散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

同盟外交における合意~TTP交渉参加、「車」と「農産品」との交換~

2013年02月24日 | 国際政治
日米共同声明(11/22)にある「全ての物品が交渉の対象」及び「包括的で高い水準の協定」はTPP交渉の基本だ。「聖域なき関税撤廃」をするのであれば、交渉は必要なく、それを前提とする限り交渉に参加しないとの安倍首相の選挙公約は、公約らしく、何も言っていないことと同じで、参加への政治的レトリックなのだ。

      
        日経新聞(02/23)

そこで、具体的に何を双方の利害対立と規定するのか、問題になる。日本は農産物、米国は工業製品、更に車、保険を相互の懸案事項として挙げた。しかし、問題点はあるが、上図のようにTTPで予想される経済効果は大きく、それを前提として交渉が成立するから「包括的で高い水準の協定」になる。互いに産業への影響はあるが、それを積極的に捉え、輸入拡大、雇用政策の推進で転換を図るのだ。

TTPは、参加国の顔ぶれから圧倒的に日米のFTAのようなものであろう。しかし、日米のような同盟国が「比較優位の原則」(一国がすべての財の生産において、他国よりも効率が良いとしてもなお、貿易は双方の国にとって有利である)に基づいて、経済・貿易関係を進展させる試みが、農協等の関係団体等に反対によって遅れていたこと自体、その内部の政策決定の課題を示すものだ。

それは今後の具体的交渉において、一層顕著になる可能性をもつ。緊密な外交関係は相互作用が複雑多岐にわたる故に、誤解も生み易く、それを増幅する契機も多くある。また、経済関係は対等だが、安全保障関係は日本が米国に依存する非対称的な関係をもつ。これが経済とリンクし、ねじれを生ずる可能性もある。

かつての日米同盟において関係の冷却化を招いた時期がある。それは沖縄返還と繊維交渉、「縄と糸との交換」、佐藤・ニクソン会談(1969/11/19-21)において、佐藤首相が「繊維輸出規制」に言質を与えたと言われている。

『同盟外交の陥穽』(「多極世界の構造」(中央公論社(1973))において、永井陽之助は向米一辺倒の自民党政府の情勢分析の甘さ、対米認識の浅さ、国内官僚機構の対立等による外交の失敗を指摘した。特に情報処理に対する基本的認識の枠組の中に潜む固定観念を次のように指摘している。

1)国際秩序が本来多極的であり、米ソ冷戦が一時的なの例外との認識に欠ける
2)冷戦の硬直した二極構造が米国外交の自由を拘束しているとの認識に欠ける
3)米国についていくとの判断が、冷徹な対米認識の眼を曇らせている

繊維交渉の場合、日本の対米輸出が急激に伸び、一方、米国はベトナム戦争の挫折で自信を喪失し、相対的な地位関係が変動していた時期であった。その状況変化を理解できず、米国は「沖縄返還」を実行したのに対し、日本は「善処する」「約束する」という空手形を乱発し、相互誤解を拡大し、関係の冷却化を招いた。

現在の同盟関係に対する認識はどうだろうか。
安倍氏は「緊密な日米同盟が完全に復活」と力を込めた。一方、オバマ氏側は「野田前政権時代から良好な日米関係に変わりない」と冷静であったとの報道だ。安倍氏の国内向けポーズが、米国への冷静な認識を曇らす可能性もなくはない。

今後、国内での対応のなか、関係議員及び団体の圧力に晒されるはずだ。一方、消費者にとって、安い農産物は大きな魅力だ。その交差の中、「聖域なき関税撤廃はない」を具体化する作業に入る。しかし、最初に触れたように、「包括的で高い水準の協定」は更に上位の概念として存在する。従って、既に枠組は設定している。

