散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「維新・みんな連合=全国政党化」へ向けて走り出した~橋下・江田体制へ~

2013年01月31日 | 国内政治
先に、今回の衆院選挙(2012年選挙)は、民主党と自由党との併合による小選挙区制における二大政党化の試み(2003年選挙)、に対する国民的評価の一つ帰結と考え、その動向を概括した。最大の変化は、「第三極」が、自民、民主に対抗する一大勢力となり、今後の政治状況を左右する存在となったことであり、「第三極」の課題を「限定政党」から「全国政党」への移行と捉えた。

次に今後の方向(案)として以下の内容を、予測も含みながら提案した。
1)第三極を複数「限定政党」から「単一全国政党」へ
  →「維新の会」と「みんなの党」との併合
2)橋下代表は大阪市長辞任・参院選出馬(国民へのPRー最大の意思表示)
3)指導体制の整備ー実質的な再編成
  名誉代表・石原慎太郎 代表・橋下徹 代行・渡辺喜美 幹事長・江田憲司
4)政策の統合・具体化
5)統一地方選を目指した地方組織(住民自治を基盤に地方自治の課題提起)
  →今年の名古屋・横浜・川崎各政令市長選挙から統一地方選挙へ

『国民的視点からみた「日本維新の会」の位置~限定政党から全国政党へ~』
その後の報道を注視しているが上記の方向で動いていることは確かである。読売新聞から検証してみよう。

みんな・渡辺代表が1/27の党大会で維新を批判、「合流あり得ない」と述べた。これは、維新の最大の難点である旧太陽の党と合流により「政策がまるで分からなくなった」との指摘である。

一方、維新・橋下共同代表は1/28、「自民党の対抗勢力として維新の会、みんなの党、民主党の一部、で新しい政党を作っていくこと」「みんなの党との合流を模索し続ける。維新の会の存続にはこだわらない。」「参院選で選択肢を示すことが政治家の役割だ」と述べた。

ここでは「選択肢を示すことが政治家の役割」と述べていることに注目したい。橋下氏は、1)に示す、限定政党から全国政党へ第三極の合流による単一政党化へ導くことが必然の流れであることを読み取り、維新の会としてリーダーシップをとる覚悟を示している。次にくるのは2)に示す、氏自身の参院選への出馬である。

そのために先ず、4)に示す、政策協議を1/30に行い、消費税、エネルギー政策など維新の会が旧太陽の党と合流する以前に結んだ10項目の基本政策で再度、維新・みんなの合意を確認した。また、5)に示す、地方組織の構築へ向けて政令指定都市・北九州市の市議会選で選挙協力を行い、互いに3名ずつの議員を生み出した。

さて、その中で渡辺代表は上記の政策協定、地方自治体を含めた選挙協力を進めている幹部級協議にとうて「どうでもいい話」を本日1/31、記者団に語ったそうだ。こんなにあからさまに云うものか、と筆者は感じたが、実は一番こじれる問題の3)に示す、指導体制の問題に絡む。上記の案の様に、体制としては橋下代表ー江田幹事長が主役として実権を握ることになる。

ここで、石原、渡辺、書いてはいないが、松井各氏は外れることになる。松井大阪府知事は大阪全体のトップとしての役割に専任する必要があるから当然、納得するだろう。石原氏も組織全体からは数的不利は免れないから名誉職で勝手なことを云わせておけば良い。問題は渡辺氏だ。問題は本人が自らの地位をどの程度自覚するかに掛かっている。今後の展開の足を引っ張るようになると、自ら墓穴を掘ることになりかねない。

以上の示すように、選挙分析から導いた予測と提案に沿った方向へ向けて、橋下「日本維新の会」を中心とした第三極は全国政党へ走り出している。

        
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テロに対する緊張感を失わせるもの~アルジェリア人質事件~

2013年01月28日 | 国際政治
アルジェリア東南部イナメナス近郊の英国石油メジャー・BP社の天然ガスプラント建設現場でテロリストの襲撃による大規模な人質事件が発生した。結果は現場で建設にあたるプラント建設企業・日揮の関係者(日本人は10名)を含む大量の犠牲者を出す悲劇となった。やり場のない怒り…しかし、冷静に考える必要がある。

報道によれば、アルジェリア政府はその犯行の性格を掴むと直ちに対応を決め、ヘリコプターによる空爆から地上軍を投入して犯行グループの殲滅を図った。広い砂漠の中で犯行グループが人質を分散して逃走すれば軍も分散せざるを得ず、また、天然ガスプラントの破壊もあり得る状況において、早期の空爆を決断したらしい。

この報道に接して、筆者はモガディシオ事件を想い起こした。1977年10月の西独赤軍によるハイジャック事件、ソマリアのモガディシオ空港に着陸したところを西独の対ゲリラ特別部隊が機内に突入、犯人を射殺・逮捕し、乗員・乗客全員を救出した。

その厳しい対応は、西独の並々ならぬ決意を示している。しかし、それまでには、ソマリアへの誘導等も含めて、周到な準備があった。当時、西独は工業連盟会長が誘拐・他殺され、過激テロへの対応が迫られており、ベトナム戦争で有名になった米国グリーンベレーに倣って養成した、対ゲリラ特殊部隊の投入を決意したのだ。

その一月前に日本赤軍が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件があった。当時の日本政府は「一人の生命は地球より重い」(福田赳夫首相)と判断し、身代金支払い及び超法規的措置として獄中メンバーなどの引渡しを行っていた。

西独と日本との認識と対応の違いは鮮やかな印象を世界に残したはずだ…。

今回のアルジェリア政府は西独政府と同じで、テロ撲滅を最大の課題として対応したのだ。第一次世界大戦、アラビアのロレンスが英国の諜報機関の一員として、アラブ人と共に戦った対トルコゲリラ戦術は、自伝「知恵の七柱」(東洋文庫)にある様に、砂漠の広大な地域を走る鉄道防備でトルコ軍を貼り付ける効果が抜群であった。

例えば、大学紛争から70年安保反対闘争において、中核派を中心とした反日共系全学連はロレンスに倣って、山手線の主要駅、新宿、池袋、上野等の各駅で同時に集会・デモを行い機動隊の分散を図るなどの戦術をとった。同時に火の手を上げ、火消し役が集中するのを妨害するわけだ。

さて、報道によれば、今回の日本政府はテロを批判する点においては、仏、米、英と同じであるが「アルジェリア政府に対し、軍の作戦開始後に即時攻撃の中止を求めた」とされている。しかし、少なくとも、仏、米、英各政府の発言は、そのような内容が含まれたとの報道はされていない。記者会見でも精々「慎重に」程度である。

どこまでアルジェリア政府の考え方を読んだのか、取りあえず、国内向けも含めて言っておいただけなのか、判然としない。モガディシオ事件とダッカ事件との対比が今でも通用する様に、日本政府の判断は“40年間固定”されているかにみえる。モガディシオ事件以降、「テロ」に対しては、交渉せず、特殊部隊の強行突入で、人質を救出する方向に世界的は向かった。

テロリストへの身代金は軍資金供与になり、政治的要求を受け入れれば、エスカレートすることになり、更なる「テロ」を誘発することになる。結局、妥協的解決は将来へ向けての解決にならないのだ。しかし、一時凌ぎでの対応続くと、テロに対する認識を曇らせると共に日頃の警戒心、緊張感を失わせることにも繋がる。

今回の事件で情報収集の必要性が指摘されている。しかし、それは単なる結果だ。警戒心、緊張感を欠いては、情報収集活動など、できるわけがない。その根源には、金と超法規によっていとも簡単にテロを容認する日本政府のご都合主義があるのだ。

一方、日本企業としての「日揮」は、グローバリゼーションの中、自らリスクを賭けて、1960年代前半から海外進出に向けた活動を進め、1975年には海外プロジェクトの受注比率が50%を越え、アルジェリアからも受注している。その後、円高進行等に対応して、海外子会社設立・育成、海外調達拡大、情報技術化などの国際コスト競争力強化を推進、現在、世界的に注目の集まる天然ガス分野へ進出している。

以上の日本政府の判断と「日揮」との対比から判るように、政治の世界は、おそらく田中角栄以降、「日本列島改造論」に象徴されるように国内での資源「獲得・配分」競争に集中し、政治体制の流動化と共に更に政局という狭い世界に閉じこもり、外的事象はすべて外圧であり、グローバリゼーションの中で、世界を変えるように自らも変えていくことを考えていなかった、ように思える。

安部内閣も壁を乗り越えるよりは、国債発行で一時しのぎをするのが精一杯のようだ。私たちは、改革の意思を持つ政党、議員を次の参院選挙、地方自治体選挙において選出するように、日頃のチェックを怠らないようにすることだ。

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定義と目的に潜む「体罰」の問題点~閉鎖的部活空間の中で~

2013年01月26日 | 現代社会
罪がなければ罰はない。従って、桜宮高校バスケット部の顧問が生徒を自殺に追いやった「体罰」はリンチ(私刑)だ。即ち、「体罰」の考え方は容易に赤裸々な暴力に結びつき、更にその理由付けが精神的に被害者を追い詰める、これが筆者の見方だ。

政治理論家ハンナ・アレントは、確か「暴力論(On Violence)」において『暴力は「力」と調和のある結びつきをする限りは、社会の進歩に役立つこともあり得た』と述べていると思う。しかし、これは暴力が人間の属性であり、いつ、如何なる時にでも表面化しうることを認識した上で、暴力行使の難しさを強調する言葉だと筆者は受け取る。

一方、「体罰」とは人を進歩させるための強制力の一つであり、「体罰」は「暴力」と異なるものと区別する見方がある。義家文科政務官、あるいはかつての橋下市長(現在は「体罰」否定論)、更に「体罰の会」とか云う組織のメンバー等だ。また、「体罰」を原則的に否定するが、場合によっては、その効用を認める方もいることは確かだ。

しかし、「体罰」に潜む問題は、将に上記の二点に集約されるのだ。
1)「体罰」は強制力の一つであるが、暴力と異なるものと区別すること
2)「体罰」の目的が被対象者の進歩にあると云う理由付け

先ず、1)について説明しよう。強制力を権力と表現すれば、暴力は権力の極限にある。もう一方の極限は権威だ。権威とは、何も疑うこと無く、唯々諾々と人を承知させることだ。その権威と暴力の間に、強制とは見受けられないように、説得及び利益供与等の行為がなされ、非対象者に対して自発的行為を促す。

そこで、「体罰」の定義を暴力と異なるものとしながら、明らかな「罰」として肉体的負荷を精神的負荷も含めながら行うことは、被対象者にとって暴力的行為になる。例えば、宿題をし忘れて廊下に立たされるなどである。これは恥の意識を植え付ける「罰」なる。度重なれば、「罰」は重くなる。バケツに水を入れ、それを持たせて立たせるなどである。

部活において、ピンタの一発は「体罰」であって、暴力ではない。では、一発で顧問の意図に沿わなければ、二発、三発になっても「体罰」だ、となる。ピンタの連発でダメならぶん殴っても「体罰」だとエスカレートは容易なのだ。逆に言えば、「体罰」は暴力でないと定義することにより、「体罰」は無限の暴力の連鎖に向かうのだ。ひとたび、暴力の連鎖に嵌まれば、思考停止と自己弁護のサイクルからの脱出は困難だ。そこに『手段として権力と暴力性とに関係をもった者は、悪魔の力と契約を結ぶ…』(マックス・ウェーバー)という言葉が当てはまる。
ここに「体罰」と暴力を区別する体罰肯定論者の第1の陥穽がある。

2)に示した「体罰」の目的は暴力のエスカレートを肯定するだけになる。何故なら、自らは被対象者の進歩のために行っているので、「体罰」を与える行為は正しいと考えるからだ。体罰を与えて自らの意図通りに被対象者が進歩しなければ…その「体罰」が問題なのでは無く、被対象者に問題がある。

では、正しいと思っている「体罰」を更に重くしなければならない。それが体罰論の論理的帰結になるのだ。おそらく、それには止まらない。何故なら、被対象者は暴力に従うことを拒否するからだ。「体罰」を与える部活顧問にとって、「体罰」をやめれば、自らを否定することになる。また、被対象者がキャプテンをやめたとしても、部活顧問は敗北なのだ。彼自身も「体罰」の蟻地獄から逃れることはできない。

結局、悪魔の力に押しつぶされたのは被対象者であった。

どのような実績を示そうと、どのような効用があろうとも、暴力という悪魔と簡単に手を結ぶ可能性のある「体罰」は、社会的に存在するには危険過ぎるのだ。その影響は正直にも押しつぶされた生徒だけでなく、「体罰」を受け入れた生徒にも及んでいるはずだ。それは、マスメディアから伝えられる部活顧問を擁護する意見に見てとれる。「体罰」を受けた側も、それを受け入れる理由付けを必要としているのだ。「体罰」は効果があると。しかし、他の指導法を受けていない以上は、閉鎖的環境の中で純粋培養された存在にしかならず、冷静な評価にはならない。

このような罠に嵌まる危険を避ける方法は、ただ一つ、新たに始めることだ!その意味で、橋下市長が入試中止、教員全取っ替えを強硬に主張したことは鋭い感覚と評価できる。調査が進めば、今回の事件が氷山の一角であることが明確になるだろう。

最近、検察における検事の被疑者取調べも、可視化の必要性が云われている。部活は学校の中の半校半私の組織として、検察を上回る二重の閉鎖性がある。それは、明治以降の急速な社会的変動と近代化への対応に急かされて、ある種の生活空間として作られた学校文化でもある。筆者も部活の同僚とは同窓会組織を作って今でも付き合っている。自らの内なる<部活>意識を改めて考え直すことは必要なのかもしれない。

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体罰と云うリンチ(私刑)~近代日本の宿痾が残る学校生活での部活動~

2013年01月19日 | 現代社会
大阪市桜宮高校バスケット部における顧問教師による特定の生徒への体罰は、その生徒の自殺を導いた。罰であるなら罪があるはずだ。近代組織としての学校の生活での罪とは規則、広くはその組織において試行錯誤の中で作られた「行動様式・基準」に対する違反行為であろう。

しかし、今回の事件は、罪は勿論なく、単にその顧問の意に沿った活動ができなかった、それもおそらく名目だけ、ことに対する一方的な暴力であった。従って、その暴力行為はリンチ(私刑)と呼ぶ以外の何ものでもない。反社会行為であると共に法治国家日本では許されず、法の下で処置されるべき問題だ。

一方、文部科学省の義家弘介政務官(衆院議員)は「教育的な目的から、ミスをしたらコートを十周しろというのはありうる体罰」と指摘した(1/15付け読売新聞)。しかし、ミスは罪ではなく、学びとして克服されるべき努力の対象だ。算数の授業で計算間違いをしたら「教室の後に立たせる」のと変わりは無く、教育の目的からは逸脱だ。橋下市長も教育委員会、学校に対して厳しい発言をしているが、その認識においては義家氏と似たり寄ったりのようだ。

問題は、学校という公的な組織において、罪は無く、かつ、立場の弱い人に対する強制力の行使が、何故、暴力行為と区別され、体罰と称して正当化されているのか、である。ここに、日本の近代における宿痾が色濃く残っている。学校教育は、子育てと違って明治維新以降の産物だからだ。先ず、この認識が重要だ。

子育ては、オーバーに云えば人類史始まって以降、連綿として私達の生活の中で続く“人間の営み”としての文化である。近世日本では「逝きし世の面影」(渡辺京二(平凡社)初出1998)に描かれるように、子どもの楽園であった。しかし、見事のまとめられた外国人の観察は、子育てを含めて旧き慣習であって、近代国家建設のため、多くは近代化政策の中で打ち壊されてきた。

一方、近代的組織の運営においても学校教育のような学校生活を含む「人間の営み」がある。では、それは子どもの楽園として運営されるのか?全国的規模での学校教育は、近世の寺子屋・塾とは断絶し、近代官僚体制の下での組織活動として実施される。効率を重んじる近代組織は、学校生活であっても全体を統率し、即時的効用を求める。そこで、子どもの楽園的な考え方は排除され、日本的長幼秩序のオブラートに包まれた暴力を含む強制力を背景にした運営が行われた。

本来、試行錯誤の中から新たな「行動様式・基準」を創り出す必要があった。それが政治学で云う“制度”であり、「慣習の束」になる。安定した組織の継続・再生産には必須であるが、それを構築するには時間が掛かる。そこで、軍隊生活の借物の長老秩序に包んだ制裁と云う方法で済ませたのであろう。軍隊は、一般国民に対する最初にして、最重要の組織であるから、学校の組織運営も軍隊をお手本にせざるを得なかったと考えられる。

学校教育は戦後の教育改革によって一新されたように見える。しかし、筆者の小学校生活(1955ー1960)を振り返ると、朝礼の「前に倣え」では厳しい整列、行進では「揃った足踏み」、全体止まれでは「イッチ、ニ」でぴたりと止まる等の軍隊的習慣の名残にみえる指導を受けていた。テレビに映る北朝鮮の軍隊行進を笑うことができないのだ。このように、軍隊を真似した生徒指導は“人間の営み”だけに、簡単には消えずに、生き残っていた。

同じように、長幼秩序に包まれた強制力を背景にした学校運営は、部活動の中に生き残った。高校の部活動の顧問による生徒への体罰とは、近代日本での軍という閉鎖空間から受け継いだ組織運営の方法が「高校―部活動」という二重に閉鎖的空間に引き継がれ、昨今のプロスポーツ化、オリンピックでのメダル獲得賛美などの現代的成果主義と混じり合い、形を変えて根付いている。

更に、政治家は罪と罰との関係から体罰を論理的に否定すべきだが、先の義家政務官の発言にあるように出来ないで曖昧にする。これは体罰を是認する人たちも一定の層として存在することを示している。従って、今回の事件は決して他人事ではなく、今後も身近な問題として起こり得ること認識せざるを得ない。

西欧社会においては、宗教教育を背景とした厳しい「エリート教育」の伝統があり、特にイギリスのパブリック・スクールにおける古典学習、スポーツ訓練などのムチ的教育はよく知られている。このような厳しい風土によって、優れたトップエリートが育成される。

しかし、日本は宗教教育の伝統を持たず、理念を持つこととも無縁な風土である。そのため却って、単純に厳しさを強調し、成果を誇示する教育に対して無防備になり、内容を理解できないままに容認しがちである。教育に即効薬を求めず、普段の観察と対話によって、一歩一歩、認識を新たにしながら「行動様式・基準」を創っていくことが、急がば回れ、になるはずだ。

     
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国民的視点からみた「日本維新の会」の位置~限定政党から全国政党へ~

2013年01月13日 | 国内政治
今回の衆院選挙(2012年選挙)は、民主党と自由党との併合による小選挙区制における二大政党化の試み(2003年選挙)、に対する国民的評価の一つ帰結だ。先の記事では、その流れを概観しながら、能動的に選択を判断する主体的浮動層の重要性を指摘した。

一方、その9年間、
1)自民党をぶっ壊すという「小泉改革」への支持   (2005年選挙)
2)コンクリートから人へとの「民主党政権」への交代 (2009年選挙)
3)日本維新の会を中心に「第三極」への今回の期待  (2012年選挙)
へと、目まぐるしく“民意”が変遷した。ここで「第三極」は、自民、民主に対抗する一大勢力となり、今後の政治状況を左右する存在となった。本稿では、「第三極」の課題を「限定政党」から「全国政党」への移行と捉え、その方向を考えてみる。

9年間の帰結と先ず述べたのだが、その軌跡が“変われば変わるほど、もとのまま”の状態で、根強い支持の下「自民党復権」になったのは、皮肉と言ってもよい。しかし、投票結果を分析すると、今回の選挙は未だ過渡期の間にあるとうにみえる。それは、期待と現実のギャップはあるが、自民党・公明党連合は依然として支持率低下の状況にあり、維新の会、みんなの党への投票率に示されるように、改革への期待は大きいものがあるからだ。

では、どのような方向が考えられるのか。先ずは、今回の選挙結果から、改めて「小選挙区・比例代表制」における政党のあり方を規定してみる。

     2012年12月衆議院選挙結果
          小選挙区    比例代表区  
  政 党  得票率  議席 得票率 議席 
  自民党  43.0%  237  27.6%  57 
  公明党   1.4%    9   11.8%  22 
  小 計  44.4%   246   39.4%  79
  民主党  22.8%   27   15.9%  30
  維新会  11.6%  14   20.3%  40 
  みんな   4.7%   4   8.7%  18 
  小 計  16.3%   18   29.0%  58

上記の表は、各政党の小選挙区と比例代表区を対比させたものだ。ここで、政権の主体となることを目指す「全国政党」と国会に議員を送り、補完的勢力を目指す「限定党」に区別しよう。

自明のように自民党と民主党が「全国政党」であり、それは三百に及ぶ小選挙区に対して多数の候補者を立て、得票率において、小選挙区が比例代表区を上回ることで示される。反対に、小選挙区に候補者をそれほど立てず、比例代表区を含めて議席を得ることを狙うのを「限定政党」と呼ぶ。ここでは、維新の会、公明党、みんなの党、維新の会は「限定政党」であり、記載しないが、共産党、生活の党等も同じだ。

ところで、「全国政党」は比例代表区においても、当然、「限定政党」より高い得票率を示すはずだ。しかし、表に示されるように、比例代表区での維新の会の投票率20%は民主党の得票率16%よりも高い。また、維新の会の小選挙区での立候補者は151名でわずかに、小選挙区での過半数を越えるに止まり、政党として“政権奪取”の意思は示していないのだ。

その維新の会とみんなの党を合わせた「維・み」の比例代表得票率29.0%は、民主党15.9%を大きく上回る。しかし、「維・み」の小選挙区得票率は16.3%であり、比例代表得票率に全く届かない。その差13.7%は小選挙区において、どこに投票されたのだろうか?これに対して自民党と公明党を合わせた「自・公」の比例代表得票率39.4%は、小選挙区得票率44.53%に近く、公明党の差10.4%は、ほとんど自民党へ流れていると推察できる。

本来、「維・み」が全国政党化し、その責任を果たすべきとの結果論にならざるを得ない。もちろん、その支持層は不安定で有り、客体的浮動層が多いことは否めない。しかし、第三極政党側が主導して“民意”に道筋を付ける役割を果たし、自らの固定層を確実のものにしないと「自・公」長期政権か不安定に変化する政権か、どちらかの選択を有権者は迫られる状況になる。そこで、以下が提案となる。

今後の方向(案)
1)第三極を複数「限定政党」から「単一全国政党」へ
  →「維新の会」と「みんなの党」との併合
2)橋下代表代行は大阪市長辞任・参院選出馬(国民へのPRー最大の意思表示)
3)指導体制の整備ー実質的な再編成
  名誉代表・石原慎太郎 代表・橋下徹 代表代行・渡辺喜美 幹事長・江田憲司
4)政策の統合・具体化
5)統一地方選挙を目指した地方組織構築(住民自治を基盤に地方自治の課題提起)
  ・今年の名古屋・横浜・川崎各政令市長選挙から統一地方選挙へ

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主体的浮動層の重要性~投票動向の変化から見出すもの~

2013年01月04日 | 政治理論
選挙での投票を分析するのは、単に政党間の消長を議論するだけではない。それでは、単なる勝負の問題だけになる。本ブログでは、過去3回の選挙における全国の得票結果を踏まえて、その基本動向を以下のように捉えてみた。

1)小選挙区制は「有権者による政権交代」という機能を十分に発揮している(12/23)。
2)改革志向層は、小泉改革自民党、民主党、第3極と選挙毎に漂流している(12/24)。

ここでは、抽出した改革志向層から更に“主体的浮動層”の問題に踏み込んでみる。主体的浮動層とは組織・利害に固定されず、また、日常の行動を一定方向へ流し込む圧力等から自らを解放し、都度、政治行動を能動的に選択する層のことだ。多数決原理・二大政党制は、一方に固着せず、常に自主的判断で浮遊する層がいて成り立つ(『二大政党制の理論と実態』永井陽之助「政治意識の研究」(岩波書店)P233)。この視点から次の表を説明する。

衆議院選挙 比例代表区 投票・得票の前回との差(万票・パーセント)
 衆院選挙 「小泉政権」 「郵政改革」 「民主改革」 「自民再政権(現状)」
 期日     2003/12    2005/09   2009/08     2012/12       
 投票率   59.8%   67.5%  69.3%    59.3%
 投票数   5950    +831   +256  -1020  6017
 自・公    2939    +537   -790   -313  2373
 民 主    2066    +37    +881  -2022   962
 維・み               0    +300  +1450  1750

左右両端のカラム、2003/12及び9年後の2012/12の選挙を比較する。2003/12選挙は、自由党が民主党と合併、自民と民主の二大政党が小泉政権下で出揃った処だ。一方、2012年選挙の投票率は2003年選挙とほぼ等しく、得票数では「自・公20%」「民主55%」減少し、「維・み」は「自・公」の75%、「民主」の2倍を占め、同じ自民党の政権とは言え、2003年選挙とは意味合いが大きく異なる。

ここで、全国区での得票率が高い「維・み」(維新の会及びみんなの党)は連合を組めず、小選挙区でも十分の候補者は立てられなかった。一方、「民主」の得票率では小選挙区で「自・公」に勝てる選挙区は極めて限定され、時の野田首相の決断は民主党の起死回生には結びつかず、この“ねじれ”が響いて「自・公」圧勝へ繋がった。

結果論であるが、小選挙区・二大政党制選挙の制度的な意味合いが大きく崩れた選挙と言える。しかし、そのねじれを生んだ、その間の改革を巡る2005年及び2009年選挙の動向が持つ意味が重要になる。票の中間にある3カラムはそれぞれの選挙での投票・得票の前回との差である。

上記の二つの選挙に挟まれた2005年及び2009年両選挙は投票率が70%近くになったことが特徴であり、2003年及び2012年選挙と比較し、800-1,100万票程度多い。これは「郵政改革」「政権交代」との掛け声を聞く熱気に包まれた雰囲気の中で行われたからだ。従って、その勢いに乗って2005年「自・公」、2009年「民主」が大きく伸びた。更に、それぞれが後退するなかで、第三極が今回の2012選挙で本格的に台頭した。

改革志向層が「小泉-民主-第三極」と改革の主体を求めて移り変わる一方で、2005年に2003年から約1,000万増えた投票層の多くは改革の実態に飽きて、再度の棄権に回ったように見える。さて、9年間の変化を以上のように捉え、類型化し、主体的浮動層に焦点を当て、考察しよう。

各政党支持の固定層が安定の要因となり、一方、変化の要因となる浮動層を主体的浮動層及び客体的浮動層(メディア等による空気に左右され易い層)に分ける。類型は以下になる。他に「アノミックス型…変化・非同調or過同調型」も考えられるが、ここでは省く。
 「各政党固定層…安定・同調型」
 「主体的浮動層…変化・自主型」
 「客体的浮動層…不安定・同調型」
 
但し、上記の類型は必ずしも固定ではなく、各人それぞれの要素を持ち合わせ、状況によって異なる反応もする。すなわち、個人を分けるための類型ではないことに注意が必要だ。

票数の単純なデータであるため、状況も同様に簡単化、投票動向の全体を素描する。
先ず、「自・公」「民主」「維・み」の固定層は現状の票をベースに浮動票を引けば良い。下記の式を参照しながら、主体的浮動層α,β,γに注意しながら簡単に説明しよう。

「自・公」固定層は票全体か減少傾向であり、依然として、主体的浮動層も残存(α)。
「民主」固定層は極端に減少、「維・み」へ逃げた可能性あり、βはゼロに近い。
「維・み」固定層は得票をベースに、主体的浮動層α,β,γ及び客体的浮動層ηを引く。

主体的浮動層、客体的浮動層は、本来すべての政党にいるはずだ。
しかし、主体的浮動層の圧倒的多くは「維・み」支持(γ)、「民主」には残っていない。
客体的浮動層は、ほとんど「維・み」(η)と考え、他に今回は棄権に回った1,020万票を考える。
 「自・公」固定層… A=2,370万-α
 「民 主」固定層… B=960万-β
 「維・み」固定層… C=1,750万-γ-η
 主体的浮動層 … X=α+β+γ
 客体的浮動層 … Y=η+1,020万
 A+B+C+X+Y=6,000万

「自・公」は必死に固定層を守り、「維・み」は巨大な浮動層(おそらく「η≫γ」)を獲得した。おそらく、改革志向層は「X」とおおよそ重なるだろう。その数は読み取れない。

以上のような非常に荒っぽい素描であっても「全体像」を描くことは重要と思われる。何故なら、「主体的浮動層」が浮上し、比較的少数であっても、キャスチングボードを握ることが、大衆民主主義の時代における政治社会の“進展と安定”を確保する道だからだ。一方、政治エリートの世界でも、優れたリーダーを中心とした意思決定システムを確立する必要がある。

現状は、例えば、政府が執行する政策をマスメディアが批判し、それを受けて世論形成が行われる。その民意に議員が発言し、政府も対応する。更にマスメディアが…という風に、頭と尻尾が結びついて循環し、意思決定の所在が不透明になる。客体的浮動層がツイッターなどのネット世論も含め目立つからだ。有権者側における世論形成のスタイルを確立するためには、「主体的浮動層」のネットワークを働かせる方法論が必要だ。

      
               
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幻想の中の都立青山高校旧校舎~年始に~

2013年01月02日 | 回想
小学生の頃は野球少年であった。
当時、高校野球の甲子園代表を決める東京都大会は、その大詰めの準決勝、決勝を神宮球場で行っていた。確か3年生の時、初めて父親に連れられ、王選手が早実の投手としてマウンドに立っていたことを覚えている。

5年生の時も、それまでと同じで親に連れて行ってもらったのだが、小学生の料金が無料とのことでバックネット裏での観戦になった。試合そのものは覚えていないが、終わって出た処が丁度球場の正面玄関であった。いつもの内野席でみていたら別な出入口を使ったであろう。

ブラブラ歩き始めた道の向こう側に、綺麗なコンクリート建ての建物が何か学校風に立っていた。私が聞いたのかどうか覚えていないが、父親が「青山高校で、都のモデル……だ」と教えてくれた。“モデルスクール”と言ったのか、“モデル校舎”と言ったのか、これも今となっては定かでない。

しかし、校舎と言えば「木造2階建て」しか頭に浮かんでこない小学生にとって「すごいな!」という印象を持ったことは確かである。青山高校の校舎は昭和33年5月に竣工し、その時は34年だから真新しく、その辺りでは際だっていたに違いない。

おそらく、ある事件がなければ青高生(自らの高校をよぶときの教師、生徒の用語)になった時、感動をもって小学生当時を思い起こしていたはずである。中学校に上がる直前、その中学校の校舎が火事で一部燃えてしまい、その後、跡地に新校舎が建った。

新校舎は当然、光り輝く?コンクリート建てであったが、1学年、12クラス、1クラス60名弱、一つ上の世代は13クラス、という団塊世代は、3年生で新校舎に入り、ようやくその恩恵を満喫できるようになったのだ。勿論、それ以前にも用事にかこつけて、職員室は新校舎のなか、入ったことはあったが、生活してみると、汚れている処も少なく、特にトイレのきれいなことが際だっていて、うれしかった。

青高に入ってみると中学校の新校舎の方が綺麗でいいな、程度の印象しか持てなかったのもやむを得まい。今、幻想のように浮かんでくる青高校舎は、実は小学生のときにみた新築建物のイメージで、現実に高校生活を送った校舎のリアリティはない。人間の記憶は、時間軸に沿って構成されているのではなく、過去はすべて同じ過去で有り、その中で印象深い事象が記憶のなかから読み出されるのだろう。

だが、この年になってようやく小学生時代の父親との思い出が浮かんできたのは、実はサッカー部OB会の存在を介してである。

筆者は知らなかったのだが、平成15年6月7日に「青高サッカー部OB会設立総会」が渋谷東部ホテルにて開催されていた。何かの拍子に青高を「ググって」みると、そのOB会のホームページに到達した次第だ。何と!と感激して、幹事の方に連絡をとり、間近のOB会に出席できた。会場は青山高校、グランドでサッカーに興じた後、教室でOB会となっていたのだが…そのとき、校舎は一変して“新築”されていたことも知った。

そうか、すでに50年近く経っている。タイミングとしては当然、と何か新しいものに期待感を持って、現地へいってみた。そかし、その新校舎は、新しくはあるが、際だっているとは感じられない。回りに、或いは東京中に種々雑多な新築建物ができているため、都立高校の校舎程度ではデザインとしての新しさを感じないのかもしれない。

