散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

太平洋戦争の呼び方~終戦記念日にあたって(1)

2022年08月15日 | 現代史

本日の『全国戦没者追悼式』において天皇陛下は先ず、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と述べた。筆者はこれまで黙祷したことは何度か覚えているが、お言葉は特に気にしたことはなかった。それがつい最近、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ或る学者集団がいることに気が付かされ、違和感を持ち、一つの問題として意識に残ったからだ。

それは以下に示す細谷雄一慶応大学教授の文献に代表されるようだ。
「戦後77年、「大東亜戦争」を経て日本が失ったものとは」(『Voice22年9月号)

そこでは「先の大戦とは何か」と疑問が正面から論じられている。しかし、天皇陛下も使う言葉であるから、自明の言葉「第二次世界大戦」を簡潔に述べたものだろうと筆者は疑問なく応えられる。まさか?日本国民が第一次大戦と区別がつかない、と考えているだろうか?そこで「大東亜戦争」が当時使われていた言葉としてお薦めの呼称となる。
しかし、これは占領行政の中で「太平洋戦争」に変えられ、使用禁止を受け入れざるを得なかった呼称であり、国民的呼称として使われている。

しかし、この経緯を考えれば、更に戦前の軍部独裁体制も含めて、天皇陛下が積極的に使われるとは、筆者には考えられない。

一体、一部の学者は何を考えているのだろうか?これについては次回に考えてみよう。

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歴史を振り返る意味~書評『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著

2017年06月17日 | 現代史
教科書的知識からすれば、二月(三月)革命をロシア革命の始まりとして、十月(十一月)革命でボリシェビキ政権がその二月革命で生まれた臨時政府を倒した。
すると、二月に生まれた臨時政府は、十月の時点において、
(Ⅰ)成長途中であった
(Ⅱ)成長できずに衰退していった
基本的にはその二つのいずれかで、ボルシェビキの蜂起に敗れたはずだ。

副題の「破局の8か月」とは、臨時政府が勢いを増しながら崩れていく過程の表現である
。即ち、(Ⅱ)が正解になる。しかし、著者はその過程を丁寧に追う。臨時政府にとってだけの破局か?との問いを引っ提げてだ。
 しかし、その問いを投げかける意味が筆者には良く判らないが。

 以下、著作の言葉を「」の中に書き、その他は筆者のコメントとする。

(1)「十月革命は根本において誤っていた展望に促されて起こった革命」(Pⅴ)。
この断定が以下の記述に必要とは思えない。
(2)「十月革命クライマックス史観と著作の史観とは違う」(Pⅵ)。
(3)「それは裏返しの十月革命クライマックス史観と呼べる」(Pⅷ)。
“裏返し”の意味が判らない。

(4)「ロシア革命で滅びたものについても考えてみる必要がある」(P?)。
(5)「何よりも先ず、臨時政府について考える」(Pⅵ)。
(6)「ロシア史のなかので二月革命から十月革命までを考える」(Pⅶ)。

これは見掛け以上に困難な課題を設定して取り組んだ著作であり、その意欲は書評(毎日新聞3/5)を読んだ潜在的読者へ十分にアピールするものだった。しかし、読者となったひとりとしては“平凡な、余りにも平凡な”内容に、期待を持ち過ぎたことに対して反省を余儀なくさせられた。

二月革命から十月革命の間に新しい解釈が可能になるような深みのある考察がなされたわけではない。民衆レベルでの政治意識を地域、職業等に分解して理解が進んだわけでもない。エリート集団内の内情を説明しているのが主だ。

それ故か、議論に変化を付けようとして、タラレバが繰り返される。
「WWⅠが起こらなかったならば、ロシアの…」(P10)から始まり、

二月革命に関しては、
「この「私的議会」で議会下院が自ら権力をと決めていれば、ロシア革命の…」(P27)
「仮に皇帝が大本営を離れずに、全力で首都鎮圧を指揮したならば…」(P34)

七月危機については、
「このとき、反政府勢力を徹底的に弾圧すれば…」(P133)
「この共謀(ケレンスキーとコロニーロフ)が頓挫しなければ…」(P160)

こういうことを並べても人は賢くなれないのではと、考えてしまう。

レーニンによって、革命の形態が変わったのだ。
それは本文の次の二つを関連させて考えることができる。

(ⅰ)二月革命は「女たちの叫びで始まった」(P22)。これは自然発生的な現象だ。
これを契機に「1917/3/2、革命ロシアに新しい政権―臨時政府が誕生」(P42)した。

(ⅱ)一方、十月革命でレーニンは意図的に革命を引き起こしたのだ。
「現状の力関係から出発せず、より「弁証法」的に考えていた。つまり、自分自身が動くことで、力関係に変化を及ぼし、展望を変えていく…」(P205)。

この点に関して残念ながら著者は何も気が付いていない。

従って、レーニンの人物像も「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児」と単純極まりなく描かれるだけだ。
筆者なら「砂場で建物を創って遊ぶ幼児」とでも描くだろう。砂場(社会)の砂(大衆)を水(例えば四月テーゼ)で濡らし、少しずつ固めて移動し、積み重ねて建物にする。砂の性質をよく理解していたのだ。

著者と筆者のレーニン像の違いはジキル博士とハイド氏にようにも見える。
スティーブンソンの原作は19世紀後半の作品だ。社会における見えない亀裂が二重人格者、革命主義者を生み出していたのかもしれない。漱石もまた、「明暗」のなかに不気味な人間像を描いていた。農民社会から自らを隔絶させた貴族社会の自由主義者、社会主義者には手の追えない性格を有する人間像かも知れない。

更に「エリートと大衆の格差」を論じるには、文学的素養も必須であり、それらを織込めば記述にふくらみも出て理解も促進されるだろう。但し、ロシアの場合は民族的・宗教的背景が欧米諸国と異なり、トランプ現象等を念頭においた最近の政治状況には馴染むとも思えない。

ロシアの今後を占うにはプーチン現象との対比が必要だ。その点、著者の問題意識の立て方に安易さを感じる。ロシア革命の教訓は先ず国内問題に対してであり、ロシアの変貌が世界へ影響を及ぼすからだ。

     


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『旅順陥落』林達夫、1950年~“ロシア革命後100年”を考える前に

2017年06月07日 | 現代史
歴史事象は区切りの年になると、色々理由をつけた形での話題にされる。ロシア革命後100年も例外ではない。数年前はWWⅠ後100年でその話題にはロシア革命も含まれている。それでも取り上げられるのは革命の視点があるからで、なお、昨今のポピュリズムを含むと現代的話題性も持ち込める。

池田嘉郎著『ロシア革命-破局の8か月』にもその様な視点が含まれると沼野充義氏は述べる(毎日新聞書評欄2017/3/5)。これから読むのだが、その前にロシア革命に関連する書物で印象に残る部分を確認することも大切だ。

表題のエッセイは70年近く前に書かれたもので、多くの知識人が共産主義に畏敬の念を払っていた時代だ。何しろ丸山眞男がスターリン批判に触れたのはその批判の後の論文であった。更に日露戦争を、帝国主義だけでなくロシア革命も含めて理解する頭脳を持っていた人も林以外にいただろうか。

論文のなかで、日露戦争に関する文献で最も示唆深く読んだ文献として先ず『白き石の上で』(アナトール・フランス)を挙げ、「ヨーロッパ全体の植民政策」が受けている報いとの見方賛意を示す。

一方、もう一つの文献が、『旅順陥落』(レーニン)である。「進歩的ブルジョアジー国家日本が、ロシアの旧体制国家に勝利した」と日本の肩をもったレーニンの見解に林は注目する。日露戦争での敗北が続く戦闘のなかで、1905年の革命(第一次革命)が起こり、ニコライ二世に譲歩を余儀なくさせたことと密接に関係するとの見方からだ。

ここから二段階革命論へ進むのではなく、林は、スターリンが第二次大戦のおけるソ連の対日参戦を日露戦争の復讐と理由づけたことを、レーニンを引き合いに出して批判する。ここまでくると、レーニンが生きていれば、スターリンと同じことを言ったかもしれないとも言えて、的外れの批判にも思える。

ただ、二十世紀前半を彩った「戦争と革命」の時代は、1905年革命と日露戦争に始まったとの認識を70年前に、曲がりなりにも示している処に『旅順陥落』の大きな意義があるように思える。

一方、林はマルクス・レーニン主義とスターリン主義とを区別するために、この論文を引き合いに出したのかも、との疑問も湧いてくる。即ち、スターリン主義はレーニン主義を引継いで、レーニンの「プロレタリア独裁」を極限まで追い詰めた形態ではないか、との疑問である。

国際的にはハンガリー動乱、プラハの春を押しつぶし、ブレジネフドクトリンへ続くソ連の政策、カンボジア虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻、中国のベトナム侵攻に至るアジア共産主義国の連鎖反応、中国での文化大革命、天安門事件での騒乱状態の出現である。

流石に1950年当時において、ここまで見抜くことができる知識人はいなかった。それはやむを得ない。しかし、振り返ってどこまで認識が行き届いたのかを冷静に検証することは大事であろう。
明日は永井陽之助の論考から考えてみたい。

     


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余りにも若者的な抵抗は“ワレサ”への道か?~『世代』ワイダ監督

2016年05月06日 | 現代史
舞台はドイツ軍占領下のワルシャワ郊外のスラム地域。
独ソによって国を分割され、独の独占領地域となったワルシャワで、自堕落な生活から小さな町工場で働き始め、搾取されていることに目覚め、更に抵抗運動へ加わり、仲間を失いながら自らは危機一髪を偶然に逃れる若者の姿を、ストレートに描き、ポーランドの行方を暗示する。最後は、その若者がリーダーになる形で収束を図った処にワイダ監督の姿勢も表現している。

不可侵条約を独が破ってソ連に侵攻し、ソ連のモスクワ反攻を経て、ソ連軍がワルシャワ進攻寸前の処でポーランド抵抗運動組織に一斉蜂起を呼びかけ、それに呼応し、ソ連進軍を期待して「ワルシャワ蜂起」が起こった。ワイダ監督の名を世界に広めた『地下水道』に描かれる様に、ソ連は進軍せずに、ポーランド抵抗運動組織は独軍によって壊滅的な状況にまで蹂躙された。

この映画は、「蜂起」の段階以前の抵抗運動を描いている。しかし、描かれた抵抗運動のメンバー(写真)は余りにも若者的なのだ。

       
貧困と展望のない若者の生活、更に夜間外出禁止令に象徴される独軍の抑圧的占領政策。主人公の若者の意識は映画の始め、母親の言葉にも関わらず、友達と遊びに興じ、独軍の運搬列車から石炭を盗み落とす行為に表現している。やりきれない気持ちと善悪を軽くみる刹那的な行動だ。

しかし、ポーランドの抵抗運動を創造的に表現するミッションを背負ったワイダ監督にとって、その第一作目は、その始まりであるナチス政権下の独に対する抵抗であることは当然であり、その運動も将来を担う若者達を中心に、その未熟さを含めて描くことも必須であった。その後、『地下水道』『灰とダイヤモンド』『カチン』『ワレサ』へ至るポーランドの歴史を描く一連の作品へ向けての出発点になるからだ。この若者が成熟してワレサに繋がるとのメッセージを込めて?

「列車の石炭盗み」で、監視の独兵士の銃撃に遭い、仲間を死に至らしめ失意の若者は、出会った工員のつてで小さな木工所で見習工として働き始める。そこで工員から“搾取”されていることを教わり、また、夜間学校を侮らずに、しっかりと勉強することを奨められる。しかし、その後の行動は、奨めとは対照的に、ストレートな抵抗運動へと爆発的に加速される。

学校でのカトリック神父の陳腐な話を学生達は集団で解散に導き、教室を出た処で、抵抗運動勧誘のアジ演説とビラの嵐に見舞われる。若者は忽ち抵抗運動に魅せられるのだが、その意識の底流に、抵抗運動勧誘のアジ演説をしたプロ・ソ連の共産党員と覚しき、抵抗運動の若き女性指導者への恋愛感情も流れている。

木工所でのピストル盗み、独兵士への復讐としての射殺、独軍のワルシャワ・ゲットー攻撃に対する防戦参加と行動は活発になるが、一人は逃げ遅れて独兵士と撃ち合い、ビルに追い詰められ階段からの飛び降り自殺に追い込まれる。

当然、これらの事件に対する独軍の捜査・追及は厳しいはずだ。しかし、若い彼ら・彼女らは、独軍に対する防備の意識は甘い。女性指導者は隠れ家のアパートを変えずに居た処を突き止めた独軍に連行される。

実は前の晩は若者も一緒におり、朝、パンを買いに出て帰った処を同じアパートの住民に知らされ、直ぐに隠れて難を逃れたのだ。軽率に突き出した行動と身の安全を図る慎慮の欠如の非対称性は、ポーランドの国民性がドンキホーテに例えられる所以であろう。

ワイダ監督は抵抗運動の置かれた状況とそれへの対応を冷徹に描くことによって、ポーランドの姿を明らかにし、政治的賢さを身につけた抵抗運動への示唆を投げかけたのだ。ラストシーンでは、若者が新たに班のキャップとなり、メンバーと落ち合い仲間意識を確認する。それが戦争三部作から「ワレサ」へと繋がることを象徴的に表現している。

      
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闇市の中の炭坑節~戦後インフレと傾斜生産体制

2015年07月04日 | 現代史
炭坑節は東京音頭と共に、地域社会での最大のイベント・夏祭りでの盆踊りでの恒例の曲だ。しかし、全国的に知られるようになったのは、「復興は石炭から」とする国策「傾斜生産方式」が第一次吉田内閣で決定(1946/12)された以降だ。

筆者が住んでいる地域の町会でも、公園に櫓を組み、最上部に太鼓を置き、その下で婦人部の方達が浴衣姿で踊り、櫓の周りでは参加者がみよう見まねで踊る。更に、それを遠巻きするように屋台が並ぶ。炭坑節は、北九州の三井炭鉱を唱っているが、今では、全国各地の盆踊りの中に居場所を見つけた如くだ。

教科書的な知識によれば、戦後の経済改革は民主主義という政治改革の上に、財閥解体、農地改革、労組結成、の経済民主改革によって進められたことになっている。しかし、先日の記事で紹介した戦後経済史によれば、「戦後の日本経済は、戦時期に確立された経済制度の上に築かれた」ことになる。
 『物語としての「戦後日本経済史」~野口悠紀雄著150701』

もちろん、丸暗記の受験勉強においては、「傾斜生産方式」も覚えただろうが、その後に聞いたことがない言葉であれば、記憶から消え去るのは、やむを得まい。野口によると、この方式では、石炭・石油と鉄鋼を結びつけ、価格差補助金によって安く、それら材料を企業に渡し、復興金融金庫融資で重点産業に融資し、設備投資資金とする。この方式は1949年まで続いた。

一方、戦中からの経済麻痺は著しい物資不足を招き、また、終戦直後の復員・引き揚げで人口は増加する中でインフレが進行し、各地に闇市が生まれた。更に、「傾斜生産方式」がインフレを加速した。物価指数は、40年1.64、45年3.5と2倍程度であったが、49年208.8と終戦直後の4年間で60倍にも膨れあがった。

しかし、筆者が属する団塊の世代は、この超インフレの時代に形成されたわけであるから、知らずに産湯につかったとはいえ、よくぞ親達は生んだものだ、と改めて思う。闇市などを駆けずり回って食料を確保し、息抜きに炭坑節を聴いていたのだろうか。
ただ、ベビーブームは日本だけでは無く、欧米諸国も共通のようであったから、世界大戦終了の余波であって、“余りにも人間的な事象”であったのだろう。

閑話休題。野口に戻れば、このインフレが資産階層を一掃したことになる。
利益を受けたのは、先ず基幹産業及び国(国債の価値が激減)、続いて企業一般(投資の負債額が激減)、更に大企業の従業員(その後の賃金引上げ)、最後にささやかな利益だが零細事業者も事業者としての恩恵を受ける。

重要なことは、華族、大地主等の資産家は資産を失い、没落したことだ。即ち、旧上流階層の政治的影響力を無視しうる状況になったことだ。そこで、戦後の日本を牽引したのは、インフレを是とする社会階層であり、これによって、意図はともかく、高度経済成長を可能とする社会構造が構成されたことになる。

但し、「傾斜生産方式」と経済民主改革を比較するのは無理がある。その内容及び果たした役割が異なるからだ。功利的な経済効果を考えれば、量が質を支配していたとも思える。しかし、経済民主改革が与える効果は、社会全体から個人の内面まで影響を及ぼしている面がある。結局、効果は判断する人の哲学を表現してことになるだけだ。

ここで野口はマルクス主義とケインズ政策に関して重要な指摘をする。
「マルクス主義経済学者は19世紀的な階級対立に囚われて、旧上流階層の没落の重要性を見失っている。現代的な経済活動にとって重要な対立は『資本対労働』ではなく、ケインズが正しく見抜いた様に、『資産保有者対事業者』だ。」

この批判は一面的な処があり、『労働』の位置づけを欠かすことはできないし、対立の図式も複雑になるはずだ。しかし、マルクス主義経済学者に対してというよりは、丸山眞男を筆頭にして、日本における戦後左翼・進歩的知識人全般に当てはまる端的な批判の様だと、筆者には思える。

      



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物語としての「戦後日本経済史」~野口悠紀雄著

2015年07月01日 | 現代史
「週刊新潮」(2006/8-2007/7)に連載された「戦時体制いまだ終わらず」をまとめたものである。従って、個人史、内幕情報を含みながら面白可笑しく書かれている。その意味で、経済学者が書いた経済史とは思われない内容であると共に、経済学者でなければ書けない内容でもある。

従って、「出色の出来」になっている。氏が「戦後経済史を記述することは、私にとって自分史を作成することでもあるのだ」と喝破するのも、宜なるかなだ!

本書『はじめに』において筆者は、
「標準的な見解と全く異なる歴史観を提示する」と述べる。それは「戦後の日本経済は、戦時期に確立された経済制度の上に築かれた」とする考え方だ。これを1940年体制(戦時経済体制)と呼ぶ。

歴史観とは結果に関する解釈である。標準的と野口が指摘する見方は、戦後の経済民主化から出発し、軍事国家は平和国家に転換して経済成長に集中して高度経済成長を実現した、とするものである。

従って、その違いは「戦時経済体制」と「戦後経済民主化」のどちらを高度経済成長の基盤と見るかに掛かる。ここで筆者が関心を持つのは、前者はその命名に示される様に、色濃く経済体制に係わり、後者は先ず「政治体制」を表現する処だ。

逆に言うと、後者の標準的見方は、政治体制の民主化が自ずと経済活動の活性化をもたらしたと暗に認識しているのに対して、前者は経済活動の中味を重視し、ある面では政治も従えて進行するものと捉える見方なのだ。

そこで、野口が重要視するのは、間接金融体制(企業が資本市場からではなく、銀行からの借入れによって投資資金を調達する仕組み)になる。これによって、企業は従業員の共同体になった。

非常に面白く、これまで見ていなかったポイントを突く鋭さがある。しかし、これだけであるいはこれが主たる因子で高度成長が説明出来るのか?第1章から第9章まで読まないと納得しないと直感的に考える読者も多いだろう。

その前に、付録1「戦時経済体制」を頭に入れ、
     付録2「戦後経済史年表」をコピーし、
     付録3「戦後歴代首相・蔵相・日銀総裁」は見なくても…。

これで本文を読みながら頭を整理すると良いであろう。
筆者が啓発された部分については別途記事にする。

      
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切迫するジャパン・プロブレム、1987年~不透明社会・日本

2014年09月21日 | 現代史
日米間の経済的地位が相対的に変化し、互いのイメージに誤解をもたらす点に関して、永井陽之助の指摘を昨日の記事で紹介した。このとき、カレル・ヴァン・ウォルフレン「ジャパン・プロブレム」を引合いに出したが、内容は触れなかった。概要が検索で得られたので、ここで紹介する。
 『屈折する米国の日本観(3)140920』

ウォルフレンはアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」1987年冬号に「ジャパン・プロブレム」を掲載し、思わぬ反響を得た。即ち、各国のメディアやジャパノロジストから好評が寄せられる一方、日本の外交筋や高官から猛烈な反発が来たとのことだ。

ここでは、「米国の友人に送る手紙」(文藝春秋1987/5))から永井のコメントを先ず示し、次にウォルフレン論文に移る。
1)日本は戦前からハッキリと自己主張をしてこなかった。
2)ウォルフレン論文は問題の所在を突いている
3)日本は「透過革命」の敵とみなされている。

次に「ジャパン・プロブレム」の概要だ(「松岡正剛の千夜千冊」2006/4/3)。

「日本は世界を当惑させている。
大国となった日本は、世界が期待しているような大国にふさわしい態度をとっていない。それなら、国際社会の一員になりたくないのかといえばそうでもなく、国際的なプレステージを気にしている。欧米のゲームに参加して、80年代の初期からたいそうな勝ちを収めているのに、そのルールを守らない。」

「この時期は日本が主にアメリカによってジャパン・バッシングされていた時期である。自動車をはじめとする日本の輸出品がアメリカの"怒り"を買って、各地で壊されたり焼かれたりしていた。しかし、日本からすると困った実情であるはずなのに、日本はその基本姿勢を改めなかったばかりか、なぜ日本はそのような姿勢をとりつづけるのか、説明しようともしなかった。」

「ふつうなら、これは日本に国益を守るべき明確な意志や意図があるからだと想定されるところだった。そういうものがあってもかまわない。国家というものはどこだって国益のために動くものである。しかし、アメリカをはじめとする各国がそのような日本の意志や意図を分析しようとしてみると、あるいは当事者間で交渉してみると、日本側にそのような明確な方針があるとは思えなくなってくる。失礼しました、改善するように努力しましょうと言うばかりなのだ。」

「そこでウォルフレンは次のように推理せざるをえないと書いたのだ。
なぜ日本がこのような態度をとるかというのに、おそらく3つほどの虚構があたかも現実のように動いていて、日本を“変な国”にさせているからではないか。」

「1)日本は主権国家として最善の国益を選択すると諸外国からは思われているが、実はそれができない国。
2)日本は自由市場経済を徹底していると主張するが、ごまかしているか、内の顔と外の顔を使い分けている。
3)日本は世界中がまだ定義していない体制の国で、その自覚もない。」

「その観察に基づき、彼は日本を「柔軟」「曖昧」「独自」と弁護あるいは非難せず、日本は権力の行使を見えなくする「システム」があると見るべきだと述べた」。

日本国憲法のもと、日本は民主主義国だ。表面上は米国と同じだ。しかし、実態は異なり、日本に開かれた民主主義は根付いていない。これがウォルフレンの主張であり、私たちも思い当たるフシはあるのだ。

      
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屈折する米国の日本観(3)~日米間の地位変動とイメージギャップ

2014年09月20日 | 現代史
「半年のうちに世相は変わった」、これは「堕落論」冒頭の坂口安吾の言葉だ。しかし、直ぐに「人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ」と言い放つ。安吾の言うとおり、人間は敗戦前後で簡単に変わるものでもない。

しかし、慰安婦問題に関連し、冷泉彰彦氏は「JMM2013/8/10」で次の様に云う。
『米国の政府も世論も、かつての日本は「敵」であったが、それは「古い日本」であって、戦後の「新しい日本」は、アメリカにとって最も近く、最も親しみのある友好国だとの共通理解を持つ。』

「悪しき古い日本」と「親しみのある新しい日本」を米国の政府と世論は明確に区別する。それは米国が日本を変えたということではなく、戦後日本の平和志向の行動パターン、ソフトパワーのためだ。』

政治体制に対して時代的に区別は出来る。しかし、人間に関してそう簡単に区別が出来るだろうか。岸信介は良く知られている様に、戦前は商工相、戦後は首相だ。それを含めて公職追放と復帰の劇もあった。安吾が言うように、人間は変わりもするし、変わらないでもいるのだ。また、時代的に区別をしたとしても、その時代の全てが悪、全てが善というわけでもない。

先の2回の記事で、米国のヒット作品であるテレビドラマ「将軍」、ミュージカル「太平洋序曲」、についての永井陽之助の分析を紹介しつつ、慰安婦問題に関連して考察した。当然これらは、米国の一般人の考えを知るためだ。
 『屈折する米国の日本観(1)140918』
 『屈折する米国の日本観(2)140919』

「将軍」では、欧米人の思考の基底に古代ペルシャに由来する東洋イメージがあり、慰安婦問題での性奴隷との表現の中に、性と専制の世界を再確認する発想があること、また、「太平洋序曲」では、日本を近代国家に育てた米国の功績とのの視点があり、性奴隷との表現が、啓蒙主義的な負のユートピア思想として政治問題化されたことを指摘した。

これらは、意識の底に潜んでおり、表層での「親しみのある新しい日本」と矛盾無く共存し、社会状況によって、励起される。従って、冷泉の指摘だけでは不十分であり、例えば、日米経済摩擦のおりに出てくる「サプライズアタックを掛ける日本」とのイメージはでてこない。

この点について、経済的地位の相対的変化に起因する互いのイメージの違いが誤解をもたらすと永井は次の様に述べる。
「日本は圧倒的な米国経済に対して未だ対等な競争は無理と考え、米国は官民一体の日本株式会社が、安全保障にタダ乗りし、米国に挑戦しているとみる」。
 『イメージギャップの中の日本1972年140614』

更に、1985年頃のジャパンプロブレムに関して、戦前から続く日本の社会の不透明性について、「貿易摩擦とは、グローバルな経済とローカルな政治との松涛から生じるもので、政治は人間や文化という、元来不透明で、ドロドロしたものと係わる、しかし、米国は建国の精神からこの世界から不透明性を除去する開かれた社会を目指す」と指摘している。

ここでは、「親しみのある新しい日本」が、米国とは異質の価値観と生活習慣を有し、それ故に米国とぶつかることを明確にしている。それが国際政治であり、外交を必要とする所以だからだ。冷泉説は余りにも世界を単純化し、アメリカ的価値を押し付けることになる。

また、慰安婦問題に関しては、冷泉の指摘する「古い日本」の名誉回復を志向しているわけではない。その問題はすでに韓国と日本の政府同士で決着済であるし、日本は基金を設立して補償に対応している。虚偽をベースにした誇張した表現に抗議しているだけだ。その意味で朝日新聞の記事抹消と謝罪は、基本的に国内問題である。

しかし、大切なことは、一年以上も前の記事に書いた様に、沈黙文化・黙殺文化を打破することだ。おそらく、日米経済摩擦の問題においても、日本の主張を理解させることが不足で米国流のロイヤー的論理に押されていたのではないか。東アジアにおける近隣外交もまた、基本的に同じ問題を抱えている。
 『外国に対する「黙殺文化」と直截な翻訳表現130618』


      

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屈折する米国の日本観(2)~慰安婦問題で日韓は同じイメージの中に

2014年09月19日 | 現代史
テレビドラマ「将軍」に表れた米国の日本観を分析して、その根源に古代ペルシャがあるのと永井陽之助の指摘(「誤解」E・ウィルキンソン(中央公論)からの引用)を、昨日の記事において紹介した。それは、野蛮な専制と放恣な性の世界から構成され、ギリシャと対比される「東」と「西」の原型として固定化されている。東は中国、日本に至るまで入る。
 『屈折する米国の日本観(1)140918』

「性奴隷」とは、上記の「野蛮な専制と放恣な性の世界」のイメージを戦争に投射させて造り上げた造語のように感じる。「奴隷」という言葉を我々日本人が使うことは多くない。冗談まじりの比喩として「奴隷のような生活」などと云うことはあっても、貧しい境遇の人びとを直接的に「奴隷」とは呼ばない。また、「性」という言葉を露骨には使わない。

一方、米国は奴隷制度を創設し、黒人奴隷は400万人までに達した。おそらく、奴隷のイメージは一般の米国人には旧有されたイメージがあるに違いない。それに「性」を付けることによって、ただそれだけのために酷使されている女性のイメージを造り出したのだ。

勿論、通常の生活で、特にこの種の情報に接しなければ、「性奴隷」との言葉に無縁な人たちも、一旦、マスメディア等でその言葉が流布され、事情が説明されれば、気持ちが“励起”されることになる。そこで、日本人の原型と照らし合わせが行われ、そのイメージが確認されると共に、イメージに合うように新たな情報が固定化される。

ここで注意すべき重要なポイントは、上記の日本人イメージは、ペルシャから、インド、中国から連なるものだ。従って、韓国もその中に入るのだ。簡単に言えば、日本と韓国は区別されずに東洋の一角としての国々の一つなのだ。

従って、慰安婦問題も東アジアのペルシャ的世界として米国人の固定観念を再確認させるものとして働くのだ。それは長期的にみて、米国人の基底にあるイメージを更に固定化させる作用をもたらす。日本と韓国は同じイメージの中におかれ、それは現代の国際関係の中にじわじわと染み込んでいくであろう。両国共に得ることは少ないはずだ。

その一方で、米国の対日イメージの中に、日本を「民主主義国・経済大国」に育てたとの視点がある。これもブロードウェイミュージカル「太平洋序曲」のヒットからの永井の連想だ(「時間の政治学」(中公叢書P193)。

これを「マイ・フェア・レディのアジア版」と永井は呼んだ。
粗野で無教養の開発途上の生娘を、時間をかけて貴婦人に育てあげていく、という筋書きだ。戦後日本はマッカーサー元帥からライシャワー大使まで、ヒギンズ教授型の後見人に恵まれてきたと、皮肉を込めて云う。

その現在版がケネディ大使と云って良い。その近代化の旗手で、父親・ケネディ大統領の神話が今でも通用する唯一の国とも云われる日本への赴任を考えたのはオバマ政権の誰であろうか。その第一の使命は、日本における女性の地位向上への啓蒙活動であろう。

しかし、そこで永井が「民主主義も共産主義も、人類の経験する唯一の精神革命である啓蒙思潮が生んだ異母兄弟であって、伝統的秩序を否定する「負のユートピア思想」を共有するが「正の行動規範」については何も語っていない」と云うとき、その「負のユートピア思想」的発想の中に性奴隷との表現が含まれるとは、考えていなかっただろう。

性奴隷との表現が、啓蒙主義的な負のユートピア思想として政治問題化された。それが直接の被害者を越えて、国連を含めて世界に多くの利用関係者を含む利害関係者を生み出し、報道機関を通し、センセーショナルなニュースとして世界に伝えられた。それが世界の20ヶ国以上の議会で慰安婦非難決議が採択されたことに跳ね返っている。ここに慰安婦問題の性格が表れている。

今回の従軍慰安婦問題における直接の被害者に対して、日本はアジア女性基金制度を作って対応した。第二次世界大戦以降の歴史において、日本は戦後の進駐軍に対する慰安所設置と運営の問題があり、韓国にも朝鮮戦争、ベトナム戦争での慰安婦問題を抱えているはずだ。今後、同じ様な問題になるなら、同じ対応をとる以外にない。

さもなければ、永井の指摘する「再確認」の繰り返しという進展のない結果になるだけであろう。


      
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屈折する米国の日本観(1)~慰安婦問題の底に潜むもの

2014年09月18日 | 現代史
朝日新聞が「慰安婦の強制連行」という証言が虚偽であったことを認め、その記事(初出1982/9/2)を取り消した(2014/8/5)。慰安婦問題は、既に日韓で決着済の問題を上記の記事がもとで、韓国側が再び取り上げ、米国をも巻き込み、政治問題にしたものだ。

特に、英語で性奴隷と訳され、米国議会下院で謝罪要求決議が可決され、なおかつ、慰安婦像なるものが、いくつかの地方都市で設置されていることだ。これに対して、日本政府・外務省は有効な手立てが出来ず、また、国内で朝日新聞に同調する政治集団が反日本政府活動をすることで、日本の立場を悪くした。

米国の下院といえば、デフォルト問題でオバマ大統領を追い込んだことで地方自治の何たるかを、世界に示した強者議員の集まりだ。これは米国の地方レベルで慰安婦問題が奇異の眼で見られ、簡単に反日感情に火を付けられる可能性を含むことを示唆している。日本に対してどのようなイメージがその基底にあるのか。
 『米国議会の「騒動」からの教訓131019』

30年前のことになるが、永井陽之助は『日本にこだわらない日本論を』(中央公論1984/5)の中で、「欧米の理想モデルに比較して日本の文化的・社会的な特異性を強調する議論の時代は終わった」と述べ、その中で、ステレオタイプ化した日本イメージの問題を提起した。そこのは“性愛”に絡むイメージも存在する。

永井は当時、米国のテレビで大当たりした番組『将軍』の再放映を見て、「この東洋エキゾティシズムに満ちた二流の番組が、何故、あれほどまでに米国人視聴者にうけたのか、理由の一端が漸く判った」と述べる。以下、更に引用する。

最初の導入部、磔、切腹、釜ゆでなどの残酷な処刑あるいは東洋的な抑圧と専制のシーン。後半になると、島田陽子が扮する東洋的美女があられもなく男の寝所に忍び入るという、エロティックな場面。
これは欧米人のステレオタイプ化した「東洋」イメージの二重性を再確認させるものだ。その起源は古代ペルシャだという。

一方で、想像を絶する残虐な拷問と処刑、野蛮と抑圧、
他方でハーレム内部の、神秘的で、あらゆる禁忌と抑圧から解放された放恣な性、女性の美とエロティシズム、これがギリシャと対比され、「東」と「西」の固定イメージの原型となって今日まで生きている。
「オリエント」「イースト」のステレオタイプはペルシャ、アラビア、インド、中国、最果ての「極東・日本」にまで及んで完成される。

従って、欧米のメディアが日本特集を組むときは、この二重性のイメージを必要とする。ホンダのオートバイに乗るサムライ、ロボットに配する芸者、である。

そこで筆者が思いつくのは上下を着けて、安倍首相が三本の矢を射る姿で、アベノミクスを象徴させるやり方だ。これで、欧米人は、日本「変われば変わるほど元のまま」だと、心から納得して、安心するのだ。


なるほど、そういうことか。
この論文を読んで、慰安婦が「性奴隷」と米国で呼ばれたことが、性と専制の両面に渡る日本人のステレオタイプ化されたイメージを、米国人が再確認していることに他ならないと理解できた。
それに対して、自分たち米国人はキリスト教のもと、性を昇華し、人権が行きわたる民主国家なのだと!自らの奴隷制度を棚に上げてだ。


      

      
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