丸山眞男の論説と対比する形で永井陽之助のボルシェビキ革命以降の現代の革命に関する見解を、思いつくままに、以下の記事の中で紹介した。
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(1)~“憲法九条”を巡って150607』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(2)~“観念の冒険”を巡って150609』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(3)~“被害者”を巡って150613』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(4)~“絶対の敵”を巡って150614』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(5)~“暴力行使”を巡って150615』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(6)~“正義”を巡って150623』
一方、上記の憲法九条の思想、観念の冒険(イデオロギーによる正当化)、暴力行使とその被害者、絶対の敵とゲリラ活動、正義と秩序だけでなく、“庶民像と知識人”“国内治安”“勢力均衡と限定戦争”などについても比較するとその対照的な違いが明らかになる。
しかし、個々の違いを議論していてもまとまりがつかない。そこで永井の思想について、その論文を整理して論じることにしたい。先ず、この記事では、戦争と革命について論じたものをピックアップしてみる。
(1)『米国の戦争観と毛沢東の挑戦』(中央公論1965/6、「平和の代償」所収)
(2)『国家目標としての安全と独立』(中央公論1966/7、「平和の代償」所収)
(3)『アジアにおける力の均衡』(エコノミスト1968/1/2、「多極世界の構造」所収)
(4)『核時代における国家と革命』(中央公論1968/1)
(5)『解説 政治的人間』(「政治的人間」1968/11、「柔構造社会と暴力」所収)
ひとつだけ気になるのは、『核時代における国家と革命』だけは中央公論から出版された「多極世界の構造」、「柔構造社会と暴力」のどちらにも所収されていない。時期的にも、内容的にも、どちらかに入れるべきと考えるが、何故だろう?筆者は少し穿った見方をしている。
その論文の中に「「あやまちは、くりかえしません」―広島の原爆記念碑はその集団マゾヒズムの象徴である。」との記載がある。当時、碑文の内容に関して論争があったので、永井あるいは中央公論社が中公叢書への所収を控えたのではないか。しかし、その力作論文が批評の対象にならないのは残念なことだ。
閑話休題。
上記の論文は60年代後半に、70年安保問題と共に、大学紛争及び学生運動が過熱化し、政治的ラディカリズムが噴出するなかで書かれた。
中国の文化大革命は「造反有理・革命無罪」を旗印にして、紅衛兵を戦闘にして1966年5月頃を皮切りに始められた。また、フランスの五月革命(1968/5/10)の発端となったストラスブール大学の学生運動も1966年に起きている。
(1)-(3)は日本の外交・防衛政策を議論する中でその認識の基盤になる「戦争と革命」に触れられている。また、(4)(5)はそれぞれの表題に沿って、永井政治学の中核となる考え方の中に「戦争と革命」を捉えている。
次回以降、先ず、「平和の代償」から論じてみよう。
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(1)~“憲法九条”を巡って150607』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(2)~“観念の冒険”を巡って150609』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(3)~“被害者”を巡って150613』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(4)~“絶対の敵”を巡って150614』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(5)~“暴力行使”を巡って150615』
『“戦争と革命”に関する丸山と永井の見解の相違(6)~“正義”を巡って150623』
一方、上記の憲法九条の思想、観念の冒険(イデオロギーによる正当化)、暴力行使とその被害者、絶対の敵とゲリラ活動、正義と秩序だけでなく、“庶民像と知識人”“国内治安”“勢力均衡と限定戦争”などについても比較するとその対照的な違いが明らかになる。
しかし、個々の違いを議論していてもまとまりがつかない。そこで永井の思想について、その論文を整理して論じることにしたい。先ず、この記事では、戦争と革命について論じたものをピックアップしてみる。
(1)『米国の戦争観と毛沢東の挑戦』(中央公論1965/6、「平和の代償」所収)
(2)『国家目標としての安全と独立』(中央公論1966/7、「平和の代償」所収)
(3)『アジアにおける力の均衡』(エコノミスト1968/1/2、「多極世界の構造」所収)
(4)『核時代における国家と革命』(中央公論1968/1)
(5)『解説 政治的人間』(「政治的人間」1968/11、「柔構造社会と暴力」所収)
ひとつだけ気になるのは、『核時代における国家と革命』だけは中央公論から出版された「多極世界の構造」、「柔構造社会と暴力」のどちらにも所収されていない。時期的にも、内容的にも、どちらかに入れるべきと考えるが、何故だろう?筆者は少し穿った見方をしている。
その論文の中に「「あやまちは、くりかえしません」―広島の原爆記念碑はその集団マゾヒズムの象徴である。」との記載がある。当時、碑文の内容に関して論争があったので、永井あるいは中央公論社が中公叢書への所収を控えたのではないか。しかし、その力作論文が批評の対象にならないのは残念なことだ。
閑話休題。
上記の論文は60年代後半に、70年安保問題と共に、大学紛争及び学生運動が過熱化し、政治的ラディカリズムが噴出するなかで書かれた。
中国の文化大革命は「造反有理・革命無罪」を旗印にして、紅衛兵を戦闘にして1966年5月頃を皮切りに始められた。また、フランスの五月革命(1968/5/10)の発端となったストラスブール大学の学生運動も1966年に起きている。
(1)-(3)は日本の外交・防衛政策を議論する中でその認識の基盤になる「戦争と革命」に触れられている。また、(4)(5)はそれぞれの表題に沿って、永井政治学の中核となる考え方の中に「戦争と革命」を捉えている。
次回以降、先ず、「平和の代償」から論じてみよう。