交渉の場で国内関係団体へ向きのポーズを出せば、参加国の誤解は拡大するであろう。また、安全保障関係においては、日米が基本的には共同して中国の膨張を封じる立場にあり、これは堅持されるだろう。しかし、米国からは日本が中国との軍事的緊張を緩和する行動を求められるはずだ。この対応に失敗し、米国依存を強めれば、経済関係にリンクしてくる可能性もある。

先にも記したように国家間の外交では、実行と実力の裏付けのない発言だけでは信用されない。特に同盟外交では尚更だ。安部政権もそろそろ、格好良い言葉だけではなく、具体的政策を打ち出していくことが必要だ。

      
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渡辺喜美は石原慎太郎と刺し違えできるか~参院選に向けての焦点2~

2013年02月19日 | 政治
参院選に向けて“新三極構造の二極化”が進むのか、みんなの党の党首の言動が注目される。最近の記事で以下の二点を合流の課題に上げた。難しいのは、渡辺氏の処遇であることは周知のことだ。案の定、極めて拒否的な姿を見せている。
1)橋下氏の参院選出馬…大阪市長辞任が必要
2)維新・みんなの合併・新体制…合計3名の代表を橋下氏1名に絞る

先の衆院選挙の前に、維新の会は太陽の党を合併吸収した。しかし、その時の代表は石原氏であった。今でも共同代表である。これはみんなの党を刺激し、ことのほか渡辺氏は挑発と受け取ったようだ。維新・みんなの政策合意をした直後だからだ。

正妻の座を確保する前に二号さんが表れて、先に同居したのだ。しかし、国民意識の大きな流れを読めば、拘るのは愚かだ。浮遊する改革志向層に対する方向づけが必要だからだ。渡辺氏が石原氏と政策的に合わなければ、益々、合流すべきだ。時間を置くほど不利になるのは当然だ。一つの組織のなかで戦わなければ不戦敗になる。

人事面は先の記事で示したように、橋下氏をトップに据え、自らは一歩引き、石原氏を名誉職に祭る必要がある。代表・橋下、副代表・渡辺、名誉代表・石原である。渡辺氏が石原氏と刺し違えできるのか?そして、江田氏を幹事長にし、松井氏を大阪府知事専任にし、大阪都構想を仕上げ、統治能力を証明する立場にする(橋下氏は大阪市長を辞職し、参院選に立候補)。

このなかで渡辺氏が自ら考える政策を主張し、石原氏を少しずつ追い詰めていくしか、方法はない。将に「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」である。渡辺氏が国民的支持を得て、更に成長する余地を得るには、大きな自己変革が必要なのだ。現状は、我が儘な坊ちゃん二世議員の域を出ない。

マスメディアの報道では、渡辺氏が下のレベルでの政策合意を軽んじる発言をしている。蚊帳の外に置かれているとの印象を持っているようだ。この状態は危機である。トップに立つ人に情報が回っていないことを示唆するからだ。今後、自らの党内においても苦しい立場に立つことが考えられる。

長い目で見た自らの位置を自覚することによって、曲がり角に立つ日本と自らを重ね合わせ、行動することを期待したい。
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橋下国政登場対アベノミクス~参院選の焦点~

2013年02月16日 | 国内政治
連休中の日経新聞に、6月の参院選へ向けての各政党の動きが掲載されていた。そのポイントは、複数区での攻防になっている。その構造を示すのが下図だ。これは総選挙の分析として筆者が使用した衆院選での比例区の得票数だ。
  日経新聞(2013/2/9)


しかし、政党間の勢力分布図だけである。ここから何を読み取れるのか?問題は今後の動向とそれを決めるキーファクタの抽出である。そのためにはここ十年間の推移を知り、今回選挙を位置づけることが必須だ。改めて、下記の表を示そう。

 衆議院選挙比例代表区 投得票(万票)
 時 期  03/12  05/09  09/08  12/12
 首 相  小泉1 小泉2 麻生  野田
 投 票  5950  6781  7037  6017
 自・公  2939  3476  2686  2373
 民 主  2066  2103  2984   962
 維・み             300  1750

