるのだ。

米・西欧・日において経済格差が広がり、階層が固定化される状況が、宗教イデオロギーと結びつくと…極めて不気味である。

      
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