散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

オペラ・蝶々夫人~一直線の対立のない悲劇

2017年02月04日 | 文化
第二幕の有名なアリア「ある晴れた日に」から劇は悲劇に向かって急激に流れ出す。蝶々さんが結末の自害の場面で使う短刀は武士であった父の形見で、「恥を忍びて生くるなら、名誉と共に果つるべし」と銘打たれている。ここで、蝶々さんがピンカートンへ話した劇の冒頭に繋がる。それは一直線の悲劇なのだ。

第一幕から三年の月日が流れるが、その間は蝶々さんが悲しみにくれて待っているだけの時間になる。一方、ピンカートンは自分が忘れられているかも、と考えている。両者のすれ違いがあるだけで劇的なものは何もない。

第二幕では、蝶々さんを支えるスズキの存在感を大きくし、その後に出てくる子どもの三人でのやり取りのなかで、蝶々さんができるピンカートンとの和解へと話を進める。それは、子どもをピンカートンに引渡し、自分はピンカートンへの失望ではなく、子どもの将来のために死ぬこと、それが運命的であることを強く示すことになる。その急激な盛り上がりの中で、観客は、その運命の悲劇性に感動し、結末を迎える。

プッチーニが「この劇は終末に向かって解釈抜きに、何も介させず、恐怖の効力を失わないままに疾走しなければならない」と書いたそうだが、それはこの物語の本質を見抜いた言葉だ。第一幕の部分でも、最後の蝶々さんとピンカートンとの愛の二重唱のあたりは盛り上がるが、全体的には冗長性を感じるほどだから。

しかし、劇と云えば対立的要素を含むのだが、この話は、その面白さではなく、愛の誤解が招いた若き女性の悲劇だけに焦点を充てる。従って、登場人物はすべて、物語を引き立たせる役割を背負っているだけだ。すると、他の設定、父親が武士として自害、蝶々さんのキリスト教への改宗・親戚の離反、さらには子どもの存在、もまた、悲劇性を高めるものとして使われていることが良く判る。

新国立劇場での公演を一昨日(2017/2/2)の夜に観たのだが、3等の2階袖席は見やすくできており、充分に楽しめた。冬場で寒くなければ、周辺を散歩したい処だったが…今回は無理せずに新宿西口地下で食事をして、そのまま京王新線に乗った。

家人にぜひ観たいと言われていたので、特に、話に関心はなかったが、音楽性には触れておきたいので、タイミングとしては良かった。

振り返ると、無理して作った話にはなるが、それを支えるのはオペラという大掛かりな音楽劇で、鍛え上げた歌唱とオーケストラとのコラボという芸術性ということになる。

その意味で蝶々夫人役の新国立劇場オペラ研修所出身(第3期生(2000?03年)) 安藤赴美子は、簡素な日本的舞台設定の中で日本女性の心情を見事に表現していた。特に感情がこもる場面での歌唱は、やや音声が細くなるような気もするが、それが却って日本的なるものを感じさせるのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする