「教養としての経済学」(一橋大経済学部編 有斐閣)は、多様な経済学の姿を描き出している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/75/a3f6474e4ab59c69f45a512046d4c2b1.jpg)
その中で、古典としてスミス、マルクスを石倉教授が、J.S.ミルを齋藤誠教授が論じている。スミス、マルクスとくれば、3番目はケインズではないかと門外漢は考えるが、渋くミルを選んだ処に面白さを感じた。
ミル「自由論」に限らず、名著そのものを読んだことは少ない。しかし、名著や著者に関して論じた文章、あるいは引用は、これまで折に触れて読んでいる。それで少しは、判ったつもりの処が問題なのだが、さておき、ミルを引用した文章に関して、ふたりの方が書いたものが心に残っている。今回の齋藤教授の文章で3人目だ。
最初は永井陽之助「平和の代償」(中央公論社)のあとがきにある「「現代において非同調の単なる証しー習慣の拝跪の拒否は、それ自身一つのサービス」であるというジョン・S・ミルの言葉が、実感として浮かんでくる」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/f5/d77f877ff58df428e5b1f7ecfd2865d9.jpg)
この本は左翼陣営とそれを取り巻く進歩的文化人及び反共保守右派に対して論争を挑んだ内容だ。その中核にあるのは知識人の自立性の問題だが、19世紀のヨーロッパで、既に優れた知識人が考えていたのだと、この言葉から感じた。
二番目はアイザィア・バーリン『ジョン・スチュアート・ミルと生の目的』(「自由論2」所収 みすず書房)。冒頭のエピグラムに「人間性が無数の、しかも相競合する方向に展開されるように、完全な自由を与えることは、…人間や社会にとって重要である…」(ミル「自伝」)を掲げている。凝縮した言葉を見事に選んだ、と感心した記憶がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/e9/c72a1b8ea345f146589abff99f6cab4f.jpg)
紹介した二つの引用は、ある意味で大上段に構えての言葉であるが、齋藤教授が指摘するのは、ミルの精神のしなやかさだ。そこでミルを「競争と言語の作法を説いた経済学者」と呼んでいる。
その作法とは「どのような意見を持っている人手あっても、反対意見とそれを主張する相手の実像を冷静に判断して誠実に説明し、論争相手に振りになることは何ひとつ誇張せず、論争相手に有利な点や有利だとみられる点は何ひとつ隠さないようにしているのであれば、その人に相応しい賞賛を与える。以上が公の場での議論にあたって守るべき真の道徳である。」(「自由論」ミル)。
自由に価値をおき、自由の実現を図るなら、“公の場”で自らの考えからも自由になることが必要だ。確かにこのような作法が、自由を育てる土壌になるだろう。
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その中で、古典としてスミス、マルクスを石倉教授が、J.S.ミルを齋藤誠教授が論じている。スミス、マルクスとくれば、3番目はケインズではないかと門外漢は考えるが、渋くミルを選んだ処に面白さを感じた。
ミル「自由論」に限らず、名著そのものを読んだことは少ない。しかし、名著や著者に関して論じた文章、あるいは引用は、これまで折に触れて読んでいる。それで少しは、判ったつもりの処が問題なのだが、さておき、ミルを引用した文章に関して、ふたりの方が書いたものが心に残っている。今回の齋藤教授の文章で3人目だ。
最初は永井陽之助「平和の代償」(中央公論社)のあとがきにある「「現代において非同調の単なる証しー習慣の拝跪の拒否は、それ自身一つのサービス」であるというジョン・S・ミルの言葉が、実感として浮かんでくる」。
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この本は左翼陣営とそれを取り巻く進歩的文化人及び反共保守右派に対して論争を挑んだ内容だ。その中核にあるのは知識人の自立性の問題だが、19世紀のヨーロッパで、既に優れた知識人が考えていたのだと、この言葉から感じた。
二番目はアイザィア・バーリン『ジョン・スチュアート・ミルと生の目的』(「自由論2」所収 みすず書房)。冒頭のエピグラムに「人間性が無数の、しかも相競合する方向に展開されるように、完全な自由を与えることは、…人間や社会にとって重要である…」(ミル「自伝」)を掲げている。凝縮した言葉を見事に選んだ、と感心した記憶がある。
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紹介した二つの引用は、ある意味で大上段に構えての言葉であるが、齋藤教授が指摘するのは、ミルの精神のしなやかさだ。そこでミルを「競争と言語の作法を説いた経済学者」と呼んでいる。
その作法とは「どのような意見を持っている人手あっても、反対意見とそれを主張する相手の実像を冷静に判断して誠実に説明し、論争相手に振りになることは何ひとつ誇張せず、論争相手に有利な点や有利だとみられる点は何ひとつ隠さないようにしているのであれば、その人に相応しい賞賛を与える。以上が公の場での議論にあたって守るべき真の道徳である。」(「自由論」ミル)。
自由に価値をおき、自由の実現を図るなら、“公の場”で自らの考えからも自由になることが必要だ。確かにこのような作法が、自由を育てる土壌になるだろう。