散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「政治」と「支配」の違い~政治、利害の異なる個人が集合・造詣した作品(秩序)

2012年04月28日 | 政治
池田信夫氏のブログは触発されることが多い。「政治的秩序の起源」はフランシス・フクヤマ氏の著作の書評である。

政治的秩序と言ったときの「政治」と「秩序」が何を意味しているのか、これについては何も書かれていない。両方が共にわかったようでいて、非常に広がりのある政治的言語だから、そのイメージによっては、理解することも違うはずだ。
 この本では、部族社会、都市国家を破壊し、郡県制で“統治”する史上最初の近代国家は中国「秦」であり、西洋で同じような国家ができたのは18世紀後半とする。しかし、ここでの“統治”は「政治」ではなく「支配」である。

 政治とは何か、『現代政治学入門』(篠原一・永井陽之助編1965,有斐閣)の「1-1政治とは何か」(永井執筆)から引用する。

「政治とは、古い慣習や伝統の力ではもはや利益の統合が不可能になる程度に、個人やグループの利益分化が進行した社会において、単独者の恣意やイデオロギーや不当な実力行使によらず、不断の利益の調整をおこなわねばならないところでは、どこでも必要となる人間活動であり、「わざ」である。」(P6)。
「おのおの自己の趣味や考え方の違う、我の強い個人が集まって、いかに安定した社会をつくり出せるか、多年にわたって苦心のすえ造詣した作品(秩序)が「政治」である。」(P5)。

 従って、伝統的な共同体では基本的に「支配」だけであった。「政治」はあっても、支配サークル内部での宮廷政治あるいは側近政治だけである。また、部族間では、戦争を前提とした駆け引き程度の政治はあっただろうが、制度化された秩序はなく、統治が失敗すれば、内部での実力闘争に容易に転化した。

 フクシマと池田氏が「政治」を、あるいは政治と「近代国家」との関連をどのように理解しているのか、本を読んでいないので不明である。しかし、旧くからの「統治」をすべて「政治」に置き換えることは、政治が「社会」をすべて丸呑みしているイメージを流布することになり、それを現代社会に投射して理解しがちになると言うことだ。ここから政治への不信が過信へ、過信が不信へとそれぞれ目まぐるしく転換する今の政治状況を妙に納得させる働きをしてしまう。

 池田氏は、「市民社会が国家を生み出す」(へーゲル)と「土台が上部構造を規定する」(マルクス)の図式を最近は疑う議論が多く、逆に、戦争を抑止する装置としての国家によって、初めて経済成長は可能になったという説が最近の成果だと言う。

 しかし、狭い学者の世界はいざ知らず、学校から受験勉強の世界を通っただけの人間は“最近の成果”の方が常識に思える。宗教戦争の果て、ドイツ三十年戦争が近代最初の国家間会議でのウエストファリア条約によって終結し、主権国家体制の時代に入った。そこでは、絶対主のもと、国王が行財政、軍事を掌握し、官僚制・常備軍を基盤に重商主義政策が取られた。その中から産業資本が発達し、市民階級が成長、自由な経済活動へ向け、市民革命へ結びついていく…。へーゲル=マルクスの図式などはどこにも出てこない。

 この間の戦争を永井は、「人類の歴史と共に古い、血みどろの『仁義なき戦い』から『国家を主役とする戦争』への制度化(秩序化…筆者注)」と表現する(「現代と戦略」P287(文藝春秋社)1985)。
 これは統一された権威を欠き、最終的意思決定はそれぞれの主権国家に委ねられた国際社会において、戦争を制御する方法であり、勢力均衡体系と呼ばれる。

 更に重要なことは「…こうして18世紀と19世紀には、ヨーロッパ公法上、いわゆる「形式をもった戦争」が…あらわれるようになった。…戦時には、平時とことなったルールが適用され…戦争にともないがちな暴力行使の無性眼な拡大、エスカレーションが制約されるようになった。」「その意味で18世紀と19世紀は多くの点で異例の時代であった。それはおそらく人類が到達した最高次の文明と秩序の世界であったといって過言ではない。」(同上)。

 この18―19世紀のヨーロッパにおける国家間の『戦争の制度化』は将に「政治」であった。それはそれぞれの国家の指導者層交流から生まれる以外はあり得ない。「制度」とは行動様式に関する共通理解である。すなわち、『仁義なき戦い』が条約一本で『戦争の制度化』に導かれるわけがない。おそらく、宗教戦争の時代においても平和を探求し、相互理解を深める試みはあったはずだ。それが、外交官の常駐制度へ発展している。

 池田氏は、フクヤマが「中国が普通、西洋は特殊で、異常で、「軍事国家」としての主権国家を生み出した。」と指摘していることを印象的だと述べる。しかし、単に「多数―少数」のことを「普通―特殊」「正常―異常」として論じて何か新たな知見を見いだすことができるのだろうか。

 これに対して永井は「第一次世界大戦とロシア革命で始まった20世紀は、大量殺戮、内戦、ゲリラ、テロ、人質、原爆、ハイジャック、にいろどられた野蛮と非人間的な時代にふたたび逆行してしまった。」(同上)、と述べる。このヨーロッパの20世紀と18―19世紀との対比は、私たちに重要な教訓を示唆する。

 永井は論争を生んだ「平和の代償」において「政教分離」と「政経分離」にその秘密があると述べて次のように言う。「信仰上の敵対感をイデオロギー的な政治的次元に噴出するのを抑止してきたのは、現実の政治家の力であり、「平和」を心から願い、「平和」を信仰上の「正義」の価値よりも上位におく一般民衆の素朴な願望と努力の所産である。」

18-19世紀における西洋社会での勢力均衡体系という制度(秩序)は、戦争を制御し、平和の構造を維持した極めて稀な例ではある。しかし、それを達成したのは「政治」として造詣された作品(秩序)であった。ここから示唆を導くのは、私たちに課せられた課題である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊谷・千葉市長の際だった政治姿勢~正確な知識と現実的な対応で信頼を得る

2012年04月13日 | 政治理論
原発由来の放射線問題に対する熊谷・千葉市長のツイッターが話題になったそうだ。筆者も4月8日のツイートに反応し、熊谷市長に返信すると共に、5,6個のリツイートをした。実はリツイートとしたのは始めてではないのだが…。

8日のツイートでなるほどと思ったのは、
「私は公務と私生活に支障の無い範囲で反論をしているのは、商売目的・妄想・愉快犯の方々が広めた事実と異なる話によって善良な人々が日々怯えて生活をせざるをえなくなっている点を憂慮しているためです。こんな事故ですから危険は存在しますが、意味の無い危険を煽る人たちは許せません」。

続いて、
「心配して下さる皆さまありがとうございます。私も反論相手自体は殆ど説得不能だと理解しています。しかし、こうした方々の言説で不安に思う方がそれなりにいらっしゃることは行政として無視できないのです。危うきに近寄らずで放置した結果、善良な方々に影響が出るのは困るので公開して反論しています」。

一般の住民は基本的に情報の受け手である。

日々マスメディアから流される情報によって知らずのうちに、自分のなかに“時代風潮”“偏見”等を蓄積せざるを得ない。更に最近では、ツイッター等での簡易で短い発信機能が電子媒体ネットに普及し、人々の不満の捌け口として攻撃性を誘起する。この「負」の側面は、必然的に罵詈雑言を含めた無責任な言論を横行させるようになる。

従って、事実と異なる話によって善良な人々、すなわち普通の人々が日々怯えて生活をせざるをえなくなることは現代的な問題であり、それが原発問題で突き出したのだ。そこで、“確信者”を説得するためではなく、その言説によって不安を感じる住民が出るのを防ぐことを課題としたのは、住民に身近な自治体の長として、鋭い感覚の持ち主と言える。

これを読んで思い出したのは『「私が何らかの真実を語るのは真実を知らない人々にそれを確認させるためではなく、真実を知っている人々を弁護するためである」という詩人ウィリアム・ブレークのモットーを自分自身の自戒の言葉にしている』との一節である(D・リースマン「個人主義の再検討」(ぺりかん双書P14)。

D・リースマンが語りかける読者層は「自律を求める少数者」であるが、彼らを孤立させるのは必ずしも外部からの圧力ではなく、情報シャワーのなかで無意識のうちに抱くようになる不安感に起因する処が大きい。

一方、熊谷市長が地域の基盤である生活者たちに話かける。これをサイレントマジョリティと呼ぶのは間違っている。本来、基礎自治体の長からは顔の見える存在であり、この人たちが不安感を持つようになれば、その自治体は危機と言えるだろう。

対象は異なるが、それは役割の違いからくるところであり、アプローチに共通する処を注目したい。対象となる人たちに直接的に啓蒙するのではない。これでは上からの目線になるだけである。正確な知識と現実的な対応を示すことにより、不安を持つ人たちの周りの空気を新たにしていく試みである。

なお、ツイッターについては、山内康一衆議院議員「政治家のメディア中毒の罠」が示唆的である。
また、橋下・大阪市長のような追随者の攻撃性を誘起するような内容を含むツイッターよりも格段に優れたアプローチのように思う。

熊谷市長のツイートをリツイートしたのは始めてではないと最初に書いた。
実は昨年の7/28に、下記をリツイートした。日本全国の知事、政令市長が草木もなびくように孫正義氏の提案に乗っかったのには驚いた。この試みに不参加という常識的な行動を取ったのは、ほとんどいなかったはずだ。残念ながら神奈川県・黒岩知事も同じであるというか、自らの選挙公約を盾に取られて載せられたという感じだ。

さて、熊谷氏は言う。
「ソフトバンクという一株式会社が主導するエネルギー協議会とやらに参加していないだけで自然エネルギーに対して消極的だと捉えられるのは予想していましたが不思議なものです。ソフトバンクと違い既に実績のある事業者やシンクタンクが一社も入っていないことも残念です。」
「大事なことは、既に自然エネルギーに取り組んでいる企業はたくさんあり、これから参入する企業も予想される中で、公的機関が一企業が事務局を務める協議会に参加し、お墨付きを与えるのは好ましくないということです。」

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敵の特定と“内戦”への傾斜~政治と組織の論理~橋下徹・状況型リーダーシップの研究~

2012年04月01日 | 政治
『スイミー』としての橋下徹(3)において橋下氏のスタイルが「状況型リーダーシップ」であること、それに内蔵される「創造性」を働かせ、一方「投機性」を抑止すること、更に次の点を指摘した。
1)急速に膨張する集団には政治的オポチュニストも存在するので、その発露を抑える。
2)討論を越えた過剰な言語はネガティブな攻撃性を助長し、1)にフィードバックされると悪循環になる。

市長選において、前市長への支援を求める市交通局の職員リストを非常勤嘱託職員が捏造し、大阪維新の会の杉村幸太郎市議が提供されたその資料をもとに、市交通局を追及した問題が報道されている。その嘱託職員は維新政治塾に応募していたことも明らかにされた。
おそらく、橋下市長による市労組及び職員に対する政治活動の追及の厳しさに過剰反応する支持者が出てきたとの解釈が妥当であろう。従って、橋下氏の市労組・職員に対する厳しさのもとにある政治的考え方を知る必要がある。

状況型リーダーシップは明確な敵づくりなど革命のリーダーシップと似ていると先の記事に書いた。市長就任以降の橋下氏は政治と行政の峻別を掲げ、施政方針演説(2011/12/28)において「市労組を全国の公務員の組合の象徴」「のさばらせておくと国が破綻する」と批判、「大阪都構想と組合の是正、これによって日本再生を果たす」と結んだ。

前市長時代の市職員幹部を閑職へ追いやることから始まり、組合事務所の庁内からの撤去要求も含め、選挙という戦争に勝ち、権力を握ったものが敗者を排除する構図になっている。これは同じように改革を掲げ、パラダイムの転換を説き、自治体改革のトップランナーとして著名な北川正恭元三重県知事のアプローチとは真逆である。

北川氏は「…前知事の後継者との戦いで、県庁幹部の中には明らかに相手方を支持していた職員がいた。…だが私は…論功行賞やいわゆる左遷人事は行わなかった。」(『生活者起点の「行政革命」』P12(ぎょうせい))と述べている。これは信頼関係をベースにした制度型リーダーシップである。状況、時代、人も異なるから比較にはならないが、リーダーシップは一様ではなく別な選択肢もあるのだ。

ともあれ、権力を奪取後に橋下氏が、一般職員の集合体である組合を「のさばらせない」としたことは明確に敵を特定したことになる。では、在来の敵、現実の敵、絶対の敵のいずれか?レーニン、スターリン、毛沢東から始まる現代の革命は、文明の敵、人類の敵、階級の敵、民族の敵という“絶対の敵”概念を育てあげ、“内戦”の論理を正当化した。しかし、ここでは人事介入程度の問題、単なるルール違反であるから、“絶対の敵”はおろか、現実の敵にもならないはずだ。

しかし、それを「国が破綻する」とまで言えば、言葉上は国民の敵、“絶対の敵”になる。「国の破綻」そのものが先ず議論の的になるうえ、破綻に至る要因は様々なものがあろう。それをすべて一元化して組合に押しつけることは、イデオロギーとして橋下氏自身を拘束し、状況に合わせた柔軟な対応を妨げることも危惧される。逆にそれほど、組合に対する不信感が強いとも言えるのだ。

そこで、橋下氏は法で武装し、規律に従わせることによって、組合に対する行動の可測性を得ようとする。そのうえで、アメとムチの使い分けで仕事の評価をすることになるだろう。しかし、これで「機構による支配」であって、相互の信頼関係が回復するはずがない。

このように、状況型リーダーシップは即時に効果が見える機構型に傾斜しようとする誘因が強い。先に述べた制度型への移行は信頼関係の確立が第一に必要であり、お互いの行動を積み重ねて了解に至る過程に、辛抱強さと含めて時間がかかるからである。

「口元チェック」の問題は「機構による支配」が些末な問題を争い、互いに不信の増殖になるだけの愚かさを含んでいることを示しているだけだ。筆者が想像するに、当事者である校長は、現場の責任者が「機構」の命ずるままに忠実に行動すれば、どんなことが起こるのか粛々と試みたのではないか?

提案した橋下氏、議決した市議会、職務命令を出した教育委員長、番組で取り上げたマスコミ、そのなかでしゃべらされているだけの古館氏と女子アナ、社説に取り上げたといわれる朝日新聞、すべて校長の動作によって踊らされた「事件の囚人」に過ぎないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする