散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

安倍談話がロシアを無視した理由~「有識者懇談会」の影の認識

2015年09月23日 | 歴史/戦後日本
日露戦争は、欧州の遅れてきた帝国主義国・ロシアと東アジアの新興国・日本との東北アジア、特に東アジアに架かる韓国を巡る闘いであった。欧州におけるロシアはドイツと共に海外帝国主義的進出の余地は無く、ハンナ・アーレントの言葉を借りれば、大陸帝国主義的展開しか、残されていなかった。

日本は、明治維新以降の北海道の植民的開拓、即ち、現地住民からみれば国内帝国主義とも云える展開から、日清戦争による台湾の領土化を経て、欧米列強に遅れることなく、中国大陸、特に満州への植民を目指して進出を図る企図を持って行動した。従って、欧州的な進出からすれば、帝国主義であったが、資源調達と共に植民による農業の展開という狙いも持っていた。韓国合併はその嚆矢であったが、安倍政権での認識では無視された形であった。
 『大陸帝国主義の先駆け、韓国合併~「有識者懇談会」報告は無視 150817』

一方、多くのフォロアーを持つ「極東ブログ」によれば、安倍首相の戦後70年談話で欠落していた一番大切なものは、「ソ連であり、その継承国であるロシアである」、それは「日本が独立したのはサンフランシスコ条約の単独講和であり、ロシアとはいまだに平和条約が締結されていない」からだとの指摘である。
この指摘は鋭く、筆者も中韓米へ視点が固定されて、報告書及び談話を読んでいたことは確かだ。マスメディアもロシア無視であったことは、逆にこの一連の政府活動は、中韓米(及びアジア並びに国内)対策であって、ロシアは視野に入れなかったのであり、必ずしも出す必要がない談話であったことを吐露している。だが、そこを空かさず突いた「極東ブログ」は流石に、見事と云う他はない。

では、何故ロシア無視であったのか。その存在を忘れたのか。
先ず、第二次世界大戦でのソ連参戦はヤルタ協定によるものであり、その見返りとしての樺太・南千島を含む北方領土の獲得を企図したものだ。しかし、日本から見れば、ソ連は有効期間が残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告を行ったことになる。

即ち、領土問題をさておいても、日本は、ソ連に侵攻したのではなく、宣戦布告はあっても、突如にソ連に侵攻された被害者だ、との認識がある。従って、残る案件は北方四島を返還してもらうだけであって、後はロシアの出方だけだ、と考えても不思議ではない。別の見方からすれば、ロシアとの間では中韓との様な歴史認識の問題はない。

次にソ連とは1956年に国交を回復し、共同宣言も出した。このとき、領土問題を解決後、平和条約を結ぶこととしている。逆に云えば、領土問題を除き、国交回復は事実上の平和条約締結の機能を果たしている。

更に基本的な問題は、戦後70年の平和自体は国際環境の所在によるものであり、日本が努力をして選択したのではなく、米ソの冷戦と米国の世界戦略の一環として、その拘束が平和の継続の基礎にあったことだ。即ち、冷戦が「長い平和」(ジョン・L・ギャッディス)と呼ばれる所以である。
『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」への違和感 150809』

問題はロシアを無視した理由が、中韓米に対する歴史認識の重要性だけであったのか?それだけではなく、日本のロシアに対する認識が領土問題以外、非常に薄いことによるのか?その辺りだ。

日本は江戸時代まで、北海道に対する意識は薄かったはずだ。というよりも「国」とは諸藩のことであって、外国に対する「日本国」との認識は一部のエリート、地域的関係者を除いてなかったに違いない。

明治になって諸外国との関係から国境を確定し、日本国を支配する政府が確立したことになる。このとき、北海道は植民・開拓の対象であって、先にも述べた国内帝国主義とも云えるものであった。それは台湾、韓国、中国への進出の先駆けであったかも知れないが、樺太・南千島へは大きく広がることはなかった。むろん、満州を越えてシベリアを対象とすることもなかった。

従って、ロシアに関する日本及び日本国民の関心も限定されたもので続いている。シベリア開発の話も、政治的なことを含めて様々な理由で浮き沈みしている。ロシアが北方四島に肩入れして強硬姿勢を貫くと平和条約もデッドロックになる可能性は十分にありそうだ。

      


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日本サッカーの分岐点を創ったクラマーコ-チの死~東京五輪での勝利!

2015年09月21日 | スポーツ
 日本サッカー協会HP

おそらく、デッドマール・クラマー氏がコーチとして指導しなければ、現在の日本サッカーの隆盛と世界での地位はなかったであろう。これは長年、日本サッカーの発展に尽くしてきた関係者のみならず、筆者の様に一般人としてサッカーに係わってきた人たちも同じ思いに駆られるはずだ。

当時の日本サッカーと云えば、直ぐに1968年・メキシコ五輪での銅メダルを挙げる人が多い。因みに、当時の日本サッカーの技術レベルを現在のレベルで判断すると、例えば、Jリーグあるいは大学リーグのどのクラスに相当するだろうか?そんな関心を持って、3位決定戦の対メキシコ戦の再放映(NHK)をみたことがある。技術だけを見れば、レベルはかなり低いと感じた。
『メキシコ五輪のサッカー銅メダル~45年後の今と比べると130825』

世界的に見ても、戦術、技術の発展が著しいのであるから、日本においても違いがあって当然だ。しかし、1966年Wカップ・ロンドン大会の映画「ゴール」を見たときの印象を無理矢理に想い起こし、当時の技術レベルを現在のトッププロと比較してみると、基本技術においては、その差は小さいと想像する。

特にトップレベルでの技術は、戦術との相関関係の中で磨かれていく要素が大きいから、その意味で年月と共に違いが出てこないと、逆におかしいことになる。しかし、日本の違いは基本技術においても大きな差を埋めてきたことが判る。

しかし、クラマーコーチが、東京五輪を目指した日本サッカーを指導しなければ、基本技術が当時のままで残されていたら、現在のように、小学校1年生から、あるいは未就学児からサッカーに親しむ環境が作れ、Wカップ本戦に日本が出場する機会はあっただろうか?そんな気もするのだ。

当時の日本チームのコーチを務めていた岡野俊一郎氏がクラマーコーチに付きっきりで選手だけでなく、多くの関係者とのコミュニケーションを媒介していたこともスムースな対話をもたらしたものと思う。氏は「1960年初めて来日したときに羽田空港で出迎えたのが最初の出会い…兄弟として長い付き合い…死の直前まで毎月のように電話をもらい…」と悔やみの言葉を記している。

略歴(日本サッカー協会HP)には、「1925/4/4、西ドイツ・ドルトムント生まれ、
1971年、勲三等瑞宝章、1996年、日本サッカー協会75周年記念功労賞、2005年第1回日本サッカー殿堂入り」とある。業績は「1960年、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)に向けた強化・指導にあたるため日本代表コーチとして来日。以後、強化、指導者養成、ユース育成等の礎を築き、日本サッカーの父と称される。第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)ではアドバイザー的役割を果たし、日本の3位入賞・銅メダルに多大な貢献」とある。

他は「西独協会コーチ、バイエルン・ミュンヘン、バイヤー・レバークーゼン等の監督を歴任。バイエルンでは欧州チャンピオンズカップ2連覇。米監督、サウジ監督、韓国五輪コーチ、サウジ、ギリシャのクラブの監督を歴任」とある。

これをみると、1960-1964年までの間が、凝縮したコーチ人生であった様に見える。おそらく、その成果の具現化としての臨場感は、メキシコ五輪よりも、64年の東京五輪の第1試合、アルゼンチンに二度までリードを許しながら、逆転3-2で日本が勝利した時が、最高潮の様に感じる。

筆者も帰宅してテレビで試合の途中(1-1)から見た。2点目を獲られた後、釜本が左に大きく回り込んで杉山からパスを受け、画面がクローズアップ、釜本がゴールラインすれすれに持ち込んだシーン、ボールがラインを割るかと一瞬「あれ!」と思ったとき、GKの頭を越えるクロスを蹴ったーここは覚えている。川淵が右からダイビングヘッドで決めて同点だが、画面は忘れた。その直後、杉山が左に持込、ゴール前に折り返す。画面もゴール前に切替り、混戦から小城(後から判る)が押し込んで逆転!快哉!

結局、この試合での勝利及び杉山が20万ドル(7200万円)で、アルゼンチンのプロチームに勧誘されたというスポーツ紙の報道がサッカーブームに火を付けたと云われている。翌年にクラマー氏が提唱した日本リーグが発足、それ以降、中・高校でのサッカー人口が増えたのだ。

      
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行政の事故処理と議会の監視責任~老人ホームでの度重なる転落死亡事故

2015年09月12日 | 地方自治
川崎市幸区の老人ホームで、去年、2か月の間に3人の入所者が相次いでベランダから転落していた問題で、9/11に初めて市議会で健康福祉局が経緯を説明し、議員からの質疑が行われた。

筆者はツイッター上で議会局のお知らせ「本日、本会議終了後に健康福祉委員会が開催…本日の開催内容はこちら」との記事、その添付ファイルを読み、そこで「行政側報告、老人ホームの転落事故」があることを偶々知った。そこで、「この程度の内容紹介は記事に書いて欲しい」とのコメントを付けてリツイートした。

勤務先に行く南武線の中でのことなので、気楽に呟いたのであるが、川崎駅の直ぐそばのビル内にあるオフィスに着いて、少し落ち着いて考えると、そう書いたからには傍聴に行ってみようとの考えになった。そこで、議会局に電話して開催時間を確か、午後3時半に着くようにした。

「マスコミの方ですか?」と問われて、「普通の市民の傍聴です」と応えたが、やっぱりね~、と感じた。形式的に傍聴許可があり、会議室の中に入ると、マスコミはビデオ/カメラ5台、マイク2本、取材記者20名程度、市民傍聴は筆者ひとりだけであった。

  
 
上記の資料(表紙及びB3紙2枚)が傍聴者にも配布される。これを読み上げる形で担当の課長が内容を説明する。説明後、議員による質疑が始まる。健福委は長・青木(自)、副・沼沢(公)以下、自3、公2、共3,民2,無1の構成だ。

資料は、表題関連以外、筆者のメモである。真ん中辺りに、以下の記述がある。
議員の最大の問題、最高責任者(局長)の責任の所在を追及していない。
局長の最大の問題、「しっかり!」を連発する形式的答弁。
筆者の感じたことはこれに尽きる。

議会基本条例は市の議事機関としての「議会の役割と活動原則」を第3条に規定、その第2項に、「市長等の事務の執行について監視と評価を行う」とある。当然、市にとって重要な事務の執行は、先ず市長、続いて副市長、次は局長となる。

今回の健福委には、健福局長が出席している。従って、局長が今回の問題に対して、どの様に報告を受け、それを如何に考え、部下に何を指示したのか?それが適切であったのか?そこが最大の論点になるはずだ。議会の市政に対する監視とは、上記のことだと筆者は理解している。

しかし、局長が報告を何時、どんな形で受けたのかさえも聞く議員はいなかった。最後まで居なかったので、確定は出来ないが。議員の局長に対する質問は、今後に向けての決意表明であって、その形式的な答弁に満足していた。

報道では、議員(委員会の委員)は市の対応を相次いで追及し、市は認識の甘さを陳謝して再発防止策を検討していくと応えた、としている。確かに、3回の転落死亡事故、浴槽内死亡事故、虐待、施設内窃盗事件と続く、その老人ホームの異常性、対応の緊急性等を指摘して担当課長に答弁を求めていた。

担当者は個々の問題に対して適切に事務処理を行ったと言って不思議はない。しかし、その適否を最終的に判断するのは局長であり、不適切とすれば、自ら指示を出す責任がある。議員は議会の構成員として、局長を質さなければミッションを果たしたとは云えない。

しかし、局長からも積極的な発言はなく、相変わらずまとまりのない、議事とも云えない質疑を行っただけであった。改めて、議会とは何をする処なのか、長い時間を掛けて何を得たのか、疑問が残るだけであった。

      
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永井政治学の核心は自己解放の知~挑発の知の前に、啓蒙の知を超えて

2015年09月06日 | 永井陽之助
核心と表現すると、何か一つのモノに向かって行くようだ。しかし、ここでは核心もまた、水素を除く通常の“原子”の様に複数の原子核と回りを廻る複数の電子で構成されると考えてみる。

永井陽之助は「状況の中で思索する思想家」(粕谷一希)であり、中山俊宏氏の適切な表現、「その瞬間を逃がすまいという尋常ではない集中力」を持つからだ。そこで、状況によって見える側面が異なるのだ。中山は永井政治学に「挑発の知」をみて、その対極に「啓蒙の知」をおく。
 『人間の実存と向きあった政治学~中山俊宏氏の「追悼 永井陽之助」150903』

永井は啓蒙の知について、次の様に指摘する。
「社会科学者が、しばしば陥りやすい知的錯誤の一つに、既に真理を知った知的エリートと、無知な大衆という社会の二分法を暗に想定し、真理に目覚めた知的エリートが、無知な大衆に、彼らの判る平易な言葉で、広く説得、啓蒙することが現代知識人の役割と考える一つの現代的神話がある」(『大衆社会のおける権力構造』1959/11初出(「政治意識の研究」1971所収))。
即ち、「啓蒙に知」とは他者に向けた知識なのだ。

上記の論文の副題は『D・リースマンとC・W・ライト・ミルズの権力像の対立を巡って』になっている。従って、論争的な論文のはずであり、啓蒙の知はミルズを指して批判した指摘だ。

「政治意識の研究」のあとがきで永井は次の様に論文の主旨を説明する。
「当時ミルズの諸著作が紹介・翻訳され、我が国の学界、言論界において一世を風靡すると云っても過言では無いほどの知的影響力を持った。リースマンの状況的権力論は、ミルズの社会学的構造分析で、完膚なきまでに批判され、克服されたという見方が支配的であった。果たして、そうであろうか、という異議申立から出発して、リースマンとミルズの学問論にまで及んだのが、これである。」

この異議申立を先の中山の言葉で云えば「挑発の知」である。あるいは、更に真正面からの「挑戦」とも云えるだろう。しかし、大切なことは、永井がそれまでにリースマンを読み込み、その学問論を深く理解し、自らのものにもしていたからこそ、学界、言論界に支配的な見方に挑戦できたということだ。

挑戦も、挑発も他者に向けたものである。
しかし、ボクシングの世界でチャンピオンに挑戦するにしろ、モハメッド・アリの様に相手に挑発するにしろ、その人自身は、日頃、自らを鍛えていなければ、出来ない相談であり、逆に云えば、自らを律して鍛錬することが本質的な活動になるのだ。

そこで、知識人のとっての自己鍛錬の本質は、自己認識を高めることだ。永井の場合は、ここでも本ブログの冒頭の言葉に戻る。
「われわれが深い自己観察の能力と誠実さを失わない人であればあるほど、自己の内面に無意識的に蓄積、滲透している“時代風潮”とか、“イデオロギー”や“偏見”の拘束を見出さざるを得ないであろう。その固定観念からの自己解放の知的努力の軌跡こそが政治学的認識そのものといっていいだろう」。
 『序にかえてー追悼の辞~永井政治学に学ぶ110502』

元の論文に戻る。永井はリースマンがモットーとするウィリアム・ブレイクの言葉、「私が何らかの真実を語るのは、真実を知らない人々にそれを確信させるためではなく、真実を知っている人々を弁護するためである」を引用し、次に続ける。

リースマンが語りかけるのは、「無力なる少数者」に対しである。無力者の集団をお互いに支配しあっている無力者の圧制と云えるものがあるからだ。その圧力から自らを解放し、政治の全体を通覧できる主体的浮動層の再構成をしていく、「自己認識」と「自己装備」の学がリースマンの政治学になる。

従って、「権力者へのアッピールでも、…政治家、組織指導者への勧告でも、大衆に対する啓蒙・説得でもない。自己自身を含む「無力なる少数者」へ向けられた「自己解放の政治学」」である。

以上に述べた永井の認識からすれば、その政治学の核心には「自己解放の知」があることは確かだ。しかし、それは無重力の中に存在するものではない。状況の中での思索であり、それとの相互作用は常にある。

そこで、異議申立という挑戦の形をとること、批判・反批判という挑発の形をとることも、その核心の中に含まれる。形は多様なのだ。原子の回りの軌道を廻る電子によって分子結合が構成される様に、具体的な状況との相互作用によって様々に変わる。但し、何よりも自己解放の知を鍛えることが重要なのだ。

      
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人間の実存と向きあった政治学~中山俊宏氏の「追悼 永井陽之助」

2015年09月03日 | 永井陽之助
経歴を見ると、永井が東工大を定年退職し、青学大へ移った頃に中山は入学したようだ。青学で博士課程を卒業し、この追悼が中央公論(2009/5)に掲載されたときは、津田塾大准教授として教鞭をとっていた。

初めに、授業から永井ゼミでの印象的なシーンとそこから受けた衝撃を語る。
次に、永井政治学の核心を「挑発する知」と語る。
最後に、永井の思考は「尋常では無い集中力」に支えられたと閉じる。

永井の人となりと渾然一体となった“永井政治学”の特異な性格を簡潔に表現した文章だ。北大―東工大―青学大を通して永井の薫陶を受けたなかでも、おそらく、一番弟子であろう中山ならではの、見事な追悼記だと感じる。

中山はバブル経済の時代に青春期を過ごした。これは、戦争の時代を旧制二高で過ごした永井の環境とは全く異なる。ここで中山の世代は永井の「何に」惹かれたのか?それは「現実主義者」にではなく、「危険な知」にだと述べる。

続いて、「人間精神の深奥をふと垣間見た時に見える残忍な表情から立ち上げた政治学…啓蒙する知とは対極にある挑発する知が永井政治学の核心にはあった」と述べる。

なるほど、バブルの時代の頃、永井は現代主義者としてマスメディアにも登場する国際政治の論客であった。しかし、中山を始めとして永井の回りに集まった学生は、永井の表面的なステータスではなく、知的な刺激を放つ、その存在感に惹かれたと云いたいのであろう。

確かに永井は政治的リアリストとして、彼が軍事的リアリストと呼んだ元外務官僚の岡崎久彦と論争をしていた。また、それ以前にもレーガンに近い米国の国際政治学者とも論争していた。

また、永井は学生相手の話の中でも、論争になると口角泡を飛ばす様に、自分の主張を繰り広げ、夢中になるクセがあった。そういうことも含めて、中山が永井に挑発の知を感じるのも判る気がする。

しかし、それは中山たちが永井に、知的に挑発されたことを意味するわけではないだろう。何しろ、「大学に残ったのは、永井の話を聞くためだけ」と感じる位だからだ。逆に、それ故に、永井政治学の核心に啓蒙の知とは反対の知を見出したのかも知れない。学生時代は比較的にみて、先生から啓蒙を受ける立場にいるからだ。その一方で、血気盛んな若者は啓蒙に反発して自立を志す。

しかし、永井政治学の核心に挑発する知を彼らが感じたとすれば、それはその時代の空気に青山の若き住人たちが巻き込まれていたように思われる。「平和の代償」に収められた論文は、三島由紀夫、福田恒存を興奮させたという。先に書いた様に論争もあった。しかし、それは本人たち以外には、回りを取り巻く外部環境か、過去の情報に過ぎない。

直接的に接触した永井から何を感得したのか?
「永井政治学は継承できる類いの知ではない。それは戦後という特異な時代状況と永井陽之助という稀有な個性が交差した場所に発生した圧倒的な現象であった」としても、「その瞬間を逃すまいという尋常では無い集中力」について、いま少しその核心に迫る個人的体験を語ってもらいたかった。追悼記という性格から長さにも制約があるから致し方ないだろうが。

こんな感想が頭に浮かんだのは、筆者が「啓蒙の知」の対極にみるのは、リースマンの学問論に及んだ「大衆社会における権力構造」(「政治意識の研究」所収)において、永井がリースマンを引用し、敷衍した「自己認識の知」あるいは「自己解放の知」であり、永井政治学の核心もそこにあると考えるからだ。

なお、筆者は団塊世代として高度経済成長時代を過ごした。そこで、バブル経済時代の中山から見た永井とは別な印象を持つのだろう。また、永井にすれば、教養課程の東工大生と専門家を目指す青学大生では、接し方、話す内容等も異なっていたのかも知れない。
この辺りの違いを時代と合わせて論じるのは非常に面白いと思う。しかし、これには相当な力量が必要であろうから筆者は遠慮せざるを得ない。

      
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