散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

グノーシス的知性の隠れたる権力欲~永井陽之助氏が初めて話す

2011年10月13日 | 政治理論
永井陽之助氏の『東工大最終講義』は「20世紀に生きて」であった。

これまでに授業などで話を聞いたり、あるいは本を読んだり、したなかで親しんだ内容であったが、一つだけ始めて聞いた話があった。それが表題の『グノーシス的知性』であり、筆者にとって衝撃的な中味であった。

反原発を主導する論議を聞いていると、隠れたる権力欲を持つグノーシス的知性のにおいを感じる。知性としてそれほど上等とは思わないが。革命理論だけではない、啓蒙思想もグノーシス主義を免れないのだ。戦後民主主義が典型例である。

『ここに私は、20世紀をつらぬく一つの思潮のなかに、グノーシス主義があることに気づくようになった。』(永井陽之助 「20世紀の遺産」(文藝春秋社P32))

『20世紀がレーニンのボルシュヴィキ革命とアインシュタインの相対性理論で始まったというもっとも深い意味は、古代から中世を経て今日まで連綿として生き残ってきたグノーシス的思考が、20世紀において、この地上に至福千年王国の出現を約束する全体主義運動という極限形態をとってあらわれた、という逆説のかなにある。』

『現代は神なき時代といわれるが、それは決して宗教なき世紀を意味するものではない。現代のグノーシス主義はさまざまの意匠をこらしてあらわれている。…』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後憲法における「機構信仰」

2011年10月04日 | 政治
永井陽之助氏の『平和の代償』「戦後平和思想における顕教と密教」によって明らかにされた戦後平和思想を整理している。

新憲法の思想が村落者の平和哲学として正義の戦争と裏腹の関係にあり、日本の自然村秩序観と似ていることについても報告(2011/5/7)している。
また、新旧憲法における顕教と密教の二重構造について先に報告(2011/9/23)した。

密教としての統治論としての平和論が、高坂正堯氏の「宰相吉田茂論」によって理論化され、顕教化されるに至ると、顕教として、その政治的表現であった非武装中立は社会党の崩壊と共に僅かに社民党の一部に残る程度になった。

憲法9条を拠り所とする戦後平和思想は、日本の伝統である「機構信仰」のなかに位置づけられた。政治学者・京極純一氏『日本社会と憲法問題感覚』(思想「1962年6月号)を引用して永井氏は次のように述べる。

「第一に、憲法ないし基本法体系は、国家機構の編成と行動を規定するインパーソナルな成文法典であるにとどまらず、個人の内面の倫理的基準および社会秩序形成の基準ともされるのであった。」

結局、『国家、社会、個人の各レベルにおける目標間の明確な分化のない、わが国の体制では、政治的中間層における目標価値への執着と期待は、想像以上に強いといわなければならない。』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする