散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

経済状況の認識から政策の転換へ~アスノミクスへ向けて(3)

2015年08月29日 | 経済
GDP統計(8/17発表)によれば、2015年4-6月期の実質GDP成長率は、対前期比「-0.4%」(年率-1.6%)となった。
一方、経済財政白書(8/14閣議提出)の副題は「四半世紀ぶりの成果と再生する日本経済」と、第1章のタイトルは「景気動向と好循環の進展」だ。ここで、「企業の収益改善が雇用の増加や賃金上昇につながり、それが消費や投資の増加に結び付く『経済の好循環』が着実に回り始める」とする。

これに対して、野口悠紀雄氏は「マイナス成長に陥っている状態を「四半世紀ぶりの成果」と言えるのか、理解に苦しむ。経済財政白書に内閣の方針に左右されない客観的で冷静な分析が求められる。近年の白書は内閣の方針を正当化する印象を与える」と批判し、データも示しながら経済政策の誤りを指摘する。

   
上記の図に示される様に、これまでも、14/4-6, 7-9は対前期比マイナス成長、また、14年度は13年度に対してマイナス成長だった。15/4-6実質GDPは13/4-6の水準と同じである。後者は、異次元金融緩和発動の直後だ。経済成長に対して効果はなかったのだ。

日本経済は、依然として停滞の罠から脱出できていない。日本経済を長期的に停滞させている原因は、消費税の増税ではない。今回のマイナス成長をもたらした原因は、消費停滞と輸出の落ち込みである。

氏は続けて、実質雇用者報酬が4-6月期に落ち込んだことを示し、消費税増税とは異なる要因によるものとする。更に、この状況を理解するため、に雇用者報酬の名目伸び率と実質伸び率を比較する。ここから、円安による消費者物価の上昇が諸要因と指摘する。一方、家計調査報告からも消費の低迷を裏付ける。実質賃金の減少が消費低迷の原因であり、インフレ目標が誤りであると主張する。

また、異次元金融緩和をその当時、否定的に評価した齋藤誠・一橋大教授は「実質家計最終消費/実質GNI」を示し、以下の三点を“呟く”。
 『黒田バズーカ砲は華麗なる空砲か(4)~「雀を羆にすり替え」齋藤誠130429』

交易条件が改善し、海外所得が拡大した結果、実質GNIが成長した。しかし、その所得が恒常所得として家計消費増加に寄与していない。それは、実質所得を労働所得として配分するチャンネルが細っている可能性を示す。

実質家計消費の13年度上昇は消費税増税前倒し、14年第2四半期の下落は消費税増税の直接効果。一方、最近の低下は円安、実質賃金低下のデメリットを受け、エネルギー価格低下のメリットは享受できない家計部門を象徴する。

また、通貨減価で購買力が失われる環境では、平均的実質賃金の低迷は低所得者層で一層深刻になる。途上国の暴動の要因は食料品高騰が常に引き金なのもそれを示す。

いずれにしても、日本は、この二年間、自らの首をアベノミクスという真綿で絞めているようなものだ。短期的には金融緩和政策を収束させ、円安政策を転換する。原油価格の低下を徹底的に利用する。更に、中長期的意味での私たちの経済学、アスノミクスを導くことが必要だ。

      
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投機の時代の終焉ー野口悠紀雄~アスノミクスへ向けて(2)

2015年08月28日 | 経済
半年前、原油価格がこれまでの100$/バレルから半値の50$/バレルに落ち込んだ時、米国の金融緩和への動きを含めながら、野口悠紀雄・早大顧問は連載の「新しい経済秩序を求めて」において「この10年間続いた“投機の時代”の終わりを象徴する」と述べた。

更に最近の世界同時株安の現象についても野口は、上記の同じ連載の中で、中国経済の減速と株価の下落との一般的な見方を皮相的と批判し、長期的展望の中で「リーマンショック後に続く金融市場での“世界的バブル”の終わり」と捉えるべきであって、「新たな均衡を求める動き」とポジティブに見る。

この半年の主要な動き、米国の金融緩和への志向、原油価格の大幅下落、中国経済の減速、上海市場での株価下落、そして世界同時株安を同一の視野の中に収めた野口の立脚点「投機の時代の終わり」は、筆者に対して深い洞察との印象を与えてくれた。

80年代頃まで、原油は実需だったと指摘しながら、野口は次の様に云う。
今ではヘッジファンド等が商品市場で投資するリスクの高い投機対象だ。2000年頃以降の原油価格の高騰は投資資金の動きを考えなければ説明できない。

この10年程度、世界的な規模で投機が発生した。米国住宅価格バブルから、欧州住宅価格バブル、南欧国債のバブルへと対象は次々に変わる。先進諸国、特に米国の金融緩和のため、投資資金の調達が容易なことに起因していた。

一方、米金融政策の縮小で投機資金の調達が困難になり、投機サイクルが終わった。リスクの高い投機先から資金を回収する「リスク回避」現象が発生する。原油価格の先行き不透明もあって、原油価格が急激に下落した。OPEC総会での減産見送りは、価格低下に歯止めは掛からず、減産すれば収入減少になるからだ。

以上の見方によれば、低い原油価格は、一時的な現象ではなく、低位安定が続く。それは、約10年続いた「投機の時代」が終わり、世界経済が新しい秩序に向かう動きの象徴だ。この時代に即した経済政策が求められる。原油価格の下落は、原材料価格を引き下げ、企業と個人に恩恵をもたらす。消費が増え、企業利益が増える。原油輸入額の減少は4ー5兆円程度と考えられるからだ。

政府は14年末、消費増税による景気低迷をカバーするため、3.5兆円の緊急経済対策を行なった。しかし、原油価格下落による経済効果はこれを上回る。しかも、その効果は今後も継続するから大変なメリットだ。勿論、原油価格低下による経済回復はアベノミクスの効果ではない。日銀は追加の金融緩和によって、原油価格下落の効果を打ち消そうとするからだ。

以下が野口の結論になる。
インフレ目標による物価上昇が誤りであることが明白になり、今後の経済政策の方向付けとして180度の転換が必要だ。新しい秩序の時代では金融緩和は不要だ。原油価格下落の効果を享受するため、円安を止める必要がある。必要なのは、為替相場に影響されない新たな産業がリードする経済の構築だ。

つい最近、野口が予測していたように、バブルが弾けて世界同時株安現象が起きた。勿論、それなりに回復するだろうが、世界にショックを与えたことは紛れもない事実だ。

冒頭に記した様に野口は、「リーマンショック後続いてきた金融市場での世界的なバブルの終了」と捉え、次の様に述べる。
重要な変化は、リスクオフ方向へのポートフォリオの組み換えだ。すでに数年前から、新興国への投資や商品市場では、変化が生じていた。最初に金価格が下落、次に対新興国投資、原油、新興国株価へと影響が広がっていた。それが今、日本を含む先進国株価に及んでいる。

更に、現在起きていることの基本的な背景は、アメリカの金融正常化である。すなわち、量的緩和策は、正統的な金融政策ではない。このため、量的緩和策からの脱却が求められていた。09年以降の金融緩和策の最大の効果は、レバレッジ投資を容易にしたこと。経済活動に必要なマネー供給よりは、投機資金の調達が容易になった。これが投機を煽った。

そこで、米連邦公開市場委員会が金融緩和第3弾の終了を示唆して以降、長期債利回りはすでに上昇している。その影響として、これまで述べた様に、実体経済よりは投機に与える影響のほうが重要だ。リスクオフの影響は、さまざまな面にすでに現れている。金価格、新興国、原油、そして先進国株式へと進む。

だが「新しい均衡」までには、まだ投機の要素が残る。それを克服しないと新しい均衡には到達できないだろう。

      
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自然消滅する「アベノミクス」~「アスノミクス」へ向けて(1)

2015年08月27日 | 経済
二年半前の記事で「私たちの経済学」と書いた。アベノミクスではないエコノミクスが必要との趣旨だ。「円安」で何が起こるのか?国民的負担を招き、大企業・資産者が得をすると!結果は実質GDPが増えない中での格差拡大だ。
 『円安と株高に関する「私たちの経済学」~アベノミクスとは異なる目線から130303』

輸出企業に利益が集中し、その利益は大企業中心の配分に止まる。一方、石油等の輸入品は値上がりし、最終消費者の家計はその打撃を一身に受け、国民全体に広く浅く影響を与える。「株高」は資産を有する人たちに利するだけだ。

筆者の経済に対する見方は今も変わらない。
語呂合わせになるが、“アスノミクス”のアスは「US(私たち)」と「明日(将来を含めて)」を掛けた表現だ。

政府側及びマスメディア側からの経済情報の中で、最近になって顕著に感じられるのはアベノミクスとの表現が消えていることだ。それは、低調なGDP成長率・円安物価値上げ・株価乱高下のパンチによるものなのだろうか。

我が国の実質GDP成長率(2015/8/17発表)は、今年の第2四半期において、対前期比マイナス0.4%(年率マイナス1.6%)となった。それに呼応するかのように、中国経済に関して、上海市場の変調をキッカケに、成長率の鈍化に注目が集まるようになった。更に、中国政府の強引な元切り下げ政策、天津市の大爆発事故に世界中が不気味さを感じたのか、世界の株式市場での株安連鎖が続く。

ところが、アベノミクスの提灯持ち役を務める日経新聞は、つい最近、次の記事を掲載している。
「高収益の日本株、独歩高の可能性も」(前田昌孝編集委員2015/8/12)との表題で株買いを煽る記事を掲載する。株価を巡って楽観、悲観の情報を並記しながら、楽観の内容を比較上位に置き、少しずつ株買いに誘導する典型的なマスメディア記事の手法を用いる。以下だ。

先ずは、輸出企業株の売りを過剰反応と示唆する。
「8/11の東京市場では輸出関連のトヨタ、日産から食品株まで最近の人気銘柄が幅広く下げた。元切り下げの動きに中国経済の深刻さを感じたせいかもしれない。…過剰反応ではないのか。何しろ日本企業の4~6月期決算は絶好調だ。」

続いて企業の体質改善による高収益化を示唆する。
「日本企業が単なる循環を超えて構造的に強くなった可能性もある。企業統治の強化を背景に、資本コストを意識した経営に乗り出している企業も多く、外部環境に振り回されない高収益の確保を目指している。売上高損益分岐点比率は長年の経営努力で着実に低下してきた。これまでの技術開発が実り、製品の国際競争力が高まっているかもしれない。

最後に、株価の高値維持を示唆する。
「日経平均が年初来高値圏で推移しても、不思議ではない。週足チャートを見ると「比較的幅広いセクターで新たな上昇波動が期待できる銘柄が増えつつある」(大和証券・木野内栄治)という。東証1部の平均株価収益率は17.8倍とNY市場の19.5倍を下回る。利益の上方修正が見込めるのならば、買いどころだ。」

この語り口は、マスメディア側が、現政権へ向かって行うリップサービスの典型版がある。

アベノミクスの政策失敗を指摘する論考も、特に政治的思惑に支配されたわけではなく、学的業績を認められた経済学者の間からも多く提出されているのが、現状だ。

しかし、政府の政策は、統計等をしっかりと読み込んだ経済学徒(官庁エコノミストを含めて)によって、それらの資料を駆使し、構成されているとは見えない処に重大な問題がある。

今更、言うまでもないが、高度経済成長を牽引した当時の池田首相は経済学者とも論争した。それを支えたのが下村氏を始めとしたエコノミストであった。そこで、佐藤内閣時代に経済企画庁で活躍した金森久雄氏が経済学者・吉川洋氏の著作「高度経済成長」にコメントを付けられるのだ。
 『経済成長の過程と帰結、社会変動の視点~「高度成長」吉川洋140529』

安倍内閣を支える学者は、リフレ派と呼ばれるグループらしいが、説得力のある議論にぶち当たったことがない。また、批判に正面から論争をしたようにも見えない。これで確かな国策が実施されているとは思えない。

      
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「平和の代償」に顕れた永井政治学のスタイル~“あとがき”を読む

2015年08月22日 | 永井陽之助
この“あとがき”の中に永井陽之助の学問に取り組む姿勢が明確に読み取れる。
これまで、政治意識を中心に研究していた氏が専門外の国際政治学の領域で最初の単行本を出したことを、「奇妙な巡り合わせ」と、先ず述べる。

単行本を出せた理由は、最後に「書き無精の私を叱咤し…論文を書かせた…粕谷一希氏の、異常な熱意と協力…」と、謝辞の中で触れている。この人との繋がり方、旧制二高時代の兄・成男との論理実証学の議論、若き気鋭のドイツ語教師の影響、後年の「孤独な群衆」の著者であるD・リースマンとの交流などと同じだ

付き合いのなかで、“師”と感じた人と深く交流し、影響を受けることを厭わない態度、そこから思考方法、知的態度を磨いていく姿勢は編集者・粕谷氏に対しても変わりはない。永井の研究スタイルと深く関係する様に思われる。

国際政治学に取り組んだ理由は、米国滞在時(1962/4-1964/9)に、キューバ危機に直面した時の衝撃による。
衝撃に直面し、その危機が回避された後、「私は次々と押し寄せるてくる疑問と自問自答しなければならなかった」と述べる。そこで永井がとった行動は、「…狂ったように資料を漁り、できる限り多くの専門家に会って意見を聞いた」ことだ。

「疑問が湧き、それに対して資料を探す」ことは、学者の通常の行動である。しかし、それが専門外の国際政治に関して「本格的に研究しなければならないと痛感」したことには、事件の大きさだけではなく、衝撃の大きさと共に衝撃を素直に受け止める永井の感受性の深さを顕わしている様に感じる。

「次々と押し寄せるてくる疑問と自問自答」と「狂ったように資料を漁る」との表現は、永井の感情の高ぶりを示す表現であろう。学生であろうが、議論を始めると、云いたいことが溢れ出てきて、それを言葉に出すことを押さえられず、独壇場の議論になることは、それほど多くはないが、見受けられた。

しかし、「平和の代償」を書いたバックグランドにある主要な文献の題名を見れば、2005年ノーベル経済学賞受賞のトーマス・シェリング、現実主義的アプローチを示すスタンレー・ホフマン、紛争の原因を理論化したケネス・ウォルツなどの著名な学者を含めて、日本語17冊、翻訳15冊、外国語(未翻訳)35冊が簡潔な説明と共に紹介されている。
 『「文献解題」に国際政治学の古典が並ぶ~「平和の代償」に学ぶ140202』

短期間に国際政治の学問的基礎を学び、キューバ危機及びその後の国際政治の状況から得られた課題に沿って、自らの関心を整理し、国際政治学者としてもスタートしたのだ。自らの内部から生じた問題意識に従って、新たな学問対象に極めて集中的に取り組んだ姿勢に、永井の研究スタイルが顕れている。

更に「資料漁り」と多くの「専門家研究者」との対話を進めるなかで、「私はつくづく、自分の無知を恥じた」ことを吐露する。
即ち、「ミサイル・ギャップという魔術的な言葉と、スプートニク依頼の日本の新聞の論調にいつしか惑わされ、少なくとも米ソ間に核均衡があるかのような錯覚に陥っていた自分のうかつさに腹が立った。」と自省する氏の姿がある。

この様に騙されたと感じたとき、人はこれを騙した他人のせいにし、その他人に腹を立てる。あるいは、惑わされたとは考えず、自分に都合の良い情報を信じて、新たな真実を否定する。否定をしなくても適当に折り合いをつけて誤魔化す。学者・知識人にはこの類いの人は珍しくない。

そうではなく、永井は自分自身に無知を感じ、そしてその自分に腹を立てたのだ。そこに永井の知的な誠実さと、自らの思考の過程を検証する方法論を内在させた研究スタイルが顕れている。それは本ブログの冒頭の記事における以下の言葉、“自己認識の学としての政治学”と響き合っている。

『われわれが深い自己観察の能力と誠実さを失わない人であればあるほど、自己の内面に無意識的に蓄積、滲透している“時代風潮”とか、“イデオロギー”や“偏見”の拘束を見出さざるを得ないであろう。その固定観念からの自己解放の知的努力の軌跡こそが政治学的認識そのものといっていいだろう』。
 『序にかえてー追悼の辞~永井政治学に学ぶ110502』


      
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20世紀以降を揺るがす“革命”の行方~「有識者懇談会」報告は無視

2015年08月19日 | 歴史/戦後日本
「21世紀構想有識者懇談会」報告書(H27/8/6)の中で諸外国に注目されたのは、過ぎ去った20世紀に対する日本の歴史認識であって、21世紀の中で日本が今後に向けて何を行うか、ではなかった。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

報告書では、日本は満州事変から太平洋戦争(1931-1945)の15年戦争の期間だけを侵略期間として無謀な戦争を遂行したと断罪する。しかし、奇妙なことに、それ以前の韓国を足掛かりにした大陸北方へ向けての植民地化政策は不問に付す判断を提示する。
 『大陸帝国主義の先駆け、韓国合併~「有識者懇談会」報告は無視』

それに対して、「報告」はウィルソン流の「民族自決」に高い評価を与える。当初は欧州社会を念頭においての提唱であった。これを日露戦争での日本の勝利を背景に、この勝利がアジア諸国への勇気を与え、それが「民族自決」と共振して、戦後のアジア諸国の独立に導いたと位置づける。

しかし、報告書はロシア革命から中国革命と続く共産主義革命については何も触れていない。更にナチスドイツ、スターリンの背景にあった汎ゲルマン主義、汎スブ主義に代表される民族主義についても無視する。

共産主義革命は周知の通り、集団農場制度としてのコルホーズ(ソ連)、人民公社(中国)での失敗でその意義を失った。更に、ソ連での粛清、強制収容所政策、中国での大躍進政策、文化大革命等で数千万人に及ぶ死者を出したと云われる。
ソ連はベルリンの壁崩壊(1989/11)によって国自体が消滅し、中国は毛沢東の死後(1978)に小平が市場経済の導入により、実質的に共産主義を放棄した。

しかし、特に中国は1954年のネール・周恩来会談で平和五原則を示しAA会議にも積極的に関わることにより、新興のAA諸国の独立、第三勢力として結集に大きな影響を与えたことも紛れの無い事実である。筆者はAA諸国に影響を及ぼした周恩来外交を中国外交の正の側面として評価して、それをAIIBに繋げることで歴史的な道筋を示すことが大切だと考える。

尤も、毛沢東主義に基づく革命の輸出という負の側面もあったことは確かで有り、それが現在の東シナ海、南シナ海での軍事活動に結びついているとの歴史的見方も可能であろう。歴史的の両者を冷静に評価し、現在との関係を導き、今後の方向性を示唆することが対中国外交として必要であろう。

現代は先進社会だけではなく、開発途上国においても情報空間の拡大と民衆の政治的覚醒によって、容易に政治的運動が起きる。内戦の様相を帯びる紛争は、暴力行使の社会化・大衆化の中で、拡大し、多くの民衆を闘いに引きずり込む。それはある面で革命の大義が民衆に訴える側面を持つことにもよる。

従って、私たちは「報告」が無視した“革命”とも、21世紀において付き合っていく必要がある。

    
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大陸帝国主義の先駆け、韓国合併~「有識者懇談会」報告は無視

2015年08月17日 | 歴史/戦後日本
「安倍首相談話」のベースを造った有識者懇談会報告は、第一章「20世紀の世界と日本の歩みと教訓」において、帝国主義による植民地化に関する部分を次の様にまとめている。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

「近代化を遂げた日本が日清戦争に勝利して台湾を植民地化(1895)…」
「しかし、二十世紀初め、植民地化にブレーキがかかる。
1.1905年、日露戦争での日本の勝利
 (1)ロシアの膨張を阻止…
 (2)非西洋の植民地の人々を勇気づけた。
2.第一次大戦で米・ウィルソン大統領が掲げた「民族自決」の理念」

ここでは、日露戦争はロシアの帝国主義的膨張を阻止すると共に、特にアジア諸国の民族自決に勇気を与えたとして二重の功績を与えている。しかし、日本は台湾植民地化に続いて、日露戦争によって韓国を実質的に植民地化する。

年表を紐解いてみると、
 1905 日露戦争ポ―ツマス条約
 1910 日韓併合      1911 辛亥革命
 1912 明治天皇逝去
 1915 対中国21ヵ条要求 1914 第一次世界大戦勃発
 1918 日本のシベリア出兵 1917 ロシア革命成立

日本は韓国を大陸への足掛かりとし、北方へ向けての植民地化政策を着々と続ける。一方、世界は戦争と革命の時代へ入る。このコントラストの中に、日本のその後の政策が大陸帝国主義(ハンナ・アーレント)として示されている。しかし、懇談会報告では、この部分は無視され、1931年満州事変以降、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えたとする。

しかし、日露戦争以降、日韓併合を嚆矢として満州事変、日中戦争までは陸軍主導の領土拡大戦略であり、その連続性に注目しなければ、歴史認識としては不十分のように筆者には見える。

特に、先の年表で
「日韓併合」、「日本の対中国21ヵ条要求」、「日本のシベリア出兵」と続く部分は、戦争と革命の時代に突入した世界史的変化を受け止めることが出来なかった、極めて閉鎖的な時代認識が窺われる。そして、戦後の民主的でいて、なおかつ、閉鎖的な環境のなかで、現在に至るまで、引き続いている。


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「お城のサンマ」になった戦後70年の安倍首相談話~小骨も脂身もない

2015年08月15日 | 歴史/戦後日本
報道によれば、安倍首相は談話の発表に先だち、父親の墓参りを行い、記者団に「平和の道を歩み、豊かな誇りある日本を作ると誓った」と述べた。もちろん、これは言ったとしても“独り言”であり、個人の私的な発言に過ぎない。しかし、その独り言が、談話にまで繋がっているような奇妙な違和感が残った。

その談話は、どこに区切りがあり、何がポイントか、分かり難い構成をとっていた。それでいて、キーワードと云われていた過去の首相の発言、「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「お詫び」は全て入っており、また、「歴代内閣の立場は揺るぎない」との表現も加えられている。

しかし、今回の談話は結局、「お城のサンマ」になってしまった。
落語「目黒の秋刀魚」では、殿様が欲した焼きたての脂の乗った秋刀魚に対して、家来達が身をほぐし、小骨を取り、脂身も除いて、旨くもなく、生身の形も無いものを出した。形だけが整った「お城のサンマ」は、全く不味いものだった。

談話は何ともソツがなくまとまっている。戦勝国の寛大さに感謝もしており、米国には歓迎され、中韓台からは正面から文句がでる文章ではない。
しかし、文章は長く、冗長だ。戦後50年「村山談話」、戦後60年「小泉談話」と比べて、2.5倍以上の長さになるだろう。表現は多少の変化はあっても、基本的に立場を継承している以上は、内容に変化があるわけではない。従って、筆者には訴求する部分もない。

安倍首相は、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」との部分を新たに強調したかったとの説がある。

しかし、そうであるなら、「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」に「村山段及び小泉談話を継承します。」とのコメントを発表し、十年刻みの「談話」を取りやめにする方法も取れたはずだ。

しかし、それができないとすれば、「自ら蒔いた種」の尻ぬぐいをしただけになる。戦後世代は第二次大戦に対して何も責任はない。それを謝罪し続けているならば、戦争世代が自らの後始末の責任を果たしていいないだけなのだ。


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戦後日本の米国依存から国際化への道~「有識者懇談会」の解釈

2015年08月13日 | 歴史/戦後日本
戦後日本は米国に全面的に占領されたのであるから、その政策に選択の余地は無かった。永井陽之助の言葉を借りれば「日本は…選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造の中に編み込まれた」(「平和の代償」P80)のである。
逆に言えば、様々な国際紛争、内戦にコミットする米国が、沖縄基地を代償として、日本を安保条約によって保護する以上、日本と事を構える国はないのだ。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

その歴史的経緯を「有識者懇談会」報告は簡潔に、要領よく記述している。その意味で非常に参考になる。勿論、この種の報告であるから、すべてが自ら選択したかのように「戦後の日本は、戦前の失敗に学び…」との表現を使うことは免れない。学ぶより先に、米国からの強制があったのだ。

そこで先ず、戦後のマッカーサー改革から高度経済成長への道、になるのだが、日本のODA(政府開発援助)が始められたのは1950年代前半のことだ。ここが一つのポイントになる。というのも、戦後70年での積極的役割を一言で言えば、開発途上国への経済援助、それと共に日本企業による現地への直接投資と云えそうだからだ。但し、ここでの米国の後押しが無ければできないことではあるが。

高度経済成長後の1960年代後半以降における米国との経済摩擦及び1970年代における東南アジアとの軋轢、特にジャカルタ及びバンコクでの反日デモは、日本の自国中心の経済政策に対する強い批判と受け止めることになる。上記の直接投資はそれへの対応も含めてのことだ。

報告では冷静に、日本は政治的にリーダーシップを発揮できなかったとする。しかし、その役割を発展途上国への経済援助に見出し、それが間接的に国際秩序の形成に寄与したと述べる。

日本のOADの総額は有償16.6兆円、無償16.3兆円、技術協力4.7億円、合計37.6兆円に登り、89年には世界第一位となる。その後は97年をピークに減少し、順位も5位に落ちる。

他方、国際経済において、アジア太平洋域内の自由貿易の促進に貢献する様になってくる。APEC、ASEANから現在のTPPに至る90年代から2000年代に向けて経済的連携の組織化に日本は寄与してきた。

これに対して、軍事面での国際貢献は90年代が転機となる。報告書の言葉では、「戦後国際秩序の受益者からそのコストを分担する責任ある国へ」、少しずつ行動を進める。これを安倍首相は“積極的平和主義”と表現するが、単なる言葉の綾であることは最初に引用した記事でも触れた。

報告書では、PKO活動等に反して、半歩遅れの行動と辛く評価し、国際社会の要望に完全に応える形での貢献になってはいない、との総括を与える。
結局の処、報告書が主張するのは、この部分であって、米国の要求とは云わず、国際社会の要求とのすり替えを基調としている。それまでの記述は客観的表現を与える様に、具体的事項を冷静に記載に終始しているからだ。

そこで、最後の評価においても、報告書は日本が平和を享受できたのは日米安保による抑止力によるとする。その一方で、防衛費の見直し、明治以来の民主主義の評価を入れ込む。

日米安保の抑止力を持ち上げるのは、日本が米国に依存していることを強調し、相対的な独立のためには防衛費の見直しが必要との論理を構築するためである。また、明治以来の民主主義の評価は、満州事変以降の軍だけに戦争責任を転嫁するものである。明治から現代までは実は連続性を有するのだが、軍部の一部がそれを中断させ、中国、東南アジア、米国への侵略を図ったとの歴史に書き換えようとするものだ。

そのうえで、日本のナショナリズムを、明治維新を始点として民主主義イデオロギーの下に復興させ、軍事的行動を含めた国際貢献を強化し、戦後レジームの転換を図る試みと解釈できる。

      
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戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」への違和感

2015年08月09日 | 歴史/戦後日本
「21世紀構想有識者懇談会」の報告書(H27/8/6)は次の内容になっている。
1)20世紀の世界と日本の歩みと教訓
2)戦後70年間、日本の歩みと評価
3)戦後70年間、各国との和解の歩み
4)21世紀の世界的ビジョンと日本の具体的施策

上記の報告をベースに首相談話が出されるわけだ。
この中で各国から注目されるのは1)と3)の部分であり、安倍首相がポイントにしたいのは2)と4)の部分だろうと筆者は推測する。このコントラスト自身が、日本の第二次大戦における無条件降伏を象徴するかのようである。

2)の正式な表現は「日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか」だ。ここでも安倍首相の意を汲んでか、“平和主義”を唱えている。それにしても、この長たらしい表現は何だろう?官僚主導で持ち込んだものとしか思えない。全体も顔や主張が見えない内容になっている。

先の米国議会において、安倍首相は"proactive contribution to peace based on the principle of international cooperation"(国際協調の原則に基づく、平和への積極的貢献)と述べ、対応の和文は「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義という旗」とになっており、一言で云えば、国際協調主義なのであって、平和主義ではないのだ。
 『日米同盟における「ナルシシズム」の姿~安倍首相の米国議会演説150516』

そもそも、平和主義などという主義は政治的には存在しないはずだ。マックス・ウエーバーに倣えば、「(頬を打たれならば)もう一方の頬をも向けよ!」(職業としての政治)である。しかし、これは倫理であって、政治では無い。

こんなことは普通の人であれば、誰でも知っていることで、であるから、日常的な平和が大切だと感じるのだ。逆に安倍首相の云うことが、無意識のうちに軽く感じられ、結果として中味がないとの印象だけが残る。

最近の世論調査で、支持率が下がっているのも、安保法制を語る首相の言葉が、中味のない概念に終始し、聞き飽きたとの感覚を国民の間に残しているからだとも解釈できる。それは経済においても同じで、今や、アベノミクスという表現も使わなくなっている様に感じる。両方合わせて、飽き飽きしているのだ。

戦後日本は米国の占領体制から、日米安保のもとで、米国の核のカサに入る。自前の軍隊は自衛隊という軽武装集団であった。冷戦体制であっては、日本を軍事攻撃する国は考えられず、また、米と中ソとのフロントラインは韓国、台湾、南ベトナムで構成され、沖縄だけが米国の主要な軍事基地として機能していた。その意味で日本は平和を選択したわけではなく、平和に拘束されていただけだ。

勿論、本格的な再軍備を吉田首相が拒否し、経済発展に特化したことは、一つの選択的な要素ではあったが、米ソの対立と核兵器の発達は、日本の埒外の話なのだ。国際協調も経済発展による貿易の飛躍的増加、それに伴う日米経済摩擦を引き金の一つとしていることも確かだ。必ずしも、日本が積極的に国際協調に向かったとは云えない側面もあるのだ。

サクセスストーリーは悪くないが、幸運・偶然の契機を認識し、別の道も可能性があったことを胆に銘じて理解しておく必要もあるのではないか。

      
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議会は自治体経営へ参加可能か~栗山町議会の先端的事例を巡って

2015年08月04日 | 地方自治
改めて木下斉氏の「地方議会は自治体経営の議論を深める存在、…しかし、有権者側もそのことを深く認識していない…」に戻る。しかし、議会改革といっても、僅かな例外を除いて、肝心の“自治体経営”に正面から取組み、首長と議論することによって、存在感を見せる地方議会は無い。
 従って、「議会改革」の僅かな例外として著名であり、初の議会基本条例を施行した栗山町議会に戻らざるを得ない。
 『“議会改革ゴッコ”が終わる時~住民の見方は変わらない150730』

先ず、栗山町議会は、議会を討論の広場として、自由かっ達な討議をとおして、自治体事務における論点、争点を発見、公開することが議会の第一の使命、と議会基本条例の前文で規定する。

従って、自治体における基本計画を重要視することになる。そこで「第4章 町長と議会の関係」において、地方自治法第96条第2項の議決事項に関して次の5項を定めている。
(1) 栗山町における基本構想及び総合計画
(2) 栗山町都市計画マスタープラン
(3) 栗山町住生活基本計画
(4) 栗山町高齢者保健福祉計画・介護保険事業計画
(5) 栗山町子ども・子育て支援事業計画

この96条第2項の議決事項を具体的に定めることが、自治体の重要な事項を議論し、論点・争点を発見し、公開する上での大切な手段となるのだ。形式的な承認だけの議決であるならば、意味をなさないからだ。因みに、川崎市議会基本条例の規定では、具体的なものは何も書かれていない。

更に、栗山町議会は「総合計画」に関し、行政側案の対案として、地方自治法100条の2による「専門的知見の活用」を積極的に使い、総合計画議会案を作成した。その後、2008年2月に臨時会を開催にて総合計画を修正可決に至る。

総合計画は、その自治体の胆だ。それを議会において議論し、修正案を作成し、可決することは、自治体経営への積極的参加というよりは、経営者そのものとしての活動だ。

これを住民がどのように評価しているのか。基本条例には「全議員出席のもと、町民に対する議会報告会を少なくとも年1回開催」するとの規定がある。当然、議会報告会においても経過も含めて報告があったはずだ。住民が少なくとも、議員と同等の識見を持つならば、議論は沸騰したかもしれない。筆者は結果をフォローしていないので、何とも言えない。住民も自らの政治的資質を向上する機会を活用していることと想像したい。

さて、住民投票条例を制定する自治体が10年前位から多くなってきている。最近、住民側から積極的に住民投票を請求する例が増えている。卑近では、つくば市の「305億円の運動公園計画」が住民投票で8割反対の結果が出ている。つくば市長は計画撤回も含めて白紙に戻すとの見解を表明した。議会は一票差での予算採否を行っていたとのことだが、住民への説明は実施していたのだろうか。

栗山町に戻って、基本条例には次の様な住民投票の規定がある。
「議会は、議会の権限に属する重要な議決事項につき、必要があると認めるときは、当該事項に関する十分な情報公開のもとに、町民による投票を行い、その結果を尊重して議決することができる。この場合において、町民による投票に関する実施の要領は、別に条例で定める。」

別の条例とは、栗山町自治基本条例(H25/4/1施行)である。住民側の手段として、自治法の直接請求権(有権者の1/50)に基づく、個別の住民投票請求になる。但し、その条例を制定するのは議会の権限であるから、住民の署名で直接、住民投票を実施することはない。

住民自治の立場からは、上記の栗山町の住民投票規定は遅れているとも云える。一方、議会から云えば、自らのミッションを最大限に発揮することで、結果として住民自治に貢献できるとの考え方が読み取れる。

確かに、住民投票は住民を二分しての争点になり、それを巡って泥仕合になる可能性を持つ。様々な情報に晒され、忙しい生活の中で、定めるのに苦労する。結果として、棄権、無関心もある。単純に住民投票が良いとはならない。

以上の様に、栗山町議会の活動は、ある程度まで自治体経営に議会が経営者として臨むことが可能であることを示している。但し、稀有の、あるいは唯一の例かもしれない。

      
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