散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

アベノミクス・経済対策3.5兆円~3年連続100兆円超予算

2014年12月31日 | 経済
結局、総選挙の結果が経済対策に化けたというべきか。約6,600億円の税金が今回の選挙全般に使われたということだから、占めて約4兆円の税金が一気に消費されることになる。消費増税予定分が年度始め8%になって8兆円、半年後10%になって14兆円、従って、6兆円分が今年度分として消えることになる。従って、10兆円の税金を“ロスった”ことになる。

その経済対策を含めた予算規模は以下に示される(日経ネットから転載)。


 
表題にあるように、補正予算が3.1兆円になり、次年度4月の正規予算を入れて、次年度は実質年間100兆円を超える予算規模になる予定だ。すると、3年連続で100兆円を超える予算になる。バラマキもここまできたのか!

アベノミクスの第一の矢は、日銀の金融緩和であり、その国債保有を莫大にしながら、しかし、市中に流された金は僅かである。第二の矢はバラマキであり、人手不足もあって、流石に公共施設投資はできないから、地方への直接的な配布になっている。第3の矢は依然としてもやもやしていて、賃上げ要請しか,頼みの綱はなさそうで心細い限りだ。

実際に経済対策を並べてみると以下のラインアップだ(日経ネットから転載)。


 
政府は今回の経済対策で、GDPを実質0.7%程度押し上げる効果を見込む。
対策には3つの柱がある。家計・中小企業支援策・約1.2兆円、地方産業振興・約0.6兆円、災害復旧・震災復興加速・約1.7兆円、合計3.5兆円。

4200億円交付金で自治体が商品券・割引券を発行。地方産業振興は雇用創出に力点、「Iターン」、「Uターン」を対象に、空き家改修引越し費用の支援。家計・中小支援では住宅新築・改築での「住宅エコポイント」制度再開。長期固定住宅ローンの金利優遇。中小企業への低利融資制度、高速道路料金割引延長。
しかし、これらの対策案はすべて以前に行ったものに見え、効果は不透明だ。

これでは「アキノミクス」だ、というのが筆者の印象。この4月にも感じたが、同じ事の繰り返しで新鮮味も、効果も限られて、飽き飽きするからだ。これで、景気も、財政再建もという「二兎を追う」姿勢では、見せかけとの疑いが掛かり、結局、「一兎をも得ず」との結果が予測されてしまう。
 『アベノミクスからアキノミクスへ140404』

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成熟社会における「贈与の経済学」の役割~永井陽之助1974年

2014年12月29日 | 永井陽之助
最近は世代間の格差が議論されている。ウキによれば、一生の間に政府や自治体から受ける年金、社会福祉をはじめとするサービスと税や借金などによる負担の差が世代によって異なる事から生じる格差だ。

負担の差を世代ごとに計算して、損得を明らかにする手法は世代会計と呼ばれ、アメリカの財政学者ローレンス・コトリコフらが提唱した。極端な少子高齢化社会である日本において懸念される問題の一つだ。

日本は本格的な高齢化社会に突入した。有権者に占める高齢者(65歳以上)の割合は、2012年には約30%となり、2050年代には45%に達すると予測されている。加えて若い世代の投票率が低いことから、政治家は高齢者に有利な政策を実施せざるを得ず、世代間格差に拍車をかけているとの指摘もある。

グローバル化も進み、GDPマイナス成長、貿易収支の赤字化、慢性財政赤字に日本は苦しんでいる状況だ。しかし、先進諸国の一員として日本は、「ライフサイクル」の概念を重視し、個人の生活が多様に展開していく道を準備する必要がある。経済を成熟化させた社会が成熟国の基盤になる。
 『成熟社会へ向けての諸問題20141107』

世代間格差の問題も含めて、先進諸国での格差の広がりが大きな問題になっている。その中で、資本の論理が貫徹して格差が拡大することを論じたピケティの本が売れていることは、象徴的である。

経済学の中でそれに対抗できる論理はあるだろうか。大竹文雄・阪大教授の“幸福度研究”は最新の成果かもしれない。氏は「人と比べない行動」「利他的行動」を推奨する。「他人の役に立ち、社会の役に立っているとの感覚」が幸福感と繋がっているとのことだ(日経2014/12/27夕刊)。

この言葉は永井陽之助氏が村上泰亮氏との対談で指摘した言葉と一致する。
「幸福とは自分の社会的価値とその自己確認にある。自分が社会に必要であると実感するときに幸福感があることを近代社会は教えなかった。社会主義は個人と公共生活との間にあったバランス、逆説的に云えば、前近代社会にあったもの、人間の安定感と帰属感を回復した面がある」。
 『対談「成熟社会への生涯設計」1975年~成長から成熟への軌跡20140823』

永井は社会科学における方法論として「例外事象」を重視した。
例えば、「子殺し」という現象を変わりゆく日本社会の行方を先取りする少数の先端事象として捉えたのだ。云うまでもなく、ごく普通の子育てを行っている人たちが圧倒的に多いことは言うまでもない。しかし、単に珍しいということではなく、先端を鋭く認知する感覚と日頃の問題意識のあり方が問われるのだ。
 『方法としての「例外研究」~社会動向の予測20140721』

この「例外研究」の一つとして、永井はケネス・ボールディング「愛と恐怖の経済~贈与の経済学序説」(公文俊平訳(佑学社)1974)を評価する。
通常の経済行為は「交換」が基本であり、「贈与」は例外である。しかし、その例外の中に含まれる“統合”を高める機能に注目する。それが先の引用に述べられている「幸福とは自分の社会的価値とその自己確認」に対応するのだ。

ボールディングは次の様に云う。
「贈与経済の成長と構造を理解したいと思えば、統合システム――地位、一体性、コミュニティ、正当性、忠誠心、愛、信頼性などを含む社会関係の集合体――の持つ微妙なダイナミクスを検討しなければならない」。

贈与の経済学は個人的関係から国際関係(南北問題等)に至るまで広範囲に広がる。交換の経済に比べれば、量的には小さいものであるが、逆にそれ故、グローバル化する資本による短期的視点と規模がもたらす弊害に対する抑止機能として働くはずだ。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹井芳樹氏の「遺書」が示すもの~「事件の囚人」から新たな始まりへ

2014年12月27日 | 科学技術
笹井氏の自殺を報じたマスメディアは、その遺書、特に小保方氏宛のものを集中して記事にした。毎日新聞(2014/08/06)によれば、遺書の末尾に「絶対にSTAP細胞を再現してください」、次いで「実験を成功させ、新しい人生を歩んでください」と書かれていた。

当然、話題となったこの遺書から、何を教訓として引き出せば良いのか。
故人が「成功を」と書いた検証実験の終了を待って、理研、小保方氏が何を言うのか、あるいはどんな問題に関して言及を避けるのか、関心を持っていた。
“新しい人生”をスタートさせることができるのか?

筆者は7/27放映のNスペ「STAP細胞 不正の深層」をすべて見ていたのだが、神戸ポートアイランドの医療産業都市構想において建設が進む理研の研究拠点「融合連携イノベーション推進棟」(通称 笹井ビル)をカメラが捉えたとき、STAP細胞事件とそれを取り巻く諸般の事情の全貌を象徴するかの様に、その時、感じた。
 『建設中の理研「笹井ビル」が象徴するもの140729』

また、笹井氏の置かれた状況を、以下の三重の“事件の囚人”と捉えた。
 1)「小保方氏との関係」
 2)「京大(山中教授)との競争」
 3)「理研の国家的位置」
 『笹井芳樹氏の自死~ポイントオブノーリターンだったのか140805』

次第に事件の真相が明らかになると共に、笹井氏は急速に立場を悪くし、「2)は問題にならず、検証実験は3)の理研の立場を確保するもので、笹井氏に残されているのは1)だけになった」と述べた。

昨日の記事で述べた様に、検証実験は予想通り何も生まずに終わり、小保方氏も、野依理事長も責任ある言明、行動は取らずに研究者達の時間が浪費されただけの様に見える。140805付記事に書いた様に、笹井氏は、この状況を十分に予測できたのだ。それ故の自死であった。
 『ES細胞の混入は「毒殺」と同じ手法141226』

そうであるなら、氏は「絶対にSTAP細胞を再現してください」と書きながら「再現できないだろう」と考え、従って「STAP現象の総括ができること」を「実験の成功」と考え、その後は言葉とおりに「新しい人生を歩むこと」と考えて遺書を終わらせたのではないだろうか。絶対的矛盾を冷静に認識し、それを乗り越えるのは「新しい人生」を始めることだと。

ハンナ・アーレントは1951年に出された三巻に渡る浩瀚な著作「全体主義の起源」(みすず書房(1974))の終わりを聖アウグスティヌスの言葉、
 「始まりが為されんがために人間は創られた」(第3巻P324)で締めくくった。

更に、「矛盾のなかに自己を喪失しないかという不安に対する唯一の対抗原理は、人間の自発性として「新規まき直しに事を始める」われわれの能力にある。すべての自由はこの<始めることができる>にある。」(同上P292)と指摘する。

しかし、これには厳しい“自己省察”が必須であることは論を待たない。STAP現象の世界においては、それに適う関係者は、残念ながらいなかったのだ。勿論、それは私たちひとりひとりの問題であって、今回の事件を教訓にすることが先ずの出発点なのだ。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ES細胞の混入は「毒殺」と同じ手法~小保方氏を犯罪者扱いした理由

2014年12月26日 | 科学技術
この一週間ほど留守にしていたのだが…

世相はそれほど変わってはいないものの、やはり、イベントはある。報道によれば、理化学研究所の調査委員会(外部有識者で構成)は26日、STAP細胞とされた細胞は、既存の万能細胞のES細胞が混入したものだったことはほぼ確実とする報告書を公表した。

これは予想された内容であって、驚く人はいないだろう。ES細胞を小保方氏が故意に入れたこと以外に考えられないが、当然、本人は否定している。やっと出てきたことの真相を聞いて筆者は、永井陽之助の次の言葉を思い浮かべた。

「古来、日本ほど、毒殺の少ない国はないという。この狭い国土で濃密な人間関係の共存関係を維持しなければならない処で、“イエ”秩序崩壊の因となる毒殺などタブーとなるからである。…」(「時間の政治学」P195(中央公論社1979)。

この言葉は以下のことに深く関連する。
理化学研究所の19日の記者会見終了直後、検証実験の責任者・相沢慎一氏が突然、小保方氏を監視して検証実験を行ったこと、即ち、研究者を犯罪人扱いして実験したことに対して「おわび」をした。

毒殺では、先ず、回りの人が疑われる。
しかし、犯人は分からない。機を見て毒を、回りに判らないように入れるからだ。物証は極めて出にくく、お互いに知っている人の間で事件は解決に長引き、人間関係は破壊されてゆく。まあ、横溝正史的世界だ。

今回のSTAP細胞事件においても、ES細胞を意図的に混ぜ、幻のSTAP細胞を偽造した人を、学術関係の委員で構成される調査委員会で特定するのは、とても無理だ。結局、既に笹井氏は自殺し、人間関係は崩壊してしまった。
検証実験と称し、監視状態、即ち<監獄>の中で実験を強要する以外に、間接的に証明する方法はない。

ほぼ百パーセントに近い確率で実験が失敗に終わることが予測される中で、これを行うことは理研トップの決断が必要のはずだ。それでも失敗で終わり、改めて理研の研究マネージメントが厳しく問われている。これに対して、野依所長が辞任しないとは、驚きである。これは、給与減額等の一時的なやり方とは、全く異なるトップの責任問題のはずだ。日本のリーダー層のだらしのなさを見せつけられた思いがする。

相沢氏は記者会見の後に小保方氏に陳謝した。
おそらく、個人的見解とのニュアンスを含めてマスメディアに表明したかったのであろう。あるいは、このように取り扱うことで、事前に検証組織内部、更には理研トップにも了解をとっていたものと思われる。しかし、このアプローチも“三方一両損”的な、それぞれが責任を回避する方法だ。

これで組織トップがその地位に居座ることは、その人が単なるシャッポに過ぎないのか、本人が固執しているのか、どちらかであるということになる。

小保方氏については、既に「効率から悪への陳腐さ(1)~(3)」において、ハンナ・アーレントのアイヒマン評を想起させると述べた。彼女は「無思想性と悪とのこの奇妙な相互関連」と指摘し、「ホラを吹くのが、アイヒマンが身を滅ぼした悪徳…」とも云った。筆者はそこで、両者の共通点を“効率”と感じた。

 『(1)STAP細胞事件とアイヒマン裁判140402』
 『(2)STAP細胞事件における無思想性140407』
 『(3)STAP細胞事件における「演出とホラ」140409』

また、「私が犯罪を恐ろしいと思うのは、それを自分でもやりかねないからですよ」というブラウン神父の言葉を改めて想い起こしたことが、筆者にとっての教訓であった。
 『我らの内なる小保方氏との闘い方~ブラウン神父の方法140428』

しかし、更に大きな教訓もあることにボヤッと気が付いた。それはまとまり次第、確認してみよう。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井陽之助のマルクス観(2)~政治理論としての資本論

2014年12月19日 | 永井陽之助
昨日の続きとして「講義の私的メモ」の内容を書いておく。

「資本論」は政治理論であって、資本主義の性格を良く理解していた故にその動向を予測できた。即ち、資本主義に関する構造的知識を“大英博物館の二十年”において構築していた。

政治理論とは先ず、現状の分析から始まる。
欲求不満の原因を探り、その情報を得て自信と力をつける。
貧困は神学的問題(勤勉の有無)ではなく、
地上の問題(資本主義社会のシステム)である。

封建社会
 …眼に見える形で支配=被支配が存在していた。
市民社会
 …市場的メカニズムにより形式的・法律的には被支配は解消され、
 自由になったかに見える。
 しかし、階級理論から見れば、支配=被支配は存在する。

マルクスの思想を現代からみれば、「西欧における社会民主主義」の思想に近い。市民社会における権力の分散を目指した。例えば、「株式会社」ができたことに対して、市民社会における経済的視点からの試みとして、高い評価を与えている。

従って、レーニン的な階級理論、毛沢東的な民族主義とは異なる。

      




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井陽之助のマルクス観~レーニンとの違いを強調

2014年12月18日 | 永井陽之助
以前の記事では、永井陽之助を介して、レオンチェフのマルクス観を紹介した。では永井自身はマルクスの思想をどのように考えていたのか。
 『ピケティの出現を予言~永井が引用、レオンチェフのマルクス論141206』

永井はマルクスを、西欧社会民主主義の思潮に位置づけている。下記の論文はロシア革命以降の米国知識人社会の潮流を整理し、その内容を、アメリカン・イデオロギーとして、概観したものだ。

「かつて、その創始者の反対の主張にもかかわらず、ブルジョア啓蒙思想の線に沿ったユートピア思潮の一支流であったマルクス主義的社会主義は、資本主義と同様に一箇のイデオロギーに転化し、無自覚で無拘束なメシア的使命観と、冷厳な「国家理性」の野合は、恐るべきスターリン主義の鬼子を生み落とした」。
(『なぜアメリカに社会主義があるのか』(「年報政治学1966」所収,脱稿1965/12))

ここで、マルクスの思想をユートピア思潮の一支流と位置づけ、レーニンによるロシア革命からスターリン独裁に至るソ連の歴史とイデオロギーから峻別している。更に、対する資本主義もまた、イデオロギーに転化したとして、アメリカン・イデオロギーも厳しく批判している。

「私のいう民主的社会主義社会とは、マルクスが描いたように、人間か人間らしい生きがいを見出し、自己実現の可能性を発現しうるような社会、つまり経済・社会・政治制度が人間の価値創造の手段として従属されているような民主的規律と秩序をもった新しい社会を意味する…日本は、徳川の鎖国時代を平和に生存しえた貴重な経験をもつ民族として、平和な、非競争的な目標価値で、民族の生存を意味づけ、この激動の世界を切り抜ける貴重な歴史的実験をなしつつある…」。(『日本外交の拘束と選択』(「平和の代償」所収、初出1965/6「中央公論」)

ここでの議論は憲法問題で、その改正を提起するに当たって、社会観を簡潔に述べたもの。「マルクス」と「鎖国時代」を併記している処に射程の長さを感じる。逆に、マルクスを引き合いに出さなくても良い様にも思える。

「民主主義も共産主義も人類の経験する唯一の精神革命とも云うべき啓蒙思潮が生んだ異母兄弟であって、伝統的秩序を否定する「負のユートピア思想」を共有しているが、そのシステムを動かす「正の行動規範」については何も語っていない」。
(『さらばマイフェア・レディ』(「時間の政治学」所収、初出1976/5「中央公論」)

「…社会主義と共産主義(マルクス・レーニン主義)を区別すべき…マルクスとレーニンとは非常に違うんだ…」。
(『死か再生か、岐路に立つ社会主義』(「朝日ジャーナル」所収、1979/3/30号)

中越戦争は社会主義イデオロギーの矛盾を白日のもとにさらけだした。しかし、ハンガリー動乱(1956)、チェコ事件(1968)などの先例があるにも拘わらず、日本の左翼陣営は混乱するばかりだった。

ここでは、構造改革派の論客、佐藤登氏との対談から採った。社会主義=マルクス、共産主義=レーニンとして、マルクス・レーニン主義を解体している。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピケティの出現を予言~永井陽之助が引用したレオンチェフのマルクス論

2014年12月15日 | 永井陽之助
1973年にノーベル経済学賞を受賞したワシリー・レオンチェフ(1906-1999)は、研究初期の論文、「マルクス経済学の現代的意義」(1938)において、“マルクスの予言”を次のように述べている。

「マルクスの業績の今日的評価…資本主義体制の長期的傾向についての彼の見事な分析…富の加速度的集中、中小企業の急速な衰退、累加的競争制限、固定資本の重要性をますます高める持続的技術進歩、そして…繰り返す毎に振幅の大きくなる景気循環―以上の卓越した予言はすべて実現し、…」。
 『マルクスの予言』「経済学の世界」所収P103-111 時子山和彦訳(日経新聞社1974)

続いて、「全く見事なこの予言のリストが、現代経済理論に持つ意味は何であろうか…ハイマン教授の次の言葉に良く表されている…マルクスの仕事は、依然として、我々が果たすべき仕事についての尤も包括的かつ印象的なモデル…」。

この中で“尤も包括的かつ印象的なモデル”との指摘が光る。
これが60年以上の後、今般のトマ・ピケティの著作「21世紀の資本」(山形浩生他訳、みすず書房)によって検証されて表現されている、と云えないだろうか。

実は、レオンチェフの著作は永井陽之助『経済秩序における成熟時間』(中央公論1975/12号(「時間の政治学」所収))に引用されており、引用箇所は、永井の引用からほとんど転記している。即ち、上記の論文で永井が展開した現代経済学批判もレオンチェフに続いて射程の長い洞察から出てきたことが理解できる。

では、レオンチェフ論文において、何を永井が重要視したのか?それはレオンチェフの次の引用だ(「時間の政治学」P19)。
「予言の正しさに見られるマルクスの実績を説明するものは、彼の分析能力でもなければ、いわゆる方法上の優越性ではない。彼の強みは資本主義体制についての現実的で経験的な知識の深さである。…人間行動の予見に関しては、専門的心理学者といえども“性格判断”のコツを身につけた経験豊かな素人に遅れがちなことは、これまでもしばしば実験的に明らかにされた処である。マルクスは資本主義体制の性格判断家であった」。

そうであれば、マルクスが“性格判断”によって得た認識を診断的表現として述べたのに対し、ピケティは過去のデータを分析して、同じ認識に到達し、それを数学的表現にした。それが以下の不等式であったと云える。
 「資本収益率(r)>経済成長率(g)」

どちらが判り易く、説得力に富んでいるのかは、明らかである。
診断は患者に対して説明可能でなければならず、一方、数式は閉鎖的な専門集団に通用する、いわゆる科学的言語だけであれば良い。

それを踏まえて、更に永井は、レオンチェフの上記の引用を、「社会学的認識の本質を衝いて余す処がない」と高く評価する。マルクスが捉えた「資本」が今に蘇って評価されるとするなら、社会科学の“科学”とは何であるのか、改めて問われる必要があるだろう。

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事務手続としての総選挙~国民はシャチハタを押す

2014年12月14日 | 国内政治
今回は争点がない選挙と云われている。安倍首相は解散時に、消費増税10%化に対して有権者の審判を仰ぐ、と云ったはずだ。それがいつのまにかアベノミクスを争点にしている。しかし、野党は解散・総選挙を主張したわけではなく、国民的な声が上がったわけでもない。従って、信任投票と云うわけでも無い。

結局、安倍首相の一存による選挙であり、国民の投票はそれへのお付き合いになる。従って、投票する国民はシャチハタを押すように、それぞれの支持政党を書く、事務手続的な投票行動になる。

すると、先ず問題になるのが、投票率だ。下表は前回自民党の政権奪取までの選挙結果だ。最初の段に書かれた比例代表区での投票率が比較材料を提供する。
 『アベノミクスに対する様子見~参院選挙の総括130731』
   
   『衆議院選挙 比例代表区 投票/得票(万票・パーセント)』
   「マニフェスト」 「小泉改革」  「民主政権」   「自民再政権」   
   2003/12     2005/09    2009/08     2012/12    2014/12
   票  率    票   率   票   率   票   率   票   率
投票 5950 59.8   6781  67.5  7037  69.3  6017  59.3  

自民 2066 35.0   2588  38.2  1881  26.7  1662  27.6  
公明  873 14.7    898  13.2   805  11.4   711  11.8  
小計 2939 49.7   3476  51.4  2686  38.1  2373  39.4  
民主 2210 37.3   2103  31.0  2984  42.4   962  16.0  
維新                         1226  20.3  
みな                  300   4.2   524   8.7  
小計                  300   4.2  1750  29.0
  
次は各会派の得票数の消長になる。すでにみんなの党は消滅し、維新の会も退潮している。当然のことながら民主党は元気がない。今回、特に注目すべきは、若い世代の参加意欲に基づく投票率だ。消費減税のアップが遅れると、社会保障費用の費用負担の増加も遅れるのだ。

ところで、NHKによれば、投票率は52%程度であって、前回を大きく下回るようだ。やはり、“事務手続選挙”なのだ。
      
     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デフレの診断・処方を誤る~2年後のアベノミクス

2014年12月12日 | 経済
日経新聞・経済教室で選挙に因んだのか、「アベノミクス/黒田異次元緩和」の評価を行っている。その中で齊藤誠・一橋大学教授は表題のように、アベノミクスは日本経済に対する診断を誤り、当然の様に黒田総裁を道連れにして、処方も誤ったと論じる。以下にまとめる。

「政策総動員の熱病に」「目標、成長より生産維持を」との副題を掲げつつ、ポイントとして、以下の三点を挙げた。
1.「15年デフレ」の正体は海外への所得流出
2.原料高と輸出競争激化で交易条件が悪化
3.尋常でない財政と金融政策で将来にツケ

斎藤教授は1年半前に、上記の「1」及び「2」に関して、
「日本経済は長期的なデフレ状態にあったわけではない」
「物価下落は物価安定といった方がふさわしいほど軽微(雀)」だったが、
「15年以上にわたる深刻な物価下落(羆)にすり替えられた」と述べている。
 『黒田バズーカ砲は華麗なる空砲か(4)~「雀を羆にすり替え」130429』

従って、今回は「異次元緩和」を空砲というよりも「不発弾」と鋭く批判したことになる。「将来にツケ」を残したからだ。

「97年末以降の消費者物価指数(CPI)と実質国内総生産(GDP)からは「15年にわたるデフレ」に見合う事実を見いだすことは難しい」と今回も指摘し、「CPIは、輸入原材料の高騰で03年に底を打ち、08年まで上昇した結果、97年末と12年末を比べるとわずかに低下しただけである」と述べる。


 
しかし、上図のGDPとGDIを比較した図を掲げ、「生産指標を実質GDPから実質国内総所得(GDI)に、物価指標をCPIからGDPデフレーターにそれぞれ置き換えてみると「15年にわたるデフレ」に相当する姿が浮かび上がってくる」と述べる。

それは、21世紀に入り、日本経済は厳しい国際環境に直面したからだ。
「原油をはじめとした輸入原材料の価格が高騰」「電気・電子機器をはじめとした輸出産業の国際競争力が低下」したからだ。

「02―07年度の期間、実質GDI(所得漏出を反映)と、実質GDPを成長率で比較すると、前者(5.5%)が後者(9.5%)を大きく下回った」「「一生懸命働いた割には(実質GDP拡大)、所得が海外に漏出し、手元に残らない(実質GDI伸び悩み)」という実感が「デフレ感覚」の正味だ」。

しかし、「安倍政権は、実質GDPとCPIを日本経済の体温計に使い続け、財政政策と金融政策を合わせたマクロ経済政策を総動員することで日本経済が熱病に浮かされることに執心してきた」。
ここが、今回のポイントとなる議論だ。財政出動として、
1)震災復興予算規模19兆円→25兆円
2)12年度補正予算(経済対策費10.3兆円)と13年度を15カ月予算で編成
3)14年度も、13年度補正(経済対策費5.5兆円)と一体で運営

「一方、金融緩和の新しい枠組として、日銀は、市場金利を上回る年0.1%の金利で民間銀行から準備預金をかき集め、その資金で長期国債を購入してきた。長期国債の買入規模(保有残高の増加目標)は尋常でなく、13年4月の枠組で年50兆円、14年10月の枠組みでは年80兆円に拡大された」。

「しかし、大規模なマクロ経済政策は実質GDPの拡大やCPIインフレ率の上昇に結びつかなかった。準備預金の拡大自体に物価を上昇させる力はなかった」。
「13年度の実質GDPは、大規模な公共投資と消費税増税を見越した消費前倒しである程度成長したが、14年度に入ると息切れした」。
「円安が輸出拡大や生産増強投資に結び付かなかった」。

「「15年にわたるデフレ」が厳しい国際環境の反映だという診断に立ち戻れば、尋常でないマクロ経済政策の発動が政策処方箋となるはずはなかった。政策効果がなかったばかりか、国家の債務と日銀の債務(準備預金)というツケを後世に残してしまった」。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒人射殺と白人警官不起訴~状況の一断面

2014年12月06日 | 現代社会
表題に関連して45年前における白人警察官の心理状況を一昨日の記事で紹介した。「警察官は被害者」との見方は当時から存在していたのだ。しかし、最近になって連続的に報道される事件は、実際に何が起きていたのか?必ずしも良く判らない。そこで米国からの報道を引用してみよう。
 『黒人暴動・白人警官・ポピュリズム141204』

ロイター・オピニオン編集主幹・アリソン・シルバーが作家・ジェラニ・コブ氏の「ザ・ニューヨーカー」への寄稿を抜粋し、「ロイター」の記事にしている。
米ミズーリ州ファーガソンで8月に白人警察官が丸腰の黒人青年を射殺した事件で、大陪審は警察官の不起訴を決めた。事件を管轄するセントルイス郡検察のボブ・マクロク検事は不起訴を発表した24日、発砲した警察官の証言について踏み込んで説明するなどの対応を取った。

異例といえる検事の対応の背景には、白人警官による黒人少年射殺を受けて高まった地域社会の緊張を鎮める狙いがあったが、その思惑は外れた。ファーガソンでは抗議活動が燃え上がった。怒りの輪はニューヨークからカリフォルニアにまで広がり、オバマ大統領は緊急会見を開いて国民に冷静な対応を呼びかけた。一方、それを伝えるニュース番組の画面の半分は暴動の様子を映し出した。

以下は「ザ・ニューヨーカー」からの引用。
「事件当時発生から、当局が悪意によって動かされているのか、それとも無能なのかを判別するのは非常に難しかった。ファーガソン警察は(射殺された)ブラウンさんの遺体を路上に4時間半も放置したが、それは彼が人間であることを冷酷に無視した行動であるか、ただ状況に対処できない無能ぶりを示しているかのどちらかだ。」

警察官ダレン・ウィルソン氏の名前は、ブラウンさんがコンビニからたばこの箱を盗む場面とされる防犯カメラ映像と同時に公表されたが、ファーガソン警察は後に、ウィルソン氏はそのことを事件当時は知っていなかったと認めた。

「(抗議活動で)警察は大規模に配備されたが、ブラウンさんが射殺された現場の通りには警官の姿はなかった。その結果、警察署周辺への打撃は散発的で短いものだったが、ブラウンさんの自宅周辺は燃えた。これはひどい戦略であるか、ファーガソン当局の目には地域社会が取るに足らないと映っている証拠だ」。

マクロク検事の行動はこのパターンにまさに当てはまる。まず、大陪審が不起訴を決めたのは正午近くだったが、検事は午後8時までそれを発表しなかった。正確には、この重要な会見にマクロク検事は遅れたので午後8時15分だ。いずれにせよ、CNNは午後7時45分には、大陪審が起訴には証拠不十分という結論を下したとツイートしていた。

検事の20分に及ぶ説明で、最初はソーシャルメディアが果たす扇動的な役割に対する批判だった。しかし、検事の会見は、この事件には裁判が必要だということを多くの批評家に印象付けた。多くの米国民が不起訴決定を意外だと受け止めているが、むしろ起訴の方が予期せぬ結末だっただろう。

「政治サイト「ファイブ・サーティ・エイト」は統計を載せる。
大陪審が不起訴を決定するのはめったにないと指摘。2010年は連邦裁判所管轄事件16万件で、大陪審が不起訴にしたのは11件だけである。ただ大きな例外があり、それは警察官が関与している場合だという」。

「政治サイト「トーキング・ポインツ・メモ」も統計を載せる。
「ユタ州では過去数年、射殺事件の多くは麻薬密売人やドメスティックバイオレンスではなく、警察によるもの。ユタ州とミズーリ州は同じではないが」。

「ワシントン・ポスト紙のブログ「ウォンクブログ」の記事。
警察はマイノリティーに対する犯罪より白人に対する犯罪の方を重視していると思うか」という問いに対し、同意するとの回答は黒人では70%に上ったが、白人では17%にとどまったという」。

「ロサンゼルス・タイムズ紙によると、司法省はまだ独自の調査を続けており、公民権団体はウィルソン氏とファーガソン警察を相手に民事訴訟を起こす可能性がある。今回の事件は、これで終わりとはならなそうだ」。

これは一端に過ぎないし、今回の事件は極端な事象である。それに対して、サイトと新聞の記事をミックスしながら、事件の様相とそれを取り巻く環境、反応を知らせる様に配置している。構成としても優れた記事に違いない。

      


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする