散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「日本経済を取り巻く国際環境」~齊藤誠教授のエッセイより

2014年08月31日 | 経済
厳しい経済状況は第一四半期の統計データ公表後も続き、内閣改造で石破幹事長外しをしても、主要閣僚は更迭せずで、人心一新にはならず、まして、政策一新には及ばない状況のようだ。今後も続く厳しさを想定しておくために、アベノミクスの基本的発想である「デフレからの脱却」を一から省みておこう。教材の題名、著者共に表題の通りだ。以下にまとめてみる。

1)問題の所在
アベノミクスの目的は「15年以上にわたるデフレーション」からの脱却だ。それは、1997年の金融危機から始まる物価水準の持続的な低下を指しており、それは消極的な金融政策で総需要が落ち込んだ結果と解釈されている。

先ず。マクロ経済現象として観察されているか、ある物価指標に観察されるとしても、総需要の低下の結果か、他の要因の反映か、検証が必要だ。デフレーションとして受止められた現象をマクロ経済学的に明らかにする必要がある。

2)分析データ
消費者物価指数、国内企業物価指数、GDPデフレーター、GPIデフレーター、交易利得・損失(交易条件)等の年次推移(1997-2011年)を比較する。
特に1997-2003年と2003年以降との違いに注目する。

3)結論
1997-2003年の消費者物価指数、GDPデフレーター等の指標において、総需要の低下に起因して、「物価下落」によるデフレが生じた。
一方、2003年以降、消費者物価指数は上昇傾向に転じた。
また、2003年以降、GDPデフレーターは「物価下落」ではなく、「交易条件の悪化」に起因して低下した。悪化の原因は一次産品価格の高騰、一部の輸出企業の国際競争力喪失だ。即ち、この間は「交易条件の悪化」によるデフレであった。
(筆者注:後者については、黒田日銀総裁の誤認を意味する)

2002-2007年は「戦後最長の景気回復期」、実質GDPは約1割拡大し、消費者物価指数や上昇に転じている。しかし、2003年以降も、元来は物価下落を意味する“デフレ”が却って日本社会に「不況」のニュアンスとして定着したのは何故か。実質GDPが拡大しても、交易条件の悪化のために、海外への所得漏出で国内の人々の所得があまり改善しなかったからと推察できる。

一方、デフレの感覚は、金融緩和で誘導された円安の進行では解消しない。円安の進行で一次産品価格高騰の悪影響は強まり、一部の輸出企業の国際競争力低下は止めることはできない。その結果、海外への所得漏出は、加速するからだ。現在の日本経済は、二度の石油ショックに見舞われた1970年代よりも過酷な国際環境に直面していることを肝に銘じるべきだ。

4)物価指数とデフレーターの動向の違い
消費者物価指数:
「1997~下降~2003:底打」
「2003:横這~上昇~2008/9:ピーク~下降~2009/1横這~2013:上昇」
GDPデフレーター(17年間に上昇は半年、2割のオーダーで低下)
「1997~下降~2013」(上昇期間:2008第4四半期~~2009第1四半期)

5)交易条件の悪化の背景
1980-2013年の交易条件指標(円ベース物価指数比:輸出/輸入)の推移
「1980年代前半:1970年代の動向を引継ぎ、指標は低い水準で推移
       (石油ショックの影響で交易条件が著しく悪化)
1986前半:指標は急激に改善、2000年代初頭まで高い水準で推移
2002前半~:急激に悪化
2008/9:リーマンショック直後、瞬間的に改善
20010-2013:1980年代前半に比べても悪化
最も重要な要因は、輸入一次産品の価格が2000年代初頭から高騰したこと。特にエネルギー価格はテンポが速かった。原油価格は、2002年までは20ドル/バレル、しかし、2002年からは急騰、2011年初には、100ドルを超えた。

交易条件の悪化の背景には、輸出物価の低下の影響もあった。
平均は2000年代になって安定して推移、2008年末から円高が進行したが、輸出価格が引き上げられなかった。その背景には、日本の輸出企業の一部が国際競争力を失ってきたことが影響している。競争力が著しく低下した電子・電気機器は、輸出価格の値下げを強いられた。

以上の認識をもとに、日本の置かれた位置を確認しながら経済・社会政策を吟味していく必要がある。加えて、少子超高齢化への社会的対応も必要だ。小手先の政策を言葉のオブラートに包むように差し出す安倍政権には期待できないのだが。

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本は中立冬眠国家~占領当初の米国構想

2014年08月30日 | 歴史/戦後日本
昨日の記事でNHK番組において、吉田茂が日本独立の際の防衛構想として、憲法九条を盾に、「日本の防衛を国連軍に委ねる」「北太平洋地域の非武装化」を提案として用意したことが明らかにされた。
 『冷戦下における「運命・選択・決断」140828』

番組では、前者は1951年、米国のフォーリンアフェアーズ(FF)誌に発表されたとされた。偶々かどうか、FFリポート誌7月号に「特集 吉田とケナンは日米同盟をどう考えたか」が組まれ「冷戦と日本の安全保障」と題したその論文の一部が掲載されている。

折角の機会だから紹介しよう。公開されたのは、以下の「冷戦と日本の安全保障」の部分である。
(論文構成は以下の順:「講和の見通し」「冷戦と日本の安全保障」「日本における共産主義」「経済復興の布石としての講和」「講和と日本の精神について」)

その論理に吉田の苦心が滲んでいるが、言っていることは極めて単純だ。
「講和条約締結に伴う最大の問題は日本の安全保障である。…日本を完全に非武装化したことにより、連合国の日本に対する安全保障上の懸念は取り払われている。…日本は戦争を放棄し、あらゆる武力を否定する新憲法を制定した。

…日本は天然資源に乏しく…鉄鉱や鋼鉄、石炭、石油等の必需品の供給を止めれば、行く手を阻まれる。…日本が脅威となることは決してない。一方で、日本が懸念すべき脅威が存在する。…ヨーロッパ、アジアでの冷戦に伴う醜い現実、特に共産主義軍事勢力の台頭だ。…朝鮮戦争が雄弁に物語っている。
…占領軍が撤退すれば、非武装の日本はどうなるか。…侵略された韓国に対して国連軍が迅速に救援にかけつけ…激しく戦っていることに感銘を受けている。

…国連の強い希望と意志がこの派兵によって示された。…日本の自由と独立のために我々は国連を頼みとしていく。…我々も国連による極東の安全保障の枠組の構築に参加できるようになることを期待している。」

一方、ケナンも吉田に続いて寄稿し、次のように述べている。
「マッカーサーは、少なくとも1948年当時は、米国、日本の安全保障のために、日本に米軍を恒常的に駐屯させる必要は必ずしもないと考えていた。彼が考えていたもっとも好ましい方策とは、日本が国連の監視下に入り、米国の利益に反しない形で、非軍事化、中立化されることだったようだ。」

この方が重要な指摘だ。番組では1948年当時の状況まで及んでいないからだ。

先に記事で、永井陽之助「平和の代償」の中の「日本は、敗戦後、選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編み込まれたのである。これは米国も同様である」という言葉を紹介した。それは本の中核部分『日本外交における拘束と選択』での「国際政治の基本構造」の冒頭に書かれていた。

しかし、1945年のヤルタ会談では戦後世界における基本構想を8日間に亘って話し合った経過があり、これはウィーン会議の多角的交渉に擬せられる内容を含んでいる。その内容とは、五つの争点、ドイツ賠償、ドイツ分割、フランスの役割、ポーランド、国連の各問題に対して争点毎の交叉連合が形成されて、交渉は可能だった。冷戦二極構造に至るまでには、終戦から少し時間があった。

また、ケナンがソ連封じ込め政策のもとになったと云われる有名なX論文をFF誌に発表したのは1947/7であったから、米国内での戦後政策は冷戦に収束するまでには揺れ動いていたのだ。

更に永井は次の様に云う。
「米国は、極東での日本の軍事力が解体した後、そこに生じた力の真空を埋めるものについて、明確な考察を欠いていた。…その当時、日本を共産主義の膨張に対する防壁にするという考え方は、必ずしも文武一般の意見ではなかった。

「…マッカーサー元帥は次の大戦で「日本が戦うことを欲しない」と常に主張していたし、米国の防衛戦略での日本の役割は「日本が中立に止まることだ」と「太平洋のスイス」としての日本の中立化が米、ソ、英の三国によって確保されると楽観的に考えていた。…憲法第九条は、かかる蜜月時代の残像を反映している」。

当時の日本に対する米国の構想は、あったとすれば、「中立冬眠国家」だ!

しかし、日本人は吉田ならずとも、それは拒否したのだ。破壊されたその只中で眠るように生きることはできない。ともかく、国家として不満であっても、社会として復興することだ、米国的生活を目指して…そこで、国家を守る軍備など不要なものは出来るだけ持たない、と意思したのだ。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷戦下における「運命・選択・決断」~NHK「吉田茂 独立への苦闘」

2014年08月28日 | 歴史/戦後日本
この番組は「英雄たちの選択」がテーマで、その中でも「昭和の選択」と題されている。では、吉田茂が英雄であり、“選択”をしたのか?苦闘はしたが、敗戦で占領下の日本はノーチョイスであり、米国の意向を受け入れざるを得ない存在であって、吉田には選択の余地はなかったのでは?そんな思いで、放映を見た。

NHKは既にドラマ『負けて、勝つ』を2年前に放映、当然、講和条約交渉についても触れている。交渉では、憲法第9条を盾に吉田は「講和条約=経済再建の道」を突き進もうとする。ダレスとの交渉は厳しかったが、『戦争に負けても、外交交渉で勝つ』の醍醐味を何とか表現しようとした。
 『歴史に組み込まれたサンフランシスコ講和条約121007』

