散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

“一億”イメージの過去と将来~パソコンの故障で2週間休み

2015年10月24日 | 政治
普段使っているパソコンがダウンして2週間で直って返ってきた。冷却ファンが壊れて交換したのだ。突然、ファン特有の音が始まったときは、何だこりゃ、とびっくりし、ともかく止めて、スプレーでファンに付いていると思われる塵芥を追い払った。

しかし、少し効き目はあったかなという音になって、その晩は使っていたが、翌朝、パソコンをオンしたら、安全装置が働いた表示が出て、通常の画面が出なくなった。仕方が無い。府中街道沿いに新たに出来た「ノジマ」の開店を待って、診断に持ち込んだ。

結局、そこからF社の修理センターに持ち込まれて、修理見積と修理の順番待ちで2週間、1万7千円掛かって終了した。5年前のセブンで、そろそろ買い換えも考えようかと思っていたのだが、思わぬ出費で作戦変更だ。

さて、安倍首相の新三本の矢作戦に関する感想の続編を書こうと思っていたのだが、気勢を削がれた形になって、人口動向は復習するだけにし、日経の記事を引用して過去を却ってみることにした。

先ず、人口の推移は既に統計から急速に老人が増えることを2年前に指摘している。2035年に65歳以上が約37%になり、超高齢化社会を実感するまでになる。どこでも高齢者がいる世界になるのだ。
 『20年後、3人にひとりは高齢者~統計を読む(2)・人口動向130917』

人口も現在の1億2千万人から減っていき、30年後の2045年には、ほぼ1億人になると推定されている。そのとき、本当に総活躍なのか?高齢者は介護役と被介護者にわかれるのだろうか?そんなイメージが浮かんでくる。
 『「一億総活躍社会」の心理と論理~掛け声で終る国家総動員体制151013』

 上記の記事において、「一億人というのは概算で、単に国民全体をまとめたもの」、「「総」を除いて、一億=国民であるから、「国民活動社会」でも同じこと」、アナロジーとして「国家総動員(法or体制)を思い浮かべる」と述べた。

このパソコン休暇期間に同じ発想があることを知ったので、“一億”イメージの過去として紹介する。
 『もりひろし「一億のイメージを辿る」日経BP2015/10/24』


年表的に書いているので、“一億”と時代との関係が判り易い。1930年代後半からの国民総動員体制の時代だ。「一億一心」が「総進軍」にエスカレートし、それが戦局不利に伴って陸軍の策無し状態が反映した戦法である「玉砕」に暗転する。この筆者はそこから、「一億は総動員体制の象徴であった」と指摘する。

更に、戦後、東久邇首相の「総懺悔」に飛躍する。その解釈として、「政府の最大の関心は国体護持、天皇制の維持、東久邇首相には、天皇に対する戦争責任の追求を避けようとする目的があった」と指摘されている。
ここまでが、国民総動員体制における“一億のイメージ”とのことだ。

成る程、と思う。
この“一億のイメージ”の歴史的体験が今の社会にどの様に影響を与えているのか、直ぐには判らないが、関係が無いとは云えないであろう。

      
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『一億総活躍社会』の心理と論理~掛け声で終る「国家総動員体制」

2015年10月13日 | 政治
日本の人口は今、1億2千万人強だ。これを一億人というのは概算だ。それは人口を論じているわけではなく、また、国民一人ひとりを問題にしているわけでもなく、単に国民全体をまとめたものとして表現しているだけだ。

そこで、「総」を除いてと言っても、一億=国民であるし、「活躍」は活動のなかでも、秀でたものを対象とするから単に比較の問題になる。従って、「国民活動社会」でも同じことだ。なぜ、「一億」「総」「活躍」社会なのだろうか。

「総」は安部首相の思い入れを感じさせる。
この一文字によって、国民全部、一人残らず参加させるとの感じが良く出るからだ。安部首相本人だけがその先頭に立つイメージだ。一億総活躍社会大臣も国民にひとりであって、役職、固有名詞は不要である。匿名の国民に相当するだけだ。

アナロジーとして国家総動員(法or体制)を思い浮かべる人も多いのでは?
法は昭和13年(1938)に制定され、「…国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制スルヲ謂フ、と第1条において規定し、…広範囲な権限が政府に白紙委任的に委譲されるもの…」(伊藤隆『15年戦争』 )である。
「国家総動員」という言葉は、戦争計画を前提とする軍事用語からヒントを得て、陸軍参謀本部で造語されたらしい。当然、戦後直ちに廃止されたのだが。

個人の意思が尊重され、人間関係も多様なあり方で成り立ち、その集積を基盤として成り立つ社会が、「総」が付くことにより否定されているかの様である。まして今回の場合、一億=国民を意味しているのであるから、国家総動員ならぬ、“国民総動員体制”の発想が安部首相の心に思い浮かんだとも想像できる。

しかし、実際にやるわけでもなく、政権の立看板としてマスメディアの中に浮かんでいれば、少なくとも建前は立派に通るのだ。
安倍首相は9/24に「強い経済」、「子育て支援」、「社会保障」を柱とする「新3本の矢」政策で、一億総活躍社会を目指すと表明する。また、新内閣発足した当日にも「一億総活躍社会の実現に向けて戦後最大のGDP600兆円、出生率1.8、介護離職ゼロを目指す」方針を強調する。

しかし、「600、1.8、ゼロ」が具体的にどの様な施策によって、実行され、それらの施策が相互に関連して実現していく姿は如何なるものなのか、その論理は構成されている様には見えない。

出生率の向上がGDPに結びつくのは、ほぼ20年後だ。介護離職が多いのは確かに問題であるが、介護職は今後、どのような数字で必要とされるのか?それを如何に増やし、安定した職業に定着させるのか?単にゼロが良いわけではない。即ち、GDP600兆円と釣り合いがとれる目標とは思えない。この間の論理も構築されているわけではない。

10/7記者会見で安部首相は次の様に云う。
未来へ挑戦する内閣… 少子高齢化に歯止め…50年後も人口1億人を維持… 一億総活躍という輝かしい未来…新しい三本の矢を力強く放つ…経済最優先…一にも二にも改革…野心的な目標…設計図がある課題ではない…。

国立社会保障・人口問題研究所の予測では、30年後の2045年頃には日本は人口一億人程度になる。50年後の2065年には8千万程度だ。首相であれ、誰であれ、50年後のことを何でも云うことはできる。
担当大臣が任命され、おそらく、各省庁の役人方は大慌てで、政策に衣をかぶせ、必要予算を算出しているだろう。実態はいつもの風景なのだ。

      


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イスラム世界は平和が例外事象~ノーベル平和賞・チェニジア市民団体

2015年10月12日 | 国際政治
ノーベル平和賞は2011年、チェニジアのジャスミン革命によってベンアリ政権が崩壊した後、平和的な政権移行に貢献した「国民対話カルテット」に贈られた。チェニジアはアラブの春の先駆けとなり、民主的な手続きによって、新憲法制定と大統領選挙を行った国だ。

革命後における“権力の真空”状態は、その奪取を巡って特に過激派、強硬派が台頭し、オポチュニストがその周囲を跋扈する。チェニジアでは依然としてテロが起こり、平穏だとは云えない。イスラム国へ走る若者も多くいるということだ。その危うい政治体制に危惧を持たれる面もあり、受賞を意外視するマスメディア報道もある。

しかも、下図に示される様に、革命を起こした他の国の状況は国内対立の激化である。特にシリアでは、イスラム国が台頭し、政権、反体制派と三つ巴の闘いになり、米ソの介入を伴って、国際的内戦の様相を示す。

 
 毎日新聞(2015/10/10)

しかし、受賞理由にある様に、革命後の不安定な状況の中で、4団体はあらゆる声を代弁し、政党、宗派を仲介した。これによって多元的な民主化に大きく貢献し、チェニジア以外の人々にも民主化の一つのモデルを提起した。

4団体とは、チュニジア労働総同盟、産業貿易手工業連合、人権擁護連盟、全国弁護士会で、2013年に設立された。イスラム勢力と、政教分離を重視する世俗派の双方の議員や有力者、支持者らを説得して対話を仲介。対立を抑制し、今年2月に双方が政権に参加する形で正式政府が発足した。

1978年、イラン革命と米中国交正常化を含むこの年が、戦後政治の一大転換期であると、永井陽之助「時間の政治学」(1979)の『あとがき』で述べられている。これにソ連の崩壊=ロシアの再興が1989年に加わり、グローバル化世界の中で、対立と戦乱が相互作用を引き起こしているかの様である。

イスラム世界は宗教戦争の中で、平和が例外事象となっていると云って過言ではない。そこで、平和に向けた創造的活動は極めて困難な道を歩み、それ故、その実績が高く評価される。

従って、その例外事象の中から今後の進むべき道筋を見出し、平和の構造を創りあげていくことは、世界的な稀少資源になるのだ。その意味で今回のN平和賞は、政治的タイミングとして見事である。

それと共に、その政治的実物過程を明らかにし、対話・交渉の内実を分析することが専門家にかせられた課題と云える。「中東・イスラーム学の風姿花伝」において、池内恵・東大准教授は如何なる論評を展開するだろうか。


      
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新たな分野を切り拓くノーベル文学賞~平和な、余りにも平和な日本

2015年10月09日 | 文化
2015年のノーベル文学賞は、ベラルーシの作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)に授与された。授賞理由は「様々な人々の声を同時に響かせた、苦難と勇気の記念碑となる作品」とのことだ。

アレクシエービッチ氏=ロイター

ジャーナリスト活動の傍ら執筆した「戦争は女の顔をしていない」(85年)、「アフガン帰還兵の証言」(89年)、「チェルノブイリの祈り」(97年)は人々の声を集めて作品に仕上げる聞き書きの手法であり、ノンフィクションそのものだ。

これまでの文学賞の分野は、当然ながら小説を中心に、戯曲、詩であり、僅かな例外として、1953年受賞の英国元首相・チャーチルの「伝記」がある。しかし、今回の受賞は例外では無く、今後も続く新たな潮流と考えられる。

統合欧州に雪崩れ込むイスラム難民に象徴される様に、国境を超える機構の発展と広く住民を巻き込む戦乱の拡大がクラッシュする世界、これが現代世界の一面だ。その中で、多くの人々はサイレントマジョリティとして生活する。

しかし、一人ひとり、その声を聴こうとすれば、多くのことが語られるであろう。それを集めてモンタージュ写真を作るように構成していけば、現実の像が描かれる。そんな手法の様に思われる。日経の「私の履歴書」のようなサクセスストーリーとは真逆な方向においてだ。早速、図書館で借りて読もう。
処で、日本ではアレクシエービッチに匹敵する業績を挙げた方はいるだろうか?

ノーベル文学賞として近年、話題に登るのは、村上春樹だ。昨日のNHKニュースでも候補者のひとりとされていた。しかし、そのニュースでの紹介で「ベストセラー作家」と呼ばれていた。「こりゃダメだ!」というのが筆者の直感であった。別に、ノーベル賞を取るかどうかではない。この様にしか呼ぶことができない作家が、どんな価値を体現しているのか、と感じたからだ。

ハルキストと呼ばれる一群の人たちがいるのは特に関心は無い。しかし、騒ぎに便乗して、これをマスメディアがニュースに取り上げることを訝しく思うだけだ。

筆者は今、中上健次が存命ならば、と思うのだが。その文体は聴き語り風な表現も入れて、未だ読んでいないアレクシエービッチに似た処があるようにも、勝手に想像を膨らましている。

しかし、毎年のハルキ騒動が次第にマスメディアによって増幅される様にも感じて、安保法制の騒ぎと?がり、頭の中でシンクロナイズしてくるのを打ち消すことができない。平和な、余りにも平和な世相の中で、次第に閉鎖的な世界が作られ、その中で踊っているうちに、「ふたりのために世界はあるの」の状況に陥るのではないか。その頂点が2020年のオリンピックだろうか。

      
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「啓蒙思想」と「段階的発展理論」~進歩的知識人の基盤

2015年10月01日 | 政治理論
安保法制に関する反対派知識人の言動のベースは依然として丸山眞男なのか?丸山は政治思想史の研究家だ。しかし、彼の学問では無く、日本社会を認識する発想の起点には、思想として知識人特有の啓蒙主義と共に、発展段階説、即ち、『日本が資本主義であるが故に将来は社会(共産)主義に至る』があると思う。

発展段階説は開発途上国に対する近代化理論が先進欧米諸国において、ロストウ、ライシャワー等によって主張され、もてはやされた時期があった。一方、階級史観に基づく共産主義も発展段階説をまとい、『資本主義体制からの歴史的必然による移行』が新たに生まれた労働者階級のイデオロギーとなった。

一方、資本主義によって近代化に突入した国では、資本蓄積のときからダイナミックに変動をする社会に変貌を余儀なくされ、また、貧富の差も意識されるようになって、社会不安も、また増大していく。

近代日本もこの状態を免れず、知識人集団に共産主義イデオロギーが広まると共に共産主義的発展段階説も支持が拡がる。戦後、米国民主主義の影響は広く大衆に広まる一方、戦前からのロシア革命だけでなく、中国革命の影響も革新勢力に浸透してゆく。

ここで、進歩的文化人という言葉で代表される革新派が知識人集団の中で主導的役割を果たすようになる。その基盤が「啓蒙思想」と「共産主義的な段階的発展理論」が結び付いた考え方になる。終戦直後、『超国家主義の論理と心理』(1946)で論壇にデビューした丸山は、日本思想に対する洞察とシャープな論説によって、忽ち、その集団の若きリーダーとして押し出される。

しかし、余りにも強烈な影響により象徴的な位置に置かれたことは、逆に云えば、丸山をその集団に拘束させるようになる。その後の丸山の社会評論的な論考では、『ある自由主義者への手紙』(1950)に書かれる様に、「日本の社会の現状の情況」においては「共産党が社会党と共に西欧的民主化に果たす役割」を認める、従って「反共自由主義者の言論は、日本の強靱な旧社会関係とその上に蟠居する反動勢力の強化に奉仕」するとの立場を堅持する。

共産党は中国に亡命した徳田球一による指導で、1951年の四全協において武装闘争の方針を決定し、「山村工作隊」などの非公然組織を作って活動した。1952年7月に制定された破壊活動防止法は、直接的には共産党の武装闘争を取り締まるためのものである。しかし、世論からの批判もあり、共産党は武装闘争を“極左冒険主義”として自己批判し、1956年の六全協で武装闘争を放棄した。

この間、丸山が共産党に対する基本的見方を変えたとは思えない。しかし、それはあくまでも相対的に保守反動派の勢力が増加するのを防ぐ役割を共産党、社会党の左翼陣営に期待する以外になかったからであろう。それは啓蒙主義の精神を持ち、発展段階説の道筋を歴史は進んでいると考える立場に経てば、当然の成行きとも云える。

しかし、それは一面で反「保守反動」主義であって、反「共産」主義との対立となり、主体的なイデオロギーを持ち得ない対立に導くことになる。「保守反動」と「共産」が共に劣化していけば、双方に肩入れする知識人も共に、本来の知識人としての自立の道から外れることになる。

丸山ほどの学問的知識、深い識見を有する知識人であれば、そのような状況にも自らの論理を構築し続けることは可能であろうが、無知な大衆に自ら信じる真理を語れば良いとの単なる啓蒙主義に支配される単なる知識人は、丸山が敷いた路線に自らを同一化し、自らの信じる進歩主義的イデオロギーから抜け出ることができない。

しかし、「啓蒙主義」も色あせ、ソ連は消滅し、中国の毛沢東神話も崩れ、「共産主義的発展段階説」は過去の言葉に属することになり、進歩主義そのものも方向性を失ってしまい、単なる反「保守反動」主義の中で、今回の安保法制の騒ぎを掻き立てることになる。

おそらく、啓蒙主義と発展段階説が西欧的市民社会像と結びついて日本に投射された丸山の進歩主義的認識は、丸山の視野の中にはなかった日本の「高度経済成長」によって突き崩され、共産主義の終焉と共に、崩壊したように感じる。
おそらく、成熟国家として、新たな社会主義の発想とそれに基づく世界観を構築することが、その再生に必要な作業になると考える。


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