散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

主権者教育とは何だろう?~教育と実物過程の乖離の間に

2016年02月24日 | 現代社会
有権者の年齢を20歳以上から18歳以上に引き下げる話に始まり、高校生のみならず、小中学生にまで、いわゆる主権者教育を実施しようとの気運があるようだ。川崎市においても教育委員会が腰を上げて取り組むこと、市議会においても「主権者教育」の議論をしていることを若手の重冨議員のブログで知ることができた。

それによれば、教育委員会は「若者が有権者として求められる力を身に付けるための教育」との考え方で「自分の意思が社会を創る」という冊子を作成し、小学校・中学校を含み全校で活用する。
そこで重冨議員は「この主権者教育ですが、そもそも何か?」と問いかける。

主権者教育とは、「主権者を教育する」との上から目線の言葉である。一体誰が?主語の無い言葉なのだ。では、主権者を主語にすれば…「主権者は教育される(を受ける)」となる。しかし、権利行使の主体であるから主権者と呼ばれる。従って、矛盾を孕む言葉なのだ。主権者を客体視するからだ。主権者各人の絶えざる自己啓発が主体となべきなのだが…教育することが既得権益になっている文科省系の関係者にとって、そうはいかないのだろう。

そこで、主権者教育とは、先々に主権者となる人たちを、その権利行使に向けて教え込むことに他ならなくなる。川崎市教育委員会が小中学生に対しても実施する所以であろう。ここで奇妙なのは、主権とは、政治における国民の権利一般ではなく、就中、選挙での投票権に集約されているかの様な気配があることだ。

因みに「総務省HP」には以下の階層で主権者教育が現れる。
=トップ > 選挙・政治資金 > 選挙 > ニュース一覧<投票制度・選挙制度・啓発その他> > 主権者教育のための成人用参加型学習教材について
なるほど!総務省は選挙を司るのであるから、主権者=投票者になるのだ!

最近のNHKニュースで、学校において「模擬投票」を主権者教育として行っている例が報道された。先生達が立候補者となって、選挙公約(マニフェスト)を掲げ、それを生徒が評価して投票をしてみる。例に違わず、最後にインタビューがあって、糞真面目な言葉を投票者がコメントしていた。
これは公共放送を司るNHKにとって“絵”になる内容であるから仕立てあげたものに違いない。

但し、ここに描かれた良き主権者の例は、候補者のいわゆる公約を政見放送、演説会、街頭演説、選挙公報などで、比較検討して投票する人である。この考え方には、日頃は政治について何も考えなくても、選挙の際に、選挙に向けた各候補者の選挙公約を理解して判断はでき、それで良いとの発想が含まれている。

筆者には“架空の政治”を想定しているとしか思えない。
“政治の実物過程”が「公約―投票」に集約するわけではない。それは人が人を動かす、金を動かす、情報が飛び交う、集団が形成される等の混沌とした過程であり、そのなかから実行に向かう政策が姿を表し、また、起こるはずのない事件が突発する過程でもある。

最近、民主党と維新の会の合体問題が進行し、今晩のニュースでも、民主党の党名変更で維新の会との合流が今週中に決まるとの報道だ。米国ではトランプ旋風が吹き、クリントン女史が妥結したTTP交渉を否定的に捉える発言をする。オリジナルな事件・発言等が次々に出てくる。それが現代における政治の実物過程なのだ。

私たち一般人は、勿論、すべての政治事象に関心を持てるわけではないが、マスメディアであっても、ネットメディアであっても情報ソースとは付き合っているから、知らずの内に情報がたたき込まれる。その蓄積が知らずのうちに、自らの政治的思考を方向づけ、ある面で、政治的選択をしているのだ。

従って、選挙の際に、白地のうえに立候補者の選挙公約を書き並べて比較することなど、到底できない相談なのだ。その前までに受けた情報の蓄積によって、自らの投票行動は、自ら自覚することなしに、決まっていることが多いのだ。

現在の政治的情報環境から自らを先ず、解き放つことから自らに対する主権者教育は始まる様に思える。それは情報を選択することを意味する。しかし、色々な情報に接しないと選択もできない。従って、小中学生の頃から旺盛な好奇心で情報に接することが必要になる。そこから選択の契機が掴めるはずだ。

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共感としての“compassion”~『存在の軽さ』における重さ

2016年02月20日 | 永井陽之助
ミラン・クンデラの『存在の考えられない軽さ』は、
第Ⅰ部「重さと軽さ」から話が始まる。その話の始まりは「永劫回帰…」からニーチェの登場だ。最終の第Ⅶ部「カレーノン(愛犬)の微笑」では、テレザ(トマーシュの恋人)のじゃれている雌牛への感動と“compassion”からデカルトの登場だ。

その“compassion”を言語学者訳者である・千野栄一は“同情”と訳す。
一方、第Ⅰ部において、クンデラは特に第9章(章)を割き、語源に戻って“compassion”を説明する。それに続いて、
更にトマーシュのテレザに対する感情を「同情と呼ばれる悪魔の贈り物…がトマーシュの運命(あるいは、呪い)となったので…彼女の気持ちがよく分かり、怒ることができなかったばかりか、彼女のことがいっそう好きになったのである。」と表現して、その章を結んでいる(強調は筆者)。

先の記事で、クンデラの中に「compassion」を見出した永井陽之助の言葉を引用した。「…ラテン語の語源を引き、他者の痛み、苦しみをわかちあうことこそ、「愛」よりも高次元の普遍的な人間の情念ではないのかと言っています。上下の力関係を前提とした「同情」とは根本的に違う次元の概念です。」
 『“compassion”は“愛”を上回るか~永井陽之助の問題提起160211』

更に、日米間の外交上の問題として、コンパッションギャップを説明する。従軍慰安婦問題の一部の側面は、この辺りにもあるそうだ。
「どういうときに人々が感動し、「アンフェア」と激怒し、悲しみに泣くのか、という情念の波に大きなギャップがあるということです。日本人がそういう事柄にかなり無神経である…」。

クンデラに戻ると、
「ラテン語から派生するすべての言語では「同情」という言葉は接頭辞のcom-(同-)を意味すると、もともと「受難」を意味するpassionという語から形成されている」「他の言語、チェコ語…ではこの語は同じ意味を持つ接頭辞と、「感情」を意味する語との結合によって訳される」。

「ラテン語から言語ではcompassionの意味は他人の苦難を冷たい心では見ていられない、苦しんでいる人たちの気持ちに加わる、ということを意味する…愛とあまり共通のものを持たない、悪い二流の感情を示しているように思われる。同情から誰かを愛するというのはその人を本心から愛していないことを意味する。」

「compassionが感情という名詞から形成される言語では、その語の語源の秘密の力はその語に違った光をあて、より広い意味を与える。同情するということは他の人と不幸を共に生きるのみか、その人と喜び、恐怖、降伏、痛みなど他のどんな感情をも共に感じられるという意味である」(強調は筆者)。
「このcompassionはすなわち感情の持つイマジネーションの最大の能力を示し、感情の持つテレパシーの芸術の意味で、感情の階層での最高の感情である。」

長々とした引用したのであるが、その理由はクンデラの思想とそれに伴う文学表現の見事さと共に、それに対して永井政治学がスパークしたかの様に、筆者には感じられたからである。

永井の引用は、江藤淳との対談「「歴史の終わり」に見えるもの」(1990/1文藝春秋)の中でのことだ。ここでは、compassionを巡って、皮肉にも文学者・永井と政治学者・江藤が対峙したかの内容が展開され、永井政治学と江藤文学の性格が表れているようで面白い場面になっている。

文学に対する永井の傾倒は、坂口安吾「堕落論」を、戦後を代表する作品として推したこと、あるいはポール・ヴァレリーをしばしば引用し、そのアフォリズムを「鋭い洞察と観察を一種の表現まで象徴化して、現在の科学ではテストしえなくとも極めて正確な認識であるかもしれない」との発言をシンポジウム「哲学の再建」(中央公論1966/10)においても残していることからも窺われる。

永井政治学において「性愛と政治は極めてアナロジカルな関係にたつ」(現代政治学入門)。恋愛葛藤における男女間の愛憎のダイナミズムからの類推が政治状況の理解にも役に立つ。政治においては、善と悪とが一つであることと同様で、愛と憎しみも裏腹の関係を持つ。
 『善と悪とは一つである~徳田虎雄氏、徳州会・不正選挙の渦中に131114』

クンデラが価値をおく“compassion”の意味を同情ではなく、共感と解釈し、この共感を育むことで、政治の世界における憎しみを極小化できないか、永井の頭に閃くものがあったのでは!筆者は勝手に想像するのだ。

      

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「難民を見ない国」・日本、合格率0.2%の狭き門~「未来世紀・ジパング」から

2016年02月17日 | 現代社会
先の70年代のインドシナ難民の記事を更に追って、現在日本における難民への対応を探ってみた。表題の「見ない国」は残念ながら、言い得て妙なのだ。日経論説委員・太田泰彦氏の2015/3/15記事での表現である。但し、実務にあたっている人たちにとっては、それどころではないことは確かであろう。

合格率とは、法務省への難民認定の申請者数に対する被認定者数を示す数値だ。公式に難民と認定する人数は極めて少なく、昨年度は約5千人に対して、11人、“約0.2%”の狭き門だ。
そうは云っても、10年前の2005年は申請者384人だから、申請人数は増えていることは確かだ。
しかし、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、2013年末の時点で、紛争、迫害や人権侵害のために移動を強いられた人の数は5120万人に上る。その一年前に比べて600万人も増えており、シリア紛争が原因だと云う。

氏は、世界の難民の実情について、私たち日本人はあまりにも無知で、あまりにも鈍感ではないだろうか、現在の日本は「難民受け入れ後進国」であると云う。日本政府による「難民」の定義が、他の先進国に比べて厳しく、難民条約を狭く解釈しているからでもある、と氏は指摘する。

氏は「社会の側がそう呼ぶから、市井の人々が難民になる。日本人は受け入れ実績が少なく「難民慣れ」していないのは事実…異質を嫌うのは日本社会の特性…難民という言葉は、時に偏見をもって語られがちだ」と述べる。
そこから、「難民を見ない国・日本」との言葉が出てくるが、「見えない」、あるいは「見て、見ぬふり」も含まれている様な気がする。

異質を嫌うという点において、永井陽之助は日本人の国際関係観=平和観が「自然村」秩序観の投射であると「平和の代償」で述べる。即ち、「外国人は、都市のヨソ者であるが故に、警戒と親密の入り混じった態度で接し…大勢に受動的に反応するか、感情的に反発するしかない」。

先の記事で述べたインドシナ難民についても、初めの受入は年間で2,3人、その後、他の国々から批判があって、結局、その後に受入人数を増やして最終的には1万人を越える数字にまで達した。それでも米、豪、加、西欧諸国と比べれば、少ない数値にしかならない。
 『難民受入・国際化・“compassion”~永井陽之助1979年』

枠を広げて<難民>を考えれば、急増する老人ホーム入所希望者もその枠組に入る可能性が大きい。川崎市で発生した老人ホームでの死亡事故が殺人事件として取り扱われるようになった。3名が同様な事故死であったが、今の処、1名だけが被害者になっている。所謂、格差問題が福祉的に改善されるのではなく、排除の発想で対応するようになれば、世の中はますます混沌としてくるに違いない。

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難民受入・国際化・“compassion”~永井陽之助1979年

2016年02月15日 | 永井陽之助
ベトナム(インドシナ)難民の受入に対する永井発言を前の記事において不確ながら引用した。その参考文献を手元資料から見つけたので記録しておく。佐藤昇氏との対談「死か、再生かー岐路に立つ社会主義」(朝日ジャーナル1979/3/30号)の中での発言だ。
 『compassion”は“愛”を上回るか~永井陽之助の問題提起160212』

タイトルは「社会主義」に対する極めて悲観的な表現、朝日ジャーナルが付けるのだから、一般人は更に厳しい見方をしていることを窺わせる。78/8の日中平和友好条約の締結をトリガーにソ越、米中のそれぞれの接近が進み、その挙げ句、ベトナムのカンボジア侵攻、中国のベトナム侵攻と社会主義国間の戦争に?がった。勿論、カンボジアにおけるクメール・ルージュによる革命と大虐殺の事案も含めて共産・社会主義はアジアにおいても地に落ちた感ありであった。

話題が必然的に国内の革新陣営に及んだ時、永井は革新が保守を打ち破るポイントは「“国際主義”になること、民族主義だからダメなのです」と指摘した。

続けて、「日本くらい閉鎖的な体制はない。もの凄い自己中心的な体制ですよ」、
「ベトナムのボート・ピープルで判る様に、米国の女優さんは個人で三人引き受けるのに、日本は全部で三人しか引き受けていない。女優ひとり対日本国家という恐るべき国際閉鎖体制…」。

