散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

外交・防衛論に表れた「戦争と革命」~永井論文を整理する

2015年06月28日 | 永井陽之助
丸山眞男の論説と対比する形で永井陽之助のボルシェビキ革命以降の現代の革命に関する見解を、思いつくままに、以下の記事の中で紹介した。

 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(1)~“憲法九条”を巡って150607
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(2)~“観念の冒険”を巡って150609
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(3)~“被害者”を巡って150613
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(4)~“絶対の敵”を巡って150614
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(5)~“暴力行使”を巡って150615
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(6)~“正義”を巡って150623

一方、上記の憲法九条の思想、観念の冒険(イデオロギーによる正当化)、暴力行使とその被害者、絶対の敵とゲリラ活動、正義と秩序だけでなく、“庶民像と知識人”“国内治安”“勢力均衡と限定戦争”などについても比較するとその対照的な違いが明らかになる。

しかし、個々の違いを議論していてもまとまりがつかない。そこで永井の思想について、その論文を整理して論じることにしたい。先ず、この記事では、戦争と革命について論じたものをピックアップしてみる。

(1)『米国の戦争観と毛沢東の挑戦』(中央公論1965/6、「平和の代償」所収)
(2)『国家目標としての安全と独立』(中央公論1966/7、「平和の代償」所収)
(3)『アジアにおける力の均衡』(エコノミスト1968/1/2、「多極世界の構造」所収)
(4)『核時代における国家と革命』(中央公論1968/1)
(5)『解説 政治的人間』(「政治的人間」1968/11、「柔構造社会と暴力」所収)

ひとつだけ気になるのは、『核時代における国家と革命』だけは中央公論から出版された「多極世界の構造」、「柔構造社会と暴力」のどちらにも所収されていない。時期的にも、内容的にも、どちらかに入れるべきと考えるが、何故だろう?筆者は少し穿った見方をしている。

その論文の中に「「あやまちは、くりかえしません」―広島の原爆記念碑はその集団マゾヒズムの象徴である。」との記載がある。当時、碑文の内容に関して論争があったので、永井あるいは中央公論社が中公叢書への所収を控えたのではないか。しかし、その力作論文が批評の対象にならないのは残念なことだ。

閑話休題。
上記の論文は60年代後半に、70年安保問題と共に、大学紛争及び学生運動が過熱化し、政治的ラディカリズムが噴出するなかで書かれた。
中国の文化大革命は「造反有理・革命無罪」を旗印にして、紅衛兵を戦闘にして1966年5月頃を皮切りに始められた。また、フランスの五月革命(1968/5/10)の発端となったストラスブール大学の学生運動も1966年に起きている。

(1)-(3)は日本の外交・防衛政策を議論する中でその認識の基盤になる「戦争と革命」に触れられている。また、(4)(5)はそれぞれの表題に沿って、永井政治学の中核となる考え方の中に「戦争と革命」を捉えている。

次回以降、先ず、「平和の代償」から論じてみよう。

      
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“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(6)~“正義”を巡って

2015年06月24日 | 永井陽之助
永井陽之助が「平和の代償」の中で二度にわたり力説した点、
「「正義」より「平和」を上位の価値にすえざるを得ない深刻な苦悶を味わっていない平和主義者は、いまなお「平和」より「正義」を上位の価値におく素朴な革命主義者と共に真に二十世紀に生きる人間ではない。」は、丸山眞男を意識してのことだと考える。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(2)~「観念の冒険」を巡って150609』

丸山は「現代政治の思想と行動」所収の『ある自由主義者への手紙』(1950年初出)の中で、正義について、セオドア・ルーズベルトと政治学者チャールズ・メリアムとの会話を引用して、正義か秩序のどちらかを選ばなくてはならないとき、メリアムの立場に与する、と述べる。