今回は、1950年に池田勇人を米国へ特使として派遣し、日本から日米安保を提案する形で、主として国防省を講和締結交渉にむけて説得する処を強調する。更に、憲法九条を盾に、「日本の防衛を国連軍に委ねる」「北太平洋地域の非武装化」を提案として用意したことに意味を持たせていた。

出席していた4名の専門家も、流石に、憲法九条ベースの提案を外交的に評価するわけではなかったが、筆者は、国民の反応を外国に知らせるという意味はあったと感じた。

問題の焦点は軍備を持つことの吉田の決断であった。
自由主義国家への仲間入りを、冷戦下での米国の強い圧力を受けて、代案はあったが、吉田が“選択”したとのストーリーであった。当然、日米安保によって米国の基地を残し、沖縄も米軍の支配下に置くことに同意せざるを得なかった。

しかし、これは選択であったのか?そうではなく、運命であって、その運命を受け入れることを吉田は決断したのだ。選択で無く、運命であることを自覚したが故に、吉田の気持ちにブレはなく、後継者がその責を負わずに、戦後復興を図れるように、ひとりで日米安保条約締結の書面にサインをしたのだろう。

陸軍将校クラス及び商工省を中心とした革新官僚、これらの個々勝手な活動によって崩壊した経済、米軍の空襲によって破壊された日本国土、この現実を前にして戦後日本の経済復興を果たすのには…吉田にとって、米国の要求を極小化しながら、呑み込む以外になかったはずだ。

それは、1951年1-2月のダレス全権特使との講和条約締結交渉で、マッカーサーに対しても自らの専権事項を振りかざし、2/2における公開の場で再軍備要求をしたダレスに対し、2/3に保安隊5万人の創設を素早く提案、2/5のダレス受入れ、2/7の最終会談での全体枠組の合意という経緯に示される。

これは東アジアにとって、戦後の欧州における仏独の石炭、鉄鋼の共同管理計画(石炭鉄鋼共同体)に比するものかもしれない。この考え方は、1950/4/17に仏政治家のジャン・モネが提案し、仏政府が外相の名をとり、シューマンプランとして5/9に発表し、後に、歴史が動いた22日間と云われた。
 『EUのノーベル平和賞受賞の起原121013』

「平和の代償」(旧版P80)において、永井陽之助は「日本は、敗戦後、選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編み込まれたのである。これは米国も同様である」(初出1966/3中央公論)と述べる。

続いて、「米国は、かつて国際秩序が英仏の手に掌握されている限りは、孤立主義を選択し得たが、第二次世界大戦後、ソ連という強大なパワーに対抗しうる唯一の強国が米国以外になくなったという歴史的運命によって、冷戦にコミットせざるをえなくなったのである。これはノー・チョイスであった。」と述べる。

これもまた、米国に対する長期的視点と、その時代の国際環境における制約条件に対する洞察を起点にした見解であり、単なる歴史的事象に囚われた歴史家の見解にはない、深みを感じる。

結局、このNHK番組の企画者と参加者は、形式的には選択が不可能な状況において“運命”という言葉を使うことができなかった。現代的視点から歴史を見れば、選択の連続であった様に見えるし、その見方は必要である。欧州の石炭鉄鋼共同体は優れた選択の例であろう。

一方で、その場の運命を決断で引受け、その拘束を受けつつ、自由を切り開くことも可能なのだ。講和条約を導いた吉田茂の決断は、その後、池田勇人に受け継がれ、高度経済成長として実った。但し、この成果がなければ、吉田はただの保守政治家だったであろう。

     

     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

様々な「成熟時間の腐蝕」、現代的状況~成長から“成熟”への軌跡(13)

2014年08月26日 | 永井陽之助
日本は少子超高齢化社会へと進んでいく。以前の記事で示した下図(厚労省)の様に、こどもの数(15歳未満人口)は1981年から「33年連続」の減少、割合は1974年から「40年連続」の低下である。
 『減少を続ける日本の子ども人口140505』


また、下に婚姻数の統計を示す(厚労省)。件数は1970年代前半には100万組を超え、婚姻率も10.0以上であった。その後は共に低下傾向、1990年代以降はほぼ横ばいで推移、2009年以降は減少を続けている。

また、平均初婚年齢は、26.1歳(1993年)から年毎に少しずつ増加し、29.0歳(2011年)になっている。

先の記事において、1970年代の「子どもの危機」の様相を示したが、それと共に、出生率、婚姻率を含めてマクロな意味で、「成熟時間」の腐蝕を示すとの見方は特に間違ってはいないだろう。
 『成熟時間の腐蝕による育児放棄の世代間連鎖140825』

これまで述べてきた様に、現代社会の構造変化に対する永井陽之助の見方は、
存在証明を与えない「柔構造社会」(1967年)との表現に始まり、
時間の稀少化による「成熟時間の腐蝕」(1974年)で段落がつく。

その後、40年経過したが、新たな社会を展望するまでに至っていない。いや、上記の様相は更なる高度技術化社会において、深まりこそすれ、進歩と安定の歩みを示しているようには思えない。

エリック・エリクソンが示したライフサイクルの概念において、その各過程において、その過程特有の課題に取り組み、成熟を重ねていく道筋を、これまでの成果を取捨選択しながら新たに構築していくことを、目指す必要があるのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成熟時間の腐蝕による育児放棄の世代間連鎖~「子どもの危機」1970年代

2014年08月25日 | 永井陽之助
成熟時間に対して本ブログで最初に取り上げた記事はBS(ベビーシッター)による幼児殺人事件であった。『経済秩序における成熟時間』(中央公論1974/12)「時間の政治学」所収)において、永井陽之助は「子殺しの風土」を指摘し“時間の稀少性”の観点から分析する。
 『「成長から成熟へ」』の先駆け、1975年頃140321』

その中で「やりきれないのは、拘束感ですね。24時間気を遣い、外出も出来ない。他の人が働いているねたましくなってくる。」との若い女性の言葉を、当時の朝日新聞の特集記事から引用する。

大新聞の特集であるから、衝撃的な子殺し事件は、それなりに重なっていたのだろう。現在からみると、その当時の「育児放棄/児童虐待」はどの様に位置づけられるのか、ググってみた。

『虐待の援助法に関する文献研究(第1報:1970年代まで)』
「戦後日本社会の「子どもの危機的状況」という視点からの心理社会的分析」
社会福祉法人・横浜博萌会・子どもの虹情報センター(H15年度研究報告書)

第2報:1980年代―1993年(2004年度)
第3報:1994年から現在まで(2005年度)
戦後以降現在までの関連する文献、論文、資料等の分析を行う企画の中の第1報をここでは取り上げる。

なお、第1段階を1970年代までにした理由は、子どもの福祉施策、治療的サービスのあり方等が、高度経済成長期を境に大きく変容したからだ。
また、第2段階を1993年までにした理由は、翌年の国連子どもの権利条約の批准が、日本での児童虐待対応に大きな変化をもたらす契機となったからだ。

第1報は以下の様にまとめられている。
1)子どもの危機的状況は「貧困型」から「先進国型」へと質的に変化
2)家庭の状況は問題の多様化、核家族化、地域崩壊等で見え難くなった
3)児童虐待の概念が狭く、そこから外れた多様な状況は掴めなかった
4)「不適切な養育」については、認識が共有されていなかった
5)大人の観念的拘束が、現実の子どもの把握を鈍らせた

以上のことは、児童虐待への適切な対応を滞らせ、問題を放置してきた可能性を示唆している。虐待の「世代間連鎖」を考えたとき、大きな問題の一つだ。

多くの引用文献が記載され、その中に立花隆「子殺しの未来学」(文藝春秋1973/1)が挙げられ、氏は「マスコミが騒ぐだけ」との批判に「常識では了解不能な事件が多すぎる」と反論、との紹介がある。

この立花の言葉に対して、永井は“時間の稀少性”を一つの了解方法として提起している。
「生産性の向上によって、労働時間が短縮され、節約された時間は自由な文化的時間にはならず、時間当たりの産出価値が均等するかたちで、各部門に配分されるという経済法則が、生活時間の中に貫徹してくることになった。」

しかし、上記のまとめ1)-5)を読めば、そもそも無理な話なのだが、時代状況を十分把握出来ず、対応が追いついていない状態ではあった。そこでの大きな問題は、育児放棄の「世代間連鎖」である。

何故なら、育児に代表される成熟過程を構成する知識は本、テレビなどから学ぶことが出来る「技術的知識」では十分ではなく、自らが経験した過程を振り返りながら、新たな経験をすることによって得られる「伝習的知識」を代々受け継いで、それを基盤にしていくのだ。
 『移動大学か、八ヶ岳大学か、1969年140723』

従って、例えば、親からネグレクトされた人は、自らの子どもを同じ状況に追いやる可能性を持たざるを得ない。それを自覚的に克服する人も勿論いるが、連鎖的に受け継ぐ人も出てくる。

その意味で、70年代を振り返って世代間の連鎖を心配せざるを得ない状況にあるということは、今の時代に育児放棄が受け継げられていることを示している。確かに、児童虐待については、国の法律だけでは済まず、地方自治体において、独自に条例を作って対応していく体制がとられている。

それにしても、現代のグローバル化した国際環境のなかで、時間と空間は、ますます、短くそして狭くなっているようだ。その中で、私たちは「子どもの危機」を克服していかなければならない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉音放送」の意義と「終戦」の意味~象徴天皇制・戦争放棄規定への道

2014年08月24日 | 歴史
日本でのラジオ放送は1925年7月に開始され、受信機の普及と共に、音楽、演芸、スポーツ中継、ドラマなどの多彩なプログラムを提供し、娯楽の主役となった。更に、1941年の太平洋戦争開戦後は、戦局進行と共に大本営の機関と化し、戦況発表及びプロパガンダ番組が終戦まで続いた(Wiki)。

大本営の機関化したラジオ放送による情報の直接的供与と、米軍による空襲の日常化による罹災者の発生は、島国に住む一般国民にとって、戦争に直面するという意味において、これまでにない戦争体験となったはずだ。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」130815』

政府がポツダム宣言を受入れ、無条件降伏することを国民に知らせるのは、本来、首相で良いはずだ。しかし、政府そのものが実質的に崩壊し、天皇が最終の意思決定を行った以上は、国民的納得を得るには天皇をおいて存在しなかった。ラジオというメディアが発達していなければ、天皇の肉声という直接的通知はなく、新聞号外のお知らせになったに違いない。
 『敗戦の日と終戦の日の違い130820』

この記事に書いたように、政府・軍にとって敗戦であることが、天皇を介することによって、「耐えがたきを耐へ、忍びがたきを忍び」という情緒的説得によって、国民に知らせることにより、民間人であり、戦争の被害者であった一般国民は敗戦ではなく、終戦を切実に実感することとなった。

更に、玉音放送は、天皇が日本政府のとって最高の権力者であると共に、国民に対しては“権威者”、ここで権威とは発信者(天皇)のメッセージを受信者(国民)がそのまま受け入れること、として振る舞うことを示した。

ここに、後の日本国憲法における“象徴天皇”の下地が形成されている様に思える。日本は1925年に成人男子による普通選挙が実施され、民主主義の素地があることは確かであった。しかし、天皇の処遇は、旧体制側の国体護持へのこだわりも残って、最大の政治問題として関係者が意識していたはずだ。

玉音放送に対する国民的受諾は、必ずしも天皇の言葉に納得というわけではなく、一つは軍ファシズムからの解放感、もう一つは日常生活に浸透した死の恐怖からの開放感に基づいた感情の様に思われる。

その間の事情を、永井陽之助は『解説 政治的人間』(「政治的人間」所収1968)において、坂口安吾「堕落論」を引用しながら、以下の様に表現する。

「正直なところ、大多数の日本人はホッとしていた。安吾が、「運命に従順な人間の姿は奇妙に美しい」という言葉で表現する様な焼け跡の中で、食べるものは乏しくとも、一種の開放感と、無所有の自由、平等感がそこにはあった。それは永遠の庶民が持つ被治者的安定への回帰から生まれる、やすらぎであった。」

「緒戦の勝利の興奮と陶酔がさめて、戦時経済の重圧と、空襲、強制疎開等の、私生活そのものの戦争化が進行するにつれて、庶民の意識には、一種の無関心、買い溜め、買い漁り、サボタージュの形で終戦はすでに始まっていたからだ」。

この様に、一般庶民が、生活体験から日本政府の降伏を、「敗戦」とは考えずに「終戦」と実感したことは、後の日本国憲法における“戦争放棄”の下地が形成されていたことを示している様に思える。

以上に述べた様に、玉音放送が天皇の権威と戦争に対する庶民意識とを結びつけたとも解釈できる。
また、その後のいわゆる人間宣言のなかで、天皇は五箇条のご誓文を入れたことを、「日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す」との目的と述べており、戦前の政治体制を批判する立場を取り得ることを示唆している。

その後も昭和天皇の姿勢は現天皇に引き継がれ、自民党政権が現憲法を批判し、改憲を狙う立場を鮮明にするなかで、現憲法を擁護し、その明治憲法との連続性を指摘する立場に立つという、非政治的立場にありながら、政治的に極めてユニークな存在になっている。それが、非政治的存在としての権威を纏って存在することもまた、興味深い。

     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対談「成熟社会への生涯設計」1975年~成長から“成熟”への軌跡(12)

2014年08月23日 | 永井陽之助
三木内閣のブレーンとして経済学者・村上泰亮を中心に起案した「生涯設計<ライフサイクル>計画」は個人の視点に立って経済政策を立案した点で画期的であり、時代を鋭く捉え、国民の視野を広げた点で評価できるものであった。
 『村上泰亮「生涯設計計画」1975年140820』

永井陽之助が“成熟時間”の問題を提起したのは1994/11であるから、「この論文は、通産省や経済企画庁のなどの官庁エコノミストの注目を引き、わが国の福祉政策の立案や、ライフサイクル政策構想の形成上、多少参考に供された…」(「時間の政治学」あとがき)のも確かであろう。
 『成熟時間とその腐蝕の発見1974年140624』」

村上と永井の対談「成熟社会への生涯設計」は「中央公論1975/11月号」誌上で行ったもので、組み合わせとしては最適だ。対談では、永井は持論を述べて論点を提起し、村上が応答して計画の背景にある考え方を答える形をとっている。

永井の論点をまとめると、
1)人間の幸福感は「もの」をだけではなく、豊かなサービスに依存する
2)そこで、現代社会の根本問題は、人力と時間を稀少資源化していること
3)すなわち、サービスを稀少資源として高価なものにしている

「幸福とは自分の社会的価値とその自己確認にある。自分が社会に必要であると実感するときに幸福感があることを近代社会は教えなかった。社会主義は個人と公共生活との間にあったバランス、逆説的に云えば、前近代社会にあったもの、人間の安定感と帰属感を回復した面がある」
「計画で謳われた強く安定した人間は“”を身に付け(エリクソン)、その徳は人生の段階ごとに異なり、アイデンティティの基礎になる」。

「現代の市民社会は個人の自由な選択を媒介するシステム。これは絶対に否定できない高い価値がある。しかし、政府の政策は個人の内面的な精神生活とか、価値観に触れられない。だが、人間の社会的、公的存在に関する問題を解決していかないと袋小路に入可能性がある」。

これに対して村上は「ライフサイクル計画はかなりの下層、「もの」的な層までで抑える。ミニマムの準備であって、一つの安定した基盤を確立してから個人が生きがいを自由に模索する。但し、いちど“フィルター”を通している」。

1)これまでの日本社会は集団主義(イエ社会)が相当に強かった
2)戦後の日本は社会を飛ばして個人主義を導入した
3)しかし、個人はバラバラのアトムではない
4)社会の中での個人を位置づけて、もう一度、個人をつくり直す
以上が、フィルターの基本的な考え方だ。

ここで「ライフサイクル計画」は、永井が提起した問題、先進諸国における経済活動が、人力と時間を稀少資源化し、人びとの成熟時間を侵食し、その幸福感の形成を阻んでいることに対して、特に何も回答はしていない。

それは個々人に供された生涯に亘る生活基盤の上にたって、強く、安定した個人が、自ら対応することになる。しかし、その個人は、永井によれば、エリクソン流の“徳”を身につけることが必要で、そのためには、成熟する時間が必要なのだ。この議論はどこか堂々めぐりの感が出てくる。

この間のもどかしさを、永井は経済学と政治学との立場の違いとして説明する。経済学は個人が(経済)合理的に選択すると考え、一方、政治学は個人が何を選択するのか必ずしも知っているわけではないと考えている。

現代政治学は、19世紀的な市民社会における合理的人間像が虚像であったことから出発している。それは政治的自由を放棄し、ファシズムの熱狂的陶酔に身を委ねる大衆の出現であった。

「いずれも、古典的な議会制民主主義の前提にあった、合理的人間像――人間は自己の利益を知っており、それに基づいて政治に参加する――の仮定に対する深刻な挑戦を意味したからである。いわば人間実存の構造を踏まえた現代の社会科学や政治学の理論は、大衆化現象のインパクトに対する理論的応答として登場したものだ」。(「柔構造社会と暴力」P4)。

おそらく、現代経済学は数量化の道を進んでいたから暗黙のうちに合理的人間像を前提としていたのであろう。それでも村上は「イエ社会」に関心を示し、日本社会における人間像の問題に迫っていた。今日では、経済学と政治学はいかなる方法で対話しているのだろうか。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本のゲームから遮断されたW-Cupの教訓~天皇杯でのJ1強豪の敗退

2014年08月21日 | スポーツ
J1の上位である浦和、川崎及び昨年の天皇杯覇者の横浜、この3チームが昨日の試合でJ2の群馬、愛媛、北九州にそれぞれ敗れた。いずれも1点差であり、浦和に至っては逆転負けだ。

筆者は浦和―群馬戦を午後7時からのNHK-BS1で、その前半だけ観戦した。W-Cupには出場しなかった選手が大部分のJ1において、その教訓をどの程度、自らのものとし、それに基づいてJ2との一発勝負をどのように戦い抜くか。格下の相手を寄せ付けず、圧倒出来るのか、その所をポイントにして見た。

しかし期待は見事に外れて、J2群馬が後半2点入れて、見事に振り切ったのだ。。一方、浦和の試合運びは工夫に乏しい様に見えた。それは先のW-Cupでの様々な試合の中にある教訓を少しも汲みとっていない試合の様に見えた。

幸にして、誰でも居ながらにして全ての試合を放映で見ることができる。それは試合の全体像からすれば、不十分なものかも知れない。しかし、日本のレベルから見れば、自らのサッカーを考え直すきっかけにするには十分な情報を含んでいるはずだ。

先の記事で、この4年間の世界サッカーの進歩にふれ、「本は自らの眼で欧州のトッププロの凌ぎ合いをつぶさにみて、そこから学ぶ必要があったにもかかわらず、それを組織的に、系統的に研究することを怠った」と指摘した。
 『持続しなかったインテリジェンス140802』

更に、「欧州の状況を調査しなかったのは、日本のカルチュアに潜む考え方であったかも知れない。インテリジェンスを戦術的に用いることは成功したが、一方、長期的な意味での「戦略的」に役立つようするとの考え方はみられなかった」。
 『仮説・インテリジェンスの勝利140801』

何が日本サッカーに不足し、世界サッカーにおいて示されたのか。それは“状況を創り出す力”、即ち、仕掛けるサッカーだ。仕掛けとは、基本的にチームのコンセプトをブレークダウンした具体的なプレーの連鎖である。
 『「状況を創り出す力」を鍛える道140811』

その結果を集中的に分析し、次の試合に臨む様に練習する、チームコンセプトと具体的な試合内容の分析をベースに次のステップに進むのは、監督の手腕に依存する処が大きい。

以上の様な考え方から個人・チームのプレーが展開されることを期待し、J1チームが格下のJ2チームを相手にしての戦いぶりを見たのだが…。ナイターとは云え、真夏の中での試合、悪条件ではあったことは確かだったが、非常に物足りないものを感じた。

浦和のプレーは、ギリシャ戦の日本チームに似ていた。“マイペース”のパス回しは出来るが、ひとり少ないギリシャの少ないチャンスに対する積極的な奮闘が目立っていた試合だった。その時のNHK放映の中で引照に残っていたのは、アナが局面打開の方法について、解説の岡田に質問したとき、その答は「今まで通り、同じことをやれば良い」であった。
 『マイペース・希望的観測・金縛り140620』

浦和もまた、同じことを繰り返していた。それは、群馬のプレーに合わせるかのように進み、ある程度の技術的な差の部分で、転がり込んでくるチャンスを生かそうとするものだった。

確かに効率的なやり方だ。前半、チャンスも浦和に多かった。PKで1点を入れて最小の労力で勝つことができると思ったかもしれない。しかし、トーナメントの試合で勝つことを目指した群馬は、浦和の試合運びに慣れ、転換を図った。

おそらく、ここが勝負を分けたのだ。試合のペースは浦和であったが、仕掛は群馬の方が有効に働くようになった。これが筆者には日本のギリシャ戦を想い起こさせた。結果は逆転劇であった。

群馬の健闘を讃えるのが筋であろうが、川崎、横浜を含めて、J1勢が枕を並べて負けたことは、日本サッカーの何かを象徴するものと云えるだろう。世界のサッカーに常に眼を向ける立場にあることを日本のトップチームに期待しよう。

      




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上泰亮「生涯設計計画」1975年~三木内閣の基本政策案

2014年08月20日 | 歴史
田中内閣は、輿望を担って佐藤政権を引継いだ(72/7)。日中国交回復(72/9)によって政権は出発したが、列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生し、影を差し始めた。
 『成り上り者としての日本1973年140619』

続けて、第四次中等戦争(73/10)による第一次石油危機の勃発により、相次いで発生した便乗値上げ等により、さらにインフレーションが加速、1974年における国内の消費者物価指数が23%上昇、狂乱物価と呼ばれた。

更に、角栄自身の金脈問題によって田中政権は脆くも崩壊した(74/12)。その後を、椎名裁定によって引き継いだ三木武夫は、佐藤栄作までの高度経済成長政策、それに続く、角栄の日本列島改造論に変わる新たなビジョンを提起した。

それは経済学者・村上泰亮を中心に起案した「生涯設計<ライフサイクル>計画」であり、本記事では村上らが執筆した「生涯設計計画」(日経新聞社1975)をもとに、その骨子を紹介する。
次回に、総論を執筆した村上と成熟時間の問題を提起した永井陽之助の「中央公論1975/11月号」誌上での対談を紹介する。

当時、公害だけでなく、人口移動、情報化等の高度経済成長による歪みが、社会に強く意識される一方で、その高度経済成長により、先進工業国家の仲間入りを果たし、米国からは競争相手とみられるようになった。その状況は“ふるさと喪失”と“国際化の波”という言葉で表されていた。
 『イメージギャップの中の日本040614』

一方、世界も転換期にさしかかっていた。
ローマクラブが資源と地球の有限性に着目し、MITのデニス・メドウズらに委託した研究「成長の限界」は1972年に発表され、それは「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしている。

もちろん、ニクソンショック、オイルショックは現実の構造変化の結果であり、恐らく、田中から三木への変化は田中個人の金脈問題を越えて、それらの構造変化に田中は耐えられないとの国民的判断が基盤にあったように推察する。

そこで、「生涯設計計画」の冒頭は「国民はいま転換を求めている」で始まる。それは福祉国家への転換であり、それを生涯の各段階で体系的に保障し、各人が生きがいを追求することを可能にしようとする。

そこで目指す人間像は「強く、安定した、自由な個人」である。
生涯を通じて安定した生活が保障されることにより、各個人が長期的な判断のもとに、社会的連帯を重んじ、正面から課題に立ち向かい、自らの生きがいを追求していうことが期待されている。

その柱として、誰でも、
1)どこでも、いつからでも始められる教育制度
2)努力すれば、家を持てる制度
3)ナショナル・ミニマムを得られる社会保障制度
4)安心して老後を送れる社会

以上を国として満足させるようにし、後は強い個人がそれぞれの目標を追求することになる。但し、この計画に関して、官房副長官を長とした連絡会議が発足したが、目立った成果はなく、三木首相の退陣と共に立ち消えた。

提言である以上、学者を中心とした記載であっても平板であることは免れない。それでも、その時代の雰囲気を反映しながら、個人に立ち戻って、その生涯を貫通する計画を立案したことは、おそらく、日本政府にとって初めてのことと思われる。従って、その意義は大きいと言えるだろう。

…40年後の現在、この計画を読むと、特に奇異なこともなく、当たり前のことを書いてあるように思える。…では、曲がりなりにもこのビジョンは各個人の掌中に収まっているだろうか。そして、社会的連帯は重んじられ、強く、自由な個人として各々が活動しているだろうか。疑問も次々と湧いてくる。

その評価は個々人の問題になるが、当時、二十代であった筆者が生活上において強く意識したのが家を持つことだった。政府の政策に関心を持たない若い世代であっても、自らの家を持つことを意識していた人は多かったと思う。その意味では時代を鋭く捉え、その視野を広げた点で、後世に残る成果物と評価したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経済現象の動向予測、1975年~社会構造変化への対応

2014年08月18日 | 永井陽之助
エコノミスト・室田康弘『経済学は現実を捉えられるか』(中央公論1975/4月号)の先の記事に続いて、経済学批判に対する専門的な知見によるコメントの続きだ。
 『評論「経済学の現実把握」室田康弘1975年140815』

そこで、室田は経済学が採用しているアプローチに問題があり、本質に迫っていないとの考え方を示し、永井に共感を寄せ、古典物理学的アプローチを以下の三点から批判する。
1)社会構造の非定常性(構造は常に変化する)
2)パレート分布の存在(非対称分布の存在)
3)時間の非可逆性(歴史過程の存在)

1)社会構造の非定常性(構造は常に変化する)
「最も予測が必要なときに、有用な予測を出すことが出来ず、最も予測を必要としない平穏なときに予測が花盛りになるのは何故だろうか」と室田は提起する。
“予測←計量モデル←過去モデル”になるから、過去の構造が続いたときにしか、結果は出せない。

これは永井が提起した「真理であって、しかも自明の理ではない」命題を社会科学は一般法則としてほとんど見出し得ない、即ち、「真理は、自明の理だ」と云うことになる。このことの別表現になる。

構造変化が生じたとき、構造変化を前提としないモデルによっては、予測が不可能なのだ。むしろ構造変化のもつ意味を読み解く、例外的な事象を予兆として把握することが重要になる。ここで室田説が永井説と重なることになる。

そこで室田の現代経済学批判(1975年当時)になる。
計量経済学の泰斗、クライン教授の予測の定義「標本観測値から決定される関係式に基づいた、標本に含まれない状態について科学的な叙述を試み」。これを捉えて、「この定義の暗黙の前提として安定した母集団が存在し、そこからランダムにとられた標本が経済データということ」と指摘する。

続けて、「しかし、歴史を通じて社会現象に安定的な構造が存在し得たか」「構造変化という母集団の変化こそが日常的であり、その変化を正しく認識することが予測の役割ではないか」と反問する。
これが若き日の室田流か!と拍手を送りたい処だ。

この問題は、3)時間の非可逆性(歴史過程の存在)と結びつく。筆者の専門の言葉で云えば、不可逆過程の問題となる。人間もまた、生を受けてから死に至るまで、一つの過程を辿る。その集積が社会であれば、歴史過程を組み込むことが社会科学の重要な要素であることは論をまたない。

2)パレート分布の存在(非対称分布の存在)についても、計量経済学はこれを無私してきたことを室田は批判する。

では、どの様な方法を用いるか、との問いに、室田は「段階的接近法」を提案する。
「ある仮設値から出発…訂正判断を加えながら、問題点を発掘しつつ、志向錯誤を繰り返し、或る一定の整合的な姿に収束させ、それを予測する」という方法だ。

この方法では、主役は予測作業に参加した人間の問題発掘能力と論理力になる。また、」この方法での予測はかなり高い精度を有してきたと云う。しかし、予測への主観因子の混入と再現性の問題で批判されてきたと云う。

これに対する室田の指摘は次の様だ。
「再現性」のみが科学の要件ではない、「先見性」を無視して良いのか。局面ごとに変わる法則を見つけることが、超歴史的は法則を見つけるよりも、先見性に富むのではないか。

永井が指摘した成熟過程の変化は、母集団そのものの変化に他ならない。その意味で、室田の云う先見性は、40年後の現在、ますます重要性を帯びている。ここで指摘された点は、現在、どのように議論されているのだろうか。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする