「二十世紀の大衆の情念を捉えた世俗宗教は、イギリスの政治思想家の碩学、サー・アイザー・バーリンが喝破したように、ナショナリズムに他ならなかった。」
(永井陽之助『二十世紀と共に生きて』「二十世紀の遺産」所収(文藝春秋社)P34)
それは国家から民族、部族へとイデオロギー的に浸透し、今や、イスラム社会においては宗教の会派と分化した部族が入り乱れて存在し、抗争を続ける図式が展開されている。
その意味で、宗教は世俗化し、厳しい戒律が支配するわけではなく、また、宗派間の抗争もなく、形のうえでは単一民族を自他共に認める日本国は、イスラム社会からは遠く離れた存在に見える。
では日本における大衆の情念は如何なる形で発露し、政治社会へどのような影響を与えてきたのだろうか?先ず、大衆ナショナリズムと関係の深い事件について近代史年表から拾ってみよう。
おかげ参り/えいじゃないか(幕末期)
日露戦争と日比谷焼打事件(1905)
第一次世界大戦と対華21ヵ条要求(1915)
大正デモクラシーにおける普通選挙権(1925)
太平洋戦争の終戦と玉音放送(1945/8)
戦後被占領期における2.1ゼネスト(1947/5)
講和条約と60年安保闘争(1960)
1955年体制における東京オリンピック(1964/10)
経済成長と対外経済進出(1970年代)
取りあえず、独断と偏見で「日比谷焼打事件から玉音放送まで」との副題を付けている。即ち、ナショナリズムは高揚し、爆発的運動を展開する場合と、感情の高ぶりを抑えて沈潜する場合とがある。これの近代日本での代表がそれぞれ「日比谷焼打事件」と「玉音放送に感涙する皇居前の人々」なのだ。
沈潜するナショナリズムは、確か吉本隆明が童謡を素材にした「日本のナショナリズム」で論じていたと思う。彼の云う「大衆の原像」とは如何なるもので有ったのか、興味がある。
但し、筆者は「日比谷焼打事件」と「玉音放送」の間に、「大正デモクラシーにおける普通選挙権」を置いてみたい。政治制度史で特筆に値する事案だからだ。おそらく、昭和陸軍の台頭によって歴史の中に埋もれているのが伊藤隆氏の大正期「革新」のように思われるからだ。
当然、新書版も随分と出版されているだろうから、読みながら考えていきたい。
(永井陽之助『二十世紀と共に生きて』「二十世紀の遺産」所収(文藝春秋社)P34)
それは国家から民族、部族へとイデオロギー的に浸透し、今や、イスラム社会においては宗教の会派と分化した部族が入り乱れて存在し、抗争を続ける図式が展開されている。
その意味で、宗教は世俗化し、厳しい戒律が支配するわけではなく、また、宗派間の抗争もなく、形のうえでは単一民族を自他共に認める日本国は、イスラム社会からは遠く離れた存在に見える。
では日本における大衆の情念は如何なる形で発露し、政治社会へどのような影響を与えてきたのだろうか?先ず、大衆ナショナリズムと関係の深い事件について近代史年表から拾ってみよう。
おかげ参り/えいじゃないか(幕末期)
日露戦争と日比谷焼打事件(1905)
第一次世界大戦と対華21ヵ条要求(1915)
大正デモクラシーにおける普通選挙権(1925)
太平洋戦争の終戦と玉音放送(1945/8)
戦後被占領期における2.1ゼネスト(1947/5)
講和条約と60年安保闘争(1960)
1955年体制における東京オリンピック(1964/10)
経済成長と対外経済進出(1970年代)
取りあえず、独断と偏見で「日比谷焼打事件から玉音放送まで」との副題を付けている。即ち、ナショナリズムは高揚し、爆発的運動を展開する場合と、感情の高ぶりを抑えて沈潜する場合とがある。これの近代日本での代表がそれぞれ「日比谷焼打事件」と「玉音放送に感涙する皇居前の人々」なのだ。
沈潜するナショナリズムは、確か吉本隆明が童謡を素材にした「日本のナショナリズム」で論じていたと思う。彼の云う「大衆の原像」とは如何なるもので有ったのか、興味がある。
但し、筆者は「日比谷焼打事件」と「玉音放送」の間に、「大正デモクラシーにおける普通選挙権」を置いてみたい。政治制度史で特筆に値する事案だからだ。おそらく、昭和陸軍の台頭によって歴史の中に埋もれているのが伊藤隆氏の大正期「革新」のように思われるからだ。
当然、新書版も随分と出版されているだろうから、読みながら考えていきたい。