散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

子どもと生活するフランス人~子どもを可愛がる日本人

2015年01月19日 | 現代社会
日本社会の少子高齢化を巡って、出生率2以上を確保しているフランスの論客の意見を紹介した。先ず、日本で活躍する女性、ドラ・ドーザン

「男女が恋愛をすれば、一緒に暮らす。あるいは、親や周りの知人・友人に相手を紹介する。これらは事実婚と呼ばれ、若い世代に好まれ、現在では結婚するより多く、また、新生児の半分以上が婚外子になる。
 『フランスの社会を変えた事実婚140717』

「国は社会の動向に対応して、安心して出産・育児ができるよう環境を整備した。
出産奨励手当から子育て手当まで、種々の手当が充実、育児休暇の手当は父母どちらの休暇でも支給される。フランスの税金は高いけれど、教育と家族計画について良い使い方をしていると国民は考えている」。

続いて、歴史人口学のエマニュエル・トッド。云っていることは同じだ。
「特に教育が重要だ。フランスでは政府の教育費補助によって、幼稚園から大学までほとんど無料になっている…中流階級の女性にとって、子供を産むことは人生での劇的な決定ではない…教育費の負担は幼稚園からほんの少しだ」。
 『少子高齢化という「衰退」を楽しむ日本150118』

「そういう状況で子供を産むという決断は、国が手厚い支援をしない限り、重大なものになる…日本人は出生率の問題を意識しているが、それが唯一の問題であることに気づいていない…中流階級が明確に国家の介入を求めることだ。」

ふたり共に、フランス人の自由な選択と、社会の要求を受けて教育を国の事業とした政府の判断を要因として上げている。トッドには、現状を楽しんでいると皮肉られるほど、有権者の要求は少ないし、政府の対応も遅い。

しかし、フランス人の積極的な行動の中には、身につけた家族観を基盤にして確固たる人生観が含まれている様に感じる。
それが表題の“子どもと生活するフランス人”という表現なのだ。

社交を論じて、丸山眞男は「集まって、ご馳走を食べたり、ダンスを踊ったりすることではなく」、「社交的精神とは、相互の会話をできるだけ普遍性があって、豊饒にする心構えを不断に持っていること」、「生活の中から詩を作り出していくための精神の働きかけが必要」と論じた(「肉体文学から肉体政治まで」)。

更に、コクトーの映画「恐るべき親達」の中での家庭内の会話について、「あれだけの精神の燃焼が、(日本の映画や劇)のどこに感じられるのか」と、自らに反問し、「日常生活が既に作品」と自答しているのだ。

対比としての日本では、極端に云うと、「逝きし世の面影」(渡辺京二著)に描かれている様に、「(大人は)子どもを可愛がる」。
勿論、これも身につけた家族観を基盤にして確固たる人生観が含まれているのだ。物心が付いた後は、生活の面倒は密着してみるが、距離を保った人間関係では無く、子どもは自分たちだけの社会生活になる。

結局、子どもが結婚し、孫ができ、祖父母になって、再度の役回りとして孫を可愛がるのだ。そこにあるのは、「親―子」関係ではなく、孫がいて成立する「祖父母―親」関係だ。三代にわたる「抱擁家族」を形成しているかのようだ。そこで、可愛がり、密着する軌跡から外れると、どうしたら良いのか判らなくなるのだ。

「時間の稀少性」と「時間=カネ」の感覚が支配する状況の中で、子どもを育てることが、社会との繋がりにおいて、豊かな人生になるとの感覚を、日本人は持てなくなっているのかも知れない。

比較の話であるが、フランスでは、恋愛から子どもを持ち、共に生活することまで、家族は一つの小社会を構成し、社会のミニチュア版として機能する側面を持っているのだろう。即ち、それぞれ個人として精神的に自立して、社交的精神で家族内において交流する。抱擁家族では無い。また、明確なイメージとそれを支える社会制度がある。

日本では、祖父母が孫の学資を出す様な考え方がまかり通る。また、安倍政権の「金看板」である「女性が輝く社会」とは、生産年齢人口の減少によって、低下している労働力を、女性の労働力で補い、経済成長に繋げる。つまり女性が高い能力を発揮し、日本は再び成長軌道を描くことなのだ。

合わせて、子育ても女性の役割として、だから、保育待機児童をゼロにする政策を進めている。しかし、どこかピントの当て方がおかしいのではないか。

      
コメント
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