今回は表題「或るベビーブーム世代の生活世界」の副題を取り上げる。副題は「個人・住民・〇〇」と並べる発想であった。最初の二つは以下に述べる理由で決まり文句、最後の一句で「個性」を出す試みだ。ここではCitizenである。
個人の生活世界(家族、近隣、地域、学校、職場等)は社会と係る。従って、自分史の執筆においては社会も観察の対象に加え、全体を組立てた。但し、その社会は自らの生活世界と関係のある事象、組織体、世相、情報等を多く含みながら、個人の関心・指向によって社会の別の面をも含む。小学生の頃からマスメディア(新聞、ラジオ)の世界が社会の様々な側面を報道していた。その中で自分が関心を持ったのは「政治の世界」だったが。
社会の中のでは自分という表現は通用しない。それが自分史の欠点でもある。そこで副題に「個人・住民」を連ね、その調子で決め手を出す調子にした。
「○○」は更に社会側へシフト、職業人、趣味人、世話役等々、社会との接点を持つ活動から考える。『私の履歴書』(日経新聞)が通用する所以だ。そこで、ユニークな個人的経験として、第四部「統合期」での地域住民活動・市民活動(川崎市)への参加を明確に示す意味で「市民」→「シティズン」→「Citizen」とイメージして使った。
最近、英国では若い人たちへの「シティズンシップ教育」が盛んになり、それが日本にも徐々に採り入れられている。即ち、政治的には「Citizen」を民主主義、政治参加の担い手としての表現にも使う。即ち、市民活動との言葉はそれと深く関連している。
以上の様に考え、筆者の自己表現として使ったものだ。更にそれは大学時代に学んだ永井陽之助の政治学の考え方を基盤にしたものだった…。
教養課程重視を標榜する東工大に惹かれ、高三での個人的な、集注的受験学習で入学を果たす。「文理両道」を目指し、先ずは教養の入門書を探す。学内生協書店で平積みの入門書を購入する(『学問と読者』(大河内一男編、東大出版会(1967))。分野ごとに書かれていたなかで、当大学の政治学教授・永井陽之助「政治状況の認識」の次の一節に注目する。
「…自己の内面に無意識的に蓄積、滲透している時代風潮、イデオロギー、偏見の拘束を見出さざるを得ない…その固定観念からの自己解放の知的努力の軌跡こそが政治学的認識そのもの…」。情報化社会での自己認識に繋がる現代的学問論と受けとめる。これで教養の道筋が見えたと思った。
後に読んだ専門書には選挙の際の「主体的浮動層」との言葉で表現され、客体的不動票(固有観念、組織票、固定票)と対比されていた(『現代政治学入門』(永井陽之助、篠原一編、有斐閣(1966)。大学卒業後は入社した会社の独身寮が大学から近く、また、週休二日制であったので、土曜には「政治学講義」を聴講(贋学生だが、教授に許可を得る)させて頂いた。