散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

みんなの党と日本維新の会の参院選挙協力~合流・第二極化へ向けて進展~

2013年03月30日 | 国内政治
日本維新の会とみんなの党は、合流・第二極化へ向けて参院選挙協力で合意に達した。合意達成までの経過はわからないが、報道される関係者の言葉の切れ端から推測するに、維新の会の橋下共同代表の低姿勢、みんなの党の江田幹事長の党内リーダーシップが光ったとの印象を筆者は持った。

報道によれば、維新とみんなの両幹事長は29日に以下の選挙協力に合意した。
1)「1人区」(改選区数31)…12選挙区(維新9、みんな3)・統一候補擁立
2)「2人区」(改選区数10)…すべて候補者を一本化
3)「3人区」(改選区数 3)…維新・千葉、みんな・埼玉、愛知で擁立
4)「4,5人区」(改選区数 3)…両党互いに1名を擁立(神奈川、大阪、東京)

立候補者は地方区だけで31名になる。勿論、一人区での当選は困難が大きいであろうが、複数人区では全員当選がなるのか?注目したい。更に、両幹事長は、共通の参院選公約を作ることでも一致、一方、民主党との選挙協力は困難との見方を改めて示すと共に、参院選後も合流へ向けて進展を図るとした。

既に『国民的視点からみた「日本維新の会」の位置(20130113)』で論じたように、少なくとも維新の会は衆院比例区では民主党を凌いで第二党になっている。比例区に特化した限界政党ではなく、政権を争う全国政党になっている。

国民的期待もまた『維新・みんな連合=全国政党化へ向けて走り出した(20130131)』のように、第3極が乱立した状況を欲していない。自民・民主を同じ穴の狢と考え、“改革”を志向した新たな政治勢力の台頭を望む声は大きい。

そこでの、「維新・みんな連合」の帰趨は『渡辺喜美は石原慎太郎と刺し違えできるか(20130219)』が最大のポイントになっている。渡辺党首の決断は未だ得られていないが、江田幹事長の主導によって、みんなの党の方向性が定まったことは高く評価できる。

既に石原慎太郎は老衰しており、個人的には政治生命はない。しかし、石原は旧太陽の党メンバーと共に必死になって憲法改定に向かって主張を強めている。最大の問題は、政治学者・京極純一が50年前に指摘したように、明治憲法、戦後憲法と同様に、国家機構の編成と行動基準を規定するに止まらず、国民の宗教・倫理という内的基準を律する体系として、憲法を改定させようとするか否かである(「現代民主政と政治学」岩波書店(1969))。

日本政治の方向は最終局面に向かいつつある。

      
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元祖「ノマド」は文化人類学者・故山口昌男だ!~安藤ミッフィー的世界?~

2013年03月24日 | 現代社会
この写真の中のパンフは、おそらく当時の札幌大ホームページの表紙あるいはワンクリックの範囲で掲載されていた『山口昌男流ノマド的学生生活のすすめ』を筆者が転記し、更にそれを要約したものである。


“おそらく”と書いたのは、山口昌男は1999-2003年に札幌大学・学長を勤め、「札幌大学・学長室へいらっしゃい!」との表現はその当時のものであろうからだ。しかし、今となっては、HPも内容が変わっており、ググってみても手掛かりは得られない。ただ、これは大学側のパンフレットであり、山口の作品ではない。従って、著作集、全集等の中には載っていないだろう。今では、却って貴重かもしれない。

これを取り上げた契機はアゴラのテーマに安藤ミッフィ-の魔性とあったからだ。家人に「ミッフィ-て知ってる?」と聞いた処、写真のパンフを指された!エッと思って「何?」と聞くと「ノマドで有名!」と言われてその記事を慌てて読んだのだ。

ミッフィ-に関心を持ったわけではないが、ノマドワーカーの説明を読んでタモリと共にある種の納得をしたのは確かだ。「ノマド」が商売になり、マスメディアに取り上げられるのを、山口昌男は知ってか知らずか…周辺的存在が祭り上げられる現代的事象に対する鋭い感性が働いて、いつかこの日が、と思っていたと憶測する。

山口を偲び、手元の『山口昌男流ノマド的学生生活のすすめ』全文を記す。

『「ノマド感覚」とはつまり創造的に放浪すること』

キミはなぜ大学に入りたいのかな。就職のため?みんなが受験するから?本来の目的は、自分の可能性を広げ、能力を伸ばすことではないだろうか。山口昌男学長は「人間を選別するための大学ならいらない」と考えている。

画一的な知識を詰め込むだけでは、時代の変化に対応できる人材を育成できないからだ。いまの社会が求めているのは柔軟な発想や応用力。それを伸ばすには「ノマド感覚が必要」というのが山口学長の持論だ。

「ノマド」とは、もともと遊牧民を意味するフランス語。一ヵ所に安住せず、移動することで自分を鍛える。新しい発見をする。自分を成長させるためには、型にはまらない考え方が重要なのだ。こうした山口学長のノマド感覚は、学長室のドアをあえて取り除き開放的な空間に変身させ、どん欲な学生であるほど大学生活を充実させられる制度や環境をつくり出している。

もし山口学長が札幌大学の学生なら、どうノマドするのか?「興味のある分野をとことん研究し、尊敬できる先生の知識や人脈までもフル活用する。大学の外にもネットワークをつくるね」。学生時代から道草をして、いろいろな国を移動しながら教えてきた山口学長自身が“ノマド学生”のお手本なのだ。

『もっと知りたくなったら山口文庫を探してごらん』

札幌大学の図書館には56万冊の本が揃っている。ほとんどの学生はここで用が足りるはずだ。ただ、知的好奇心の旺盛な学生はそれで飽き足らず、彼らはやがて6号館の地下にある「山口文庫」にたどり着く。ドアが閉まっていたら、その存在はわかりにくい。まるで迷宮の奥深くに隠された秘密の古本屋のようだ。そこには学長の蔵書約4万冊が独自の分類法によって整理されている。

学長が著作の中で引用したであろう文献や古本屋で好奇心の赴くまま集めた本の数々。民俗・人類学・文化に関する研究書から写真集や美術書、雑誌・マンガにいたるまで、コンピュータ検索では探し出せない知の集積がここにはある。

たとえば、一冊だけ見たら価値のない本でも、別の本と組み合わせることで価値が出てきたりする。探していた本よりも、偶然手にした本に影響を受けることがあるかもしれない。山口文庫という“知のノマド空間を征服できる学生”こそ、札幌大学が歓迎したいノマド学生といえるだろう。

『あらゆるチャンスを使ってどんどん外に飛び出そう』

異質なものとぶつかり合うことは、それだけ可能性が広がること。山口学長は「教室だけが勉強の場ではない」と、キャンパスの外に学生たちを連れ出すのが好きらしい。どんな環境でも生きていけるタフな精神や、多角的な視点で物事を考えることができる知性は、より多くの人と出会うことで養われていく。

本を読んだり、教授の話を聞くだけでなく、縦横無尽に移動しながらコミュニケーションを深めることで、生きた勉強ができるのだ。大事なことは何かに関心を抱くことで、無難に単位を取って4年間で卒業することではない。もし周りに熱中できるものがなければ、自分たちでおもしろいことを仕掛けたり創り出せばいい。

教授のネットワークを利用して、どんどん出会いの場を外に広げていくこともできる。作家、詩人、芸術家、建築家、音楽家、ジャーナリストなど各界の一線で活躍している人々と出会えるチャンスもある。あらゆる分野の人から刺激を受け、興味の幅を広げながら、

『自分の道を探し出せるまで学生生活をノマドしてみよう。』

       
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時空の「隙間」を創造するバルサの戦略~ミラン戦、メッシのシュート~

2013年03月23日 | スポーツ
ヨーロッパチャンピオンズリーグベスト16、カンプノウでの対ミラン戦でバルセロナFCは「4-0」で快勝。ミランのホームでの「0-2」の敗退を上回ってベスト8へ進出した。クラシコでレアルに連敗し、最高峰・バルサのイメージに陰りが出てきた中、見事なパスワークサッカーによって、ミランを打ちのめした戦い方は、改めてバルサのサッカーの質の高さを世界に示したものだった。

特に際立ったのは開始直後と前半終了近くのメッシが挙げた2得点であった。それは単にメッシのシュートが際立っていただけではない。他チームの追随を許さないパスワークから、バイタルエリアでの堅固なイタリアの守備陣の中に「時空の隙間」を創り出したバルササッカーの“戦略”の見事さを示していたからだ。

2点差に打ち勝つには開始直後の様子見の時間帯にリスクを賭けて集中力を発揮し、出来るだけ早く得点を取ることが必要だ。開始5分後の得点は、バルサのチーム力の粋をメッシに賭けた得点だ。

左サイドに持込み、ミランの最終ラインを下げさせ、中盤ラインとの間にスペースを作る。チャビも左に上がってミランの中盤が左により、中央が空く。そこを中央深くのブスケツにボールを戻し、ゆっくりと前へ出たメッシにブスケツから短いクサビのパスが入る。ポイントはメッシとミラン最終ラインとの距離が離れていたことだ。

メッシは近くに寄ったチャビへダイレクトで出し、ミラン最終ラインとの距離を縮めるように前に出ながらワンツーパスを受け、左足のアウトで左にトラップ、ペナルティエリアに少し入った処から素早くふたりのディフェンダーの隙間を通すシュート!2本のダイレクトパス、トラップとシュートの素早さに、ミランGKは全く動けず、ボールはゴールに吸い込まれるように突き刺さった。

ところで、ふたりのディフェンダーは全く判断ができなかったように見えた。

動いているが、それはメッシの動きに単に機械的について行っただけで、様子見から切替えが出来ずにいたのだ。メッシのプレーを読んで果敢にタックルに入ったのではなく、メッシの右側の第1ディフェンダーがチョコッと足を出しただけで、左側の第2ディフェンダーはカバーに向けて少し下がってしまった。

テレビ放映で解説の福西氏が「メッシにしかできないプレー」と絶賛したが、確かにその通りであった。しかし、それはメッシのプレーを引き出した左サイドでのイニエスタの自在なボールさばき、中央からのブスケツのくさびのパス、メッシの近くでのワンツーで、メッシの動きに合わせてディフェンダーとの距離を縮めたチャビの絶妙のパス、があってこそ出来た技である。

バイタルエリアで相手ディフェンスを抜ききらずに、混戦でもなく、メッシにシュートの時空を創り出した処に、バルサの緻密な戦略とそれを実行できるチーム力及び技術力が示されている。どのような「研究と練習」を積み重ねてきたのか?

メッシの2点目も同じようなシュートであった。中盤でボールの競り合いからミラン選手がボールを前に運ぼうとする処をイニエスタが巧みに奪い取り、フリーで前へドリブル、深く持ち込まずに前線右でディフェンダーふたりの真ん中に構えるメッシへアウトサイドでパスした。

メッシは少し下がってディフェンダーとの距離をとり、左足で少しボールを浮かせてその場でトラップ、中央側から距離を詰めるディフェンダーに対して逆を取るように左足でボールを左へ動かし、シュートの体勢へ入る。ディフェンダーは踏ん張ってシュートのボールをカットしようとタックルに入る。しかし、シュートはタックルに入って伸ばした右足の下、股間を通ってゴールへ。GKのセーブも及ばなかった。

メッシがシュート体勢に入った時、GKがメッシからみて少しゴール左へ動いた。これはメッシの体勢からゴール左上隅を狙っていると読んだに違いない。ディフェンダーが少し足を上げたのは、その方向にボールが飛ぶと判断したのだろう。その読みを外してメッシは、腰を右にひねりながらゴロでディフェンダーの股間からGKの逆を取り、右を抜くシュートを放った。この瞬間の判断もメッシの計算の内なのだ。

得点を取るには卓越したストライカーが必要だというのが世界の大勢である。それを大別すると以下の二つに分けられる。
1)スピード、体格、体力…例.ロナウド、ベンゼマ、エトー
2)スピード、キープ力、フェイント…例.ロナウジーニョ、ネイマール

メッシは特に卓越した体ではなく、2)に属するが少し違い、華麗なフェイントを見せるわけではない。ボールが常に足下にあり、敵のタイミングを外すドリブル、そのコースはゴール前を横切り、マークの受け渡しの判断を狂わす。それがある意味ではバルサで生き、一方でバルサのチーム力を向上させている。これまでに世界的名声を博した選手からメッシを区別する処があるとすれば、そこなのだ。

     
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山口昌男、一代の塵化分類学者の死~探検から冒険へ向かったプロ~

2013年03月21日 | 山口昌男
文化人類学者・山口昌男は2013年3月10日に肺炎のため永眠、享年81歳。筆者が何かを付け加えようとするとき、既に関連が深かった知識人のコメントで覆い尽くされているように見える。しかし、十日経って、ふと、山口昌男を何者と表現するのかと考えた時に想い起こしたのは、ラジオ番組「日曜喫茶室」での文化人類学者ならぬ「ジンカブンルイガクシャ」と紹介されたとの発言であった。

そうだ!カセットテープにとっておいたはずだ!と思い立って探すと共にデッキは?すべて処分してしまったか!?幸なことに、家人がイヤホーンで聴くデッキを僅かに持っていた!テープは役に立ったのだ!

写真にあるようにテープはケースに収められており、表書きとして『日曜喫茶室』とある。当時は毎週の番組であり、家にいるときは良く聴いていた。その後も続き、今は月1回になったが、長寿番組として続いている。テープの欄に「NHKFM(79.4.1)」と書かれているから34年前のエプリルフール、山口昌男は47歳、東京外国語大教授として著作を中心にマスメディアにおいても大活躍していた頃である。

「山口昌男、山口崇(俳優)、はかま滿緒(マスター)、吉沢和美(ウェートレス)」と出演者の名前が書かれている。はかま滿緒の軽快な語り口とゲストを立てながらの受け答えの妙に、時折入れる音楽もマッチしているのが長寿の秘訣のようだ。その時の筆者は、番組表で山口昌男の名前をみて、満を持してテープを用意したのだろう。

山口昌男の場合、翌年7月27日にも財津一郎と共にゲストに招かれている。他にも、俳優・森繁久弥、ワヤン研究家・松本亮、狂言師・野村万作などのテープも残っている。俄然、楽しみが増えたようで嬉しい気分になった。

閑話休題。想い出しながら、聴いてみよう。
先ず、文化人類学者との紹介に、ある会合で誤って紹介された言葉を披露し「塵、芥を集めるクズ屋みたいなもの」「ドサ回り、モク拾いでゴミ箱から拾ってくる廃収品再生業」「塵化分類学者とは当っていないこともない」と彼は言い切った。

誤った言葉を飲み込んで新たなイメージを作り上げる処に氏の発想の真骨頂を見る思いがする。その後も山口崇とはかまを相手に、エピソードを縦横に展開し、吉沢アナが、その話の度に笑い転げていたのが印象的であった。学問的分野に拘らず、自らの感性の赴くままに関心の対象を広げ、それが彼の発想に起点と実は繋がっている。様々な“知的探検”からそれを統一的視点へ組み上げていく“知的冒険”へ、これが彼のプロフェッショナルとしての立ち位置になる。

筆者が本ブログのタイトルに採った“散歩から探検へ”はアマチュアの立ち位置である。しかし、プロは常に探検し、“探検から冒険へ”と志している。その一方で、彼は『アマチュアの使命』(「人類学的思考」(せりか書房)1971)も理解し、重視し、そして自らの立場に含ませている。あるいは出発点のアマチュアをプロとして発展させたという方が当たっているかもしれない。

フレイザー『金枝篇』を評して「…西欧の思想の中で研究の細分化と無関係にかつてアマチュアの学であり雑学の王者であった、未開社会の知恵が常に認識の地平線の拡大にための重要な要素を成して来た事…」との表現に接すれば、彼が間違いに直ぐに反応し、それ以上に「塵化分類学」という言葉を気に入ったことも理解できる。

番組のなかでも、インドネシアで痴漢と間違えられたこと、山口崇との出会いが芸能座の小沢昭二を介していることから、小沢との劇場での対談で麻布高校の先生(小沢氏の出身校)であったと話して先手を取ったこと、白土三平のマンガを日本で始めて批評したことから白土と週刊誌で対談し、その席で互いに似顔絵を競った後に角力を取ったこと、等を話している。これは単に面白いエピソードだけではなく、彼のフィールドワークのスタイルを開示するものだ。

しかし、この山口昌男のスタイルを引き継ぐ人材はどこにもいないようだ。それはアマチュアであることをとことん追求するプロであったと共に、プロであるが故に、巨匠であることにも拘った、彼の好奇心と執着心の所産かもしれない。結局、彼の著作を一言で言えば、塵化分類学者の一代記なのだ。

「山口昌男のページ」に今福隆太の弔辞が記載されている。回りに残った人たちは、確かに弔辞を述べるのに適した人たちであった。これは巨匠の運命かもしれない。今福は弔辞のなかで35年前に「先生」に始めて出遭ったと述べている。

しかし、「先生」と呼ばれる人だったのだろうか、山口昌男は?
インドネシアで登山中に行き倒れて現地の人間に偶然発見された「自分の死亡記事」を生前に書いた機知を有する人であった。これは自らが築いた巨匠というステータスに対する“挫折と敗北”の表現だったかもしれないと筆者は感じている。

         
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川崎市議会改革、住民参加で進展~請願提出者の意見陳述を実施へ~

2013年03月18日 | 地方自治
議会というのは提案し、議論し、意思決定をする場である。その場で、提案者が提案理油を説明するのは当たり前のことだ。しかし、住民の請願・陳情に限って、その当たり前のことが実施されていない地方議会が多い。川崎市議会もそうだ!

議会改革に関する「川崎市議会を語る会」(代表世話人・筆者)と正副議会運営委員長との会談(H25/02/13)の中で、筆者は「協議会設置によって議会改革の議論は遅々として進んだ、あと2年間でどこまで進めるのか、定かでない」と問い、議会運営委側は「議論が滞りは認識、議論を加速」と答えた。

これが引き金となったわけでもないが、その後3/1に協議会が開催され、重要テーマの「請願提出者の委員会での意見陳述」が初の住民参加項目として実施でまとまった。今後、詳細なツメを行い、最終的には議運委において全会一致の賛成を得て実施されることになる。この結果は議会改革の大きな進展として評価できる。

その一方、既実施の『議会資料のHPへの掲載』と同じく“石の上にも5年”の遅々とした成果であることも確かだ。

1.“石の上にも5年”の経緯

 H19/12/17 請願25号「請願・陳情審査での提案者の意見陳述」提出
           (紹介議員…共産、ネット、猪股議員)
 H20/03/14 継続審査 自民、公明・不採択 民主・継続 共産・採択
 H22/08/27 請願25号の内容が議運委「議会改革テーマ」の一つへ
 H23/02/08 議運委審議 実施見送り 自民、公明・保留 民、共・実施
 H23/03/15 請願25号、廃案
 『選挙前に各会派に選挙公約に掲げるように要望』
 『選挙中の各会派のパンフレット等を確認』
 H23/05/08 各会派へ「議会改革特別委の設置・公約実施へ向けて議論」を要望
 H24/01/27 『議会運営協議会』が設置される
 H24/11/20 「請願・陳情審査での提案者の意見陳述」の議論がスタート
 H25/03/01 自、公、民、共、み(公は賛成に、自は妥協)実施でまとまる

当初の請願25号審査の際に、自民、公明は反対した。その理由は、以下だ。
「必要なときは参考人として呼ぶ」
「事前説明は各会派とも受ける姿勢で対応している」
「事務局が全文を読み上げている」

選挙で当選すれば「閉じろ!ゴマ(議会)」で、内側に籠もってしまう。そこで外側に漏れてくる唯一の言葉は“代表”だ。この意識を変えることが議会改革の第一歩であり、「請願・陳情審査での提案者の意見陳述」はその具体化として重要なテーマである。

年掛かって辿り着いた処は以下のように、未だ不完全ではある。しかし、今後の改革へ向けて、一区切りがついたと考えられる。

2.内容…既実施の10政令指定都市との比較(横浜市、相模原市は未実施)

 1)口頭説明…請願だけ実施、陳情は実施せず(「陳情も実施」は8市)
 2)資料配付…委員長の許可を得て配布可
 3)実施形態…委員会開始直後に休憩して実施(「委員会内実施」は3市)
        趣旨説明時間「3-5分間」が与えられる
 4)記録保持…実施したことを記録に記載する(内容は記載しない)

以上のように、休憩中実施で正式に記録されない、また、陳情は回避された等、不完全な形だ。しかし、ともかく始めることが大切で、多少の妥協は致し方ないと考えます。

3.今後の課題
 1)出来るだけ多くの請願で「意見陳述」を実施するように、働きかける
 2)審査の方向を定める「意見陳述」のあり方を研究する
 3)事前のロビー活動は益々重要、各会派と意見交換し、「意見陳述」に生かす
 4)事案関係者以外にも傍聴参加をPRする

意義ある内容にするのは、市民参加者の工夫も必要だ!これまで実施されている自治体の記録等を調べ、実施における具体的な課題を調べ、まとめることが必要だ。

      
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 「権力」と「金銭」~自爆へ向かう河村・名古屋市長の政治手法~

2013年03月10日 | 地方自治
名古屋市議会のリコール成立・出直し選挙とは何であったのか、これは減税日本代表の河村たかし市長の市政を問うこと裏表の関係にある。選挙(2011/3/1)で28議席(定数75)を得たが、不祥事・不満等で10人が既に離脱した(2013/3/1現在)。

本稿は河村市政を題材に、政治家の「権力欲」を、市民の視点(権力の極小化)から批判した「メルマガ 探検!地方自治体へ第123号 2010/5/3」の再掲載であり、3年前の試論を改めて自ら検証する試みとし、最後に追記した。

1.問題の所在
今日、地域主権が謳われるまで地方自治体の権力は強くなっている。しかし、その権力は団体自治、特に首長に集中している。その権力の発露を抑制し、住民自治の比重を高め、かつ社会の「進歩と安定」を目指すことが「市民」の政治目標と考える。それには判断の質的向上という意味で政治的成熟が必要とされる。

名古屋市での議会と市長との政治的対立は際だってきた。何が「進歩」か?混乱があり、対立の硬直化で見通しが立たない「不安定さ」を抱えている。ここでは、筆者が特に気に掛かけている一つの断面、表題に示す権力(欲)と金銭(欲)について首長及び議会に対する「市民」の視点から整理を試みる。

名古屋市政全般については中日新聞の特集【河村vs市議会】を参照した。特集は昨年10/28付『河村市長「議会解散成立なら辞職」』から始まる。最近、「名古屋の乱」5回シリーズで背景も含めて課題を論じている。地元の政治とは言え、地方自治の重要な事件として報道する姿勢に敬意を表する(2013/3/10現在、ネット閲覧は不能)。

なお、議会改革に関連して、東京財団からの報告「名古屋市会議会報告会に参加して」(大沼瑞穂研究員)がある。政令指定市初の議会主催「報告会」だからである。政令指定市初の“議会基本条例”を制定した我が川崎市議会も遅れをとることなく見習って頂きたい。筆者ら「川崎市議会を語る会」がこの件の請願を出しているにも係わらず、継続審査として棚上げにされている。

2.非対称的な政治闘争
河村市長が代表を務める地域政党「減税日本」が立ち上がった(4/26付)。市会での過半数を目指す。市長主導による市議会のリコール運動を始めた(4/29付)。実質的に議会の支配を目指した市長の権力拡大の政治運動であり、「変革」闘争であって、市長の言葉では(庶民)革命に相当する。

これに対する議会は受身の姿勢「現状維持」である。しかし、片山前鳥取県知事が指摘するように「市民の多くが議会の現状に疑問を抱いている」(3/26付)。従って、「市長の二大公約「市民税10%減税」、「地域委員会」は全面的反対ではない」と強調」(昨年10/9付)すると共に、にわかに議会基本条例を制定し、それに基づき市民への議会報告会を行い、議会改革の姿勢を示している。

基本的構図は市長による新議会への「変革」対現議会の「現状維持から改革」の非対称的な闘争である。これが新議会誕生から市長政策の遂行へ進むのか、現議会の改革から政策の相互修正へ向かうのか、予断はできない。ここに市民の判断が求められている。そこで問題は「何に向けての変革」なのか?その結果は「何をもたらす」のか?である。

3.権力と金銭の交換方程式
ここで新議会への変革とは何を意味するのか?少なくとも河村市長が続く限り批判勢力を極小化し、「市長―議会」が一体となった市政運営を可能にすることであり、二元代表制の実質的否定である。その「核心」は河村市長の権力拡大である。これが“市民による”議会リコールから市会選挙での“市民による”地域政党・減税日本への過半数議席の付与によって達成される。

権力と金銭の交換方程式として、式(1)の成立である。
 『首長の権力欲=市民の金銭欲(市民税10%減税)』・・・(1)
ここで、減税は数値としての対価が存在し、式(2)で表される。
 『市民税10%減税=既得権益削減+市債』・・・(2)

市予算案(1/12付)によれば、市税は前年度比231億円減、市民減税分161億円であるのに対し、市債85億円増加である。既得権益削減分はムダ、職員給与、政策縮小等のいずれにしても市民、職員に対象者が含まれる。市債と減税の取引は将来世代へツケを回す現世代の判断となる。式(2)の等価計算を河村市長が続く限り実行する前提として、式(1)の成立が必要である。

 何かマジック的である。式(2)は具体的数値であるが、式(1)は欲という心理に依存するからである。しかし、そこに政治家が入り込む余地がある。河村氏は議員報酬を「庶民とは別世界の高額」(金銭欲)として批判する。これは多くの市民に共感を呼ぶ。しかし、減税は市民の金銭欲を満たすとは決して言わない。ここが市民と議員を切り離す「変革の論理」の心理的カラクリである。

以下はソ連共産主義に対する批判として1952年に書かれた文章である。
『…たしかに、われわれはブルジョア的な快適の追求と、冨への欲望の危険に対して軽蔑の念を「植えつけ」られているので、もしコミュニストが冨への欲望をもたずに権力に対して欲望をもつようになると、たやすく一見、理想主義とそれを取り違えがちである。おそらく、我々は忌むべき金銭欲でも、禁欲的な権力欲にくらべたら、人類にとって、まだしも恐れるに足りないことを教えこまなければならない。…』
(D・リースマン「全体主義権力の限界」『政治について』所収 みすず書房1968)

河村氏はソ連共産主義のコミュニストではないし、禁欲的な権力欲の持ち主でもない。『おい河村!おみゃぁ いつになったら総理になるんだ』との気概を有する普通の政治家である。従って、コミュニストを単に河村氏に置換えるのは全く不当である。しかし、河村氏の「変革の論理」には上記のコミュニストにミートする部分をどこか内在しているように感じられる。逆に言えば、リースマン氏の権力と人間に対する洞察が余りにも鋭く、深いのであろう。

4.市民の政治的成熟
権力は数値表現できないが、ゼロサムゲームの側面をもち、式(3)になる。
 『首長の権力拡大分=議会の権力縮小分+市民自治の縮小分』・・(3)

減税日本以外の会派は少数であっても批判は継続できる。しかし、議会総体としては河村市政に対してNoを言う立場を実質的に放棄する。結果として二元代表制を封じ込められる。但し、これまでも二元代表制が機能していなかったら…暗に存在していた市長の拡大された権力が明示的になったと理解できる。

更に議会の権力の縮小は市民自治の縮小を本来は意味する。しかし、議会が市民に対してこれまで門戸を閉ざしていたら…市民参加の意味を市民が実感をもって理解できないことになる。結果として式(3)が実は現状に近いのである。

ここに、式(3)を想定できず、式(1)の成立に対するバリヤが低くなる素因が潜んでいる(式(1)『首長の権力欲=市民の金銭欲(市民税10%減税)』)。
一方で河村氏は「地域委員会」により地域行政での住民参加を提案する。これは市議会に対する対抗機関にもなり得るため、議会の権力は更に低下し、市長の下で「議会」と「地域委員会」が競合することもあり得る。

但し、「地域委員会」はあくまで市長の下での行政施策の一環である。住民自治の拡大を単純に意味するわけではない。市議会においても議論されているようだが、住民自治の拡大は先ず住民投票制度の確立にあると考えられる。

市民の政治的成熟を目指す立場からの結論は以上の議論から明らかである。

式(3)『首長の権力拡大分=議会の権力縮小分+市民自治の縮小分』を、
実は明示されていない現実であるとして認識すること。
式(1)『首長の権力欲=市民の金銭欲(市民税10%減税)』を、
逆に言えば、権力者の更なる権力に対する欲望を冷徹に認識し、その欲望を制御することこそが市民の役割であること。それに比べれば金銭は二次的な問題であること。

追記(2013/3/10)
式(3)の「市民自治」だけは今回書き換えた(当時は「市民参加」)。しかし、基本的な視点及び認識は3年後の現在も特に変わっていない。

名古屋市民が「政治的成熟」によって、河村市長の「権力欲」を制御したというよりは、河村市長が自己の権力拡大に走るだけであって、にわか作りの減税日本のなかに、質の低いオポチュニストの不祥事を端緒として、崩壊の道に進んだのが実態であろう。

河村市長に従って議会リコールに動いた市民の人たちは、今、何を考えているのだろうか?事務局長を務めた前磐田市長は、維新の会へと変わり身の早さだけを示した。これらオポチュニストの群れが政治の世界に入り込んだこともまた、河村氏の政治行動における「負の側面」であることも認識の必要がある。

  
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円安と株高に関する「私たちの経済学」~アベノミクスとは異なる目線から~

2013年03月03日 | 経済
円安と株高がアベノミクスの効果であり、日本の経済成長を牽引し、それが私たちの生活を豊かにするというストーリーが喧伝され始めたのは、つい最近である。しかし、通貨も株も持たず、ごく普通の生活を送る一般人にとって、灯油、ガソリン代が値上がりしていることが一番感じる直接的影響なのだ。

期待感を高め、国の財布から巨額な資金を繰り出すことによって、痛みも無く、バリヤを乗り越えることもなく、経済成長が可能であるのか、はたまた、それが生活の質を上げるようになるのか、これが基本的は問いかけになるはずだ。ここに、アベノミクスというエコノミクスではなく、「私たちの経済学」を必要としている所以である。

では「円安と株高」で何が起こるのか?上述のように、石油などの輸入品は値上がりするはずである。電気料金の値上げは、原発を稼働中止にしたことに相乗して効いてくる。ガス料金もしかり。ようやく、マスメディアは報道するようになった。例えば、朝日(2/28付)「アベノミクス、じわり家計圧迫」と書かかれている。

続いて、冷凍食品、石油製品が値上げの一群に入ってくるようだ。企業は値上げすることによって、収支バランスをとることになるが、最終消費者の家計はその打撃を一身に受ける。ここで注目すべきは、輸入では最終製品に負担が掛かる故に、国民全体に広く浅く影響を与える。

これに対して輸出は当然、輸出企業に利益が集中する。それは今年度の収益よりも「コマツ、14年3月期の営業利益は3000億円超」と、あるように来年度に本格化する。今年度の収益は+150億円程度で計2300億円であるから相当な額だ。

コマツだけでなく自動車、電機等の輸出中心の大企業も恩恵を受け、その傘下の関連会社も含めて、従業員もパイの分け前に預かる。しかし、輸入の国民的負担に対し輸出の特徴は大企業中心の配分に止まり、限定的になる。

上記の非対称性は大企業の従業員にとって優位で有り、おそらく、格差は拡大する方向に動くと思われる。また、輸入品及び輸入品を利用する製品の値上がりは先にも示したように、比較的早く、一方、輸出企業の業績の従業員への反映は次年度以降であるから、時間のずれも発生する。従って、ここ半年は、物価は通常よりも上がるはずである。これが安倍首相のいうインフレ2%目標なのだろうか。

次に株高である。株価そのものは株主の資産の高低を表し、企業活動の反映である。また、それが時価として表現され、期待値として見られる処が心理的要素によって大きく左右される所以である。ともあれ、株高で売却すれば、瞬時に富が増加し、それを使用すれば、実体経済へ還元される。

しかし、資金が余って、かつ、リスクが取れるリスクオンの経済状況になったとの判断で、世界的にも株高であり、アベノミクスは単にその時流に乗り、日本の株高を加速させたとの判断が妥当であろう。当然、期待値を実現できないと判断されること、あるいは、欧州でのイタリア等のリスク要因が顕在化すれば、不安定感は増し、状況は逆に回ることは充分に考えられる。

では、実体経済はどうなるのだろうか。そもそも実体経済という言葉がおかしい。実体以外に虚構経済があるかのようで、それが金融経済なのだろうか。何年か前に金融工学がはやり、理工学部にも学科が新設され、理工系学生が銀行、証券会社へ就職することも話題になった。それが現在も日本経済にとって良かったのだろうか?

閑話休題。実体経済として「鉱工業生産2カ月改善」との指標が出ている。ここから「大型補正は不要だった」との説も出ている。国家予算のバラマキに相当する部分が予算の多くを占めているからだ。特にアベノミクスを待つまでもなく実体は回復基調だ。

更に、財政政策や金融政策など裁量的なマクロ安定化政策そのものに、新たな付加価値を生み出す力はない。財政政策は「将来の所得の先食い」、金融政策は「将来の需要の前倒し」を可能にするだけで、モルヒネ中毒と同じだ。

筆者の回りをみて感じるのは、ソフト系の仕事等、忙しい処は残業に追われて、人手不足が著しい。その一方で、若者の就職難が恒常化している。シャープ、ルネサス等では経営危機から大量の退職者を生む。このような産業・雇用構造の硬直化が問題なのだ。教育(再教育含む)を充実し、規制緩和撤廃等も含めて転換を図ることが必須だ。問題はそのバリヤを乗りこえる意思が重要なのだ。既に論じたように少子高齢化は進み、30年後には人口が1億人を切り、65歳以上は人口の40%になる。
バリヤフリーの政策は崖っぷち」へ私たちを導く結果を招くことになる。

         
         
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