散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

領土問題における“国家”と“社会”~「戦争」対「人間関係のネットワーク」~

2012年08月25日 | 政治理論
野田首相は8/24の記者会見で『李明博大統領宛てに送った親書を、韓国政府が日本側に送り返したことに関し、韓国が島根県・竹島を不法占拠していると明言し、竹島を含めた領土や領海を不退転の覚悟で守る考えを強調する一方、韓国に対して冷静な対応も求めた』ことが報道されている。領土問題は基本的に“国家”、即ち政府間の問題である。それは暴力(戦争)によって決着させる現実的可能性を含むからだ。

改めて強調すべきは、日本と韓国の“社会”の問題ではない、ということだ。それにも関わらず、筆者の社会活動の領域である地域少年サッカーにおいて、夏休みの「日本―韓国」の交流が今回の騒動の余波を食らって中止になるケースが出ていると仄聞している。これは今に始まったことではなく、日本と韓国の国家間での問題が起こる度に繰り返されることである。これは日本も韓国も“社会”が“国家”から自立できていないことを示している。

社会の自立は、日本において地方自治、特に住民自治の程度によって診ることができる。現在の地方分権は団体自治の実現に色濃く傾斜しおており、それもまた、その団体の主張の半端さと国の官僚機構の権限確保によって停滞しているのが現状である。

更に、国と社会、特に住民レベルとを繋ぐ政治的回路は国・地方の議会・議員だ。しかし、地方では「議会改革」という言葉に象徴される状況が未だ続いている。一方、今回は国会で竹島、尖閣諸島に関する決議を行った。国家レベルでの対応をしたことは良い。しかし、これを地方にまで持ち込まないことが大切であろう。

一方、住民レベルを繋ぐ情報回路はマスコミ報道であるが、これもテレビ・新聞の全国的な普及によって情報が一方的に社会へ供給され、情報と共に固定観念も合わせて供給される。これが全国一斉に行われ、それに触発された一律的反応が更に報道され、政府の行動を拘束するようになる。昨今の原発問題、また、今回の領土問題しかりである。

その中で、国家と国民を同一レベルにおいて行動をけしかけているのが佐藤優氏である。http://blogos.com/article/45408/?axis=b:1
「韓国の横暴な対応に、国家と国民が一体になって反撃しなくてはならない。」「首相の親書を送り返してくるということが外交的に持つ意味は、日本国家と日本国民に対する侮辱以外の何ものでもない。」との発言になる。しかし、「国家と国民が一体」になれるわけがない。国民は社会の住人であることを基本とする。国(政府)は税金によって運営され、国民を守ることを負託されている。政府はそれを実行する義務が有り、出来なければ、国民は政府を変えることが必要になるだけだ。何故なら社会は平和であることを望んでいるからだ。

では、平和へ向け、“社会”が国の行為から離れてなすべきことは何だろうか?

それは、世界がグローバル化によって相互依存を増していくなかで、国を超えて「人間関係のネットワーク」を広げていくことだ。デマゴーグ・佐藤優の巧みな言葉による誘導に乗って国家と一体になって反撃することではない。国家には国家としての役割がある。従って、反撃することが必要だと判断すれば、それは自ら実行すれば良いだけだ。

しかし、社会の役割は別にある。情報空間が拡大し、相互の有する時間・空間が密接に結び合う世界のなかで、それぞれ異なる社会間のコミュニケーションは密接になると共に誤解、紛争の拡大も伴う。そのなかでトランスナショナルな領域を広げ、平和の中で活発な活動を行っていく基盤になるのは、信頼に基づく人間関係のネットワークである。

インターネットが発達して、誰とでも直ぐに情報を交換できる世界になった時に改めて気が付くことは、共同体験と人間的接触によって得られる情報の質的性格と信頼関係の重要さである。これを家族、友達から更に仕事等の交流を通して広げていくことが社会の存立基盤になっていくのだ。従って、先の地域少年サッカーでの交流が国家関係によって妨げられることの愚かさ、マイナス効果が実感として判るはずだ。

『孤独な群衆』(みすず書房)で著名なデービッド・リースマン『二十世紀と私』(中公新書672)の解説において、永井陽之助は、リースマンの最大の資質は偉大な教師であり、教え子は全世界に散在するとして次のように言う。
「教授の人柄と思想は、グローバルな規模で広がる人間関係の濃密なネットワークを通じて、ずしりと思い存在感に支えられている。現代世界で信頼しうる唯一の実在ともいえるその人間関係の網の目は、目に見えない不断の増殖を確実につづけて、やがて世界を確実に変えていくであろう。」

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領土問題に対する一貫性ある非対称的対応~占領・尖閣諸島と被占領・竹島~

2012年08月18日 | 国際政治
韓国・李明博大統領の「竹島」訪問から香港活動家たちによる「尖閣諸島」への上陸をめぐり日本国内が揺れているという印象を世界へ発信しているかのようである。これこそが何よりも一番の問題である。批判・反批判が渦巻き、国論が沸騰するのは民主主義国家の特質であって、誇るべきことだが、一方、政治家、知識人、ジャーナリズムが国内政治の駆引きにかこつけ、政府の立場・考え方を無視して批判を繰り返すのは、自覚が足りないと言うべきである。

最近、中公クラシックスとして復刻された永井陽之助著『平和の代償』は、1967年に出版されている。45年前である。菅・前首相が就任演説で、渡辺喜美・みんなの党首がそれにコメントを加えることで、現実主義者として少しリバイバルの気味がある。しかし、永井は単なる現実主義者ではない。世界の出来事に強いインパクトを受ける感受性、感じたことをバネに集中的な研究を進める態度、深い思索をもとに強靱な論理を展開する、ひとりの優れた政治学徒であった。
45年前の著作の中に、今でも参考になる思索の軌跡が表現されている。

今回の領土問題においても(以前もそうだが)、基本的な考え方を導ける箇所がある。それは第1章「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」の最後、論争を呼んだ第2章「日本外交における拘束と選択」への繋ぎの部分だ。米国知識人のベトナム情勢、アジアへの影響に対する考え方を紹介した後、戦前の軍部独走を教訓に、軍縮や軍備管理を狭い専門家の手から解放することが必要と指摘した(P63-64)。

そこから、“防衛とは何か”に入る。『よく人は問う。「いったい、だれのために、だれに対して、何を防衛するのか」と。…「防衛とは自国のためであり、また、そうでなければならない」ということが疑うべからざる当然の前提のようになっている。その前提そのものが少しも疑われていない。…防衛とは自国のためだけでは決してないのだ。隣人のためなのである。』(P64-65)。

以下、その理由を述べた後に例として、『若い女性が身だしなみをキチンとして、自己防衛するエチケットを要求される。これは何も彼女自身のためばかりではないのだ。過小防衛は過剰防衛と同じくらい、ハタ迷惑なのである。』(P66)。
この著述は今回の領土問題に関しても多くの示唆を投げかけるだろう。

主権が各国に分かれ、領土によって国の存立を表現している現状は、国境の移動を巡って深刻な紛争が起こり得る。また、具体的な国境の紛争は基本的に二国間だが、一部の例外を除いて、一つの国は複数の国と国境がある。二国間の紛争であっても他国に対する影響は心理的側面を含めて甚大と言える。従って、領土問題こそは、周辺の国家への国際的責任意識をもとに、平和の維持へ向けて相互信頼を増し、誤解を防ぐように二国間関係を構築していく辛抱強さが必須だ。

では、領土問題をどのようにして解決するのか?単純に二国間に限定して考えれば、占領国は圧倒的に有利である。被占領国が諦めれば良いのだ。逆に言えば、諦めなければ永遠に問題は残る。それは占領国の国家建設にとっての「キズ」になる。ここにネパールも含め、自国内外に少数民族がいる中国の問題がある。
そこで、占領国は問題・話題になるのを避け、被占領国が実質的に諦める方向へ導ければ良い。一方、被占領国は占領国の非を訴えれば良い。国家として欠ける領域はあるが、平和の維持という国際的大義がある以上は「キズ」ではない。

結局、占領国は実効支配での圧倒的有利さを持つが、国家建設での「キズ」という弱みを抱える。被占領国はこの逆である。この非対称性の中に領土問題の政治的駆け引きが展開される。日本は尖閣諸島では占領国、竹島では被占領国であり、非対称な行動を必要とする。しかし、それ故、考え方としては一貫しなければならない。

先ず、領土の管理は占領国の義務である。即ち、日本は尖閣諸島をしっかりと管轄することが周辺国に対しても最低限要求される。曖昧な態度で対応し、相互の誤解が生まれ、現状維持の可測性が失われることは、実際の紛争になる恐れがあり、周囲の国にとって迷惑になる。

現状は過小防衛であり、中国の跳ね上り分子に対しては、水際で押し返し、正当防衛による攻撃も当然であろう。一方、国内での東京都・石原知事の土地買上、寄附の募集等は過剰防衛の一環として中国に受け取られている。また、政治家・メディア・知識人の政府批判も建設的は方向がなければ、過激発言と同じだ。

一方、韓国に対しては挑発的発言を避け、国際司法裁判所への提訴を提案している。韓国に領土問題があることを認めさせる動きである。この考え方を基盤にして、二国間に横たわる政治レベルの課題を解決する方向を目指し、国内世論を沸騰させる行動・発言を抑制することが政府の努めである。一方、尖閣諸島に関して領土問題は存在しないとの主張と矛盾する。これはご都合主義との批判は免れないであろう。両方共に一貫した態度で相手と対話の道を進め、忍耐と自制で迂路を進む以外に解決への道はない。

         
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オリンピック・日本サッカーの戦い方(2)~陥穽の深み、転換ができない組織~

2012年08月12日 | スポーツ
失点ゼロで快進撃を続けてきた日本チームは、準決勝の対メキシコ戦で暗転する。
先制をしたが、その後はメキシコの柔軟な個人技とそれに基づくパスワークについていけず、強力なストライカーも不在というチーム自体の欠陥が浮き彫りにされ、逆襲もままならず、手詰まりに陥った。

銅をかけた韓国戦、日本の報道論調は期待に盛り上がり、その分「メキシコ戦の暗転」は意識されず、「好調・成長」「韓国に負けるものか」との雰囲気が作られた。しかし、前半からトップに合わせる高いボールにDFは悉く競り負け、左右にコースを変えるドリブルにDF3人が振られ、シュートは冷静にニアを抜いた。

後半、戦術転換はあったか?

後の監督談話では、全くなかったようだ…思い出すのはヒディング韓国のベスト4入りを決めた采配である。決勝Tでの戦いでは、最後まで攻撃を志し、「DFの要」洪明甫も対伊、対独戦では途中交代させられたはずだ…今、監督とは!

韓国は楽にボールへアクセスし、早い時間にGKからのボールを飛び出したMFが決めた。このシュートも少し浮いたボールをタックルに入るDFの足の間に叩き付ける見事な判断・技術によるものだった。これ以外にも、ボディバランス、ボールコントロールで日本は見劣りし、更に監督のブレインも不足では!

何故か?後半、日本は負けているのに、監督を筆頭に勝っている時の試合をした。

勝った試合の「好調・成長」が幻影として意識され、チームワークの内に籠もる。
リスクを取らずに安全・安心のパス回し!確かに自分たちのペースには違いない。
交代は遅れ、これ以上失点しても問題ないと意識した後からのパワープレーだ!
好調が暗転したのは、強い相手に対し自らの意識を変えず、チームワークの枠組の中でプレーしてきたからだ。監督もまた、金縛りにあったかのように、動けなかった。

それを破る個性は僅かに宇佐見が垣間見せたか?

たかがサッカー、しかし、これがオリンピックに浮かれる日本の象徴だとしたら?
グローバリゼーションの下、少子高齢化が進展する。財政再建は不可避だ。その中で幾多のリスク・利得を冷静に議論することが必要だ。しかし、その基調となる正確な認識へ向けた情報は、思い込み・不明確・感情的等の情報あるいは組織的意見が浮遊するメディアの中で“沈黙の春”を強いられているようだ。

       
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 オリンピック・日本サッカーの戦い方(1)~順調な成長~

2012年08月11日 | スポーツ
第1戦のスペインに勝った処から奇妙な感覚に囚われた。スペインらしくなく、同じ予選Lのモロッコ対ホンジェラスをみても4チーム共にどっこいだと感じたからだ。1位通過から更に決勝Tを勝ち抜いて優勝したとしても、レベルが低かったというだけのことになるのか?しかし、半分は当たっていたとしても、勝手な見込み違いではあったのだ。
次のエジプト戦、1点目は清武のボール奪取から素早い中央へのフィードが見事!永井のスタートも早かった!日本の綿密な作戦が目立ち、チームプレーとしても共通の理解ができたと感じた。“成長”との評価が報道機関を支配した。

準決勝になり、日本では44年前のメキシコ五輪での地元メキシコを破っての銅メダルが話題になった。負けても次はおそらく韓国との3決になる。しかし、当時サッカー選手の端くれであった筆者は、その前の日本で開催されたアジア地区代表決定戦…山場の対韓国戦を鮮明に覚えている。

3-3の引き分け!小雨降りしきる国立でのナイター、終了寸前、中盤から抜け出た韓国選手が距離のあるシュート、GK横山のジャンプ空しくゴールへ…だが、バーの金属音以外には何事もなかった。結局、同率1位で失点差の勝負、最終戦、フィリピンが全員PE内で守り、韓国は4,5点の勝利、日本は緒戦フィリピン戦で大量得点、結局、日本が代表に。後味の悪さが今でも一番記憶に残る。

対メキシコ戦は録画中継で後半から見た。問題の2点目は東の周りを十分見ない構え、GK権田の丁寧な、しかし、緩いボール、回りの選手のサポート意識の欠落が重なったのが致命的!ボール奪取の機会を相手に与える“好餌”になった。その直前の守りの際にボールウォッチャーになっていたのかも知れない。おそらく日本チーム全体が互いにそれを許す雰囲気になっていたのではないか。ここに組織的欠陥、自らの戦術が壁にぶつかったときに、それを打開できる選手がいなかったのだ。ここに陥穽があり、それは銅をかけた韓国戦で拡大して顕わになった。

対韓国敗北を決定力の差といつものように論評する報道があった。しかし、これは分析、批評、まして洞察ではない。当たり前のことを決まり文句で言っているに過ぎない。韓国の1点目、ドリブルのコースの取り方、2点目、少し浮いたボールを叩き付けてシュート、いずれも技術と判断が融和したプレー。
日本の問題は後半、顕著にあらわれた(続く)。
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国民的エネルギーの喚起・統合・道筋化~近代化における顕教と密教~

2012年08月05日 | 政治理論
蒸気船によって太平の眠りを覚まされた中、尊皇攘夷で徳川幕府から権力を奪取した薩長連合は、一転して開国によって危機を回避し、その危機をバネにして維新を展開する明治政府に変貌し、第一の離陸を達成した。
空襲・原爆による生活の戦争化の中で、日本軍の降伏は、国民にとって敗戦ではなく、終戦を意味した。それ故、マッカーサーによる占領は、一面、陸軍による占領から国民を解放したことになる。解放軍によるその後の民主化改革は、高度成長経済のベースとなり、日本は第二の離陸に成功した。

しかし、この二つの離陸には変わり目において、それぞれ「攘夷から開国」、「占領から解放」へと大きな意識の転換が含まれることに注目する必要がある。その転換「開国」「解放」が外の世界に対するもので、この概念が国民的エネルギーを喚起するために働いた、と考えられるからだ。

今、その間に築いた有形・無形の財産を生かしながら、財政再建を国家として実施し、少子高齢化、人口減少社会に対応しようとしている。政治の混迷が指摘される現在、過去2回の離陸を捉え直すことは今後への示唆を含むであろう。
戦後日本政治における顕教と密教」(2011/9/23)はその試みであるが、源は明治政府の体制を論じた『現代日本の政治思想』(久野収、鶴見俊輔絵著、岩波新書)にある。ここでは、その概要を紹介し、総括を試みる。

顕教とは大衆アッピールに用いられる通俗的な象徴体系であり、密教とはエリート集団に対する高踏的な象徴体系である。しかし、顕教と密教は相互に対照的な概念であり、一体として機能する。
久野、鶴見両氏は顕教と密教を含む明治政府の政治体制を芸術作品と呼んだが、それによって、伊藤博文を中心とする明治政府の元老たちは、日本の近代化という課題に対し、国民的エネルギーを統合すると共に、その発揮に向けて道筋をつけるという、政治的奥義に近い微妙なコントロールを試みたのだ。

国民に対して、天皇は「現人神」であると共に政治的支配者であることを小中学校の教育及び軍隊で徹底的に教える。絶対的な一君万民のシステムは封建的な身分制度からの解放をもたらし、天皇の前では平等を保証し、これによって国民すべてに立身、出世、栄達を可能にし、そのエネルギーを喚起した。

一方、宗教的権威によって万民に対し、天皇を心身的な献身と帰依の対象とし、エネルギーが国家目標に向けて集中する道を開いた。更に、明治国家の特色は、国民すべて、天皇を「補弼する」「翼賛する」という形式をとった。これにより、失政はすべて、補弼の責任にできるシステムになり、天皇親政そのものは批判から免れ、国民が反体制へ向かう道を遮断できる。これが顕教である。

しかし、これだけでは近代国家として実際の行政は成り立たない。また、優れた人間を政治・行政の中枢に登用することに対しても十分ではない。国民的エネルギーを道筋化する官僚機構は立憲君主のもとで作動する必要がある。建前としては絶対君主であっても。大学、高等文官試験で「天皇機関説」に当たる密教だ。

しかし、この体制のなかで軍部と衆議院だけは伊藤の苦心にも係わらず、それぞれ違った意味でのサイズに合わない歯車として不気味な音を立てていた。軍部だけは国家機構の密教体制の中で顕教を固守しつづけ、大衆化と通信網の拡大で「密教」の顕教化(大衆レベルへの下降)が始まると、文部省を従え、顕教による密教征伐(国体明徴運動)を始めた。一方、衆院は普通選挙の実施により、国民の代表機能は強化され、翼賛システムからはみ出すようになった。結局、軍部と政党連合が日本型「草の根デモクラシー(草莽ラディカリズム)」を把握し、天皇の反対さえも押し切り、戦争への道を歩んだ。

「戦後日本政治」においては先に掲げたエントリで論じているように、「顕教・厭戦ムード平和思想」と「密教・憲法第9条を盾にした経済復興」という暗黙の保革協働戦線になる。これが国民的エネルギーを統合し、経済ナショナリズムとして道筋化した。その先兵たる企業戦士による経済活動は米国大衆ジャーナリズムから膨張主義を言われるまでに成長したことは確かだ。

現状は第二の墜落に至る懸念はあり、失速を避け、スムースな着陸を目指すイメージを持つ。しかし、それでも国民的エネルギーの喚起・統合・道筋化は必須であろう。これまでの顕教と密教のように、その間の乖離が大きければ最終的な破綻は免れない。また、未来に対する予測不可能性は本質的であり、政策変更を含めて少数者による意思決定という政治的構造は残るはずである。

従って、ビジョン提示から政策決定に至るまで、素早い情報開示を通して多数者を説得する積極的な政治スタイルが必要になってくるのではないか。
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