散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

スイミーとしての橋下徹(2);再論・スイミーモデル~住民自治へ向けて

2012年02月14日 | 国内政治
1.問題の所在

前回は4年前の記事の再論であった。
今回は2年半前、東国原宮崎県知事、中田横浜市長、橋下大阪府知事を中心に衆院選挙へ向けて「首長連合」を結成したときの「スイミーモデル再考」である。

ここでは、副題にあるように、先ず住民自治に対する考察の不足を反省している。すなわち、『市民との連携からみた地方自治体の国への戦略』とは、「新党・自治体」を結成する前に、基礎自治体への権限強化、住民参加の制度の拡充を実行することであるからだ。

「首長連合」は、「自民対民主の国家政策対立のなかで、地方分権という政治課題を取引材料にしているだけ」であり、話が国政レベルになると、権力闘争の部分が表に出て、政策が不明確になる。東国原氏が自民党総裁を望んだというニュースが、詳しい内容は不明だが、この間の事情を象徴している。

以下、メルマガ95号2009/07/23『「スイミーモデル」再論~住民自治へ向けて~』の再録である。

2.「スイミーモデル」

『スイミー』はご存じの絵本、レオ・レオニ作、谷川俊太郎訳(好学社)、小さな魚たちが集まり、大きな魚に見せかけて、大きな魚を追い払う話である。

その趣旨は「今後の自治体の国に対する戦略として、アジャイルな活動により逆に国の改革を迫る『地域主導権』を確立する。」である。

「そこで考えるべきことは地方分権というよりも『地方主導権』である。
改革の事例を地方から国への突きつけ、逆に国家機構の改革を迫ることである。国は一つであるが、地方自治体は無数にあり、小回りがきいてアジャイルな活動ができるからである。これが『地方主導権』となって国全体を動かすことに繋げていけるのか。それが市民との連携からみた国への戦略である。」

「せんたく」の結成は“地方主導権”と一致した考え方であり、そこから「新党・自治体」まであと一歩と考えた。更に“分権と統合”のジレンマに立ち向かうことが必要である。

3.前提は住民自治

「スイミーモデル」を読み返してみると、「住民自治」に関する考察が不足していたと感じる。おそらく、そのときは憲法92条の「地方自治の本旨」である団体自治と住民自治に対する分解能がそれほど大きくなかったと考えられる。
別な意味では、当時の改革派である北川前三重県知事や片山全鳥取県知事は住民自治に関する理解は深く、改革派すなわち、住民自治推進派と考えていたことにもよる。

筆者が考える地方自治体の改革派とは、比較的小さな自治体で住民自治にまで至る改革を推進した首長、例えば、西寺前多治見市長、逢坂前ニセコ町長(現衆院議員)、穂坂前志木市長、福島前我孫子市長、あるいは住民参加の議会改革を行っている北海道栗山町の橋場議長である。
では、今の首長連合はどうであろうか。これは筆者が考えていることと同じであろうか。いや、大いに違うのである。あるいは似て非なるものかもしれない。

「首長連合」という言葉が地方分権とどのように関係するのか必ずしも明確ではないからである。「風が吹けば桶屋が儲かる」程度の理屈はあるだろうが、解散の流れに便乗した政治活動としか考えられないのである。いや、政治活動である以上はその流れに敏感に反応しているというのかもしれない。

しかし、それが自民対民主の国家政策対立のなかで、地方分権という政治課題を取引材料にしているだけとしか映らない構造になっている。その最大の要因は哲学がないことによる。哲学とは私見によれば“住民自治”に対する哲学である。単に霞ヶ関と地方自治体役所の団体自治での権限争いだけではなく、“住民自治”に対する洞察を必要としている。

現状は知事会も含めて「首長連合」も高級な圧力団体が及び腰ながら少し政治団体化し、言葉は少し強くなっているだけである。
 
4.寸評「首長連合」

「首長連合」の中心は東国原宮崎県知事、中田横浜市長、橋下大阪府知事であるらしい。それにしても三氏から“住民自治”という言葉は出てこない。要するに国との権限争いというコップのなかの嵐に過ぎないようである。

今時、自民党総裁になりたいという東国原氏は単なるオポティニストという以外になんと言えば良いのだろうか。存外、簡単にこれまでの虚像から実像を顕したというべきであろう。マスメディアに乗り、それを梃子に権力に近づいていく図式である。いつでも知事を放り出して良いと考えているようであるから特に政策にこだわりはなく、上方の権力ばかりに目が向いている。「住民自治」どころではないのであろう。

橋下大阪府知事は学力テスト問題の対応がその本質を明らかにしている。
市町村別結果の公開問題において、「公開、非公開で財政支援に差をつける」とあからさまな脅しをしている。これは地方分権に真っ向から反する行為である。

地方分権は国から都道府県に権限を委譲することが最終的目標ではない。基礎自治体に権限を渡すことである。そこで、基礎自治体は住民自治を踏まえた政府として活動することである。現状でも国と都道府県が対等との主張であれば、同じように、都道府県と市町村に対しても対等のはずである。
国からの権限を基礎自治体に渡さず、独り占めをしようとする権力主義的な思想が垣間見られる。

中田横浜市長に至っては「よい国」などと言い出している。中田氏、山田杉並区長を中心とした「日本よい国構想研究会」が新党を結成するとの報道がでてきた(7月17日22時17分配信 産経新聞)。

恥ずかしげもなく付けたものだと苦笑せざるを得ない名前である。ここで直ぐに思い浮かんだのは「美しい国」というすでにマスメディアでは忘れ去られている言葉である。そう、安部元首相の言葉である。

このような言葉が地方分権とどのように関係するのか皆目見当がつかない。地方分権という政治課題に便乗した政治活動としか考えられない。「平成の世直し運動」を進めるのであれば、正面から主張すべきことである。

但し、「美しい国」「よい国」などの言葉を政治家が口にしたときは、マユにツバを付けてみるという庶民的な英知を思い起こしながらである。
 
中田氏は人口360万の横浜市に関し、そのまま更に権限を強化し、大都市州とする構想を発表している。このなかで、区を独立した基礎自治体にせず、効率第一を目指すという。恐るべき野望というべきか。「住民自治」どころではないのであろう。

      
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スイミーとしての橋下徹(1);再論・スイミーモデル・新党「自治体」へ向けて

2012年02月12日 | 国内政治
1.はじめに

今から4年前、表題の“スイミーモデル”を考えた。
『スイミー』はご存じの絵本、レオ・レオニ作、谷川俊太郎訳(好学社)、小さな魚たちが集まり、大きな魚に見せかけて、大きな魚を追い払う話である。そこから現時点で、橋下徹市長を“スイミーモデル”の『スイミー』として考えるのは、自然の発想だろう。

そのときは、北川正恭・早大マニフェスト研教授を中心にした改革派知事が「せんたく」を旗上げした。それを知ったのは上山・慶大教授のブログであった。その上山氏は橋下徹市長が府知事の時代からの顧問として大阪府市改革に携わっている。橋下徹市長が率いる大阪維新の会の国政進出も含めて、今後の動向を知るうえで、そのブログは必読である。

これは偶然の一致があるにしても、問題意識は繋がりがあると考えられる。そこで先ずは4年前に何を考えたのか明らかにするために、以下の記事を若干の文言を直し、不要な部分を除いて再録する。

メルマガ42号2008/02/03『スイミーモデル~新党「自治体」へ向けて~

(1)問題の所在
「川崎市行財政改革・政策体系を視る眼」において『地域主導権』という言葉を使った。今後の自治体の国に対する戦略として、以下のように述べた。
「アジャイルな活動により逆に国の改革を迫る『地域主導権』を確立する。」

「そこで考えるべきことは地方分権というよりも『地方主導権』である。改革の事例を地方から国への突きつけ、逆に国家機構の改革を迫ることである国は一つであるが、地方自治体は無数にあり、小回りがきいてアジャイルな活動ができるからである。これが『地方主導権』となって国全体を動かすことに繋げていけるのか。それが市民との連携からみた国への戦略である。」

「サッカーにおいても守備において敵の攻撃について走るのは精神的にも疲れる。しかし、敵の動きを読んで走るとボールを奪って反撃に移ることが可能である。劣勢のチームはそのようにして速攻からの得点を狙う。狙いを持って業務革新を続けていけば、本当の“地方自治”を可能にするチャンスはこれからもある。」

そして、その突破口は「新党・自治体」を結成することと考える。すなわち、“スイミーモデル”、地方主導権による政治改革のアナロジーとしての政治的モデルは明らかである。

(2)集合・指向・同時
このモデルのポイントは、「同じ領域に集まり、同じ方向を目指し、同時に行動する」ことである。“集合・指向・同時”である。

同時性の教訓は株式市場に代表されるマネーの動きによって明らかである。一方、政治的には、現代革命理論のキーワードである。アラビアのロレンス以降のゲリラ戦にとって正規軍を分散させる基本戦略になっている。赤軍派の「世界同時革命理論」或いは「同時多発テロ」もそうである。

日常、平穏無事に過ごそうという我々のような市民にとってこのような、物騒な言葉とは、縁の薄い関係であって欲しいのだが、この世界の政治、経済環境からは脱がれることができないことも確かである。ジョージ・オーウェルが述べたように、ヘンリー・ミラーのように『鯨の腹の中』にいない限りは、である。

『スイミー』は少学生の教科書にも現れる話のようだが、そこでは、団結は力なり、の道徳的?教訓話にもなっているようだ。絵と文に表れた芸術性の高い話が単なる他愛もない教訓話になっていることは、どこか日本の教育論議を象徴しているかのようである。

それが当然ながら、うわべだけの話と子どもたちに受け取られ、極少数の人間だけが大人になって「革命活動」の教訓に覚えているのであれば…。つい最近、答申を出した首相諮問の教育会議?の議論も同じように上滑りし、おそらくどこかで“悪用”されるだけのようにも思える。

閑話休題。
『地方主導権』の動きが政治的に有効な活動になるには『スイミーモデル』は判りやすいイメージを提供するであろう。しかし、これはあくまでもイメージの世界の話であって、現実の話とは別である。但し、イメージをもっているということは現実の活動の方向性を規制していくことにもなる。

(3)地方主導権から新党・自治体へ
ところで、『地域主導権』の動きが早くも現れた。地方自治体改革の実践にも携わった上山・慶大教授のブログに、「改革派知事の新連合発足へ 以下は東京新聞。 『改革派知事』ら新連合 分権推進へスクラム 超党派議員賛同募る」という記載があった。
最近の報道によれば、「せんたく」の結成である。

新聞によれば、「従来型の団体とは一線を画し、政党、霞が関を突き上げながら主体的な改革に取り組むことを目指す。」ということで将に“地方主導権”というコンセプトが出ている。中心は前三重県知事、現早大教授の北川正恭氏で、満を持してのタイミングのように思われる。神奈川県の松沢知事も参加することを表明している。「政党、霞が関を突き上げながら」という考え方が、「改革の事例を地方から国への突きつけ、逆に国家機構の改革を迫ることである。」と思想的に一致する。

即ち、“地方主導権”の考え方と一致しており、そこから「新党・自治体」まであと一歩である。しかし、その一歩は相当遠いかもしれない。

“地方主導権”が「地方分権」を目指すだけであれば、国の運営からは遠ざかる可能性がある。それぞれの地方のエゴがぶつかるのは当然であるが、それを統合していく契機がなくなる恐れがある。それでなくても日本は滅私奉公の残滓を色濃く残している。滅私奉公はまた、私利私欲をその裏側に隠しもっている。「分権」された地方によって分断されれば、現在の官僚制度の中での省庁による分断に上乗せした縦横の分断地方が輩出する可能性もあるのだ。

おそらくEUの発展をモデルケースにしながら“分権と統合”のジレンマに立ち向かう覚悟をもつことによってのみ、「新党・自治体」は生成し、成長するようにおもわれる。

(4)様々な応用
“スイミーモデル”は更にある種の普遍性をもっている。即ち、小さいものが提案し、大きなものの既得権益或いは惰性を打破しようとする場合である。例えば、ひとりで役所へ提案し、それが却下されたとしても、言い換えれば勝負に負けたとしても、相撲に勝っていれば、それが抑止力として働くことは確かである。加えて、後で大きく発展する可能性も秘めている。

筆者自身が試みてきたことも結局、同じ言葉で表現されることになるかもしれない。
そのホームページに書いた「“探検”川崎市政との対話」を「“スイミーモデル”による活動・川崎市政との対話」との長い副題にしたくなるのだが。

以上が4年前の論稿である。“地方主導権”(大阪都構想)から「新党・自治体」(大阪維新の会)まで、方向性は間違いはなかったと考えている。
実は、更にそれから1年半後、今から2年半前、衆院選挙へ向けて首長連合が結成されたときに、再度「スイミーモデル」を考えた。次号で紹介する。

         

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