散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

枠組・不協和・疑似論理 ~状況認識の心理と論理

2011年07月25日 | 政治理論
人々が政治事象、特定の政治問題に対してもつ認識・評価・態度を総称して「政治意識」と呼ぶ。「政治意識」は何よりも、不完全情報下で政治的決定を行う際に、外部からの情報を処理する基本的な「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)を提供する。

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海江田経産相、いつのまにか第二の菅直人首相に

2011年07月23日 | 政治
辞任を示唆し、解散署名拒否を宣言した海江田経産相は、やめるどころか、手のひらパフォーマンスを演じた後、居座ったままだ。これでは第二の菅直人首相だと皮肉られるだろう。

「再生エネルギー特別措置法案」を口に出しているので、菅首相と同じ時期?当然、内閣総辞職だから。さらにそれ以上?本来の発言趣旨は、菅首相が在任中の話であろうから、正直に「心変わりした」、と言えば良い。実は続けたいから…その次も…狙っているかもしれない。

最初の辞任発言は、菅首相に対する脅しで、行動の自由う・発言力の確保を狙ったものであっただろうが、ここでも簡単に、菅首相に見透かされて、いいように悪玉として使われているように見える。結局、自らのオプションを狭め、政治的行動の自由を失っている。   

永井陽之助氏は“オプション”という言葉をよく使っていた。政治的人間としてのキーワードであろう。しかし、それよりも「権力」の座は心地良いのかもしれない。

    
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左翼的原理主義者による市民運動家の利用

2011年07月21日 | 国内政治
『経済学者・池田信夫氏の「…菅直人を先頭とする団塊左翼…」との誤認のなかに、左翼的原理主義に飲み込まれがちな日本の市民運動の弱さが示されている。』と昨日の記事に書いた。どのように飲み込まれるかと言えば、「左翼原理主義者による市民運動家の利用」になる。

政治は人間が人間を動かす場である。言い換えれば、お互いに利用し、利用される場である。その方法としては、
1)利益を供与する
2)暴力を含めたおどし
3)言語象徴による操作(理性的説得からイデオロギーまで)

私見によれば、市民運動家は「左翼イデオロギー」に弱い面がある。現状批判の理想主義的装いをとり、広く統一戦線を築こうとするところに「左翼イデオロギー」の特徴があるからだ。政治活動であるから、金が絡むことになる。

卑近な例として、7/21付け読売新聞で報じられている。菅直人首相の資金管理団体「草志会」(東京都武蔵野市)が政治資金規正法で禁じられている外国人から献金を受けていた問題である。
「首相の外国人献金、領収書巡り紛糾…参院予算委」
 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110721-OYT1T00341.htm

一方で、7/21付け産経新聞でも報じられている。菅直人首相の資金管理団体が、日本人拉致事件容疑者の長男(28)が所属する政治団体「市民の党」から派生した政治団体に計6250万円を政治献金していた問題である。
不適切献金問題 菅首相、一転「申し訳ない」 拉致家族の抗議受け
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110721/stt11072117410004-n1.htm

拉致被害者家族会事務局長は「(北朝鮮工作員の)辛光洙(シン・グァンス容疑者の釈放嘆願書署名)のときと一緒だ」と菅首相を指弾したと書かれている。

何が真実か、これだけではわからないが、少なくても俗にいう「脇が甘い」ことは免れないであろう。しかし、単にそれだけではなく、市民運動家・菅直人氏の政治思想のなかに、「左翼イデオロギー」を許容する何かが含まれているかもしれない。

         
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管直人首相の仕事は市民運動家の限界を示す

2011年07月17日 | 国内政治
管直人首相は団塊の世代が生んだ中でも優れた政治家である。それは一人のノンセクト学生指導者が大学紛争から生み出されたことから始まった。市民運動家から七転び八起きの議員を経て、厚生大臣として薬害エイズ問題を解決した。その後、民主党の結党に参加し、一方の旗頭として党首を務め、劇的な政権交代で副総理、ほとんど何もしないでタナボタで総理の座についた。今から考えれば、ここに市民運動家の限界が示されていたのだが…

この間の経験については『90年代の証言 管直人 市民運動から政治闘争へ』(朝日新聞出版)に詳しい。この経歴をみれば、“ノンセクト学生指導者ー市民運動家”の原点を維持しながら、民主党結党を契機に権力に上り詰める政治闘争を戦ってきたことは明らかである。

経済学者・池田信夫氏は「…菅直人を先頭とする団塊左翼…」と7/17付けツイッターで決めつけているが、誤認である。しかし、この誤認のなかに、左翼的原理主義に飲み込まれがちな日本の市民運動の弱さが示されている。それと共に、小泉元首相に代表される自由経済派の人間観・政治社会観の狭さが表れている。

従って、両極の原理主義的政治対立を抑えて、社会民主主義対自由民主主義の改革と安定を両立させる二項対立の政治を確立することができない。それどころか、何が対立なのかわからない機会主義的な政局活動だけが入り乱れて行われている。

先の『90年代の証言 管直人』のなかで、橋本内閣での厚生大臣就任の際、他のポストでは、土地問題に取り組んでいたから国土庁長官、あるいは行政改革をやったから総務庁長官、と答えたという(同書 P104)。このあたりに、市民運動家の幅狭さが表れている。経済、通商、外交の匂いが何もしないのだ。

総理大臣の就任演説で、「現実主義者の永井陽之助氏に学んだ」と言い、『平和の代償』(中央公論社(1977))を名著と褒めあげた。しかし、残念ながら菅直人首相は永井政治学の表層を撫でただけで、その政治的英知からは、ほとんど何も学んでいない。代償という言葉も演説の修飾だけでしか使っていない。

平和の代償という題名は、あとがきに書かれているように、
『本書に一貫している議論の基調は、この世で美しいもの、価値あるものも、なんらかの代償なしには何ものも得られないという日常的英知の再確認にほかならない。』からつけられた。

そこで、
『平和の代償 日本の安全保障の問題で、多くの論者がまったく視野の外においている問題は米国に対する防衛の問題である。』(P117)との鋭い指摘は、民主党政権になってからの沖縄問題で 顕在化し、『…おそらく、革新陣営の人気を支える平和ムードは、今後、逆に、革新陣営の足枷になるだろう。』(P122)との予測は、40年以上たった段階で的を射ぬいていたことが本人たちにもわかったと思う。基地移転で動きがとれなくなり、沖縄からもその姿勢を含めて、強く批判されている。

『…国民に代償と犠牲を要求しない革命理論が宣伝であるように、代償の要求なき平和論も中立論も、大衆を欺瞞する以外のなにものでもない。』(P122)との指摘は、孫正義氏及び橋下大阪府知事と組んだ「脱原発=太陽光発電・電気買取」政策に露骨に表れている。土地も資産ももたない階層の国民は高い料金を支払うだけである。それを原発に対する国民的不安を盾にした「エネルギー革命理論」として流通させている。しかし、バラ色の未来を喧伝しているだけで、リアルな代償については、口をつぐんでいる。

永井政治学の根幹からから何も学んでいないことは明らかである。

中央公論1974年12月号掲載『経済秩序における成熟時間』も、まともに読んだとは思えない。この論文は、新古典派総合とよばれる現代経済学を無時間体系として批判している。そこから文化人類学の成果を含めて、時間的秩序としての経済を構想する野心作である。後に所収された『時間の政治学』(中央公論社(1979))のあとがきに、青木昌彦氏などの経済学者の他に、官庁エコノミストの注目をひき、福祉政策、ライフサイクル政策の参考に供されたと書かれている。
確か首相は、国会での質問「乗数効果とは」に答えれなかったはずだ。少しでも広い、深い世界から学んでいれば、今日のぶざまな姿にはならなかったはずである。

結局、篠原一氏、松下圭一氏に代表される市民運動理論の影響下で活動していたのだ。市民自治とは言っていたが、これは近代市民社会における理念的な市民を指しており、実際面では、下から突き上げる、あるいはパイを分け合う、という現実主義をサポートするだけで、改革と安定のバランスという政治課題には届きようがなかった。

地方自治体改革は三重県北川知事以降の改革派知事が輩出、地方自治体議会改革では、北海道栗山町、福島県会津若松市等の実践的努力が実っている。しかし、これらは特に市民運動理論に影響されたわけではない。目の前に迫る改革の課題に対応する現場力からでてきたものだった。

国政は、民主党のバラマキ公約とねじれ国会で身動きがとれず、世論調査による支持率も落ち、周りに適切な助言をする人も見当たらず、首相は孤独の影を増している。

首相になる準備もせずに、市民運動家がそのままの姿で首相の職責を果たすことはできない。市民運動をしているときに視野にいれる課題は一つ。人間は、味方か敵だけだ。しかし、首相ともなれば、単純な敵味方でないことは当然だし、課題も一つではない。

これが、住民活動に携わる方への今後の教訓として残されている。

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“政治的機会主義者”の台頭

2011年07月16日 | 国内政治
民主党内の反乱は不発におわり、信任された菅直人首相は『わが世の春』とばかりに次々と発言を重ねている。

しかし、首相の周りはすべて功名争いに必死である。それは猫の首に鈴をつける役割争いである。しかし、鈴をつけられることを必死でかわそうとする孤立した“猫”に巧みにすりよるネズミもいるのだ。特別補佐官になり、自民党からひとりひっこ抜いた亀井氏であり、太陽光発電を掲げたソフトバンクの孫正義氏である。

これが今の政治状況ではなするいだろうか。
話の順序としては以下に描いたとおりである。

民主党の追随者たちは、何故、首相を信任したのか 2011年06月03日
2011-06-24 信任された菅直人首相は続けて当然
2011-06-30 管直人首相辞任の状況を作りだせない…間隙に

このなかで、辞めるべきは不信任に失敗した自民党幹部であり、若返りを図れば、民主党にも波及するであろうと読んだ。しかし、そうはならず、間隙をぬって、孫氏と橋下大阪府知事に太陽光発電で引っ掻きまわされている。ようやく、気が付いた民主党の追随者たちは、再チャレンジを開始した。
即時退陣要求の民主・長島氏「北風政策で行く」

しかし、彼らは菅直人首相に辞任を要求していても、その後の展望を語ってはいない。政治的失敗に終わったときにどうするのか?辞任すべき政治家がだんだんと増えていくだけだろうか。

おそらく、この現象は、民主党(自民党も)における「指導者の育成」と「権力継承のルール」が共に不在であることを示している。そこに台頭しようとするのは“政治的機会主義者”である。

それが、孫正義であり、橋下徹である。30名以上の知事たちは政治的田舎者の役割を演じているに過ぎない。


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