散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

追悼・中山俊宏教授~突然の喪失…

2022年05月13日 | 永井陽之助

中山さんは青山学院大学博士課程卒、米国政治を中心に国際政治にも明るい研究者であった。大学時代に永井陽之助の薫陶を受けた方として筆者は注目していたのだったが…。

ツイッター上での新聞報道、訃報のニュースを見て「えっ」と驚く!何故?誤報では?一瞬、疑いも湧く!しかし、「くも膜下出血」との言葉…誰にでもあり得ること、メディアへの出演も多く、忙しい…パソコン情報だけからもわかる。これも現代的事象か!納得する気持に切り替わる自分に気が付く。

筆者は東工大での教養課程で永井政治学に惹かれ、ゼミ(少人数での講義)のひとりとして授業に参加、更に卒業後、土曜休日に贋学生として二年次の講義(政治理論、現代社会論、国際政治、日米経済摩擦等)を聴講していた。また、永井の青山学院への転籍後(84/10~)も論文等は漏らさず読んだ。しかし、次第にその数は減り…永井の死(08/12)を知ったのは、訃報ではなく、偶然のきっかけからだった。

その後、永井追悼文(中央公論、09/5)の存在を知り、早速、図書館で読むと共にコピーを取る。その執筆者が中山さんであった。氏は永井政治学の何に惹かれたのか?

それは『現実主義』ではなく、『危険な知』に対してであり、また、『啓蒙する知』とは対極にある『挑発する知』が永井政治学の核心にあったと述べる。「人間精神の深奥をふと垣間見た時に見える残忍な表情から立ち上げた政治学…とも述べながら。

一方、筆者が「啓蒙の知」の対極にみるのは、「大衆社会における権力構造」(『政治意識の研究』所収)において、永井がリースマンを引用し、敷衍した「自己認識の知」(=「自己解放の知」)であり、当然、永井政治学の核心もそこにある。

中山と筆者の考え方の違いは、政治学の専門家を目指したものと、生き方としての教養を求めていたものとの、視点の違いに起因すると考えられる。

しかし、中山が永井に、知的に刺激されたのは確かであっても、挑発されたとは思えない。「大学に残ったのは、永井の話を聞くためだけ」と感じる位だからだ。逆に、それ故に、永井政治学の核心に啓蒙の知とは反対の知を見出したのかも知れない。血気盛んな若者は啓蒙に反発して自立を志すからだ。

7年前、トランプが登場した米大統領選挙、日本でも強い関心で沸き、中山さんも米国政治の研究者の立場に立つ。その一つ、清泉女学院大学で開催された夜間講座で話をする。地域住民が「主な対象」だったが、一般にも開放されて筆者もここぞと聴講する。筆者は一つ質問をして、終了後に挨拶、永井さんのことなど少し会話した。丁度、氏の後輩の方から「永井論執筆」の話を聴き、そのインタビューに応えたことを話す。氏はその話を知らなかった様子であった。中山さんと話したのは、これが最初で最後であった。

 


時間の稀少性の増大から「成熟時間」の侵食へ」

2022年02月28日 | 永井陽之助

自由と効率の現代的追求が「時間の稀少性」を招き、ベビーシッター不足を招いていることを前回(1月30日)に指摘した。その際、この事象が永井陽之助による指摘であることを書かずにいた。直ぐに本稿を書く予定であったが、自分史「或るベビーブーム世代の生活世界」の配布とその後の対応に忙しく、時間を消費したことによる…。

『経済秩序における成熟時間』(「時間の政治学」所収、中央公論社(1979年))は74年12月に発表され、三木内閣から大平内閣へと繋がる「成長から成熟へ」の政策転換期に注目されることになった。一方、永井はアイデンティティの危機の時代に生きるモラトリアム人間の行方に注目していたのかも知れない。エリクソンは青年期に関しては『青年ルッター』、老年期は『ガンジーの真理』を描き精神的危機を乗り超える姿を描く。しかし、子育てに関しては集中的な考察が示されていなかった。

当時の状況では、女性は仕事をしていても、結婚後は退職して家庭で出産・育児に専念する方が多かったと思う。一方、育児は幼児に寄り添って世話をする。この過程は成熟時間であるから(子どもだけでなく、両親も)、手間がかかり、人手・時間の稀少性に関しては効果のある方法に乏しい。結局、金によって他人の手を入手することになる。

現状、保育待機児童問題がベビーシッター問題へと発展、ここでも収入格差の問題が浮上しているようだ。取り敢えずは育児に長けたベテランの方を活用する方向へと舵を切る必要がありそうだ。

 

 


レーニン主義の理解~ロシア革命後100年”を考える前に(3)

2017年06月10日 | 永井陽之助
カンボジアのクメールルージュによる自国内大量虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻、中越戦争の一連の事件が起きたとき、佐藤昇との対談「『死か再生か、岐路に立つ社会主義』(「朝日ジャーナル」所収、1979/3/30号)」のなかで、永井陽之助は「…社会主義と共産主義(マルクス・レーニン主義)を区別すべき…マルクスとレーニンとは非常に違うんだ…」と発言している。
 『永井陽之助のマルクス観~レーニンとの違いを強調 2014/12/18』

そこでは、社会主義=マルクス、共産主義=レーニンとして、マルクス・レーニン主義を解体し、死に瀕しているのは共産主義であって、社会主義ではない」とも指摘した。

アジアの共産主義国の連鎖反応から、後の東欧・ソ連の連鎖反応による共産党政権の崩壊を予測したかのようである。それは更に『戦争と革命』(「現代と戦略」所収1985文藝春秋社)において詳しく分析されており、以下に引用する。

レーニンはクラウゼビッツ「戦争論」を徹底的に研究し、抜粋と傍注に下線、感嘆符等を付けて「クラウゼビッツ・ノート」を残した。レイモン・アロンは「戦争論」にレーニンの「ノート」を参考にして哲学的考察を加え、「戦争を考える」(政治広報センター1978、レーニンについてはP74-103参照)を著わした。

レーニン主義とは、国民の同士の対立である近代戦争に基礎を置く戦争の技術と理論を、階級間の闘争の革命理論に転換し、暴力行為の内政化を徹底的に押し進めたものである。

敵と味方を区別することが戦略論の第一歩であり、国民を階級に入替え、戦争の技術を革命の技術に翻訳し、フルタイムの職業軍人ならぬ職業革命家を擁する参謀本部ならぬ前衛政党組織を創り出した。即ち、自然発生的な大衆運動としての革命に替って、事前に計画し、準備、動員、組織する作為的な共同謀議の集団を動かすことになった。

1968年頃の大学紛争だけでなく、爆弾テロ、浅間山荘事件から最近になって何十年ぶりに犯人逮捕へ結びついた街頭闘争などの源はレーニン主義にある。スターリンもまた、レーニンの考え方を極限まで押し詰めたものと見なすことができる。

以下は筆者の感想である。
ロシア革命では1905年革命、1917年2月革命、10月革命へと進む中で、以下の順に、改革派からレーニン派(強圧派)へ主役が入れ替わった。
(1) 貴族を含む自由主義者 (2)メンシュビキ (3)ボルシェビキ
ソ連崩壊後のロシアもまた、似た様に改革派から強圧派へ主役が入れ替わったように思える。
(1) ゴルバショフ (2)エリツイン (3)プーチン
これは歴史の必然性なのか、いたずらなのか?

なお、敵概念については以下に説明がある。この議論での焦点は“絶対の敵”になる。
『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~「パルチザンの理論」2011/06/18』

在来の敵
王朝時代の戦争における敵。戦争は、外交目的のゲーム、兵士は傭兵からなる。民族感情、愛国心を欠く兵士にとって、敵は憎悪の対象ではない。一定のルールのもとで行われる決闘に近い。従って、極めて人道的である。

現実の敵
フランス革命によって触発されたナショナリズムを基盤に、人民戦争の形態で芽生え始め、フランス軍に対するスペインのゲリラ戦で明確な形をとった。現実の敵イメージは、激しい憎悪を、戦闘は過酷さを伴った。

絶対の敵
侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージである。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となる。

      



生かされなかった旅順の戦訓~ロシア革命後100年”を考える前に(2)

2017年06月09日 | 永井陽之助
一昨日に確認した、二十世紀「戦争と革命」の時代はロシア1905年革命と日露戦争に始まった、との認識からは表題の事項も的外れではない。ただ、その認識をやや唐突に書いたので先ずは補足しておく。
 http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/e6958206d041fbc2337e9f7cd1f0ee0f
林達夫は、「ヨーロッパ全体の植民政策が受けている報い」との世界史的見方を日露戦争への視点とし、その戦争が進歩的ブルジョアと旧体制国家との戦いとしたレーニン説に注目する。ブルジョアをも?み込んだレーニン革命は1905年革命を契機とするのであれば、WWⅡ・中国革命に至る過程の出発点は明らかである。

そこで疑問がでるのは二十世紀という区切りだ。永井陽之助は冷戦研究プロジェクト(成果は叢書・国際環境全10巻(中央公論社))のなかで親交を深めた英国・ワット教授の世界大戦の著作から次の指摘に目から鱗が落ちる思いをしたと述べる(『攻撃と防御』「現代と戦略」所収、文芸春秋社1985)。

1870年代以降、めざましいテクノロジーの発達度は、それに追いつく軍部の能力をはるかに超えて加速された。WWⅠの西部戦線で多くの死傷者を出したその理由は、重砲の弾幕、鉄条網、機関銃の新たな出現であって、それらは日露戦争で最初に登場したものだ。即ち、日露戦争こそは最初の近代戦争だった。
WWⅠが世界で最初の近代戦争との思い込みを覆されたことが「目から鱗」なのだ。

続けて永井は他にも航空機、タンク、毒ガスの登場を挙げるが、陸戦の兵学上、攻撃と防御の戦略理論に決定的な影響を与えたのは、特に機関銃の登場であったと述べる。そして何よりも問題なのは「重砲の弾幕、鉄条網、機関銃の出現がこれまでの戦略的通念を覆すものであることをほとんどの参謀本部は気づかなかった」ことだと述べる。

更にそれは単に気が付かなかっただけではなく、西欧の没落の根源をつくったとする。引用はジョージ・スタイナーからだ。
「第一次世界大戦の死傷者は単にその数が多かっただけではなく、彼らの死が選り抜かれた人たちの惨死だったことだ。…激戦地でイギリスの精神的、知的才能の一世代は皆殺しにされたのであり、選良中の選良であった多くの人材がヨーロッパの未来から抹殺されてしまった」(「青髭の城にて」みすず書房1972)。

なお、引用した永井の文献の副題は「乃木将軍は愚将か」である。ご存知の方も多いと思うが、“愚将説”は司馬遼太郎が著作で述べた処であり、これを永井は「後知恵」としてすでに「冷戦の起源」でも反論している。
この文献では、更に広い見地に立って、戦略論を展開すると共に乃木将軍に関する文献も含めてその横顔も心温まる表現でデッサンしている。


     


「永井政治学」における地方自治~“雑談・論文・講義”の断片

2017年04月04日 | 永井陽之助
個人史をまとめる作業で悪戦苦闘して投稿の機会を失っていた。早いもので2ヶ月たった。以前に書いたまとめから大筋は変わらないが、内容は増えるに従って変わってもきた。記録に基づく記憶を書いてみると、その記憶が二次的記録となり、次の記憶を呼び覚ますのだ。
 『回想・自分史・個人史~社会的拘束の中での個人の必然・偶然・選択161218』

表題の“地方自治”もその一つになる。
東工大4年生のゼミ的講義「政治学」では、セミナーハウスに行ったり、料理屋で懇親会をしたり、そんな中で永井さんと雑談する機会もあった。おそらく懇親会であったと思う。確か慶大・神谷不二研究室の学生さんとその卒業生の新聞記者の方もおられた時だったと思う。大学生の政治的無関心が話題になった。

永井さんが大学紛争で学生の政治的関心が盛り上がったというが、卒業・就職を目前にすれば大学改革などはどうでもよくなって、結局自分のことを中心に考えてしまう、と皮肉っぽく話すと、周りで「国際問題とかにも関心はありますよ」との反応が起こった。そのときの永井さんは前に北大で調査したときの話を持ち出した。自分の問題に関心があるのは誰でもそうだが、その次は国際問題に関心が集まって、日本の政治、特に地方政治については関心が薄かった、そんなことを喋ったと思う。

その話を最初に思い出したのは、永井さんの著作「政治意識の研究」(岩波書店1971)を読み進めて、『日本人の政党イメージ』に行き着いたときだ。最後の結論部分を導く処で以下の記述があった(P293)。

「…全国の大学の学生生活調査などでくわしく調べてみると、気がつく、きわだった事実がある。日本の学生をはじめ青年層の政治関心の一つの特徴として、異常なほど国際問題に対する関心度の高さをあげることができる。これは諸外国の調査と比較すると、いちじるしい対照をなしている。」
「…私生活の防衛を発条として、政治化していく戦後日本の政治参加様式は、この調査でもはっきり示されている。だが、身近な利害を、公共問題へ転化していく段階で、中間項が抜けている。いきなり天下国家へと短絡されてしまう。…少しでも、環境を住みよく、快適なものにするために、身近なところから、一歩一歩築き上げていくという考え方に、いちばん遠いのが日本の知識人であり、その卵として大学生ということになろうか。…」

その調査当時と飛鳥田一雄横浜市長、美濃部都知事の誕生を契機に盛り上がった革新自治体時代とは雰囲気は異なる。しかし、政治意識、政治行動様式の実態としてその基底においてそれほど変わりはなかったと筆者は感じていた。

筆者が卒業した後の講義で、永井さんは「二重市場社会」を提唱していた。供給弾力性の高い財は自由と効率による市場競争原理で賄うのに対し、供給弾力性の低い財、公共サービス、社会サービスは権力単位を分散させ、地方自治体に任せ、地域コミュニティの創造を重視する考え方である。それには住民の参加意識を高め、とそれによる統合を図ることがポイントとしている。

大都市社会の効率性を上げることは必要で、かつ、避けられないことであるが、機械によって代替できない仕事は人間的な対応を進めることが必要で、それは豊かなサービスによる成熟時間の確保によってのみなされる。こんな論調であった。

筆者も地域活動の重要性を、現代社会理論の中にも根づかせる必要があると、再認識した貴重な講義であったことを覚えている。

      

トランプ現象と永井政治学~“情報”と政治の世界

2016年11月27日 | 永井陽之助
永井は先進国における現代政治社会における権力と大衆心理との関係を以下の様に描写する(『政治を動かすもの』初出(1955)、「政治意識の研究」所収)。

「資本主義の発達は、各生活領域に錯綜とした利害の分化をうながし、その違いの調整を国家権力に待つ問題はますます増加の一途をたどっている。
そのうえ、テクノロジーの発達に伴って、様々の象徴を操作し、大衆を一挙に把握しうる装置、技術が異常に発達した結果、政治権力は著しくその浸透力と機動性を増大し、傍若無人にどこへでも侵入しうるようになった。」

「政治権力のインパクトが増大したということは、他面においてその圧力に触発された、諸々の反応が、巨大な政治的エネルギーとして逆に政治の世界へ動員されることを意味する。
あたかも極微の世界における原子構造の破壊からおそるべき物質エネルギーが放出されたように、人間心理の外殻を破って浸透する権力は、逆にその深層に潜む潜在的エネルギーを政治の世界へと解放するに至った。」

以上の様に、権力と心理は相互に媒介し、また相互に、その安定を依存するに至った。ここで、象徴の操作と述べているが、なかでも、“情報の操作”が大きなウエイトを占めること間違いない。

この論文が書かれた当時(1955年)の対象時期は、第一次大戦前後をイメージしているのであろうから、テクノロジーの発達が「ラジオ」を生み出し、それが大衆化していた。第二次大戦において日本の降伏を国民へ知らせた玉音放送もまた、ラジオの産物で実現したのだ。これがいみじくも天皇の政治的権威を示すものとなり、おそらく、戦後憲法における象徴天皇の発想と実現を支える事実であったと推測する。

ラジオからテレビへ、更にパソコンによるインターネットへ、そして携帯電話、タブレットのSNS時代へと、まさに通信技術は異常に発達してきた。

永井が1970年に書いた論文『解体するアメリカ』(「柔構造社会と暴力」所収)は、ニクソン政権が誕生した米大統領選挙を題材に、技術革新による偶発革命がもたらした米国内部の巨大な社会変動を概観している。そこでは、社会生態系の均衡破壊として、人口・資本・情報のシステムに生じた攪乱を指摘している。

そのなかで、情報革命を“情報空間の拡大”と呼んだ。テレビによる暴力行為の映像は、“暴力の情報化”をもたらし、また、少数集団の政治活動は“露出の政治”としてとして数以上の政治的効果を挙げることが示され、それが逆に、サイレントマジョリティを励起するニクソン戦略にもなった。その一方で、ベトナム戦争反対の声が高まり、新たな孤立主義が台頭していることも指摘されている。

更に、そのような社会状況の中で、大統領選挙で第三党として立候補したウォーレスに関しても、その支持された理由、支持層の内容等が報告されている。
その内容を読むと、トランプはウォーレスを50年後に蘇らせたように思えるのだ。すなわち、当時は少数であったが、ニクソンを駆逐するかもしれない基盤ができていたのだ。

「米国は基本的に保守的な国である。…ゴールドウォーター支持の基盤になった自由青年同盟の学生の数は、左翼団体であるSDSの約4倍の数である。」とは、その論文の「おわりに」で指摘されている。リースマン『右傾化するアメリカ』も引用されていり、米国の政治的保守化は、その頃から先端的な知識人によって意識され出していると思われる。

ニクソン以降、レーガンからティーパーティー運動を経て、今回のトランプへと米国の保守体制は続く様相を示している。
おそらく、90年代で永井は情報機器の「自己装備率の飛躍的向上」(今、手元に文献が見当たらないので正確さを欠くが)と言ったはずだ。パソコン/インターネットの普及と、すさまじい使われ方を指しているのだ。その帰結に対する予測は永井流に悲観的であったと思われるが。

つい昨日、ツイッターを使いこなしているトランプが、ある企業のメキシコでの工場設置に反対を表明したとのニュースに接した。安部首相の春闘介入どころの騒ぎではない。おそらく、そのつぶやきは、大量のリツイートを生み、様々なメディアによる伝搬を通して政治問題化することは確実のように思える。

こうなると、現代における政治家の資質とは何かを根本的に考え直す時期に来ていると感じざるを得ない。かつて、橋下大阪市長がツイッターを使いまくっていた時期があったが、発想、知恵共にトランプは橋本とは比較にならないシャープさを備えているように思える。

      

「平和の代償」永井陽之助~戦略的現実主義者の立場

2016年10月16日 | 永井陽之助
この当時、現実主義対理想主義との言葉が論壇で飛び交っていた。しかし、現実主義といっても、米ソ対立が国際政治での最大の枠組であり、現状維持は総じて“現実主義”であって、その中での区別は付けにくい状況であった。
しかし、本を構成する三篇の論文の中身を見ると、以下の様に“政治戦略的項目”が並んでいる。

第一論文 『米国の戦争観と毛沢東の挑戦』(1965/6中央公論)
序 三つの国際秩序観―状況・制度・機構
1 米国の戦争観と朝鮮戦争
2 マクナマラ戦略とキューバ危機
3 毛沢東戦略の挑戦
結 日本の防衛

第二論文 『日本外交における拘束と選択』(1966/3中央公論)
序 歴史的動向の下での選択のマージン
1 可能性を拘束するもの
2 新しい冷戦と冷たい同盟
3 日本外交の目標と戦略
4 自主中立と核武装
結 “平和”と“正義”

第三論文 『国家目標としての安全と独立』(1966/7中央公論)
序 戦後正教の固定観念
1 核時代における安全と独立
2 戦後平和思想における顕教と密教
3 「恐怖の均衡」から「慎慮の均衡」へ

第一論文の主題は、以下の戦略問題である。
「一1」は、第二次大戦での米国の基底にある機構型「戦争観」、
「一2」は、それを制度型に変える「マクナマラ戦略」、
「一3」は、状況型へ引き込む「毛沢東戦略」、である。

また、米ソ対立だけでなく、中ソ対立も含む中国の核武装のなかで、日本の核武装問題を含めて「二4」、「三1」、「三3」は核問題を取り扱っている。結論は慎慮の均衡」へ移行することになる。

現状分析を「二1」、「二2」で行い、それに基づいて、日本の政治状況における外交と内政との基本的絡み合いを整理し、「二3」、「三2」で中期戦略を提案する。それは、「あとがき」で簡潔に述べられている。

「現代日本の直面している重要ないくつかの争点について、相互に関連づけた、統一的なひとつの政策意見を提出している。
…本書に一貫している議論の基調は、この世で美しいもの、価値あるものも、何らかの代償なしには何も得られないという素朴な日常的英知の再確認に他ならない。…『平和の代償』としたゆえんである。」

更に付け加えれば、以下の三論文のそれぞれは日本の戦後思想の中で関連づけられており、特に“米国の戦争観”と戦後正教としての平和思想が密接な関係を持ち、それを操りながら、戦後復興から経済成長へと導いた“吉田ドクトリン”の原型を抽出している。
「一1 米国の戦争観と朝鮮戦争」、
「二1 可能性を拘束するもの」
「三序 戦後正教の固定観念」
「三2 戦後平和思想における顕教と密教」

その後、理想主義の衰退・消滅が進む中で、現実主義も隠されていたそれぞれの立場をあらわにする。それは「現代と戦略」の中で議論されている。

      

永井陽之助 「ポリティカル・エシックス」まで読んだ!~著作目録から

2016年10月09日 | 永井陽之助
ようやく、最後の論文まで読むことが出来た。これも青学の永井研究室で博士課程を修めた大徳貴明氏の「永井陽之助教授の著作目録」によるものだ。氏に感謝すると共に、更に、永井に関する何らかの論考が出ることを期待したい。

筆者は、もちろん、専門家ではないが、専門家が論じていない永井の側面について、落穂ひろいをしてみたいと考え、その構想を記事にした。その骨格を変える必要はないが、全著作の主だったものは読めた段階なので、立て直しする必要を感じる。特に、冷戦終焉後の世界の在り方について、ハンティントンの「文明の衝突」を批判しながら「文明対文化」を展開しているところだ。
 『企画『永井政治学の世界』~“自己認識の学”として141017』

この中には、永井の70年代前半の著作に表現される日本文化の問題を発展させて論じている部分がある。極めて息の長い、永井らしい発想だ。例えば、「イメージギャップの中の日本」(諸君)、『日米コミュニケーションギャップ』(サイマル出版)の中に収められた論考だ。

表題の最後の論考は1988年のものだ。90年代になると、論考よりは対談の記録が多く残されている。『21世紀フォーラム』(政策科学研究所)、『アジア時報』(アジア調査会)は99年まで参加しており、2000年を契機に引退されたとも推察されるが、その辺りのことは新聞、雑誌の追悼で触れられたものはなさそうだ。

亡くなられたのは「2008年12月30日」とのことだが、その間、私的な活動と読書三昧だったのだろうか。何か書いたものを残しているも考えられるが、もし、公になるのであれば、是非、読みたいものだ。

 『序にかえてー追悼の辞~永井政治学に学ぶ110502』
上記の企画では以下のように考えている。

「序.永井政治学の位置~「主体的浮動層」へ向けて」
「1.永井陽之助の思考方法~「迂回」しながら「飛躍」へ」
「2.現代社会への政治学的接近~作品としての「秩序」
「3.大衆民主主義と統治~「政治意識」からの出発」
「4.偶発革命から「柔構造社会」へ~「成熟時間」の発見」
「5.政治的人間論~「政治的成熟」への道」

考え直す処は、どこかと云えば、「4」「5」だ。特に、米国論は先進社会のトップランナーとしての面と、米国特有の面とが絡み合って議論されており、そこを組み込む必要がある。また、国際政治の国内状況との絡みは、冷戦後の世界の変容を議論する中で、複雑に相互作用を与えている。

素人がまとめるわけにもいかないが、息長く試みていきたい。最近の状況では、『平和の代償』での対ソ連アプローチがプーチン・ロシアとの接近で改めて見直す意味を含んでいると感じる。

      

日ロ平和条約を結べるか~「永井構想・北方枢軸」から50年

2016年09月07日 | 永井陽之助
「日本は第一に、基本的に現状維持国家であり…。日本は西側の諸国と友好関係を結び、次第に、経済的にも、政治的にも現状維持国に転化してきたソ連、東欧諸国との友好関係が開かれていく必然性を持っている。
それは客観的な利益領域の共通性を持つからであって、対ソ外交は、モスクワ=東京=ワシントンを繋ぐ北の枢軸に発展する…」(「平和の代償」P109)

これは今から50年前(1966/3中央公論)に発表された「日本外交における拘束と選択」での基本的な選択の部分として論じられた政策提案である。この論文自体は現実主義対理想主義の論争を巻き起こした一つとして、有名である。一方、この構想が当時、どの程度議論に上ったのか、定かではないが、それほど注目されなかったように感じる。

それは、その論文の直ぐあとにも書かれているように、「…以上の北方枢軸の構想は一つの難点を持っている…」からだ。南北問題において、日本が北に帰属し、東南アジア地域、A・A(アジア・アフリカ)諸国に背を向ける印象を与えることになるためだ。

確かに、歴史的にみれば、その後の日本は東南アジアへの進出を図った。また、アジアNEIs諸国の第一世代である「四匹の虎(韓国、台湾、香港、シンガポール)」は、この頃から高度成長が始まっており、タイ、インドネシア、マレーシアなどが続く(「戦後世界経済史」猪木武徳(中公新書2009))。

従って、政治的にも難しい北方枢軸は“現実的”ではなかったのだと思う。しかし、この構想は迂回的アプローチを重視するという意味で、他のいわゆる現実主義者とは異なり、永井独特の発想を示したものと感じる。

海を挟んで米中ソに囲まれた日本が取るべき、長期的課題をイメージする中で生まれた着想になるからだ。従って、世界政治がめまぐるしく変転し、ソ連がロシアになり、中国が市場経済を導入して真の大躍進を遂げた50年後の今日においても、その意味は基本的に変わらないように見える。

また、その構想は、「日本外交中期目標を、中国との国交回復と、正常な外交関係の確立におく。…中国との国交回復のため、対ソ接近は、迂回的な外交アプローチなのである。」(「平和の代償」P106)とのことだ。

最近、ウラジオストクで開かれた「東方経済フォーラム」において、安部首相が「重要な隣国の日ロが平和条約を締結していないのは異常な事態だ」と云い、「極東でのエネルギー開発、産業振興など8項目の協力プラン」を提案し、その地を「アジア太平洋に向けた輸出の拠点として、毎年、首脳会談を開催しよう」と呼びかけたことは、日本の首脳が北方領土問題だけでなく、世界政治の中の日ロの位置づけを真剣に考え始めたとの印象をプーチン大統領に与えたようだ。

一方、プーチン大統領は端的に、「互いに歩み寄ろう」と述べた。
平和条約の締結後、色丹島と歯舞群島を引き渡すとした1956年「日ソ共同宣言」を重視することの確認である。しかし、引き渡しの条件や島の主権について検討する可能性を示唆し、無条件引渡しはないことを宣言したことが目新しい。

日ソ共同宣言は、1956/10/9に日本とソ連がモスクワで署名し、12/12に発効した外交文書(条約)である。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。その後、この日ソ共同宣言は、1993年のボリス・エリツィン、2000年のプーチン両大統領が来日時に有効が確認され、2001年に両国が発表した「イルクーツク声明」でも法的有効性が文書で確認された。

以上をまとめると、主として日本が経済協力することは、安倍首相が思い切って風呂敷を広げた処だ。領土問題に関しては、日ソ共同宣言をベースにすることは何度目かの再確認に過ぎない。そこから平和条約に進む道は、プーチン大統領によって、無条件でないことが明確にされた。経済のボールを投げた安部首相に、領土のボールが投げ返されたことになる。

風呂敷の中身を頂く一方、宿題を包んで返されたという処か。安部首相が本気であれば重い宿題とは考えられないが…。尖閣諸島の領有権を棚上げにしたまま日中友好平和条約を締結したことを如何なる意識で「歴史の教訓」とするのか、日本が試されるときでもある。

     

トランプ現象と米国社会の全体像~1971年、永井の認識方法

2016年04月09日 | 永井陽之助
「アメリカ社会の冷徹な観察者の調査報告や論文を広く集め、自分なりの方法論で、その集められた部分像の重ね合せから、モンタージュ写真を作る手法で全体像を描いてみようと思いたった。」
(『解体するアメリカ~危機の生態学』(中央公論1971/9月号)

現在、米国大統領選挙の候補者として、ドナルド・トランプ氏が過激な発言を繰り返しながら、共和党内を席巻している。これを「トランプ現象」と呼んで有識者達が解説・意見を公表している。

しかし、永井陽之助が試みたように、米国の政治社会の状況に関して「1)冷徹な観察による情報を集め、2)部分像を重ね合せ、3)モンタージュ写真を作る手法で、4)全体像を描く試みは日本の中でなされていない様だ。

上記論文の中では、ニューズウィークの特集から、ケネディ政権を支えた知識人として著名なA・シュレジンガー、ラディカルリベラルと自らを規定するR・ホッフシュタッターを始めとして保守派、左翼、リベラルの論調をそれぞれ引用し、米国での多様な見方(様々な部分像)を紹介する。

そこから、60年代、米国の社会変動の全体像を以下の様に述べる。
 1)人口移動―黒人の余剰労働力の南部から北部への移動
 2)世代交代―戦後ベビーブーム世代の登場
 3)資本構成―経済繁栄による期待上昇と巨額の公共投資
 4)情報革命―情報空間の著しい拡大
 『60年代米国の社会構造変化と政治的時間の短縮~成長から“成熟”への軌跡140608』

その中で、米国の政治社会は次の様に描写される。
「現在のアメリカを動かしているものは、大統領でも一握りの指導者層でも専門家でもない。彼らは巨大な社会変動の波に押し流されまいと必死にボートを漕いでいるが、ぐるぐる元の場所を回って押し戻されている」(同上)。

一方、日本社会における高度経済成長による構造変化も基本的に同じである。それが現在に至るまで継続的に累加しているのだ。例えば、以下のことだ。
 1)人口移動―大都市への人口集中、極点都市の出現予測
 2)世代交代―少子超高齢化社会への進行
 3)資本構成―資本主義のグローバル化と貧富の差の拡大
 4)情報革命―ネットメディアの日常化による地球規模の即時性

“トランプ現象”とは、今やトランプ発言だけではなく、直接的な聴衆の反応、そのまま即時に情報を流す報道、レッテルを貼る評論の四者を合わせた現象なのだ。それらが互いにシンクロナイズしている。

しかし、その現象が何であれ、筆者がトランプ発言から感じるのは、政治的な感情にすっかり依存している本人の異様な姿だ。支持者の反応がトランプを刺激する。但し、オープンな形で支持者を拡大するのではなく、竜巻の様に回りを引き込んでいくのだが、どこか一過性とも受け取れる軽い発言が多い。

これに対して、日本での報道及び有識者の評論は、トランプ発言にシンクロナイズするかの様に、同じ言葉の繰り返しである。例えば、トランプ発言に「孤立主義」を見出すこと、支持者は「反エスタブリッシュメント」を標榜していることを指摘する程度だ。

永井は、例えば、
1952-1968年における人口移動についてデータ(郊外37%上昇、都心21%減少)を示しながら、都市での黒人と白人貧困層との分極を説明する。そこから、G・ウォレス(1968年大統領選挙で独立党から立候補)は南部だけでなく、北部の白人層からも支持されていることを指摘する。
更に、その理由として、「ウォレスは働く者の味方だ」との言葉を引用して、ウォレスがポピュリスト心情を巧みに組織化していると述べる。

なお、以下は蛇足だが、永井が授業のなかで話したことを覚えている。
その時の副大統領候補が第二次世界大戦で空襲による日本への無差別爆撃を指揮したK・ルメー(ベトナム戦争での強硬政策を主張)であった。

閑話休題。断片的な引用になった。
しかし、ここでは様々な立場の見解を参考にしていること、マクロな社会変動を把握すること、サイレント・マジョリティと呼ばれた人々の生の声を加えて個々の状況をリアルに認識すること等、永井が米国社会の全体像を描く手法を示している。米国大統領が誰になるにせよ、その行動はマクロ、ミクロの状況によって制約を受けるはずだから。