ここで、当時のベストセラー?小説・小松左京「日本沈没」に触れる。
「日本沈没では、日本人が全部難民になって、オーストラリアに何百万とは引き受けさせるわけね。だけど、たった三人しか引き受けない日本国民を救ってくれる国がどこにあるかと思ってね(笑い)」、となる。

ここでポイントは「国際主義に基づく難民受入」だ。ここから、他人が窮地のときに助け、自らが窮地に立ったときに救われるという相互感覚は、先の引用における“compassion”が基盤にあって成り立つ、との考え方を永井が掴んでいたように思われる。

革新陣営にその先駆けを期待しての発言の様に思われる。
それは、『日本外交における拘束と選択』(「平和の代償」所収)において、現在の日本の革新勢力の根本的な誤りとして、逆転すべきと指摘した次の二点を十年後も依然として堅持していることを示すものだ(P105参照)。
「外交におけるラディカリズムのリップサービス」、
「国内社会変革では保守的、現実的であること」。

戻って、ウキからの引用になる。
インドシナ難民とは、1975年、ベトナム・ラオス・カンボジアが社会主義体制に移行し、経済活動の制限、迫害を受ける恐れ、体制に馴染めない等の理由から自国外へ脱出し、難民となった人々で、約150万人(UNHCR)が難民化した。
難民の流出は1970年代後半から80年代を通して見られ、特にその一部はボート・ピープルとして海外へと脱出したことで世界から注目された。

日本が難民の定住受入を決めたのは、1978年。78年に3人、79年には2人だった。従って、永井発言は1978年の実績として正しい認識になる。その後は受入態勢を整備した。それでも以下の人数を比較すると、大国としては著しく少ない。

各国の現在までのインドシナ難民受け入れ数は以下となっている。
米:823,000人 豪および加:各137,000人
仏: 96,000人 独および英:各 19,000人
日: 11,319人

      
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カトリックとロシア正教との和解~無限の歴史的教訓

2016年02月13日 | 永井陽之助
報道によれば、ローマ・カトリック教会を率いる法王フランシスコと東方正教会の最大勢力、ロシア正教会の最高位キリル総主教は2012/2/12に、キューバの首都ハバナで会談に臨む。キリスト教会が1054年にカトリック教会と東方正教会に分裂して以降、ローマ法王とロシア正教会トップの会談は初めて。双方は歴史的な和解への一歩を踏み出す。これは、2014年に法王フランシスコと総主教バルソロメオス1世が統一へ向けての共同宣言に署名したことを受けている。


 
 ローマ法王フランシスコ(左)、ロシア正教会キリル総主教(右)=AP

一方、今回の事案の報道に関連して次のことを筆者は初めて知った。1964年にローマ法王パウロ6世と東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスが会談し、対立解消に向け前進したのが、その始まりとのことだ。

丁度1年前の本ブログで、「平和の代償」において永井陽之助が以下のことを記述していることを述べた。今を去ること50年前に、である。
カトリック教会が信仰の自由を認めたのは、1965/1/19バチカン公会議での宣言の承認によってである。これは非カトリック教徒が良心に基づいてそれぞれの信仰を持つ権利を認めたもので、その歴史的意義はカトリック教会だけのものではなく、少なくともキリスト教全体の統一にも関わるものだ。
 『カトリック教会、信仰の自由を承認1965年 150211』

続いて氏は次の様に云う。
「このニュースは日本で注目を引かなかったが、私には、キリスト教の持つ不寛容性、妥協しない西欧的イデオロギーの強靱さを思い知らされた。現代という“宗教戦争”の時代に生きる、我々にそれは無限の歴史的教訓を与えている。」
氏が存命であれば、今回も同じことを述べるに違いない。

ここから永井は西欧における「政経分離」と「政教分離」の成功が、平和共存を導き出したことを指摘し、宗教的情念が噴出するのを抑止したのは、「平和」を「正義」より上位に位置づける一般民衆の価値観によるとした。
この永井の洞察は今日のイスラム教の政治的台頭と、それにともなう世界的混沌を予測したかの様に思える。長期的な見通しを持ち、しかし、一般民衆の平和への思いをも、その見通し中に織り込んだ発想を示している。
 『西欧の平和は「政教分離」と「政経分離」で~「平和の代償」永井陽之助150212』

今回のトップ会談では、当然、中東過激派組織・イスラム国の勢力拡大を意識して、中東、アフリカ等で、迫害を受けがちになるキリスト教徒の保護が先ずの議論になるであろう。東西キリスト教会の関係修復が進めば、バチカンが影響力を持つ欧米と、正教の信者が多いロシアとの対立緩和などの基盤が固められるはずだ。

      
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“compassion”は“愛”を上回るか~永井陽之助の問題提起

2016年02月11日 | 永井陽之助
「映画にもなった、チェコの亡命作家ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』のなかに、「コンパッション」の章があって、ラテン語の語源を引き、他者の痛み、苦しみをわかちあうことこそ、「愛」よりも高次元の普遍的な人間の情念ではないのかと言っています。上下の力関係を前提とした「同情」とは根本的に違う次元の概念です。」

永井陽之助が文芸批評家・江藤淳との対談『「歴史の終わり」に見えるもの』(文藝春秋1990/1月号)の中で述べた言葉だ。中国の天安門事件、ベルリンの壁の開放から東欧圏の自由化、1989年は大きな変化の年であった。日本にとっては、日米経済摩擦が文化問題にまで深化ことが、これらに劣らず、時代の変わり目を意識せざるを得なかった問題であった。

永井は続けて米国の大衆的コンパッションを呼び起こす例として、「レスキュー・オペレーション神話」(氏の造語)について話す。幼い子どもが井戸の落ちたのを救出する事件を例に挙げ、テレビで大騒ぎするとの話、「庶民の感じ方であり、庶民的な神話の構造…」と指摘する。

そこから政治的事案の例を挙げる。
二次世界大戦で占領地を開放し、ナチ強制収容所の残虐性を目にしたことに関して、アイゼンハワーが「大きな犠牲を払ったこの戦争も、やはり戦うに値した。」と語る言葉が、米国の大衆に普遍的な共感を呼ぶと指摘する。

この対談の表題は「冷戦の終焉」の際に、余りにも有名になったF・フクヤマ論文の題名を借りたものである。永井はそこから「東西対立」という言葉の意味が微妙に変質してきていると指摘する。即ち、東がアジアを意味することに、微妙に変質してきており、日本異質論が口にされ、新しい冷戦物語を創り出そうという危険な兆候がみられる、と云う。

その文化的摩擦になりかねない日米関係の問題について、永井はパーセプションギャップではなく、“コンパッションギャップ”だと思っていると発言し、江藤との認識と対立する。

どちらかと云えば、江藤が常識的に「個人対個人としてコンパッションは大切だが、国家間の問題について、過度に心情的になるのは良くない。そこで出てくるのは国益に関する冷徹な認識だ」と述べる。この辺りはどちらが政治学者なのか?と考えてしまう処だ。日本の外交に対して冷静な認識を示す永井の思考が何か新たな方向を示すのか?との疑問が、当時、読んだ際は浮かばなかったが、今になって湧いてくる。

“コンパッションギャップ”について、永井の説明が続く。
「どういうときに人々が感動し、「アンフェア」と激怒し、悲しみに泣くのか、という情念の波に大きなギャップがあるということです。そのことを、外交上の問題として指摘しているだけです。」
「日本人がそういう事柄にかなり無神経である…海外の事故で日本人の犠牲者がいないと急に関心を示さなくなる…そういう問題に対するイマジネーションの欠如が確かに日本人にはある」。

今回、対談を再読して感じることは、昨今のイスラム難民問題への対応は“コンパッション”と無縁でないということだ。EC各国の政府は、国内の反対勢力と対峙しながら、大量の難民を受入れる姿勢を崩さない。これは半端ではない。

かつてボートピープルと呼ばれたベトナム難民の受入に対して、当初、日本は受入数が極端に少なく、諸外国から強く圧力を掛けられて増やした経緯がある。確か永井は何かの座談会において、小松左京「日本沈没」で日本人が難民となり、外国に助けられる話を引き合いに出し、「現実の難民を引き受けない日本人を、どこの国が助けてくれるのか?」と冗談を飛ばしていたことを覚えている。

北朝鮮が崩壊した場合、大量の難民が発生する可能性があり、日本の沿岸をめがけてボートピープルが殺到する可能性も捨てきれないはずだ。このとき試されるのは、政治思想として「愛」を持つか否かでは無く、“コンパッション”の有無であろうことを、永井はベトナム難民の状況から想定したのかも知れない。

日米経済問題で唐突に“コンパッションギャップ”を思いついたのではなく、日頃の政治的思考の中で熟してきた考え方と理解できるのだ。

      
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