ルーズベルトが「秩序」の側に回る言った時、メリアムは自分が“アメリカ革命の息子たち”に属すると答える。正義とは“革命的正義”のことであり、秩序とは“隷属的秩序”であるから、メリアムは“秩序ある隷属”よりも“秩序を欠く革命”を選ぶということであり、丸山も同意なのだ。

勿論のこと、丸山は「万一不幸にして、この二者択一の選択に迫られたときは…」との断りをつけ、「あらゆる努力をしてこの状況になるのを防ぐ…」とも云う。即ち、「万一、あらゆる」と述べているから、起こり得ないとの前提での発言のように聞こえる。かつて、丸山は赤紙の前に、軍隊への召集に応じたからだ。

永井は「現在、平和は、例え不正義かもしれないが、米ソの共存体制による核兵器の共同管理を促進し、…」と述べる。
この時点(1966年当時)において、米ソの共同管理体制は曲がりなりにも出来つつ有り、一方、中国の核は、その革命的姿勢の故に、平和にとって危険が大きいとの判断であったと考えられる。従って、革命的正義よりも不正義の中での平和を採るとの考え方であったのだ。

丸山の発言は1950年であるから、それを1966年の段階で批判することは単なるすれ違いになるのはやむを得ない。
しかし、憶測の域をでないが、キューバ危機を力のせめぎ合いの現場である米国の中枢地において経験した永井にとって、丸山の選択理由が究極の場を想定しているにしては、極めて観念的に思えたとして、不思議は内。

丸山の選択理由は次の様だ。
「…しかし、メリアムに与する理由は、僕の祖国がメリアムと違って、革命の伝統を持たず、却って集会条例、新聞紙条例から始まって治安維持法・漸次言論集会結社取締法等々の警察国家の伝統を持っているからなのだ」。

確かに米国では革命及び南北戦争という内戦の経験がある。後者も北軍にとっては「正義の戦争」であったに違いない。しかし、これを合わせて伝統と呼ぶべきか、筆者には良く判らない。更に、キューバ危機も米ソのそれぞれの正義を賭けた対決の側面を持つのだ」。米国には正義の戦争という考え方が伝統としてあると考えたほうが良さそうだ。

だが、「革命の伝統がなく、警察国家の伝統を持つ」国に住み慣れ、軍隊の召集には従って経験をもつ人間が、宗教的背景もなく、革命的場面に直面したこともない状態において、究極の選択として正義を選ぶ、と言える処に疑問が湧くのだ。

庶民的感覚からは、知識人の乾麺的発言と受け取られる可能性が大きいと思える。それにも関わらず、記述するのは、結局、自らのインナーサークルの人たちに対する宣言であって、内部用のイデオロギーとしてのみ機能するように、筆者は感じる。従って、年と共に聴く人が少なくなるのも故無しとは云えない。


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薬物使用環境下での意思決定~トヨタ役員の逮捕、何が衝撃か?

2015年06月21日 | 現代社会
報道によれば、トヨタ自動車・常務役員で米国籍のジュリー・ハンプ容疑者(55)が米国から麻薬を密輸した容疑で麻薬取締法違反(輸入)によって、警視庁組織犯罪対策5課に逮捕された。

6月11日、米国からハンプ容疑者宛に、麻薬成分の「オキシコドン」を含む錠剤57錠が入った国際宅急便を輸入した疑いだ。一方、彼女は「麻薬を輸入したとは思っていない」と容疑を否認しているとのことだ。

ハンプ容疑者は米ニューヨーク州生まれ。米・GM、米・飲料大手のペプシコーラを経て、2012年にトヨタ自動車の米国法人に入社した。今年4月、トヨタ初の女性役員になり、広報部門を担当していた。

ここでは「トヨタ、役員、女性、初」が合わさり、象徴的なキーワードになる。日本代表で、かつ、世界でも冠たるグローバル企業の「トヨタ」、世界的に女性登用が遅れている「日本」の中での「初の女性役員」だ。

この中で筆者は「グローバル企業の役員が麻薬を使用していたらしい」ことに注目する。更にGM、ペプシ時代も使用していたのか?との疑いも当然でてくる。それは、激しいストレス下にある大企業の役員にまで、麻薬が広がっていそうだとの意味を読み取れてしまうからだ。その意味で“象徴的事件”なのだ。

麻薬も含めて薬物使用者は通常、依存症として捉えられる。しかし、薬物とは云えないが、酒、タバコを考えるとき、飲酒者あるいは喫煙者は、その量等を自らコントロールして取得している。それと同様に考えれば、薬物も「コントロール使用者」がいるとの指摘がある。

ごく普通に仕事をしながら、その中で薬物を鎮痛用等に、医師の指導のもとに使用する人もいる。更にそれを離れて、他人に気づかれない様にすることも含めてコントロールしながら使用する人たちも、それなりの数がいるだろう。今回の様に犯罪容疑として調べないと、表に出てこないだけに、社会への浸透の具合は判り難い問題だ。

今回の件が氷山の一角かどうか判らないが、少なくともトップエリート層にも薬物の利用が進んでいる疑いを広く社会に認識させる事件という意味で極めて衝撃的な報道であったと、筆者は受け取る。

事件が解明させる前に解釈を広げるのは危険なのだが、ストレスに晒され、薬物使用のもとに下される意思決定とは、どの様な方向に向かうことになるのか。恐らく“強気の判断”に違いない。その意思決定に部下は従うことになる。当然、別な意味で部下もストレスに晒される。

これが、昨今の陸海空を含めた国境警備の場合は、どのような影響を受けるのか?対中国では、スクランブル発進も増えているかに報道されている。民間でもJRの電車、飛行場での管制誘導において重大事故に繋がりかねないトラブルも報道を賑わせている。

チャップリンが「モダンタイムス」で80年前に風刺したのは、「資本主義・機械文明」の世界であたかも、チャップリンが歯車に巻き込まれるシーンの如く、労働者が機械の一部になる様相だ。



これに対して、「グローバル資本主義・ネット文明」は、優雅な役員室の中で机の上のパソコンを相手にしながらその机の引き出しの中に薬物を忍ばせている姿で描かれるのだろうか。

      
           
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“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(5)~“暴力行使”を巡って

2015年06月15日 | 永井陽之助
現代における戦争と革命を主題にし、永井陽之助は第二次世界大戦における日本の降伏を巡って書かれた近衛文麿の有名な上奏文、
「…最も憂うべきは敗戦よりも、敗戦に伴うて起ことあるべき共産革命にて御座候。」を『解説 政治的人間』(「政治的人間」永井編(平凡社1968)で引用した。

そこて、しばしば指摘される「戦争の被害者は民衆であり、革命の被害者は支配層である。古来、支配層は革命を避けるため、戦争を選ぶ可能性を常に持っている。」との指摘を紛れもなく事実であると述べる。これは丸山眞男の説を従来からの一般論として認めたものだ。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(3)~“被害者”を巡って150613』

しかし、問題はここからだ。丸山の従来イメージには、両大戦及び東アジアにおける中国内戦、朝鮮戦争、また、ソ連、中国等の共産主義革命の実態が含まれている様には思えない。あるいは、故意に含まさずにしている様にも見える。

永井は丸山説に対し、次の様に喝破する。
暴力行使の社会化=大衆化が徹底的に進行した第一次世界大戦と、レーニンによるボルシェビキ革命以後、これ(丸山説…筆者注)はそのままでは妥当しない命題になった」。

「否むしろ、第一次、第二次両大戦こそは、世界的規模の巨大な内戦、革命戦争の開始だったと理解する方が、より真実に近いのである。そしてそこにこそ、近代戦争のもたらす真の悲惨の源泉があるのだ」。

「スペイン戦争から朝鮮戦争、ベトナム戦争に至るまで、現代の内戦、革命戦争、人民戦争における、「組織化されたテロ」と反テロ、ゲリラ侵攻と対抗の応酬ほど酷薄なものはない。それは、無関係な大衆を紛争に巻き込み、不毛な憎悪と不信で民族的連帯と社会構造の解体に導くのみか、文化と精神の荒廃を結果する。我々は、いま、宗教戦争の時代に生きているのだ。」

ほぼ50年前の永井の指摘に、今現在、報道を通して私たちに否応なしにイメージを与える過激派集団・イスラム国が想い浮かぶのを頭の中から消すことができない人も多いだろう。
 『イスラム国の存立基盤~ボルシェビキ革命からの類推150323』

更に25年前、永井は民族主義とエスニックパワーの台頭で世界が“バルカン化”すると予測する。エスニックナショナリズムは性欲と似て、崇高な愛に昇華することもあるが、嫉妬、怨念、憎悪をかきたてる可能性が大きいと!
 『広がるワールドディスオーダー~永井陽之助1991年150129』

先の記事の中で、中本義彦氏が論争家としての永井の仕掛けを三点紹介していることに触れた(中央公論2009/6,P198-205)。その最初が「平和の代償」における進歩派との中立論争だ。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(1)~憲法九条を巡って150607』

しかし、そこで筆者は、中立構想の根元にある“戦争と革命”の見方に関する問題を、永井は丸山論文に対して提起している、と述べた。永井が丸山を始めとして、進歩的と呼ばれる一群の知識人に仕掛けたのは確かだと思うからだ。

しかし、中本がそれを無視せざるを得なかったのは、まともな答が永井へ返って来なかったからであろう。これでは論争にならない。従って、仕掛けたこと自体が年と共に風化せざるを得ず、その重要な中味も無視される。

「永井政治学」とは何だったのか、この問いを考えるには、論争を始めとして、批判、批評、評価等によって光を浴びた部分だけではなく、本人の提起した問題・課題・仕掛で、世間から見過ごされ、不発に終わった部分にも目配りし、掘り起こす必要もあるはずだ。本稿(本ブログ)もその一助になれば幸である。

      
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“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(4)~“絶対の敵”を巡って

2015年06月14日 | 永井陽之助
丸山眞男はイギリスの教授の発言、冷戦結構じゃないか、それは平和共存の別名だから、を論じて「「平和共存」の現実は、ただ「戦争無き状態」…核兵器という絶対兵器の所有を正当化するためにも、絶えず絶対敵の想定への心理的拍車が加わるから平和共存は低い次元に押さえられる…」と述べる(「憲法第九条を巡る若干の考察」『世界』1965・6月号)。

絶対兵器という言葉は聞き慣れない。辞書を調べても見当たらない。なお、最終兵器(「最終兵器彼女」を想起!)、究極兵器(ultimate weapon)という言葉はあるようだ。すると、丸山は絶対敵(絶対の敵)という言葉に合わせて、核兵器を「絶対兵器」と呼んだと推定できる。

昨日の記事で指摘した様に、「絶対の敵」とはカール・シュミット「パルチザンの理論」におけるキーワードなのだ。丸山はそれを知っていたはずだ。しかし、丸山は核兵器から想定できるかの如く書く。勿論、シュミットは核兵器の出現が「絶対の敵」概念に寄与したことに触れる。しかし、それだけではなく、レーニン、毛沢東による階級の敵、人類の敵などの概念も「絶対の敵」に該当すると指摘する。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違~“被害者”を巡って150613』

以下に、「パルチザンの理論」における敵概念を再度、記載してみる。
在来の敵 王朝時代の戦争における敵である。戦争は、外交目的のゲームであって、兵士はもっぱら傭兵からなる。民族感情、愛国心を欠く兵士にとって、敵は憎悪の対象ではない。一定のルールのもとで行われる決闘に近い。従って、極めて人道的である。

現実の敵 フランス革命によって触発されたナショナリズムを基盤に、人民戦争の形態で芽ばえ始め、フランス軍に対するスペインのゲリラ戦で明確な形をとった。現実の敵イメージは、激しい憎悪を、戦闘は過酷さを伴った。

絶対の敵 侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージである。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となる。更に、スターリン、毛沢東の革命理論は、文明の敵、人類の敵、階級の敵、民族の敵という“絶対の敵”概念を育てあげる。
 『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~「パルチザンの理論」110618』

丸山は「観音の冒険」は見当たらないと云い、一方、永井は過剰だと反論した。金日成の韓国侵略は、今では「観念の冒険」に相当することは常識であろう。しかし、1965-66年当時の丸山を始めとした知識人にとっては、ためらいがあったのだ。永井が丸山に反発したのは、その“ためらい”に対してだと筆者は感じる。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違~「観念の冒険」を巡って150609』

「パルチザンの理論」は1963年に独で出版され、新田・山梨大助教授(当時)によって翻訳され、1972年に出版された。筆者の手元には初版がある。その後、絶版したらしいが、2008年に筑摩学芸文庫として復刊されている。

そのあとがきの中の謝辞において、著者は「多年に亘って初歩的なことまでご指導して頂いた丸山真男先生のお名前だけは特にあげることを許して頂きたいと思う。」と述べている。また、少しややこしくなるが、「凡例」には、本書が既に翻訳され、永井が編集した「現代人の思想16・政治的人間」(平凡社1968)に発表されていることが記されている。即ち、永井の働きかけで新田の仕事が広く世の中に公表されたのだ。

更に、「訳者解説」の中で、新田は「本書については、既に永井陽之助氏の優れた解説―『解説 政治的人間』(初出、平凡社版に所収、後に「柔構造社会と暴力(中公叢書1971)―があるので参照せられたい」と述べている。

ここから、丸山もこの本を当時既に読んでおり、シュミットの提起した「絶対の敵」の重要性を理解していたと考えて良いだろう。それが何故、自らの主張に都合良い処(核兵器の部分)だけに、「絶対の敵」を当てはめ、共産主義革命の部分には該当させなかったのだろうか。

ここで、改めて永井の主張を再認識し、更に、丸山が「共産主義革命」と「絶対の敵」を結びつけなかった理由を永井がどのように評価したのか、次に考えてみる。

     
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“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(3)~“被害者”を巡って

2015年06月13日 | 永井陽之助
丸山眞男はこれまで引用した論考、(「憲法第九条を巡る若干の考察」『世界』1965・6月号)のなかで、革命と戦争を対比し、比較する。「両者は共に政治的な紛争の最高度の形態…、紛争解決の最もラディカルな手段…。しかし、両者の発展形態を見ると、…その表れ方は逆の方向を強めている。戦争の被害はますます下降…、革命の被害はますます上昇…」。

更に、現代の政治革命について、「「宮廷革命」化する傾向にあり、暴力革命は…軍隊の一部または大半が寝返って鉄砲を政府の方に向ける」と述べ、支配層の被害を強調する。一方、「…戦争は戦闘員間の戦争に限定されず、一般非戦闘員の損害が飛躍的に増大している…」と述べる。

但し、ここでは第二次大戦後の東アジアにおける政治情勢として、韓国・朴正煕の軍事クーデターが頭に浮かんでいるだけだ。革命と戦争が混在する中国内戦、勝利した毛沢東による中国革命・大躍進政策による混乱、共産革命に成功した北朝鮮の韓国侵略に始まる朝鮮戦争を考えていないようだ。現代東アジアの政治革命を直視すれば、欧州の19世紀的世界を想定しても的外れだ。

その頃の東アジアでは、核兵器、戦闘機・爆撃機を除く、在来型の兵器による熱戦、革命的政策の実施を通して、その被害は下降し、一般戦闘員と共に、民衆のへも著しく拡大していたのだ。

永井陽之助は『米国の戦争観と毛沢東の挑戦』(「平和の代償」所収、初出「中央公論1965・6月号」)において次の様に云う。
「ゲリラ戦の本質は、戦争と平和が未分化な、あいまいな状況、不安とテロの心理的恐慌状態の日常化を作り出すことにあるからだ。これは戦闘員と非戦闘員の区別をつけぬ、住民全体を常に“人質”とする作戦で有り、非戦闘員たる村民をみだりに殺さないという弱みをフルに利用した政治的戦闘方法だからだ」。

大学紛争後の過激派によるハイジャック、爆破テロなど、また、カンボジア・クメールルージュによる自国民大量虐殺のニュースに接し、更には、最近のイスラム国の恐怖政治による地域支配の実態の情報に接し、ゲリラに対する上記の永井の説明には私たちも驚かないし、納得もする。

しかし、1965年当時では、先の記事で引用した丸山の言葉に理解を示すのが、一般的反応であった様に思う。丸山のゲリラ観は「パルチザン、ゲリラは局地性と土着性の性格を有し、抵抗と防衛の域を出ない」であった。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違~「観念の冒険」を巡って150609』

しかし、“抵抗と防衛”だけであれば、革命などは必要ない。敵を追っ払えば良いだけだ。それは、スペインの民衆がナポレオン正規軍の侵略に対して非正規のゲリラで戦ったことに示される。それは後進国の土着ナショナリズムに基づく、将に激しい「防衛」であって、「革命」ではなかった。この辺りに、当時の丸山とそれを取り巻く知識人の認識に歪みがあり、そこを突いた永井の鋭さであった。

「防衛」であっても、正規軍に対抗するのであるから、ゲリラだけでなく、一般民衆の被害は小さくないはずだ。更に「革命」であれば、一般民衆の被害は大きくなるはずだ。そこを丸山は何も触れていない。
従って、永井の指摘は先の記事で示した様に、丸山の発想を批判したものと考えられる。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違~憲法九条を巡って150607』

問題は、丸山が革命におけるゲリラ戦をどの様に理解していたのかだ。丸山の論文にはカール・シュミット「パルチザンの理論」のキーワードとなる「絶対敵」が出てくる。これは、本ブログの最初の頃に紹介した。オバマ・米大統領がアルカイダの最高指導者・ウサマ・ビンラディンを殺害したときだ。
本ブログを始めた一つの契機でもある。再度、今回の一連の記事と関連させ、次回に取り上げてみよう。
 『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~「パルチザンの理論」110618』

      
      
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“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(2)~「観念の冒険」を巡って

2015年06月09日 | 永井陽之助
ここでは、ホワイトヘッドの「観念の冒険」(1933)を論じるわけではない。科学者、技術者が新たな成果を求めて、アイディアを練り、それを実験的に試みることを想起すれば良いだけだ。但し、主題は科学技術ではなく、戦争と平和の問題であり、そこに革命が絡む国際問題、即ち、人間行動の分野なのだ。

1965-1966年頃に国際政治の領域を振り返って、
丸山は「観念の冒険」は見当たらないと云い、
永井は「観念の冒険」が過剰であったと云う。

それぞれ、前回紹介した『憲法第九条をめぐる若干の考察』「世界」1965・6月号及び『国家目標としての安全と独立』「中央公論」1966・7月号に書かれている。
順序からすれば、丸山を永井が批判したことになる。
 『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違~憲法九条を巡って150607』

文脈の中で比較してみよう。
永井は「平和の代償」における最後の部分で、平和への方法論として「恐怖の均衡」から「慎慮の均衡」へ転化させる道を示唆する。その議論の中から、「国際関係や外交の領域で政治家や外交家が「観念の冒険」(ホワイトヘッド)を行うことほど、平和にとって危険なことはない。現代は宗教戦争の時代なのだ。その危機は、「観念の冒険」が過少であるからではなく、過剰であった故である。」と云う。続いて、米国、ソ連、ヒトラーが例示され、特にナチのリーダーが「観念の冒険」を政治や外交の領域で試みたとき、狂気の“最終的解決”が生まれた、と論じる。

日本も負けずに“大東亜共栄圏”という「観念の冒険」を持ち出したことは誰でも承知のことだ。筆者の小学校の担任の先生は、歌人であり、若い頃(太平洋戦争中)に「少国民軍唱歌」(うろ覚えだが…)の歌詞の募集に応募して当選したことを一面で悔やんでいた。そんなこともあったのだ…。閑話休題!

「外交や政治の領域では、常に一億の同胞、あるいは人類全体の生命が賭けられている。…外交や政治の領域で、紛争や問題を、最終的にラディカルに解決しようという発想は、未成熟な政治的思惟を示すものである」とも云う。

一方、丸山は論考の最終章「三.現代国際政治の発展傾向と第九条」において、「第九条の原理と直接関連する戦争と平和の存在形態が昨日のそれと大きく変わって来たと思われる側面に着目しての抽象的観察」を試みる。

先ず、「両大戦の経験から感じられることは、国際政治の領域では、「観念の冒険」を行ってそのため危険に陥ったという例は、先ず見当たらない…」と述べる。突然に「観念の冒険」が出てくる。のだが、何を意味するのか実は良く判らない。

即ち、これに対比する「微妙な変動を見落とし、既成の固定観念で現実に対処…致命的な錯誤を招いたケースが少なくない」の枕言葉になっているだけだ。共に例示がないのが、この話の特徴だ。そこから、イデオロギー(=観念)を抜きに、昨今の国家及び国際政治の動向を語ろうとの意図を筆者は読み取るのだ。

そこで、丸山は現代国際政治の非連続面に注目する。
先ず、戦争形態と戦争手段に両極分解傾向を見る。一つは核兵器の国際管理等に表れる超国家化であり、もう一方は、パルチザン、ゲリラに見られる人民レベルへの下国家化だ。ここでゲリラは局地性と土着性の性格を有し、抵抗と防御の域を出ないと云う。

丸山の論点は、ゲリラの規定にあるのだ。ここからイデオロギー、特に共産主義がすっぽりと抜け落ちる。そこで第九条に問題を返して、「丸裸で侵略を防げるか」という論者に対して、「一般人民の自己武装(民兵)を許す用意はあるのか、との反問を禁じ得ない」との飛躍になる。ここで、イデオロギー、ナショナリズムは抜きで主権者たる人民の権利を論じられるのは、「観念の冒険」は見当たらないとの最初の設定が効いているからだ。

丸山は自己の論理を構築するために、「観念の冒険」をダシに使った様だ。しかし、論理実証学で理論武装した時期を持ち、政治的象徴論(イデオロギー論)を50年代に深めた永井が、そのような論理操作に対して何も感じないわけがない。

永井が云う「正義」より「平和」を上位の価値にすえざるを得ない深刻な苦悶を味わっていない平和主義者、いまなお「平和」より「正義」を上位の価値におく素朴な革命主義者のどちらが丸山を指しているのだろうか?あるいは…その意図はないのだろうか。

      
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“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(1)~憲法九条を巡って

2015年06月07日 | 永井陽之助
「平和の代償」の中で永井陽之助は丸山眞男について二度触れている。
一つは『あとがき』での謝辞、「この論文を書くに当たって、多忙にもかかわらず討論の時間を割いて下さった丸山眞男教授をはじめ、…」である。

もう一つは第三論文『国家目標としての安全と独立』において、人間の欲求を福祉価値(安全・冨等)と名誉価値(権力・地位等)に分けて論じ、「日本国憲法の「生存権」の規定は、丸山眞男氏が鋭く指摘されるように、(「憲法第九条を巡る若干の考察」『世界』1965・6月号)、日本の安全保障が、民族ないし民衆の生存確保というギリギリの「国民的生存権」の基本的要求から発すべきもので、国家威信や権力闘争の手段のためではないこと…」と引用した箇所だ(「平和の代償」P154)。

この二箇所だけを読めば、永井は日本の憲法問題、外交政策に関して、意見は異なるが、恩師の丸山と議論を交わして何かを得た、と考えられる。但し、『あとがき』の上記引用箇所以降に「特に…貴重な示唆を与えられたD リースマン教授、…詳細に評論して下さったトーマス・シェリング及びモートン・ハルパリン両教授…」とあるから、儀礼的な側面が強いとも云える。

「平和の代償」を最初に読んだ大学2年生の当時、丸山の論文は引用箇所を確かめる程度には読んだが、論争などの経緯、それぞれの立場等が判る由もなく、何も記憶に残っていない。

一方、現在、安倍政権が進める日米関係の強化を中心とした集団安保等を巡っての国会でも論戦が行われている。しかし、「平和の代償」、「冷戦の起源」の二冊が永井陽之助の著作の中で復刻されているが、著作の中で展開された考え方が議論された形跡はない。それでも議論に関心はあるので、ネット等での議論にも気をつけてフォローしている。

その中で、池田信夫氏が論考(20140819)の中で丸山論文を引用しているのに気が付いた。
「戦争が起ったのは軍隊があったから→軍隊をなくそう…こういう短絡的な話はわかりやすく…日本人の心情倫理にアピール…。丸山も反省したように、これが「戦後リベラル」の原点…悔恨にもとづく心情倫理…具体的な政策を生み出さなかった。彼は憲法の平和主義を次のように嘲笑している。」
「第九条の理想としての平和主義を堅持するという主張によって、なにが否定されているのか。「戦争主義」が否定されているのか。…およそ戦争主義、あるいは軍国主義を理想として憲法に掲げる国家というのは、現実にもなかったし、今後は一層考えられません。」

更に最近の論考(20150117)においてもその論文から引用している。
「核兵器は超大国が独占…、普通の兵器はコモディタイズ…、21世紀の戦争は…テロリストと国家のゲリラ戦…こういう非対称戦争の最初は日中戦争だった、と丸山眞男は指摘している(「憲法第九条をめぐる若干の考察」)」。

前者に書かれている様に、丸山が反省したとすれば、60年安保闘争以前の発言ではなく、引用された論考以降の発言を問題にすべきであり、その点、再度、読む必要を感じた。それ以上に、後者において、“戦争と革命”について議論しているのであるから、この点での永井との違いを知るのは必須と考えた。

そこで、早速、図書館からバックナンバーを借りて読んだ。それと『国家目標としての安全と独立』(初出「中央公論」1966・7月号)を比較すると、その中で永井は丸山の発想を中心に批判した様に思える。

永井が2008/12/30に亡くなったことは翌年の3月頃に報じられた。
その後、「永井陽之助とは何者であり、彼の遺した「永井政治学」とは何だったのか、この問いを考えることは、戦後日本の国際政治学の歩みを考えることに他ならない。」との中本義彦氏の提起がある(中央公論2009/6,P198-205)。

ここで中本は「論争家としての永井陽之助~政治的リアリストの立場と現実」を設定し、三点の外交・防衛問題を取り上げる。しかし、今調べてみても、これまでその議論に関して特段の反響はないようだ。

その三点は、「平和の代償」における進歩派との中立論争、外務省との中国国交回復論争、岡崎勝彦氏との対ソ連軍事増強論争だ。中立論争で永井が最も問題としたのは丸山が共同執筆の「三たび平和について」(1950)、坂本義和「中立日本の防衛構想」(1954)だと中本は指摘する。

坂本はさておいて、丸山に関しては、1950年の論考は古い。というのは、中立構想の根元にある“戦争と革命”の見方に関する問題を、永井は丸山論文に対して提起しているからだ。次回以降、考察を進めていきたい。

      
コメント
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