また、それと共に、旧校舎が無くなったという喪失感が湧いて来るのも禁じ得なかった。だが、この喪失感によって思い出が浮かんできたとしたら、ともあれ、OB会設立に努力されたOB諸氏のお蔭だ、と感謝せねばなるまい。
(2006/1/2初稿)

        
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幻想の中の少年野球~年始に~

2013年01月01日 | 回想
小学校高学年の時代。当時はサッカーなど知るよしもなく、野球に明け暮れる毎日であった。学校が終わるとき、友達と今日はどこにあつまる、と決めては野球の道具を持って、家からその場所へ急いだ。

小学校へ上がる以前からゴムボール、三角ベースの草野球に慣れ親しみ、ラジオでプロ野球の実況中継を聞き、新聞のスポーツ欄をみて巨人の成績に一喜一憂していた。新聞では、漢字を読めなくてはわけがわからない。だから、プロ野球チーム、選手の名前の字は、必然的に読めるようになった。

そういうわけであるからプロ野球は小学生以前に後楽園で初観戦、確か昭和28年の巨人対阪神戦のナイターだったと思う。川上、与那嶺、千葉もいたが、ナイター光線にキラキラ光る南村の黒バットが今でも印象に残っている。

3年生の時、近所の遊び仲間6名とチームを作った。6年生2名、5年生2名、4年生1名と最年少の私である。6名では正式の野球にならない。そこで、5年生のひとりがクラスの友達を引っ張ってきて10名以上になった。最年少であったが、それでも私自身は投手を志望し、他の5年生3名の投手と交替で出場していた。もちろん、5年生からはワンマンで、フォームが当時国鉄スワローズで巨人キラーだった金田に似た(と言われたことがある)サウスポーとしてならしていた。

話は3年生の時に戻り、夏休みに少年野球大会があることを知って出よう、出ようということになった。その時の主催者は警察で、どうも非行防止の観点から少年野球を推進していたらしい?近所の警察署に行って、届出の手続を聞き、組合せ抽選会もそこで行われた。

ともかく、その警察署に入ったのは野球大会の時だけである。規定の中に誰か大人が統率者として必要であることを知って、皆で相談した。その頃、子供の野球チームの面倒をみるような親はいなかった(できなかった)。

丁度、5年生のひとりに二十歳を過ぎた年が離れた兄弟がいた。普段もたまに遊んでくれることもあって、その人に頼んでみようということで快諾を得た。ただ、それは形式だけであって、今風のコーチではない。

さあ、練習はどこでやろう?近くの空き地を探して集合し、或いはそこに先客がいると皆で別な場所まで走っていく。少し遠くにある大学、企業のグラウンドに(当然)無断で入り込む。統率者に頼んだお兄さんに公共のクラウンドを予約してもらう等々。

用具は?「瀬戸内少年野球団」の世界よりはあとの年代で、流石に母さんが夜なべをして作った手縫いのグローブという美談はなく、各自買ってもっていた。バットは何人かがもっていて適当に使っていた。ユニフォームまでいくと、チームとして揃えるなどという話は全くなく、てんでバラバラで短パン姿もいたはずである。水筒を持っていくこともなく、喉が渇いたらその辺の水道の蛇口から水を飲んでいた。当然、応援に来る親などいるわけがない。

大会には色々なチームが出ていて、帽子だけは揃っているとか(その時、この程度は揃えるべきとの説もでた)、コーチがひとり指導しているとか、ユニフォームは着ていないがチーム名は胸に書いてあるとか、何となく覚えている。審判は全然知らない人で、これは主催者が募って集めた人たちであろう。

最初に出場したとき、1回戦は楽勝であった。随分得点をいれたと思うが、この時、審判の説明で移動ベースと固定ベースという言葉があり、ルールは固定ベースということを覚えた。話が通じますか?結局、2回戦敗退であったが、その時の相手チーム名が「Sタイガース」。中学校で一緒になる隣の小学校のチームであった。では、我がチーム名は?それが覚えていないのだ!!

でも、ともかく自分たちでやった(やるしかなかったし、それが当然だった)。野球が好きで夢中でやった。だからチーム名など、どうでもよかったのだろう。

時は移って、学校ごとに少年サッカークラブがある時代。クラブ活動でサッカーを経験した、あるいは経験をしていない親たちがコーチをする時代…サッカーをすることに余り関心がなくとも、子どもがサッカーをする時代…優れた選手は、Jリーグクラブの下部組織でサッカーをする時代。何か判らないが、路線がある時代。

そんな中で、チーム名などは忘れ、ただサッカーに夢中になっている少年たち…。それが私の初夢にあらわれるだろうか。
(2006/1/1初稿作成)       

       
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