散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「人形の家」の中の嘉田由紀子・未来の党代表~政治と恋愛のアナロジー

2012年12月31日 | 国内政治
選挙後の未来の党騒動で、嘉田由紀子代表が“短い体験”を記者会見で語っている。その苦しい説明に、男女の関係をアナロジーとして使っているのが面白い処だ。しかし、マスメディアで伝えられる嘉田の言葉から、筆者は40年前にヒットした「人形の家」(作詞・なかにし礼)を想い起こした。それは恐らく、嘉田の行動の発端から、強い違和感を持っていたからだ。

大学紛争の時代であり、メッセージソングも流行っていたなかで、弘田三枝子はこの曲で抜群の歌唱力を発揮した。デビュー当時の「子どもじゃないの」では、歌唱力の片鱗は認められたが、どこか媚びるような表現も含まれていた。しかし、少し時間をおいて立ち現れたとき、パンチの効いた歌い方が歌唱力のなかに織り込まれ、ポップという子どもの歌に、ジャズという成熟した大人の表現を組み込んだ独自の境地を切り開いた感があった。

『顔も見たくないほど あなたに嫌われるなんて』…嘉田は小沢に対して、連絡が取れないことに不満を漏らしていたが、それは当然であろう。しかし、使い捨てられたことは、自尊心が許さず…『とても信じられない 愛が消えたいまも』…との心境であったに違いない。おそらく、小沢側は、嘉田氏が責任をとるとの形式のもとで、辞表を提出することを期待していたはずだ。当選したのは、旧生活の党だけだったからだ。しかし、嘉田氏は小沢に正面から抵抗し、共同代表に阿部知子氏を推し、自らの延命を図った。ここは悲恋のストーリーとは違って極めて俗っぽい。そこに政治における要注意の爆発物「権力」が潜んでいるからだ。

あやつり「人形」が人間として動き出したと小沢側は考えたに違いない。…『ほこりにまみれた人形みたい 愛されて捨てられて 忘れられた部屋のかたすみ』…。多数で実権を握っている小沢側は党名を変更した。この党名がアイデンティティとしての支えだった嘉田は党を出てゆく他に道はなかった。嘉田は小沢に「愛された」とは、真逆、思っていなかっただろうが、簡単に捨てられるとも考えていなかったに違いない。

権力を求め、形式的な“みこし”を実態としての権力と見誤りたいとの気持ちに、恐らく打ち勝てなかったのだろう。半ば、政治的ロマン主義者の姿がそこにある。…『私はあなたに命をあずけた』…のではなく、自らは政治的駆け引きによって、落ち目の政治集団の権力を手に入れた、と思っていたのだろうか。半ば、知性的側面も顕わにしているが、目の前にある小さな権力の誘惑に目が眩んだのか、冷静な判断ができなかったのだ。

永井陽之助は「性愛と政治は、性衝動と権力欲という要注意の爆発物に関わる点で、きわめてアナロジカルな関係に立つ」「優れた小説や文学がその人間洞察の深さにおいて政治学のよい教科書となりうるのは、決して偶然ではない」(『現代政治学入門』P7)と述べる。今回の事案は三文小説に近く、最初から結果が判っていたとも言える。しかし、『政治を動かすもの』を知る上で、私たちに格好の材料を提供してくれたのだ。他人事ではなく、自分自身の人間関係においても、同じような場面に立たされることがあるはずだというような…。

     
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浮遊する改革志向層、小泉、民主から維新・みんなへ~過去3回・衆院選挙の“票”~

2012年12月24日 | 国内政治
今回を中心に過去3回の衆院選挙の結果を、昨日「表」で示し、小選挙区制が良く機能していることを議論した。昨日の記事では、小選挙区制は政治統合の機能であって、多数派を政権に就けることが狙いになる。一方、実際の国民の意識を直接的に反映しているのは、“票数”そのものだ。ここから、国民の意識として“改革志向”が著しく増加していることが判る。しかし、改革志向層において、その方向が漠然として、統一感がなく、政策が具体化しない処に問題を感じる。既存政党も改革の方向を提案ができず、マスメディアも批判的報道だけなのだ。

自民党の得票は前々回2,600万票から今回1,600万票と大幅に減少している。しかし、議員数は300名弱と見事に一致している。これが第1党のマジックであるが、守旧派の復帰により、小泉改革への期待が萎むと共に、1,000万票が減少したと解釈できる。前々回は、当時の小泉首相が「自民党をぶっ壊す」と叫んで郵政改革を旗印に選挙へ突入したからだ。一方、改革に関する具体的な政策として、「ぶっ壊す」という「否定」以外に何があったのか?

民主党の得票は、これも前々回2,100万票から今回960万票と1,100万票が減少している。前回の選挙において3,000万票もが、民主党へ政策的に何を期待したのか?今回の選挙では、マニフェストを実行しなかったとの批判が強いようだ。しかし、「行政のムダ」を省き、費用を捻出、との話は事業仕分けの結果から無理と判り、かつ、構造改革、成長戦略は題目だけになった段階では、子ども手当、農家戸別所得補償、高校無償化などは単なるバラマキと化す。そこで、消費増税は筋が通らず、マスメディアも批判が先に立ち、改革に対する個々の国民の声も強くはなかった。即ち、期待は漠然とした“痛みなき改革”だったように思える。

第三極としての維新の会、みんなの党は今回の選挙で合わせて1,800万票を獲得した。自民党と民主党が減少した分とほぼ釣り合いがとれ、改革票が回ったと考えられる。維新の会は、グレートリセットとの言葉で枠を広げ、構造改革・福祉政策見直しを掲げてはいるが、何でも改革だとの構えで、逆に優先順位は不明確だ。また、太陽の党を飲み込み、54名の議員としての活動が始まり、個々の政策に対する取組が具体化しない限りは、その姿は明確にならないであろう。この未知数に対して、漠然と改革を期待した投票も少なくはないように思える。

改革を期待する国民の意識が、小泉改革、民主党から第三極へ流れ、その間、明確な姿にならないのは何故だろうか。当然、現状維持層がいる。今回の選挙での自民、公明、民主支持層が中心だ。今後、自民党・公明党はインフレ政策、大型補正予算等を実行する。旧来の路線だ。

今後は現状維持に対し、対立軸を示せる政党が改革層の受け皿として必要になる。その最大のポイントは高齢化・人口減における社会目標、また、それを支えるグローバル経済へ対応する“構造改革”及び巨額な政府債務に対する“財政規律”、それに伴う“福祉政策見直し”である。具体策は痛みを伴い、また、その効果も時間がかかる。従って、政治家のリーダーシップ、マスメディアの検証・評価の冷静な報道が必要だ。改革志向層は、リソースの質的向上・配置最適化による経済全体の底上げを図ることを、現状維持層に対して説得する姿勢が大切だ。

        
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小選挙区制は機能を発揮~過去3回・衆院選挙の“票”

2012年12月23日 | 国内政治
今回は自民党の圧勝!しかし、過去3回の選挙をまとめれば、激しく「票」が揺れ動いているかに見える。その意味では、小選挙区制が十分に「機能」を発揮(小泉改革と2回の政権交代)していることが特徴だ。先ずは、 国民の意見を国会へ“統合”することが「二大政党・小選挙区制」の狙いだからだ。

多様な意見があるから「政治」が必要になる。しかし、その多様さを一つの方向へ統合していかない限りは統一的な方向性とそれに基づく政策にはならない。それを選挙制度によって誘うのが小選挙区制の意味するところだ。

     衆院選挙比例代表区投票・得票
時期     H17/9      H21/8      H24/12
政党   票(万)率(%)票(万) 率(%)票(万)率(%)
自民党  2,588  38.1  1,881  26.2  1,662  27.6
民主党  2,103  31.0  2,984  42.4   962  15.9

維新会                      1,226  20.3
みんな              300   4.2   524    8.7
公明党   898  13.2   805  11.4   711  11.8
投票   6,781  67.2  7,037  69.3  6,017  59.3
第1党   296名     304名      294名

表に示すように、先ず、今回の投票総数が1,000万票減っている。更に、投票数の減少を大きく上回って、民主党が前回の3,000万票から今回900万票に大幅に票を落としたことだ。一体、この間の2,100万票はどこへ移動・消滅したのか?

一方、自民・公明は合わせて、300万票減っていることにも注意しよう。決して自民に移ったのではない。次に、維新・みんなで1,400万票増加している。従って、アバウトに言えば、民主を離れた2,100万票に自公の300万票を入れて、第3極へ1,400万票、棄権に1,000万票、回ったことになる。これは前々回から前回へ、自公の800万票が民主党へ移ったとすれば整合することに比べれば非常に大きな変動である。票の動きからみれば、「小泉改革」「民主政権」に続いて「第三極形成」と名付けても良い選挙であった。

では、仮に維新が太陽の党と組まず、みんなと組んで少しでも旋風を起こし、棄権に回った1,000万票のうち500万票を得れば、「維新・みんな党」が比較第1党に…現実の得票率でもお互いを足し算すれば、自民を上回っているから、ここから太陽の党分を差し引いても成立したかも知れない。その意味で、比例区で「改革」に対する国民の総意を表しながら、小選挙区で政策の統合を図るという趣旨において、意図した以上にこの制度は働いているのだ!

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政治的困難としての「時間」~安部晋三首相の経済政策における深淵

2012年12月16日 | 国内政治
障害物のない 平坦な道 を描き、しかし、実効は公約であるが故に怪しげで、そのうちに、米国のように崖っぷちに立たされるのではないか、その典型例が成長戦略だ、と私達は直感したのではなか。それが衆院選挙戦に関する直近3回の記事だ。

普通の市民が漠然と感じる不安、世の中が少しずつ沈んでいくとの感覚に対して、各党は衆院選挙戦で裏腹に「今はダメだが、それを政策によって良くする」と叫んでいるだけだった。
12/16、年末好天であったが、選挙の投票率は前回より低調のようだ。

どんな意識が潜んでいたのだろうか。それは自民党・安部総裁の態度に象徴的に表れていた。「インフレ目標設定、日銀の無制限緩和」発言に市場は即反応、円安、株価高となったのだが、更に安部氏は、金融政策は「勝負あった!」と言ったのだ。この言葉が象徴的だ。

直ぐに効果があり、乗りこえるべき障害がないこと、この種の政策を安部氏は求めていたのだ。しかし、それは私たち住民の意識の反映でもあるのだ。そこに出てくるのは「時間意識」である。私たちは日々の生活で時間がない、時間に追われている、と感じている。そこで単純に登っていく時間を求める。典型的には、高度成長の時代の右肩上がりだ。

しかし、現在の状況はどちらかと言えば、緩い下り坂を降りている。それを上り坂にするには飛び越えなければならない壁がある。それには本来、時間が掛かるはずだ。それも、闇の中に突入するようなもので、必ず上向きになると楽観できない。

安部新首相が、紙幣増刷の金融と建設国債発行の財政によって、インフレ政策をとれば、多くの経済学者、エコノミストが警告する様に、一時的に景気が良くなっても、次世代を蝕むだけになる。更に問題は河野隆太郎氏の言うモルヒネ中毒のように、悪循環を続けざるを得なくなり、財政破綻の深淵に向かうと共に、政策変更が時間の経過によって難しくなる。

この見通しの利かない状態が“政治的困難としての時間”なのだ。
しかし、私達の時間意識は「成長」戦略の言葉に示されるように、おそらく、高度「成長」以降、田中角栄の列島改造論を経て、今日に至るまで「成長」のイメージを引きずっている。

成長を目指す時間意識は、比喩的に言えば、平面上で単調に増加する直線である。しかし、先にも述べたように、現実の下降線を、障壁を乗りこえて上昇線へ変えるには、単純な平面上では表せない現実の課題に遭遇する。これは成長から成熟に時間意識を切り替えることを意味する。単純な経済成長だけに価値を見出すのではなく“人間の営み”全般を視野において、社会における活動を評価する必要がある。このなかで、政治的困難を切り抜けていくことで、新たな展望を見出していくことが大切であろう。

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所得倍増計画の“幻影”~衆院選挙の公約「成長戦略」への疑問

2012年12月15日 | 国内政治
衆院選挙での公約として「現状はマイナスの状況で、今後は勢いを付ける」、一方、政策を展開していく上での「障害は特にない」、これが共通した姿勢として各党にあると指摘した。特に、自民党は成長率3%以上とし、安部総裁は日銀の紙幣を増刷すれば良い、と言う。

しかし、経済活動の主体は民間企業を中心とした社会だ。成長が停滞しているデフレ状態で、経済成長が即可能であり、数値目標も含めて戦略を政府が決めれば達成できるとの認識で良いのか?基本的な疑問が沸き上がる。更に、この発言によって株価が高くなり、通貨は円安に振れ、勝負あった安部総裁は述べている、との報道である。しかし、市場の「即時的」反応が、社会の「数年先」の結果に反映する理由はない。常識以前の問題である。

かつて、高度成長の引き金になった吉田茂の弟子・池田勇人の政策『所得倍増計画』が、同じく弟子の佐藤栄作に引き継がれ、更に惰性として自民党政権のなかに埋め込まれているのではないか?田中角栄の『列島改造論』もまた、再度の成長を目指す角栄の意識が『所得倍増計画』の輝きを幻影として背負っていたのかもしれない。NHKドラマ「負けて勝つ」で、田中も吉田一派に含まれていたシーンを思い出す。

しかし、政治に対する私たちの意識は江戸時代から続く「政府・お上」と「社会・庶民」のイメージが強く、1925年の普通選挙法実施から戦後民主主義の時代に移っても有権者は自動登録制あり、米国にみられるように、選挙活動を選挙人登録から奨めることなど想像もできない。これは、大学の自治会、電機労連等の全員加入組合(役職を除く)も実は同根である。

そこで、政府の役割を決めれば自然に経済が動くとの「上意下達」意識が、逆にすべてを政府に要求する圧力団体の行動様式となり、今では「民意」にまで及んでいるようにも思われる。後は既得権益と補助金を頼みにしての世界である。

一方で、高度成長を可能にした「基盤と環境」の要因が、いつの時代にもあるわけではなく、それを抜きにして、成長戦略を策定することはできない。「高度成長ー失われた20年ーデフレ継続」へと「反転」した経済状況は、世代間格差を鮮明にしながら「少子・“過大”高齢者」社会へと必然的に流れ…方丈記「ゆく川の流れは絶えずしてもとの水にあらず、淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しく止まりたるためしなし」…の世界に導かれていく。

私たちは、必然を感じながら、先をみるのが怖くて、“泡沫”のように今を今として時間を過ごすのだろうか?しかし、流れに乗れば、少しは先も見えて行き着く処をコントロールする意思もでてくるように思う。特に一見スムースな流れの先に「崖」を意識するなら、尚更だ。
一方、先々への意識は直ちに「障害」の想定に繋がるが、障害を選ぶことに躊躇はあるまい。問題は実際の障害を低くすることだ。それには、崖よりも障害を選択すべきなのだ。
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障害物のない平坦な道なのか~“選挙公報”から描かれる行程

2012年12月12日 | 国内政治
ようやく選挙公報が町内会へ届き、地区の役員を努める小生も会館へもらいに行き、担当の全戸に早速、配布した。誰が読むのだろうか?と考えながら…。選挙において「公」が付くものは眉唾である。「公示」「公約」「公報」、すべては「官」が取り仕切る。とは言っても、気になるところであるから、我が家の「選挙公報」をチェックしてみた。

現状の社会・経済状況を反映して、何が課題で、どのように障害物を乗り越えていくのか、そこがポイントだ。地方自治体の議会改革の先頭をきった「北海道栗山町議会」の議会基本条例の言葉を借りれば、「自由闊達な討論を通して自治体事務の論点・争点を発見・公開することは討論の広場である議会の第一の使命である」。

こう考えれば、首相を選ぶ国会議員の選挙において、政策論争が繰り広げられないことが、今更ながら国政の停滞を招く根源にあると思わざるを得ない。そのためには、地味ながら地方自治体の改革を通して住民参加の自治を進めて行くことが基本になる。

話を「選挙公報」に戻して、政権与党の民主党を始め、すべて“勢い”を付ける言葉をキーワードにしている。ここから逆に、現状はマイナスを思わせる言葉になる。助走をつけて踏切からジャンプして飛ぶ「走り幅跳び」のようなイメージだ。以下になる。
「民主…改革 自民…取戻す 公明…再建 みんな…改革 共産…改革 維新…未来」

民主党は「社会保障・経済」政策において、「創り出す」。400万人以上の職場を創り、地域産業・雇用を創出し、すべての人に居場所と出番がある社会を創るのだ。
自民党は「経済・防災」政策によって「取り戻す」。何も手段を述べていないが、ともかく経済成長と防災対策だ。ここに200兆円の国土強靱化計画が入り込んでいる。
公明党は「景気・経済」政策において、10兆円規模の補正予算、防災「公共事業」でデフレ脱却、一方、消費税は「軽減税率」と“減税施策”を強調する。
維新の会は「賢く強くする」。経済・財政から外交に至るまで改革ではなく、前例と既得権益にこだわらない大改革なのだ。しかし、具体的には何もない。

以上のように、障害物はどこにもなく、待っているのは“平坦な道”から未来へ続く行程だ。実際、障害物はあるはずだが、政策を掲げる前に「論点・争点」の設定がなされていないから、各党の解釈次第で何とでも考えられる。そこで、私たちは自身で逆算する以外にない。しかし、それもできないから、マスメディアの断片的なニュースを頼りにする。しかし、情報はバラバラであると共に時間によって寸断される。従って、認識は深まらない。

では、有権者としてどうするのか?今回の選挙の引き金、それ思い起こそう。それは、消費税率を上げ、一体改革を進めることだ。その中で、景気・雇用問題を進展させるのは、簡単ではないはずだ。そこで大切なことは“経済的合理性”である。その中で障害物を乗り超える際のリスクと負担を考える。次に経済・社会政策とマッチする外交政策を選択することだ。

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“バリアフリーから崖っぷち”への選挙公約~安部自民党のインフレ施策

2012年12月09日 | 国内政治
衆院選挙戦になって突然、安部・自民党総裁は「紙幣増刷」のインフレ政策を日銀批判と共に公表した。市場はこれに素早く反応し、円相場は半年ぶりに82円台、日経平均株価は9,500円台に回復した。それに気を良くしてか、安部氏は「日銀法改正の検討」による国債の日銀引受に言及する処まで至った。しかし、今回の「安部―市場―安部」の反応の中に、市場の無時間的性格と安部自民党の選挙向けバリアフリー政策が互いに増幅していることが読み取れる。

デフレが続くこれまでの状況に対して、日銀は金融緩和政策を行ってきた。しかし、十分な効果が顕れない。紙幣を増刷して巷に配布すれば、景気が回復するなら「とっくに終わっているはず」、これが世間一般の直感的判断であるし、有識者の多くが説明していることでもある。

これには、人口の少子高齢化、企業の競争力の弱少化、物価水準の低いアジア経済との一体化など、様々な要因が絡んでいるはずだ。金融政策だけではなく、経済・社会的政策として考える必要がある。更に、その政策も痛みを伴い、バリアを乗り越える政策になるはずだ。バリアフリーの政策は、何ものも生まず、時間と共に「崖っぷち」へと私たちを導く。
安部自民党のインフレ施策は将に甘い汁だ。何の困難もなく、何も努力は必要ない、との夢物語。「崖」の存在は指摘されているが、それは見えたときに止まれば良いと言う。それができるのか?ムチを打たれて走り出したインフレという暴れ馬を、誰が制御するのか?

ところが、市場は即時的に好感のシグナルを発した。そう言われれば、市場にとって、疑問を挟む余地はないように思える。今後の時間の流れにおける複雑な要因を無視し、「今」と「先の今」だけを結ぶ、市場だけに通用する期待値を表明し、暴れ馬を走り出させようとしている。そこに、表面的な短期、極端には瞬時、を積み重ねていく市場の本質的限界がある。

時間のない瞬時の変化、細分化された今、これは市場独特のものであり、平時は隠されている。時間の流れを織込んでいる処に世間からの信用の基礎があり、見えざる手としての調整役のイメージが、その存続のベースになるからだ。しかし、今回は図らずも本質が露呈した!

この場合、バリア、リスクが顕在化すれば、“時価”は直ぐに下げられる。最後に市場は暴落によって止まるのだが、世間は止まることができず、ハイパーインフレで崖っぷちから落ちる危険性が大きい。ここに市場と世間との乖離が顕れる。逆に言えば、世間が眉唾と考える施策に市場が良好な反応を示す場合、長期的な視点からその施策をチェックする必要がある。

デフレに対して「効果が出るまで十分な施策を続ける」のが自民党案である。しかし、1千兆円の借金に、更に国土強靱化法案により2百兆円の借金を上乗せだ。それでも、インフレのメリットは明らかではない。一方、世代間格差が大きくなるのは明らかであるし、財政破綻のリスクが増大する。細分化された「今」を積み重ねる“市場的発想”から有権者が自らを解放しない限り、バリアを超え、リスクを下げる政策は機能しないであろう。ここに今回の選挙での選択のカギが示されている。

        
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Jリーグクラブ経営トップの旧態依然とした体質~ガンバ大阪のJ2陥落~

2012年12月02日 | スポーツ
最終節、4チームが陥落の可能性あり、すべてが別々の試合、当然、勝ち点の小さい順に確率は大きくなる。新潟、ガンバ、神戸、セレッソだ。しかし、問題は相手。新潟は最下位で勝ち点もダントツに少ない札幌で勝つ可能性は大きい。そこを読み込むと、ガンバは勝つしかないのだ。先取点を取られたら苦しいとの感覚がディフェンス陣に働く試合だ。

前半、最終ラインと中盤は少し引き気味で、ツートップのレアンドロ、家長は前で張る構え、対戦相手の磐田のボールを持たれると中盤とトップの連動が途切れる。また、攻から守への切換が瞬時にできず、間が空く。一方、磐田は瞬時の切換によって態勢を整え、ボールと人の動きを連動させ、横を大きく使って中盤を展開し、スペースの空いたサイドからガンバの最終ラインを切り崩す。1点目は左から持ち込まれた。

後半、ガンバは中盤及びディフェンスも含めて攻勢に出た。ゴール前でカサに掛かって攻め迫力は見事で同点に追いつく。その後も得点チャンスを造るが、ゴール前で人数をかけて守る磐田の堅い守備に阻まれる。この辺りの攻防が試合を決めた。守りながら、逆襲の機会を狙っていた磐田は、前半と同じくガンバの左サイドを楽に突破し、ゴール間際まで食い込んで角度の無いところから強烈に蹴り込んで決勝点を挙げた。

結局、遠藤を初めとして、個々の能力は高いが、チーム力として集結できず、過去の成績に安住してズルズルと時を経過させるだけのチーム経営が最後の試合にもでたようだ。ツートップのレアンドロ、家長が共にシーズン途中からの加入であることに象徴されるように、十年来の西野采配から、新しい監督を迎えた開幕において、負けが続き、そのショックへの対応が監督交代と選手補強だけだったのだ。

これは旧態依然としたチーム経営だ。外人とベテランを補強したことは、有力選手に頼るチームを即席に造るという意思表示だ。守備も日本代表の今野をシーズン前に獲得している。しかし、新監督でチーム造りに失敗して後、それを立て直す視点も無く、内部からの昇格人事で済ました。経営トップの危機意識がなく、過去の実績で、何とかなるとの判断だったのか。

眼を外へ向ければ、スペイン・FCバルセロナは今シーズンからペップ・グアルディオラの退任を受けて、アシスタントコーチのティト・ビラノバが指揮をとり、現在、負け無しでトップを独走中である。ビラノバは2001年、バルセロナのBチームを皮切りに指導者としての道を歩み、2007年からグアルディオラの下でコーチを務めた。指導者としての実績を高く評価され、チーム内の掌握もできている。

日本もコーチ制度は確率され、Jリーグ監督はS級ライセンスが必要だ。しかし、コーチの実績を厳しく評価するのは各クラブの経営トップ、筆者の地元、川崎フロンターレは親会社・富士通の管理部門出身である。単にシャッポとして収まっている日本的人事の典型だ。おそらく、Jリーグの中で経営的視点から体質的に問題があるとすれば、経営トップなのだ!

         
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じゃんけん・橋下徹とかいらい・嘉田由紀子~「くさびら」と化す第三極政局~

2012年12月01日 | 国内政治
みんなの党と日本維新の会との衆院選立候補者調整が橋下氏の「じゃんけん」発言によって、決裂という収束を迎えたあと、突如、嘉田由紀子・滋賀県知事の「日本未来の党」が出現した。政策の違いを鮮明にしていた日本維新の会が、既に名前さえも忘れられた石原慎太郎一派と野合した頃から、いわゆる第三極の形成は、政策から“政局”の問題へと変質していった。

「くさびら」はよく知られた狂言で、きのこが増殖する話である。山伏が祈って巨大きのこを退治するのだが、それにもめげず、次から次へと増え続け、山伏に纏わり付き、遂に山伏は逃げ出すというストーリーだ。きのこは笠をかぶって、膝を折り曲げる姿勢をとる。十人以上はでてくるだろう。普通の曲では、シテ、アドの二人だから増殖のイメージが特徴だ。

第三極も続々と新党が出現し、筆者は「くさびら」を連想したのだが、逆に、「くさびら」から政治を連想した古典芸能の批評家がいたのだ。戸井田道三である。『…一つの政党のなかに発生した分派、すなわち、茸と考えるとどうだろうか…』『アメリカでこの曲上演した野村万作の報告では、笠のせいで、ベトナム農民のゲリラ化を連想して大きな反響を呼んだという。』(「狂言―落魄した神々の変貌」(平凡社)1973 ~注.落魄=落ちぶれた)。
戸井田が当時、今の第3極を想像したわけはないが、その派閥の連想は鋭く、そこから逆算すると、現状は仮想「第三極党」の派閥間闘争と見なせるのだ。当時は田中角栄が首相であり、自民党は派閥「三角大福中」の全盛時代、一巡して竹下世代へ移るまでに72―87年の16年もかかっている。その派閥の勢いは多党化と自民党の衰退と共に弱まり、小沢一郎の政界内での活動の果ての民主党誕生、そして政権奪取と共に、その中で活発化した。

政権交代が政党間ではなく、派閥の領袖の交代で行われ、それが政治の一新を意味する日本において、派閥闘争が権力奪取闘争になるのは当然である。従って、民主党内で党首を巡る抗争が派閥闘争として、小沢派、鳩山派、管派、旧社会党、旧民社党、前原派、野田派などの合従連衡として激化した。結局、民主党の看板が選挙に不利となる議員心理に跳ね返り、小沢派の離脱が引き金になって、離脱者が少しずつこぼれていった感がある。

しかし、民主党は野田首相が踏ん張り、自民、公明との三党合意を生かしながら、解散まで持ち込むことによって、崩壊のイメージを払拭し、オポチュニストを脱落者と規定することができたようだ。これは議員の人数ではなく、一つの集団としての結束力を示す問題だからだ。政治集団としての民主党のアイデンティティは、皮肉にも、今回の解散によってようやく確立されたと考えられる。このことは、必ずしもマスメディアの議論になっていないが、長期的に日本の政治に作用していくように思われる。そこで、政局としての派閥闘争は第三極に移る。

第三極党として集まる動きが、潜在的派閥としての新党を「くさびら」のように増殖させた。すでに、政策が問題では無く、政局が行動原理であることが明らかにされた今、自公民との駆け引きも含めて選挙後も更に「派閥闘争」が複雑化するであろう。それが新たな政治体制へ向かうか、自公民の補完勢力へ分化するのか、その帰趨は“世論”に委ねられるのか。


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