散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

復讐なき愛の世界を素描~モーツァルト「魔笛」考2

2016年01月30日 | 文化
フランス革命勃発の2年後、1791年に魔笛は初演され、今、新国立劇場の公演を筆者は鑑賞してきた処だ。モーツァルトがその時代に何を感じたのか、それが作品にどんな影響を与えたのか、良く判らない。しかし、ドン・ジョバンニ的な世界は遠ざかったと云えるだろう。

そうは云っても、アンシャンレジーム体制は依然として根強いはずであるから、様々な活動がそこに入り込んで、押したり、引いたりしながら、少しずつ新たな時代が顕れ始めてきた処なのだろう。


 
 新国立劇場 
従って、明確な主人公はいない。プログラムの中で出演者のトップを占めるのは、神殿の大祭司・ザラストロ(写真中央に立つ)、続いて王子・タミーノ、夜の女王、女王の娘・パミーナ(写真・中央で膝間つく)の順である。この4名に加えて、道化役のパパゲーノが主役群になる。

ザラストロが中心にいるのは、彼が他の4名の運命を握る存在として描かれているからだが、一方、声域がバスの処は、主役というよりは、狂言回しの役目とも云えるのだ。注目すべきは話の進め方であり、倫理的啓蒙主議で、説得的なのだ。

ザラストロは民衆の支持を受けて、その歓声に迎えられる中で登場する。しかし、熱弁を振るって民衆を率いるわけではない。静かに、説得するのだ。そのためもあってか、セリフの多いオペラになっている様に感じた。象徴的なのは、合議制で王子・タミーナに試練を受けさせるか否かを決める場面だ。
ひとりが立って「彼は王子だ」との言うと、「それ以前に人間だ」と返す。

また、パミーナから「母に復讐をしないで」と嘆願されると「復讐は考えていない」と応える。モーツァルトは啓蒙・説得・和解の精神をこの大祭司に与え、話を進めてゆく。従って、夜の女王は、挑戦すること無く、復讐に燃え立つ心をもって、地獄に落ちていく。

ドン・ジョバンニ亡き後の人物像は、「ザラストロ」と「夜の女王」に分裂したかの様だ。それでも、そのアリアは個人の怨念を世界への復讐として表現し、愛の心情を切々と唱う娘を超える存在感を示していた。それは、フランス革命以降の革命の姿を無意識の中で予感していたかの様でもある。その中で、モーツァルトは復讐なき、愛の世界を僅かに素描していたのかもしれない。

      
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ドン・ジョバンニ亡き後の人物像~モーツァルト「魔笛」考

2016年01月29日 | 文化
ドン・ジョバンニは地獄に落ちて死んだ。その人物像を継続させることは、モーツァルトにとって、できないはずだ。それを永遠に残すためには、尚更のことだ。では、次の作品は如何なる人物像を描くのか?特に男性像だ。
「魔笛」は傑作との評価を受けている。その要素は認めたとしても、娯楽としてだけではなく、作品として如何なる形でモーツァルトが成熟に向かっていたのか?昨日の国立新劇場では、それを実際のオペラ鑑賞の中で確かめたかった。

印象だけを取りあえずランダムに挙げれば、以下の様になる。
1)主人公がいない
2)セリフが多いー神父と王子の対話、神父が賛否を問う→無主人公に対応
3)道化の進化―対応女性の登場
4)悪女の存在感 アリアに表現
  ・個人の怨念を世界への復讐として表現
  ・心情を切々と唱う娘を超える ジョバンニを女・悪へ転換
5)異端の宗教集団―一般人の支持基盤大きい
  ・神父―復讐はしない 和解へのアプローチ→“バス”(低音)で表現
  ・合議の場面を設定―王子の前に人間 救済する
  ・宗教は世界を支配するのではなく、人間を救済・世界を保護・維持

印象に残るのは、やはり「夜の女王」だ。ドン・ジョバンニと同様に、地獄に落ちて死ぬ。この地獄に落ちるシーンは共に、歌舞伎「義経千本桜」の平知盛が錨を体に巻き付けて海に身を投げるシーンと何処か似ている、というか、想い起こさせる。自らよりも圧倒的に巨大なものに負ける姿を表現しているからだろう。

「夜の女王」のアリアは前半も、後半も圧倒的な迫力で観客に迫る点では、女心を切々と唱い上げるアリアとは、全く別な表現形態になっている。ドン・ジョバンニが女になって、世界に復讐を試みているかのようだ。筆者にとってここが一つのポイントと感じる。

      
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日本における大衆ナショナリズム~日比谷焼打事件から玉音放送へ

2016年01月22日 | 歴史
「二十世紀の大衆の情念を捉えた世俗宗教は、イギリスの政治思想家の碩学、サー・アイザー・バーリンが喝破したように、ナショナリズムに他ならなかった。」
(永井陽之助『二十世紀と共に生きて』「二十世紀の遺産」所収(文藝春秋社)P34)

それは国家から民族、部族へとイデオロギー的に浸透し、今や、イスラム社会においては宗教の会派と分化した部族が入り乱れて存在し、抗争を続ける図式が展開されている。

その意味で、宗教は世俗化し、厳しい戒律が支配するわけではなく、また、宗派間の抗争もなく、形のうえでは単一民族を自他共に認める日本国は、イスラム社会からは遠く離れた存在に見える。

では日本における大衆の情念は如何なる形で発露し、政治社会へどのような影響を与えてきたのだろうか?先ず、大衆ナショナリズムと関係の深い事件について近代史年表から拾ってみよう。

 おかげ参り/えいじゃないか(幕末期)
 日露戦争と日比谷焼打事件(1905)
 第一次世界大戦と対華21ヵ条要求(1915)
 大正デモクラシーにおける普通選挙権(1925)
 太平洋戦争の終戦と玉音放送(1945/8)
 戦後被占領期における2.1ゼネスト(1947/5)
 講和条約と60年安保闘争(1960)
 1955年体制における東京オリンピック(1964/10)
 経済成長と対外経済進出(1970年代)

取りあえず、独断と偏見で「日比谷焼打事件から玉音放送まで」との副題を付けている。即ち、ナショナリズムは高揚し、爆発的運動を展開する場合と、感情の高ぶりを抑えて沈潜する場合とがある。これの近代日本での代表がそれぞれ「日比谷焼打事件」と「玉音放送に感涙する皇居前の人々」なのだ。

沈潜するナショナリズムは、確か吉本隆明が童謡を素材にした「日本のナショナリズム」で論じていたと思う。彼の云う「大衆の原像」とは如何なるもので有ったのか、興味がある。

但し、筆者は「日比谷焼打事件」と「玉音放送」の間に、「大正デモクラシーにおける普通選挙権」を置いてみたい。政治制度史で特筆に値する事案だからだ。おそらく、昭和陸軍の台頭によって歴史の中に埋もれているのが伊藤隆氏の大正期「革新」のように思われるからだ。

当然、新書版も随分と出版されているだろうから、読みながら考えていきたい。

      
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政策形成の方法論、福島復興政策の再検討~澤昭裕氏と齋藤誠教授の一致点

2016年01月19日 | 現代社会
一橋大におけるご自身のHPに掲載された、齋藤教授の「澤昭裕氏の論考」に対する読後感は、澤氏の主張に100%賛成はしないと云いながら、その姿勢に共感して次の様に述べる。

「異なる議論がぶつかり合って,前向きな妥協を積み重ねながら,誰もが根本的なところでは賛成しないが,次善の政策として多くの人々が納得しコンセンサスを形成できるものを見つけ出すことについて,私は,私たちの社会の可能性に,いぜんとして希望を持ちたい。というか,希望を持っている。」
「澤氏の論考にある勇気ある提言は,そうした私の希望が幻でないことを雄弁に語っているのでないだろうか。」

教授は澤氏が亡くなるとは思っていなかったはずだが、不謹慎であることを省みず思い浮かんできたことを言葉にすれば、全く偶然のことで、今となって上記の言葉は澤氏に対する見事な弔辞になっていると感嘆せざるを得ない。

それは教授が澤氏の次の提案に両手を挙げて賛成する処から出てくることだ。
「16年度は根本的な課題について,「全てのタブーなく」議論する時期だ。政治や行政,そして社会がタブーに逃げ込めば,福島で自立しようと考えている人たちの行き場や頼り所がなくなり,復興を遅らせてしまう。」

続けて教授は言う。
「これほど重要な社会課題に対して,すべての人が完全に賛成できるような政策提言など存在しない方が当然だと思う。澤氏と私の間に主張の違いがある方が,政策議論として健全な姿であろう。」

教授の目指す政策論争は何も福島復興政策だけの話ではないことは抽象論として、容易に理解できる。今日、重要な政策であるほど、様々な利害関係者が存在し、そのもつれ合いで現状維持か、あるいは、パイの分け合いによる痛み分けに終わることが多々ある。

そして、その「現状維持によるツケ」あるいは「パイの負担」が将来世代に押し付けられるのが現在の政治社会での最大の問題なのだ。そうは言っても、具体的に何をどうするとなると、様々なしがらみの中で、直ぐに案も出せず、日常性への埋没の中で時間だけが過ぎてゆく。

澤氏が「タブーに挑む」という正面からのアプローチを採ったことは、その意味で具体論を展開する前提条件を明確に指し示したことになる。このことが、教授の琴線に触れたと思われる。

「タブーに挑む」という意味で、澤氏がリスクコミュニケーションのあり方として、「福島=絶対危険」という非科学的な判断を流布させ、不安を募らせることへの批判に、教授は同意すると共に、逆に「福島=安全」を強調することにも違和感を持つことを表明する。

その「福島=安全」を主張する人たちの一部が、時として攻撃的なとさえ見えるような姿勢を示す、との批判的な指摘から読み取れる。この態度は、「福島=絶対危険」の主張をする人たちの政治的イデオロギーに巻き込まれていることを示唆している。

これは、かつて永井陽之助が米国の「反共イデオローグ」を批判した際に、その考え方をアメリカン・イデオロギーと命名したことに良く似ている(『何故アメリカに社会主義はあるか』1966年)。

閑話休題。
教授の態度が優れているのは、そのタブーを避けることなく、正面から取組むことで、澤氏と対峙できる政策論を提起していることだ。そこから更に両者によって展望を切り拓く機会が無くなり、政策形成モデルを創り出す機会も失ったことは痛恨の極みなのだ。その意味で、澤氏の突然の死は、私たち社会にとっても大きな損失と認識すべきことだ。

      
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虚の世界にも生きたサイドミラーとしての知識人~澤昭裕氏の訃報

2016年01月17日 | 文化
朝、起きて一通りの準備の後、いつものようにメール、ツイッタの順で閲覧したら国際環境経済研究所所長の澤昭裕氏の名前で奥様の文章による、ご本人の訃報に接した。
「夫 澤昭裕は1月16日午前2時39分に永眠いたしました。亡くなる2日前に最後の原稿の仕上がりを確認後、緩和ケア病棟に移り家族と友人に看取られ、穏やかに旅立ちました。2月に遺稿となる記事が雑誌に出ます。読んでいただけたら幸いです。」

ツイッタをフォローしていたから当然なのだが、この形での訃報は初めてであり、文面から死を見極めて準備したことが窺われ、終末を迎えることを意識した日頃の活動に関して、しばし考えさせられた。

氏の論考は東日本大震災によって発生した原発問題だけでなく、エネルギー問題、ひいては環境問題を含めて広範囲にわたる。筆者は、その全貌を理解することは困難であることは判っているなかで、少しでも理解を進めようとする姿勢で、氏の論考に接する機会を持つようにしていた。

筆者は車を運転しないが、表題のサイドミラーとは、正面から直視するわけではなく、かといって、バックミラーで後方の注意を怠らない対象でもなく、ちらちらと横目でみて状況を把握するために、閲覧することを比喩している表現だ。
但し、いずれにしても筆者が密かに用いている方法なのだが。

筆者が正面から直視する対象のひとり、経済学の齋藤誠・一橋大教授が2015/12/23付けのツイッタで澤昭裕氏について以下の文を示した。
「「原発事故から5年 福島復興のタブーに挑む」で提示した建設的な課題解決の方向性と,人々がタブー視してあえて語ろうとしなかった重要な政策課題を取り組む勇気ある姿勢に,若干感ずるところがあったので小文を書いた。」

筆者は教授の近著『震災復興の政治経済学』(日本評論社刊行)を是非読もうと、川崎市図書館に借用を登録している。しかし、出遅れて比較的長い行列待ちになっている。
それでも、教授がコメントを付けていることに注目し、以下の論考を読もうと思っていた矢先のことでもあった。
「WEDGE REPORT 2015年12月26-28日」澤昭裕・2016年への提言(前・中・後篇)
福島のタブーに挑む・その1 除染のやり過ぎを改める
福島のタブーに挑む・その2 被ばくデマ・風評被害の根絶
福島のタブーに挑む・その3 賠償の区切りと広域復興

しかし、それ以上に関心を引いたのは、新年明けのブログ(1/4付け)における以下の「私の提言 ―総集編―」である。
「これまでこのブログも含めて、さまざまな場で日本のエネルギー政策に対して私見を述べ続けてきた。積み重ねてきた提言すべてを読んでいただければ、筆者が描いていた一筋の細い道をご理解いただけるかもしれないが、それも難しいであろう。そのためここで改めて、筆者がどのような視点でその時々のテーマを選定し、提言を行ってきたかについて、全体像を整理してお伝えしたいと思う。」

これだけの用意をするとは、自負を持ち、極めて真面目に仕事をこなしていたのだろうと想像する。誰にでもできることではないし、試みようとする人もごく少数に限られるであろう。

ただ、筋書きに描かれたような死に方にネット経由で知ることは、見ず知らずのネット上の読者に対して、死にあたって、メッセージを送るという行為があって初めて成立するものだ。
それは別の面で、“虚の世界”においても生きていると実感した人間によってのみ可能であろう。極めて現代的な、余りにも現代的な知識人の生き様のようにも感じる。

     
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幻想の中の東京大空襲~病床で蘇る母の記憶

2016年01月01日 | 回想
関東大震災(大正12/9/1)と太平洋戦争の末期における東京大空襲は、東京を襲い、多くの住民の命を奪った大災害。前者は自然の力によって、後者は人間の力によってもたらさられた。

筆者の祖母は震災時に東京下町で暮らしており、筆者の母親を身ごもっており、震災の1ヶ月後、10/12に母親を生んだ。
下町は昼時の炊事、木造家屋の倒壊、折からの強風の条件が重なり、大火災となって、祖母は大きなお腹を抱えて逃げ惑ったと云う。周囲の人たちは「逃げられて良かったけど、流産だろう」と話していたと、筆者は母の姉から聞いた。

勿論、母親は関東大震災の体験はないから話さない。
しかし、その年に生まれ、その後、実家は幡ヶ谷近辺に引っ越して、商売の布団屋を続けていたというから、東京に住み続けていたのだ。すると、二十歳前から太平洋戦争は始まり、二十歳過ぎに、米軍空襲の洗礼を受けたことになる。

母親は東京大空襲のことも話すことはなかった、つい最近までは。
しかし、米寿を迎えた頃に、体調を崩し、気持ちの上でも不安定になり、入退院をしばし繰り返した時期だ。午後に見舞いに行くと、少し眠っていた処を起こしたらしく、前の晩は寝付けなかったとのことで、うつらうつらしながら病気の症状を話し始めた。

何がキッカケだったのか?それが戦争当時の話になり、母は空襲のことを想い起こしたらしい。
日時はわからない。今の千代田区九段の辺りに勤務先の事務所があって、空襲で家事になって、火の手が押し寄せてくる。それで、事務所から表に出て逃げた。同じ事務所に勤めていた父(筆者の)が防空頭巾を「これを被って逃げなさい」と云って、くれたと云う。

走りと歩きを繰り返しながら急ぐが、熱気が押し寄せて、お濠に飛び込む人もいたらしい。カーチス・ルメイ将軍が率いる米軍の絨毯爆撃とは、焼夷弾である地帯を囲み、火の海の中で住民が逃げられない様にするとのこと。

市ヶ谷―四谷―新宿と逃げて、京王線の桜上水まで行った。そこには事務所の人たちの疎開先があり、寝泊まりできるようになっており、暫くはそこで暮らしていた。こんな話であった。

病気で衰弱した状態、それも睡眠不足で、半ばうつらうつらの状態であるから、どこまで正確なのか、心許ない点もある。しかし、その経験談の真実は、話の正確さではない。そのなかに潜む経験によってもたらされた“心的ショック”にあるように思われる。

母は俳句を嗜み、素人だが、芭蕉から多くを学び、「奥の細道」を辿ったりもしている。筆者は母の姿と話から、芭蕉の辞世の句と云われる
  「旅に病んで、夢は枯野を駈け巡る」 を何とは無しに思い浮かべた。
芭蕉を真似たのでは無く、芭蕉と同じ様な体調にあることをどこかで感じ、今まで言わずに止めておいたものが蘇って、溢れる様に出てきたのではないか。

これは息子の独りよがりかもしれないが。
それにしても、震災と空襲のなかで生まれ、そして生き抜いた母を思うと、自分自身もまた、運命が少しずれれば…、と不思議さを感じるものだ。

      
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