池田信夫氏のブログは触発されることが多い。「政治的秩序の起源」はフランシス・フクヤマ氏の著作の書評である。
政治的秩序と言ったときの「政治」と「秩序」が何を意味しているのか、これについては何も書かれていない。両方が共にわかったようでいて、非常に広がりのある政治的言語だから、そのイメージによっては、理解することも違うはずだ。
この本では、部族社会、都市国家を破壊し、郡県制で“統治”する史上最初の近代国家は中国「秦」であり、西洋で同じような国家ができたのは18世紀後半とする。しかし、ここでの“統治”は「政治」ではなく「支配」である。
政治とは何か、『現代政治学入門』(篠原一・永井陽之助編1965,有斐閣)の「1-1政治とは何か」(永井執筆)から引用する。
「政治とは、古い慣習や伝統の力ではもはや利益の統合が不可能になる程度に、個人やグループの利益分化が進行した社会において、単独者の恣意やイデオロギーや不当な実力行使によらず、不断の利益の調整をおこなわねばならないところでは、どこでも必要となる人間活動であり、「わざ」である。」(P6)。
「おのおの自己の趣味や考え方の違う、我の強い個人が集まって、いかに安定した社会をつくり出せるか、多年にわたって苦心のすえ造詣した作品(秩序)が「政治」である。」(P5)。
従って、伝統的な共同体では基本的に「支配」だけであった。「政治」はあっても、支配サークル内部での宮廷政治あるいは側近政治だけである。また、部族間では、戦争を前提とした駆け引き程度の政治はあっただろうが、制度化された秩序はなく、統治が失敗すれば、内部での実力闘争に容易に転化した。
フクシマと池田氏が「政治」を、あるいは政治と「近代国家」との関連をどのように理解しているのか、本を読んでいないので不明である。しかし、旧くからの「統治」をすべて「政治」に置き換えることは、政治が「社会」をすべて丸呑みしているイメージを流布することになり、それを現代社会に投射して理解しがちになると言うことだ。ここから政治への不信が過信へ、過信が不信へとそれぞれ目まぐるしく転換する今の政治状況を妙に納得させる働きをしてしまう。
池田氏は、「市民社会が国家を生み出す」(へーゲル)と「土台が上部構造を規定する」(マルクス)の図式を最近は疑う議論が多く、逆に、戦争を抑止する装置としての国家によって、初めて経済成長は可能になったという説が最近の成果だと言う。
しかし、狭い学者の世界はいざ知らず、学校から受験勉強の世界を通っただけの人間は“最近の成果”の方が常識に思える。宗教戦争の果て、ドイツ三十年戦争が近代最初の国家間会議でのウエストファリア条約によって終結し、主権国家体制の時代に入った。そこでは、絶対主のもと、国王が行財政、軍事を掌握し、官僚制・常備軍を基盤に重商主義政策が取られた。その中から産業資本が発達し、市民階級が成長、自由な経済活動へ向け、市民革命へ結びついていく…。へーゲル=マルクスの図式などはどこにも出てこない。
この間の戦争を永井は、「人類の歴史と共に古い、血みどろの『仁義なき戦い』から『国家を主役とする戦争』への制度化(秩序化…筆者注)」と表現する(「現代と戦略」P287(文藝春秋社)1985)。
これは統一された権威を欠き、最終的意思決定はそれぞれの主権国家に委ねられた国際社会において、戦争を制御する方法であり、勢力均衡体系と呼ばれる。
更に重要なことは「…こうして18世紀と19世紀には、ヨーロッパ公法上、いわゆる「形式をもった戦争」が…あらわれるようになった。…戦時には、平時とことなったルールが適用され…戦争にともないがちな暴力行使の無性眼な拡大、エスカレーションが制約されるようになった。」「その意味で18世紀と19世紀は多くの点で異例の時代であった。それはおそらく人類が到達した最高次の文明と秩序の世界であったといって過言ではない。」(同上)。
この18―19世紀のヨーロッパにおける国家間の『戦争の制度化』は将に「政治」であった。それはそれぞれの国家の指導者層交流から生まれる以外はあり得ない。「制度」とは行動様式に関する共通理解である。すなわち、『仁義なき戦い』が条約一本で『戦争の制度化』に導かれるわけがない。おそらく、宗教戦争の時代においても平和を探求し、相互理解を深める試みはあったはずだ。それが、外交官の常駐制度へ発展している。
池田氏は、フクヤマが「中国が普通、西洋は特殊で、異常で、「軍事国家」としての主権国家を生み出した。」と指摘していることを印象的だと述べる。しかし、単に「多数―少数」のことを「普通―特殊」「正常―異常」として論じて何か新たな知見を見いだすことができるのだろうか。
これに対して永井は「第一次世界大戦とロシア革命で始まった20世紀は、大量殺戮、内戦、ゲリラ、テロ、人質、原爆、ハイジャック、にいろどられた野蛮と非人間的な時代にふたたび逆行してしまった。」(同上)、と述べる。このヨーロッパの20世紀と18―19世紀との対比は、私たちに重要な教訓を示唆する。
永井は論争を生んだ「平和の代償」において「政教分離」と「政経分離」にその秘密があると述べて次のように言う。「信仰上の敵対感をイデオロギー的な政治的次元に噴出するのを抑止してきたのは、現実の政治家の力であり、「平和」を心から願い、「平和」を信仰上の「正義」の価値よりも上位におく一般民衆の素朴な願望と努力の所産である。」
18-19世紀における西洋社会での勢力均衡体系という制度(秩序)は、戦争を制御し、平和の構造を維持した極めて稀な例ではある。しかし、それを達成したのは「政治」として造詣された作品(秩序)であった。ここから示唆を導くのは、私たちに課せられた課題である。
政治的秩序と言ったときの「政治」と「秩序」が何を意味しているのか、これについては何も書かれていない。両方が共にわかったようでいて、非常に広がりのある政治的言語だから、そのイメージによっては、理解することも違うはずだ。
この本では、部族社会、都市国家を破壊し、郡県制で“統治”する史上最初の近代国家は中国「秦」であり、西洋で同じような国家ができたのは18世紀後半とする。しかし、ここでの“統治”は「政治」ではなく「支配」である。
政治とは何か、『現代政治学入門』(篠原一・永井陽之助編1965,有斐閣)の「1-1政治とは何か」(永井執筆)から引用する。
「政治とは、古い慣習や伝統の力ではもはや利益の統合が不可能になる程度に、個人やグループの利益分化が進行した社会において、単独者の恣意やイデオロギーや不当な実力行使によらず、不断の利益の調整をおこなわねばならないところでは、どこでも必要となる人間活動であり、「わざ」である。」(P6)。
「おのおの自己の趣味や考え方の違う、我の強い個人が集まって、いかに安定した社会をつくり出せるか、多年にわたって苦心のすえ造詣した作品(秩序)が「政治」である。」(P5)。
従って、伝統的な共同体では基本的に「支配」だけであった。「政治」はあっても、支配サークル内部での宮廷政治あるいは側近政治だけである。また、部族間では、戦争を前提とした駆け引き程度の政治はあっただろうが、制度化された秩序はなく、統治が失敗すれば、内部での実力闘争に容易に転化した。
フクシマと池田氏が「政治」を、あるいは政治と「近代国家」との関連をどのように理解しているのか、本を読んでいないので不明である。しかし、旧くからの「統治」をすべて「政治」に置き換えることは、政治が「社会」をすべて丸呑みしているイメージを流布することになり、それを現代社会に投射して理解しがちになると言うことだ。ここから政治への不信が過信へ、過信が不信へとそれぞれ目まぐるしく転換する今の政治状況を妙に納得させる働きをしてしまう。
池田氏は、「市民社会が国家を生み出す」(へーゲル)と「土台が上部構造を規定する」(マルクス)の図式を最近は疑う議論が多く、逆に、戦争を抑止する装置としての国家によって、初めて経済成長は可能になったという説が最近の成果だと言う。
しかし、狭い学者の世界はいざ知らず、学校から受験勉強の世界を通っただけの人間は“最近の成果”の方が常識に思える。宗教戦争の果て、ドイツ三十年戦争が近代最初の国家間会議でのウエストファリア条約によって終結し、主権国家体制の時代に入った。そこでは、絶対主のもと、国王が行財政、軍事を掌握し、官僚制・常備軍を基盤に重商主義政策が取られた。その中から産業資本が発達し、市民階級が成長、自由な経済活動へ向け、市民革命へ結びついていく…。へーゲル=マルクスの図式などはどこにも出てこない。
この間の戦争を永井は、「人類の歴史と共に古い、血みどろの『仁義なき戦い』から『国家を主役とする戦争』への制度化(秩序化…筆者注)」と表現する(「現代と戦略」P287(文藝春秋社)1985)。
これは統一された権威を欠き、最終的意思決定はそれぞれの主権国家に委ねられた国際社会において、戦争を制御する方法であり、勢力均衡体系と呼ばれる。
更に重要なことは「…こうして18世紀と19世紀には、ヨーロッパ公法上、いわゆる「形式をもった戦争」が…あらわれるようになった。…戦時には、平時とことなったルールが適用され…戦争にともないがちな暴力行使の無性眼な拡大、エスカレーションが制約されるようになった。」「その意味で18世紀と19世紀は多くの点で異例の時代であった。それはおそらく人類が到達した最高次の文明と秩序の世界であったといって過言ではない。」(同上)。
この18―19世紀のヨーロッパにおける国家間の『戦争の制度化』は将に「政治」であった。それはそれぞれの国家の指導者層交流から生まれる以外はあり得ない。「制度」とは行動様式に関する共通理解である。すなわち、『仁義なき戦い』が条約一本で『戦争の制度化』に導かれるわけがない。おそらく、宗教戦争の時代においても平和を探求し、相互理解を深める試みはあったはずだ。それが、外交官の常駐制度へ発展している。
池田氏は、フクヤマが「中国が普通、西洋は特殊で、異常で、「軍事国家」としての主権国家を生み出した。」と指摘していることを印象的だと述べる。しかし、単に「多数―少数」のことを「普通―特殊」「正常―異常」として論じて何か新たな知見を見いだすことができるのだろうか。
これに対して永井は「第一次世界大戦とロシア革命で始まった20世紀は、大量殺戮、内戦、ゲリラ、テロ、人質、原爆、ハイジャック、にいろどられた野蛮と非人間的な時代にふたたび逆行してしまった。」(同上)、と述べる。このヨーロッパの20世紀と18―19世紀との対比は、私たちに重要な教訓を示唆する。
永井は論争を生んだ「平和の代償」において「政教分離」と「政経分離」にその秘密があると述べて次のように言う。「信仰上の敵対感をイデオロギー的な政治的次元に噴出するのを抑止してきたのは、現実の政治家の力であり、「平和」を心から願い、「平和」を信仰上の「正義」の価値よりも上位におく一般民衆の素朴な願望と努力の所産である。」
18-19世紀における西洋社会での勢力均衡体系という制度(秩序)は、戦争を制御し、平和の構造を維持した極めて稀な例ではある。しかし、それを達成したのは「政治」として造詣された作品(秩序)であった。ここから示唆を導くのは、私たちに課せられた課題である。