散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

母の一回忌:大震災の後、何処で?~自分史余滴(11)

2023年11月05日 | 個人史

十月二十九日は母の一回忌、仏壇へ花を供え、線香を手向ける。十月は母が生まれた月だった(大正12年10月12日)。享年99歳、「白寿」の祝いを終えて間もなくでもあった。更に十月は父の命日(昭和42(1967)年10月22日)でもある。

その日付は関東大震災のすぐ後、東京下町に住んでいた祖母は、流産を心配されたそうだが、無事、出産に至る。秀子と名付けられたが、本人は火が出て生まれた子だから、「火出子=秀子」だと言われたそうだ。この名前の由来に筆者は江戸っ子の意気地を感じ、単純に信じ込んだ!焼け残された中のどこで、母は出産したのか?そんな疑いを持たずに…。

その後、筆者は“自分史”(『或るベビーブーム世代の生活世界』)を執筆した。だが、自分自身の出生には戸籍謄本を取得したが、父母については何も確認しなかった。

ところが、先日偶々、父母の戸籍を見る機会があり、祖母は焼け出された後に、その父母の郷里である会津に戻って出産したことが分かった!自分史には、あたかも焼け出された跡地のどこかで生まれたような?書き方が残されている。

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東工大我が母校(2)~サッカー部

2023年09月01日 | 個人史

今年度のサッカー部OB会は8月6日に開催、筆者は、コロナ禍対応の惰性で今回も欠席した。但し、その会の後、後で、友人から断片的な話を聞くことが出来た。

その話から、同年代の方たちのサッカーが広がり続けていることを実感した次第。地域代表でプレーしている方もいる。地域で活動している高齢者層のサッカー熱は全国的に広がっている様子が窺われた。

一方、関東大学リーグの下部組織としての東京都リーグは今年度から神奈川県リーグと統合され、「東京・神奈川リーグ」(三部構成)となった。東工大は東京都リーグ(三部構成)において、連続4年二部の実績を反映、ここでも二部に入る。なお、「三部」は「チャレンジリーグ」と呼ばれる。

リーグ形式の改革は、我らの時代…今から“55年前”を思い起こさせる!
関東大学リーグが関東全域をカバーした時代から、「一部、二部(各部8チーム)」だけに限定、三部以下のチーム(当時は七部まで?)は地方リーグ(基本は都道府県別)等)を作る。また、地方リーグ代表と二部リーグ下位との入替戦を実施する。以上の大改革が1968年度から実施された。東京都は三部4チーム、四部は東工大を含めて5チーム、六部の優勝チーム、計10チームで構成された。

68,69年度の2年間、東工大は最下位(10位)、一方、五部との入替戦は乗り切る。しかし、71年度から関東一部のチーム数が削減(「10」→「8」)、70年度は一部下位四チーム、二部上位四チームの8チームによるトーナメント戦となる。一回戦で、一部チームがすべて勝ち残り、二チーム残留を掛け、東工大は成蹊大と対戦、「1対2」で敗れた。
結局、都リーグ一部在籍は3年(68-70年)に止まり…現在に至る。

なお、東工大が関東四部及び東京一部時代(~1970年度)、下部から勝ち上がり、更に、各地域代表選を勝ち抜き、関東二部へ昇格した大学は五校。そのなかで、関東大学リーグ一部優勝、駒沢大及び専修大の二校(なお、他三校は亜細亜大、拓殖大、明学院大)。

但し、関東大学リーグは2023年現在、三部構成(各部12チーム、計36チーム所属)、上記55年前の大改革からチーム数は大幅に増加、当然、加盟大学の増加と激烈な競争をベースに、地方リーグの均衡を保つ働きもしている。

東工大は1971年度から東京都リーグ2部。1972年以降、42年間のどこかで3部に落ち、その間の記録は残っていない。我々の時代は記録を含む部誌を発行する形を引き継いでいたが…どこかで途絶えてしまったようだ。

一方、グランドの人工芝化は2000年頃と推察され、また、部室、トレーニング室、シャワー室等の含む別棟も建設され、競技環境の整備が進む。
その後、サッカー部同窓会が2013年に結成された。現役とOBとの人工芝グランドでの交流試合、OB間の親善試合がこの時から始まった。別棟の施設も利用した後に、総会、交流・懇親会が設定されている。

更にグランドでの公式試合が認められ、東工大は積極的にホームゲームの設定に動く。何時頃からか、筆者は同期の友人から「近い方は応援に!」との連絡を受ける。当時のOB会長、父母の方々、選手たちの応援に混じって、観戦する。
それが実ってか?2016年、3部優勝、翌年度2部昇格!

翌年度は東工大グランドだけでなく、他会場での応援にも出向く。対亜細亜大は敵の本拠地となる。車に同乗させて頂き、会場に着いて、敵のユニフォームを視た瞬間、「そうだ、黄緑色だった」と自分の選手時代を瞬間、想い起こした!同時に、亜大は関東リーグに入ったはずだが…都リーグ二部まで落ちたのか、厳しい世界との思いも浮かぶ(しかし、現在2023年は既に関東リーグに戻っている)。激しいせめぎ合いの世界を垣間見た。

しかし、こちらも激しい。その年の東工大は最下位、翌年は3部へ戻る。一方、2019年に再度、2部に昇格、その後、4年間その地位を維持する。

2023年度から、「関東大学サッカー東京・神奈川リーグ」が設けられた。なお、山梨県下はこれまで通り東京都所属として処遇される。

新たなリーグにおいて、改めて、東工大の地位を確認してみる。
各リーグで東工大が比較的親近感を持つ(対戦経験、環境が似ている)チームをピックアップして旧関東リーグ時代と比べてみよう。国公立が中心(一部は私学も)。

一部  4位 成蹊大(旧三部)5位 上智大(旧二部)6位 東大(旧二部)
   7位 学習院(旧三部)8位 横国大(神奈川)
   
二部 1位 一橋大(旧三部)4位 都立大(旧四部)10位 東工大(旧四部)

三部 4位 農工大(旧五部以下)6位 山梨大(旧五部以下)
   7位 電通大(旧五部以下)8位 外語大(旧五部以下)

旧関東大学リーグの二部チームが東京・神奈川リーグ一部に、三部、四部チームが二部に、旧五部以下のチームが三部に在籍している。

国公立大学がこのような形で残っていることは、各クラブの伝統が残る?少年サッカーの時代からの鍛錬?それとも?

 

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東工大!我が母校(1)、東京科学大学(仮称)へ

2023年08月16日 | 個人史

東京工業大学と東京医科歯科大学(両校共に「指定国立大学法人」に指定)は、2022年10月14日、統合に向けた協議の結果、両法人並びに両法人がそれぞれ設置する大学を統合し、1法人1大学とすることについて、「基本合意書」を締結した。2024年度中を目処としている。これにより、東京大学に次ぐ日本2位の大学研究機関となるとのことだ。

更に2023年1月19日、新大学名称を「東京科学大学(仮称)」として大学設置・学校法人審議会への提出を決定した。理由は「両大学の統合の目的は、両大学のこれまでの伝統と先進性を活かしながら、統合によってこれまでどの大学も為しえなかった新しい大学のあり方を創出することにあることを踏まえ、新大学の目指す姿・方向性を表す名称としました」と発表した。

統合に伴い、大学ファンド(通称、10兆円ファンド)の運用益の配分を得られる「国際卓越研究大学」への認定を目指していることは確実との報道がメディアから流されている。

名称について様々な意見が出されているが、そのうち、立ち消えになるだろう。問題は互いに見せるであろう、継続と変容だ。

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クンデラの死~一回限りの「生」、現代的表現

2023年07月21日 | 個人史

ミラン・クンデラの逝去が日本でも報道された。94歳、フランスに住むチェコスロバキアの作家。『存在の耐えられない軽さ』によって世界的に知られるようになった。

筆者も読み、また、翻訳を出版した集英社の評論「クンデラの未経験の惑星」(「青春と読書27巻10号所収」フヴァチーク著)を読んだだけで、評論できるほどではない。

但し、以下の二つの組み合わせが、自分の頭に全体像を造り出したようだ。
(1)「プラハの春」とソ連軍侵攻のコントラストが記憶に鮮やかに残っていること。
(2)「存在の耐えられない軽さ」との言葉の響きの重さと鮮やかさ。その全体像は(1)を始まりにして、(2)でまとめ挙げられた様に感じる。

「プラハの春」は東欧革命の始まりであった。それは「ベルリンの壁解体」へ至り、更に「東欧革命」「ゴルパショフ革命」へと繋がる。共産主義は放棄され、新たな始まりを迎える。

この中で「存在の~軽さ」は84年に出版されたから、その流れの中で着想を得たように考えられる。また、クンデラはプラハの春を背景とした上記の恋愛小説によって、日本も含めた各国で人気を博した。また、映画化もされた。チェコ政府は2019年12月に国籍回復を発表した。20年にはフランツ・カフカ賞を受賞した。長年ノーベル文学賞の受賞者候補に名を連ねていた。

ワルシャワ条約機構の国は、経済的にはEU、軍事的にはNATOとしてまとまったかに見えた。しかし、ロシアはゴルバショフをエリツィンが倒し、プーチンが権力を握ると周辺国を力で制圧する方法を取るようになった。しかし、それが逆に自らの国及び国民の重さを感じ取ったかに見える。


内部抗争に明け暮れていたウクライナはロシアの侵略に対して、ゼレンスキー大統領の指導の基、徹底抗戦を繰り広げる!存在の重さを意識しながら…軽さを感じる時もあるだろうか?

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記憶の甦りを巡って~「バイオリン協奏曲」異聞

2023年03月11日 | 個人史

NHK・Eテレ「クラシックTV」は企画が面白く、最近よく視聴する。3月2日、『舞いあがれ、メンデルスゾーン』は表題の曲を聴くと共に話の内容にも期待して、風呂上がりにチャンネルを入れた。放映内容の面白さはNHKネット情報に任せ…ここでは、筆者の中学時代の記憶が呼び覚まされた処を報告しよう。

高校受験の態勢に入らんとした中二・三学期の初め、各学科の出題傾向を調べ始めていた。楽器に親しんでいたわけではなく、音楽は強引に暗記学習へ変換を試みていた。そうでないと、この教科で合否が決まってしまうと思ったからだ。

クラシック系名曲の出だしの楽譜を示し、曲名を当てる問題があったかと思う。当時は比較的手軽にソノシートの曲を入手でき、その楽譜と合せてメロディを覚えるようにした。この作戦は上手く当たり、暗記問題への変換は成功、それと共にクラシック音楽への関心も熱狂的ではないが多少は芽生えた。その中でも唯一記憶に残った曲がメンデルストーン『バイオリン協奏曲変ホ短調』、特に冒頭の部分、バイオリンの音色であると共に曲のテーマメロディでもある部分、が強く印象に残った。

番組を見ながら、そんなことも、ちらっと思い出したりもしたからだろうか、バイオリン奏者・神尾真由子がその始めの部分を「バイオリンを知っている人でなければ絶対できないような高音部分を使っている!」と指摘、通常音域部分と高音部分でそれぞれ引き比べたのを聴いた。

筆者はハッとなった!そうだったのか!中学時代の記憶がここで甦ったのだ!バイオリン特有の高音領域の音色でのスタート、何か引き寄せられる音色だ。そして、それが曲全体に時々現れる。極めて印象深く聴こえるテーマメロディだ。最後は神尾真由子の演奏を聴きながら、改めて中学時代のソノシートを聴いていた自らの姿を思い出していた。

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母の死:白寿を迎えた後に~自分史余滴(10)

2022年11月03日 | 個人史

十月は母が生まれた月だった(大正12年10月12日)、また、亡くなった月にもなった(令和4(2022年)10月28日)。享年99歳、「白寿」の祝いを終えて間もなくでもあった。更に十月は父の命日(昭和42(1967)年10月22日)でもある。

母の父(祖父)は会津に育ち、結婚後、上京して下町で布団屋を営む。しかし、妻に先立たれ、後妻(祖母)を迎える。そして大正12年9月1日、関東大震災が発生、下町は昼間の地震で出火し、火に包まれる。祖母は大きくなったお腹を抱え、子ども達を連れて逃げ惑ったそうだ。母の直ぐ上の兄(三、四歳?)は、付近の小名木川で船に乗って逃げる際、「足を滑らして行方不明のままであった」と祖母に聞かされた。また、連れられ、毎年の慰霊式に行ったそうだ。

一方、祖母は流産を心配されたそうだが、無事、出産に至る。
秀子と名付けられたが、本人は火が出て生まれた子だから、「火出子=秀子」だと言われたそうだ。この名前の由来には、筆者は江戸っ子の意気地を感じる。

 

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副題「個人・住民・Citizen」の意味~自分史余滴(8)

2022年06月30日 | 個人史

今回は表題「或るベビーブーム世代の生活世界」の副題を取り上げる。副題は「個人・住民・〇〇」と並べる発想であった。最初の二つは以下に述べる理由で決まり文句、最後の一句で「個性」を出す試みだ。ここではCitizenである。

個人の生活世界(家族、近隣、地域、学校、職場等)は社会と係る。従って、自分史の執筆においては社会も観察の対象に加え、全体を組立てた。但し、その社会は自らの生活世界と関係のある事象、組織体、世相、情報等を多く含みながら、個人の関心・指向によって社会の別の面をも含む。小学生の頃からマスメディア(新聞、ラジオ)の世界が社会の様々な側面を報道していた。その中で自分が関心を持ったのは「政治の世界」だったが。
社会の中のでは自分という表現は通用しない。それが自分史の欠点でもある。そこで副題に「個人・住民」を連ね、その調子で決め手を出す調子にした。

「○○」は更に社会側へシフト、職業人、趣味人、世話役等々、社会との接点を持つ活動から考える。『私の履歴書』(日経新聞)が通用する所以だ。そこで、ユニークな個人的経験として、第四部「統合期」での地域住民活動・市民活動(川崎市)への参加を明確に示す意味で「市民」→「シティズン」→「Citizen」とイメージして使った。


最近、英国では若い人たちへの「シティズンシップ教育」が盛んになり、それが日本にも徐々に採り入れられている。即ち、政治的には「Citizen」を民主主義、政治参加の担い手としての表現にも使う。即ち、市民活動との言葉はそれと深く関連している。

 以上の様に考え、筆者の自己表現として使ったものだ。更にそれは大学時代に学んだ永井陽之助の政治学の考え方を基盤にしたものだった…。

教養課程重視を標榜する東工大に惹かれ、高三での個人的な、集注的受験学習で入学を果たす。「文理両道」を目指し、先ずは教養の入門書を探す。学内生協書店で平積みの入門書を購入する(『学問と読者』(大河内一男編、東大出版会(1967))。分野ごとに書かれていたなかで、当大学の政治学教授・永井陽之助「政治状況の認識」の次の一節に注目する。

「…自己の内面に無意識的に蓄積、滲透している時代風潮、イデオロギー、偏見の拘束を見出さざるを得ない…その固定観念からの自己解放の知的努力の軌跡こそが政治学的認識そのもの…」。情報化社会での自己認識に繋がる現代的学問論と受けとめる。これで教養の道筋が見えたと思った。

後に読んだ専門書には選挙の際の「主体的浮動層」との言葉で表現され、客体的不動票(固有観念、組織票、固定票)と対比されていた(『現代政治学入門』(永井陽之助、篠原一編、有斐閣(1966)。大学卒業後は入社した会社の独身寮が大学から近く、また、週休二日制であったので、土曜には「政治学講義」を聴講(贋学生だが、教授に許可を得る)させて頂いた。

 

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生活世界の中の「過剰の生」の位置~自分史余滴(7)

2022年06月23日 | 個人史

「過剰の生」について、バタイユに関する研究をネットレベルで調べてみた。そのなかで、吉田裕:『過剰さとその行方 経済学・至高性・芸術(1)』(正常大学リボリトジ)の次の一節に注目した。

『バタイユは自分の裡に何か制御できない力が作用するのを感じ、それを過剰な力だと考える。それは先ず詩的幻想だったが、瞠目させられたのはそれを幻想に終わらせず、現実のなかにまで押し広げようとしたことだ。』

なるほど過剰の生が、バタイユと不即不離の関係と小生はようやく理解、それを知らずに気軽に使った処で「すべった」のかも知れない。

そこで、自著の表題に『生活世界』を用いたときに調べた文献から改めて考えてみた。おそらくそれはフッサールの表現と同様に哲学的表現を含むもと考えたからだ。

参照文献は前回までに紹介した以下の書物だ。
 1)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』フッサール(中央公論)
 2)『生活世界の構造』シュッツ&ルックマン(ちくま学芸文庫)
 3)『日常世界の構成』ルックマン(新曜社)
 4)『社会的世界の探究』山岸健(慶応通信)

前回述べた様に、1)で提起された「生活世界」を受けて、2)においてその構造が整理され、更に具体的に3)、4)で展開される。

一方、2)2章では「空想的想像の世界、夢」について触れている。ドン・キホーテ、夢等が例示されており、「過剰の生」の取扱はここで出来そうだ。
但し、制御の効かない力の作用、幻想に終わるものを現実へと広げる意思、哲学、思想としては魅力のある発想だが…これで具体的事象を解釈するのは「生活世界の空想化」になると考えられる。

更に、生活世界では祭的なことも平日と日祭日の区別等で日常世界の中の出来事として扱う。そのように考えると、日常世界の広がりが近代化した地域では拡張して、祭り的世界は劇場等においても展開されるようになったと考えられる。

但し、ここでも反逆的表現形態が増加、バタイユ的世界もその一つかも知れない。

 

 

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「過剰の生」の可能性in生活世界 ~自分史余滴(6)

2022年06月22日 | 個人史

3月22日付け投稿(自分史後始末記、読者と著者の間~(1)過剰の生)において、読者の感想への対応として、「過剰の生」との言葉を使い説明した。一方、その言葉の「筆者における出所」は、山口昌男の本であったとも書いた。それは以下になる。

「道化はその限界を知らぬ放恣な性格の故に、定住の世界に安住することを許されない。あらゆる慾において彼は限度というものを知らない。それは多分、ジョルジュ・バタイユ的表現を用いれば道化が「過剰の生」の表現である故なのであろう」(「道化と詩的言語」、『道化的世界』山口昌男著,筑摩書房(1975)所収,P22)。

但し、「生活世界」のなかで、バタイユ的な<過剰の生>が存在するだろうか?未だ十分な説明ができていない!とも述べた。

しかし、翻って考えれば、「過剰の生」は比喩的表現、日常生活での発想から溢れ出てくることを表現する際に使い易い表現だ。その意味で「日常言語」の対極に位置させた「詩的言語」との表現は「言い得て妙」であろう。

また、生活世界が哲学的表現であるならば、過剰の生もバタイユの「生活哲学」と言えないことはない。生活世界がその後、シュッツによって哲学から社会科学の分野で体系化され、ルックマンが共著としてまとめあげる(『生活世界の構造』(筑摩学芸文庫)。以降、社会学の一分野として定着する。勿論、そこでは「過剰の生」との言葉はでないが、日常性を突破して新たな世界を開示する現象は、生活世界でも生成する。

 

 

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歴史の「挑戦・悲劇」と世代の「解釈・実験」~自分史余滴(5)

2022年06月17日 | 個人史

 「ひとつの世代は、ひとつの解釈と、ひとつの実験を試みることを許されているに過ぎない。これが歴史の挑戦であり、その悲劇なのである」 。
これはフランス革命後の欧州秩序の復興期、メッテルニッヒ(オーストリア)を中心に、欧州指導者たちの秩序回復への構想と活動を描いた『復興された世界』(ヘンリー・キッシンジャー著、永井陽之助訳)での著者の言葉だ。

この言葉に出会ったのは、永井論文「キッシンジャー外交の構造」(『中央公論』1972年12月号)であった(論文集『多極世界の構造』(中央公論社刊1973年6月)所収。

71年の夏、ニクソンによるダブルショック、特にニクソン訪中のニュースは晴天の霹靂であった。その後のベトナム和平交渉も含め、この時期の米国外交を担ったのが、キッシンジャー特別補佐官、その外交哲学は学位論文でもある上述の書籍にまとめられ、それを簡潔に分析したのが永井論文であった。なお、その書物は後に『回復された世界平和』(伊藤幸雄訳、原書房、1979年)として邦訳出版される。

それを読んだとき、知識人的名文で、覚え易いと思ったかもしれない…。また、「団塊の世代」との言葉を知った時、「今更、団子の塊と呼ばれても」と思ったのだが、世の中の趨勢に従って、その言葉を使う様になった…。
しかし、改めて自分史執筆を志し、その構想を練る段階になって、自らの世代の誕生を考え直す。先ずは第二次世界大戦によって崩壊した「秩序」、その中での「生活」を含めた復興期との思いが浮かぶ。それが長い歴史の中での位置づけと考えた。一方、「団子の塊」との表現は20数年後の人口構成からの発想であって、「生誕」のインパクトにはとても及ばない命名との思いに至る。
そこで「ベビーブーム世代」との言葉とその時代の意味を考え直し、父母の時代も含め、自らの時代の一片を描く執筆の旅に向かう気持ちになる。

そう考えると、以前に読んだ70年代に読んだキッシンジャーのややペシミスティックな言葉が蘇る。私たちの世代の解釈と実験がどのようなものであり、それがどのような挑戦と悲劇であったのか?後世の判断を待つ必要があるが、ここでは世代が生んだ二人の首相を取り上げてみよう。

ベビーブーム世代で自民党から首相になった菅義偉は、秋田県から東京方面へ出てきた。民族大移動と言われた時代を将に象徴する存在だ。しかし、それは裏側からだ。一方、表側から首相になった鳩山由紀夫は万年野党だった民主党の所属、当時の世相のブームに乗っての就任であった。

この両者の対称性に、「ベビーブーム/団塊」世代の『挑戦と悲劇』が示されているように思われる。

 

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