ここでは、自・公(自民,公明)並びに維・み(維新の会,みんな)をまとめており、この意図は明らかである。即ち、第三極は「維新の会」を中心にまとまるとの予測だ。即ち、自・公への対抗勢力を形成することが彼らの基本的使命という認識だ。  

表から以下の三点が浮き彫りにされる。この基本動向を捉まえることが第一だ。
1)集中的争点と投票数…郵政改革(小泉2)、政権交代(麻生)では7千万票と多い
2)浮遊する改革志向票…自・公(小泉2)、民主(麻生)、維・み(野田)と票が移動
3)小選挙区制の効果 …結果として二大政党制による政権交代の機能を果たす

この傾向がどのように変化していくのか?複数の道筋を想定し、望ましい方向へ導く方法を提案し、更に、多くの人を説得するのが“政治”の最大の課題である。

上記の日経の記事は単なる観測記事、現時点・表面層の状況を理解できるが、過去から将来へ繋がる道筋は何もない。また、マスメディアは世論調査を定期的に実施し、最近の報道では、安倍内閣支持率は70%前後に上昇している。円安と株価上昇がアベノミクスとの命名に及び、それがひとり歩きを始め、雑誌、単行本にも登場している。これは、自民党のPR戦略の効果で、マスメディアは見事に乗せられたとも見える。主体的な活動をしっかりと果たしているとは、考えられない。

さて、先に挙げた三点をベースに最大の問題は“新三極構造の二極化”であろう。
前回(麻生)選挙で、みんなの党は自民党を離脱した議員を中心に300万票を集めた。しかし、これは多数勢力からの離脱がインパクトになって派生した集団への期待票であったと考えられる。一方、今回の選挙(野田)において、維新の会は離脱ではなく、多数勢力に対する挑戦者として新生した集団として捉えられる。

即ち、橋下氏は大阪府知事として一定の業績を残し、大阪都構想をビジョンとして掲げ、大阪府市民を説得した実績があるからだ。これは実績の評価も入った期待票になる。従って、大阪だけでなく、東京、横浜等の大都市においても着実に票を獲得し、1,200万票を積んだのだ。一方、みんなの党は、その勢いに寄り添うように乗りながら、維新の会に不安を感じる層も含めて500万票へ伸ばした。

ここから、第三極の中心は「派生・みんなの党」ではなく「新生・維新の会」だと認識される状況になった。参院選へ向けて、今後の主要な課題は以下の二点であろう。この課題を克服して「橋下国政登場対アベノミクス」に至るのか?
1)橋下氏の参院選出馬…大阪市長辞任が必要
2)維新・みんなの合併・新体制…合計3名の代表を橋下氏1名に絞る

おそらく、自民党は地方自治体首長の参院議員兼任制度を認めまい。その場合、橋下氏の市長辞任・出馬環境は逆に整うことになる。橋下氏は既に国政の人になっている。体罰問題のように突発的な事案が発生した場合、その政治的判断と行動力は光る。しかし、大阪都構想全体は大阪府知事に任せ、そのもとで大阪市を区に分割し、基礎自治体として独立させていくことは、その調整も含めて実務をこなす後継者を育て、市民にPRして納得を得る他はない。緊急の課題だ。

維新の会は選挙前に石原新党を吸収し、石原氏を代表とした。これにみんなの党が反発した。正妻の席は横から取られ、二号であっては、収まりが付かないのは理解できる。しかし、大きな流れからは、維新・みんなの合併は必須である。その場合、経緯、勢力、イメージから橋下氏がトップに立つのが妥当であろう。

最後に民主党の位置づけだ。現状は労組の支持を頼りに既成勢力が固着化し、他は少しずつ分散して“第二共産党”になるのか、細野氏を中心に新鮮な勢力としてビジョンを打ち立て、労組依存から脱却するのか、分岐点に立っている。しかし、海江田体制で、小沢氏とヨリを戻そうとする姿勢のようだ。これでは、世間からは注目されずに、横目でみられてだけだ。労組もまた、若い人は組合離れ、高齢者は保守化して自民支持へ、と解体が進むであろう。

      
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スイミーモデル・新党「自治体」の姿~日本維新の会・橋下徹と「首長5」~

2013年02月09日 | 国内政治
橋下共同代表の肝いりで、国会予算委員会において、維新の会の知事・市長経験者5名が質問に立った。名付けて「首長5」、一つのイメージ戦略であるが、優れたアイディアだと評価する。中田宏(元横浜市長)、東国原英夫(元宮崎県知事)、鈴木望(元磐田市長)、坂本祐之輔(元東松山市長)、山田宏(元杉並区長)の5氏だ。

これを読んで5年前に提案したスイミーモデル・新党「自治体」を想い起こした。その後、結局、橋下徹氏がスイミーとして登場したことになり、氏がスイミーモデルの中で提示した地域主導権(地域分権ではなく)の具現化を進め、大阪都構想を政治的、法的に実現可能にした。続いて、衆院選挙を経て、大きな魚のふりができる統合された体制が整備されてきた。それが「首長5」の位置づけであろう。

分権とは、分けられて確定した権限であって、特に活動のイメージはない。それに対して「主導権」は何ものかと対峙し、別の何ものかに働きかける活動のイメージを持つ。その意味でファイブは国会での活動を全国に発信しながら、各地の首長選、議会選を経て2年後の統一地方選へ向けての活動を担っていくはずである。前者は法的概念であるのに対し、後者は政治的概念になる。

このモデルのポイントは、「同じ領域に集まり、同じ方向を目指し、同時に行動する」こと、“集合・指向・同時”であると上記の記事の中で述べた。これはイメージであって、具現化する世界は別であるが、そのイメージを持つことが具現化をドライブするのだ。橋下氏が今回の「首長5」を発想した経緯は特に報道されていないが、単なる思いつきではなく、活動を進めるうえでの、イメージから出ているに違いない。逆に、この試みからイメージを逆算することができる。

今後、橋下氏は、参院議員の兼職を可能にしたい処だが、おそらく自民党は慎重に検討して、6月の参院選までにケリを付けることはないはずだ。すると、橋下氏は大阪市長を辞任して参院選に臨む必要がある。これによって維新の会の統合力は増し、最後の難関であるみんなの党との統合へ向かうことになる。ここで“集合・指向・同時”が完成の域に到達することになる。

おそらく、地方自治体の首長及び議員の参加は更に増えるであろうから、スイミーを眼に大きな魚として完成していくことが想定できる。今回登場したファイブの活動は、今後の橋下の国政登場への地ならしになる。

        
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柔道界の「精神的従属による指導」~近代日本の教育の姿~

2013年02月03日 | 現代社会
柔道女子の五輪代表を含むトップ選手15人が、園田監督の暴力行為に対し、JOCに上申書を提出した問題にも驚く。全柔連という組織を飛び越えて上申書を出さざるを得ない状況が組織の体質を表しているからだ。桜宮高校と同じく、直接の指導者との対話はできないと思うほど、精神的にも追い詰められていたのだ。
記者会見で、園田監督は、
「金メダル至上主義がある」「急いで強化が必要と考え、たたくようになった」
「一方的な信頼関係だった」「暴力という認識はなかった」と言い、
全柔連・上村会長は、「彼は双方向の信頼関係を築けなかった」と言った。

この言い訳じみた言葉の中に、閉鎖的な環境の中で、金メダルという成果だけを効率的(短絡的)に追い求め、上下関係が100%支配する人間集団の中での強制力(暴力)を振るったトップ指導者の姿が浮かび上がる。

一言で云えば「精神的従属」による指導だ。

しかし、これは単に柔道界だけの方法論ではなく、明治維新以降の急速な近代化をミッションとした国家的規模での組織的教育体制で政策のなかで、結局、取らざるを得なかった、すなわち、他に知恵は無かった、考え方であった。

ここで付け加えるが、戦後の日本では、米国の指導のもと「精神的解放」があった。しかし、この解放は奇妙だが、必然的に、近世日本でみられた伝統的なカルチャアである寛容と愛護の『子どもの楽園』(「逝き世の面影」渡辺京二著、平凡社(初出1998))と結びつき、厳しさと規律を欠く側面を生み出したように思える。実際、自立・自治の観点で「ひよわな花」(ブレジンスキ-)であることは免れない。

そのなかで、「精神的従属」の世界は、成果第一主義を背景にしたスポーツ分野で生き残り、また、戦前の教育下で育った一般的な指導者(教師)が学校教育の中の部活で維持していった。その後、指導者の再生産とオリンピックを頂点とした現代的成果主義が、更にグローバリゼーションに煽られたことと相まって、園田監督の「金メダル至上主義―急いで強化―たたく」に至ったと考えられる。

従って、「精神的従属」を解放するだけでなく、厳しさと規律も育くみ、オープンな精神で自立・自治に向かう子どもたちを育成する新たな教育の考え方を創造する必要が課題となる。この方法論については別途議論するが、例示として、サッカーでは1980年代以降、欧州諸国を参考に長期的視野のもとに、選手育成システムを整備し、指導している(「クリエーティブサッカー・コーチング」小野剛著、大修館(1988))。その成果が、代表選手だけでなく、若手、更に少年選手の海外進出である。

「精神的従属」を表現するコーチの態度の典型は「失敗を咎めて怒鳴る」ことだ。これは、部活だけでなく、少年(小学生以下)スポーツでも良く見受けられる風景だ。失敗を悪いこと、罪であるとし、罰として精神的に圧力を加える。しかし、少なくともスポーツの世界で、失敗は罪では内ない。従って、誤った認識に基づく行為であるからが体罰(暴力)と密接している。通常はエスカレートしないが、成果主義が昂じ、イライラ感があると、思わず出てくる。

指導者が、選手は従属する立場ではなく、互いの立場にたって、関係を築く必要があると考えれば、第一に信頼感を醸成し、信頼関係を築くことから始めるに違いない。アイデンティティ理論で名高いエリック・エリクソンは乳児が第一に獲得する人間関係は「基本的信頼感」であり、それがその後の発達段階においても人間関係のベースになることを論じた(「幼児期と社会1」みすず書房(1977))。その「信頼感から信頼関係へ」の欠如が「精神的従属」の世界の基本的欠陥である。

園田監督の「一方的な信頼関係」とは言い得て妙である。
「関係」、特に「信頼関係」という言葉には「相互」という意味が含まれているはずだ。考え方が異なる他人と信頼感を互いに確認せずに、組織的地位が決まれば、その関係がすべて決まるとの思いこみがなければ、「一方的な信頼関係」という言葉はでてこない。単に「信頼関係は築けなかった」との発言になるであろう。
全柔連・上村会長の「…双方向の信頼関係…」も同じ穴の狢の発言だ。

更に園田監督は「暴力という認識はなかった」と言い、自らも「暴力ではない体罰」を受けたことを吐露している。体罰を暴力と感じながら、反発できない立場上、やむを得ず甘受したのであれば、自らは体罰をしないように自覚することもできる。

しかし、園田監督は体罰を心理的に100%肯定することによって自分自身を納得させたようだ。これは、桜宮高校で選手を自殺に追いやった顧問を擁護する立場に立った卒業生と同じ発想である。結局、この心理を維持することが、体罰是認の指導者を再生産することに繋がるのだ。
一方、このワナに嵌まらず、自らを精神的に解放し、指導に当たった人たちも多くいると考える。これこそ“自己認識の政治学”が目指す処である。

      
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