散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

瞬時の判断をチームとして積分~知性と野性を融合、バルサのボール奪取

2015年12月26日 | スポーツ
バルサのボール奪取は素晴らしかった。前半36分の先制点は左外で相手を囲んだボール奪取が起点となった。横浜国際の正面2階、右手ゴールラインより少し内側の席で見ていると、アウベスの右からのクロスを左のネイマールがヘッドの折り返し、中央のメッシに届いたことは、何とか判った。しかし、最後の得点シーンが良く判らなかった。

大型画面に再生録画が映って、回りの守備者が足を出せない腰辺りのボール、メッシが左足アウトで正確に突いたのが判った。瞬時の判断、リラックスした身体、膝の柔らかさが相俟って、思いがけない見事なシュートが生まれた。

後半になると、ルーズボールの取り合いは、バルサがリバープレートを圧倒していた。中盤のブスケツ、ラキティッチ、イニエスタを中心に、バルサはチームとしての“具体的な状況判断の方法論を確立”していたかの様である。

即ち、典型的にはルーズボールの状態だ。この時、状況は瞬時、瞬時に変わり、判断も都度、変える必要がある。しかし、ボールが出てくる間、次のプレーの判断が難しい状態もある。通常は判断を停止して次の瞬間を待つ。
良く言われる“ボールウォッチング”の状態だ。

バルサの方法論は、チーム全員で共通のコンセプトを持ち、ルーズボールの状態においても、瞬時の判断を変えながら持続し、その実行に見合った具体的なプレーをこれも全員で、特にボールの周辺地域で連携して、続けていくことにあると筆者は感じた。それを敵の選手が判断停止になった瞬時において実行し、その瞬時の分だけ速くプレーをすることになる。その瞬時を全員で積分し、パスを繋いでいけば、空間的にフリーでボールを受ける選手が出てくる。
即ち、“判断時間を自由空間”に変換することだ。別の眼でみれば、バルサは網を張って仕掛けているようだが、本質は判断時間の創出だ。

後半開始直後、スアレスがディフェンスの裏に走り抜け追加点を生んだ速攻も中盤でボールを相手方から奪い取ったことから始まった。前半の1点が効いて、リバープレートが攻勢の体勢を取ったことが中盤でのスペースを生んだ。スアレスの素早い反応に対して正確なフィードがイニエスタから横パスを受けたブスケツから送られた。
結局、スアレスがネイマールの足下からのフワッとした短いパスを守備陣の裏に下がりながらヘッドで決めて、クラブワールドカップ決勝(12/20夜)は、バルサがリバープレートに3対0で快勝し、3度目のクラブ世界一に輝いた。
 FIFA
 
3点は共にバルサの知性的なサッカーを象徴する。しかし、サッカーは力と技術が伴った体を使い、それがチームプレーとして表現されるスポーツだ。それは野性の中で集団として獲物を捕らえる動物、ハイエナに似ている。

先の記事でJリーグ・サガン鳥栖のゲームにハイエナ的なプレーを感じた。
「…素早く敵に寄り、仕掛ける体勢を採り、相手を追い詰める。少しのボールコントロールの乱れを突いてタックルに入る。繋ぎの横パスを出させて、その受け手に次の守備者が詰め寄る…」
 『ハイエナ的野性を持つ「サガン鳥栖」のボール奪取~尹晶煥前監督の指導150524』

これは従来の戦術を徹底したものだ。それでも、今のJリーグでは貴重なアプローチだ。しかし、バルサの戦略は、単に包囲網を構成するのとは異なった新たな次元に入ったと考える。その基本は野性動物が持つ強靱でしなやかな体を基盤にするものだ。そして、それはサッカーを面白くすると共に素晴らしさを新たに示すことでもある。

      
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「派手な空体語」と「隠せぬ現実」~3年目のアベノミクス

2015年12月22日 | 経済
「異次元金融緩和」と「三本の矢」から始まった。
それが現在、「量的・質的金融緩和(QQE)補完策」と「新三本の矢」に変わっている。これが何を意味するのか。声高に言葉を並べた政策はイザヤ・ベンダサンの云う空体語として機能しているだけのことを示している。
 (「日本教について」(文藝春秋社1972)。

実際、GDPは3年間で実質2.3%増、年平均では0.76%増にしかならない。金融緩和を中心に円安・株高をもたらし、一見は華々しいが、実質的な成果に乏しい。所謂、デフレ心理が和らいだが、それは所詮、気持ちの問題だけだろう。
この間の状況を日経は要領よくまとめている。

最近、言われるのは、働き手の減少や低い生産性など供給面の制約のため成長率は高まらないことだ。完全雇用に近いため、働き手は容易には集まらない。人員不足感はバブル崩壊直後以来、23年ぶりの強さ。団塊世代の退職があり、現役世代(15~64歳)の人口はこの1年で99万人減ったとのことだ。しかし、政権もそれに気づいてはいるが、参院選を控え、痛みを伴う供給面の改革に及び腰だ。

働き手の減少によって、潜在成長率は下がる。内閣府試算では実質0.5%で米国の2%弱を下回る。潜在成長率からみると政府が目指す実質2%成長は、はるかかなた。供給制約が解けて成長期待が高まらない限り賃金上昇も続かない。

「新3本の矢」のうち子育て・介護支援は働き手を増やす狙いがある。経団連に設備投資を要請したのも生産性を高める狙い。新3本の矢は需要重視からの軌道修正になる。しかし、その取組は及び腰だ。
低所得の高齢者らに3万円の給付金を配るのは、選挙にらみの単なるバラマキだ。法人実効税率を下げても、投資機会に乏しい。経団連の「3年後に10兆円増」の投資予測は茶番劇を越えている。

成長力向上のために必要な労働市場の改革。
「職業訓練を拡充する」
「金銭支払いで社員を解雇する際のルールを作る」
「同一労働、同一賃金を徹底し女性や高齢者の労働参加を促す」

設備投資拡大のカギは規制改革。
「豊かな高齢者に多額のサービスを買ってもらうのは介護労働者の賃金増と事業者の採算性向上にプラス」
「あらゆるものをネットにつなぐ「IoT」構築でも規制改革が不可欠」

日銀の身の振り方はどうなるか。
緩和の効果が弱い一方でその副作用が懸念され、財政規律を緩めてもいる。見直し論が出るのは当然だ。

成長率の低迷は財政健全化計画の見直しをも迫る。
政府は実質2%、名目3%の成長を前提に5年後、財政再建の第一歩となる基礎的収支均衡を目指す。だが成長力を高める改革には何年もかかる。2%より低い成長でも財政が改善し、社会保障も回るよう改革を急ぐしかない。成長に向け企業の投資資金を確保するためにも国債発行額を早く減らすべきだ。

安倍首相の頭を支配するのは来夏の選挙。人々の関心事はずっと先までの生活。それに影響する成長力や財政・金融の健全性に、もっと気を配るべきだ。

      
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アイヒマンとオーム真理教・菊池直子~思考は善悪を区別するために

2015年12月20日 | 現代社会
映画「ハンナ・アーレント」の最後の場面、彼女は勤務する大学の教室において、「思考がもたらすのは知識ではない。善悪を区別し、美醜を見分ける力、…私が望むのは、考えることで人間は強くなること」と語る。
 『強靱なヨーロッパ精神の発露~映画「ハンナ・アーレント」を観て131211』

また、彼女は「エルサレムのアイヒマン」(みすず書房)の彼女自身のあとがきの中で、「…彼は愚かではなかったが、自分の行為が全然わかっていなかった」と指摘する。それは、アイヒマンが、彼女の云う意味での“思考”を欠落させていたことを意味する。
続けて「完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではないー、それが、彼があの時代の最大の犯罪者の一人となる素因だった」とする。
 『ハンナ・アーレント(4)~アイヒマンとは、映画鑑賞の手引131126』

アーレントによるアイヒマンの素描は、先の高裁判決で無罪を勝ち取ったオーム真理教・菊池直子にも当てはまると筆者は感じる。菊池は被告人質問において「何をしているか聞かされていなかった」とあらためて無罪を主張したからだ。

アイヒマンは、ナチスドイツの組織の一員として仕事をしただけであって、殺人を行ったことはない、と主張した。菊池もまた、組織の一員として命令に従って、他の事は判らずに、いわれるままに仕事を行っただけだと陳述したと云う。

1審判決によると、菊地は1995/4に山梨県内の教団施設から東京都内のアジトまで爆薬原料の薬品を運んだ。翌月、元幹部らが爆弾を仕掛けた小包が都庁の知事秘書室で爆発し、職員が重傷を負った。この事件は教団に対する捜査のかく乱が目的だった、とのことだ。しかし、菊池は運んだ薬品がテロに使われる認識はなかったのだ。また、その仕事について聞き出すこともしなかったのだ。

教団に対する警察の捜査が及んでいたことは、幹部の一員である菊池は知っていた。それなら、自らの行為に緊張感を持っていたはずだ。そこで、自らの行為に対して判断を下さずに受け入れたとすれば、善悪について、何も考えようとしなかったことになる。アーレントは、この思考を放棄する状態を無思想性と呼び、現代において、それは<陳腐>なことだと表現したのだ。

      
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南シナ海は毛沢東戦略の「中間地帯」か?~「平和の代償」を改めて読む2

2015年12月07日 | 国際政治
「平和の代償」の第一論文『米国の戦争観と毛沢東の挑戦』において、「毛沢東」の部分は“戦争と平和の弁証法”及び“世界戦略と「中間地帯」論”で構成される。先の記事で紹介したのは主として“戦争と平和の弁証法”である。ここで永井は、世界の軍事研究家にとって孫子は最高の戦略家であることを指摘する。
 『南シナ海、米国の秩序観と中国の挑戦2~「平和の代償」を改めて読む151121』

毛を孫子等の中国伝来の権謀術数の英知を身につけた大戦略家と位置づけ、毛は徹底した“動乱イメージ”で戦争と政治の関係を規定すると述べる。即ち、「政治は血を流さない戦争…戦争は血を流す政治」であると。

中央主権的な権力が破壊され、権力が弱化された地方において、点在する共産党と国民党との広大な農村(中間地帯)を主戦場とする争奪戦があった。そこで重要な根拠基地を中心にゲリラ戦を武器にして、農村が都市を包囲していく戦略が毛によって進められた。

これはゲーム論的なチェスではなく、囲碁の発想だと永井は指摘する。強固な自給力を持つ根拠基地の補給路を繋ぎ、一見して無関係な配置の如くが、囲碁の布石となり、それらが連結されて生き、都市を包囲するのが革命戦略であった。

更に、永井は、当時の陳毅・中国外相が好んで使う“外患なければ国危うし”を引用し、敵を意識的に作って鎖国状況にし、その危機感をバネに、モラルを維持して近代化を図るという戦略であると解釈する。

即ち、中国流の「非合理的」と思われる強硬路線は、孫子レベルの英知に支えられた「合理性」を有すると評価する。但し、米国に対して誤ったイメージを与える可能性があることも懸念する。

さて、広大な農村地帯をめぐる争いにおいて、「根拠地を点在させ、そこからゲリラ戦を展開して繋いでいく」との戦略から、何をアナロジーとして思い浮かべるだろうか。それは“南シナ海”の現状である。

香田洋二氏(上記引用を参照)が指摘した様に、海南島・三亜を根拠地にして、ウッディー島、ファイアリー・クロス礁を埋立飛行場として前進拠点化する。更に、今は中国実効支配のスカボロー礁を、将来、埋立てすれば、南シナ海に中国の三角地帯が完成する。中間地点である公海の中に、ゲリラ的進出によって、広域を支配することができる。

これは中国革命における中間地帯理論の応用である。
ゲリラ戦として考えれば、押されれば引き、隙を見せれば進出すれば良い。短期決戦が無理であれば、長期的に米国が嫌気をさして太平洋に後退するのを仕掛けていけば良い。

しかし、公海、即ち、“公”という観念が中国に欠けているのだろうか。
先の記事で指摘した様に、小笠原諸島近海で密漁によって、一攫千金となれば、競って飛び出してくるだけのエネルギーを中国民衆は備えているのだ。
 『過剰な力を持った中国の対外戦略~南シナ海問題は華僑のアナロジーか1511204』

そのエネルギーの捌け口を与えながら、利用することは中国政府も十分に心得ているはずだ。但し、問題はかつての閉鎖社会での孫悟空的な活動ではなく、グローバル化した世界の中での国際政治の問題である。中国流を制御することに米国を始めとして、東アジアから東南アジア諸国は成功するのか、大きな試金石として見守ることが大切だ。庶民レベルにおいてはだ。

      
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過剰な力を持った中国の対外戦略~南シナ海問題は華僑のアナロジーか

2015年12月04日 | 国際政治
かつて英国は七つの海を支配していた。
日露戦争は、韓国の争奪戦であるが、その一面、日本海の争奪戦でもあった。日本海軍は旅順港のロシア艦隊を黄海海戦で破り、ウラジオストック港へ向かうバルチック艦隊に日本海海戦で壊滅的打撃を与える。日清戦争の勝利によって、獲得した台湾を含め、東アジアの海は日本が支配することになる。

一方、その時代には、米国がフィリピンを植民地として進出、太平洋戦争では、ミッドウェイ海戦以降、日本へ向けて島々を攻略、空襲から原爆投下を経て日本が降伏後、沖縄島を軍事基地として広く太平洋を支配し、今日に至っている。

結局、中国は沖縄及び米国第7艦隊によって封じ込まれている、と感じるのは当然である。毛沢東の革命期におけるゲリラ支援等によって、「米国への挑戦」を試み、その後、小平路線に転換、経済力も飛躍的に伸び、今後は米国を追い抜く勢いを示しているからだ。

中国は、ここで改めて、「米国への第2の挑戦」を仕掛けているのが現状なのだ。海軍・空軍の増強が進み、軍の発言力も大きくなっているはずであり、特に海洋戦略には習近平政権も無視できない存在であろう。

今回の“南シナ海問題”は米国の封じ込めを受けての対抗というより、自らが過剰な力を持ち、世界の中心的役割を果たすという自信がその基盤にあるように感じる。一方、その戦略は伝統的な中国の対外観に基づき、その現代版であった毛沢東の共産革命戦略を引き継でいる様に思える。その結果は“膨張”だ。

しかし、過剰な力とは、必ずしも上部の指導者だけの感じ方とは思えない。漲るエネルギーの発露は民衆レベルでも対外的に発揮されるようだ。
それを筆者が感じたのは「中国漁船サンゴ密漁問題」の時だ。2014年に小笠原諸島と伊豆諸島周辺の日本の領海と排他的経済水域(EEZ)で、中華人民共和国の漁船によりサンゴが大規模に密漁された問題だ。

以下、ネット記事による。
小笠原諸島の周辺海域でのサンゴは希少な宝石サンゴであり、背景に中国周辺海域での密漁による資源の枯渇と、中国国内での規制強化と価格高騰がある。上記の大規模密漁は、中国の船主が日本近海で大量のサンゴを密漁し、高額で売った話が広まったことにあるという。

該当海域にサンゴ密漁船と見られる中国漁船は最多で200隻確認(2014/10)されたとのことだ。それまで、日本は摘発せずに漁船に警告をして領海から追い出す措置に留めていた。しかし、以降は巡視船を大幅に増勢し、積極的に摘発する方針に転換した。外務省も以下に示す資料を提示し、中国へ警告している。


  外務省資料

集団的エネルギーが一攫千金を求めて発揮する様は、中国の民衆的力を示す。
おそらく歴史的には、海外に移住して拠点を形成した華僑に代表されるものと同じに感じる。華僑とは本籍地を離れて異国を流浪する華人の意とのことだ。

中国本土以外の華僑・華人人口の合計は、台湾・香港・マカオに2,700万人、その他世界に2,300万人(2,000万人はアジア)である。合わせて5,000万人程度だという。(1980年頃のデータ、20~30年後の2010年には7,000万人)。
(出典は若林敬子「中国人口超大国のゆくえ」岩波新書(1994))

この民衆的力は結局、膨張させる以外にない。それは海外に拠点形成をして落ち着く。現在、海軍力を制御する象徴的な事象が“南シナ海問題”なのだ。人口島を拠点とする発想だ。であるなら、米国も中国全体を相手にする意識を持って、グローバルな視野で対応する必要がある。

      
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