散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

日本における大衆ナショナリズム~日比谷焼打事件から玉音放送へ

2016年01月22日 | 歴史
「二十世紀の大衆の情念を捉えた世俗宗教は、イギリスの政治思想家の碩学、サー・アイザー・バーリンが喝破したように、ナショナリズムに他ならなかった。」
(永井陽之助『二十世紀と共に生きて』「二十世紀の遺産」所収(文藝春秋社)P34)

それは国家から民族、部族へとイデオロギー的に浸透し、今や、イスラム社会においては宗教の会派と分化した部族が入り乱れて存在し、抗争を続ける図式が展開されている。

その意味で、宗教は世俗化し、厳しい戒律が支配するわけではなく、また、宗派間の抗争もなく、形のうえでは単一民族を自他共に認める日本国は、イスラム社会からは遠く離れた存在に見える。

では日本における大衆の情念は如何なる形で発露し、政治社会へどのような影響を与えてきたのだろうか?先ず、大衆ナショナリズムと関係の深い事件について近代史年表から拾ってみよう。

 おかげ参り/えいじゃないか(幕末期)
 日露戦争と日比谷焼打事件(1905)
 第一次世界大戦と対華21ヵ条要求(1915)
 大正デモクラシーにおける普通選挙権(1925)
 太平洋戦争の終戦と玉音放送(1945/8)
 戦後被占領期における2.1ゼネスト(1947/5)
 講和条約と60年安保闘争(1960)
 1955年体制における東京オリンピック(1964/10)
 経済成長と対外経済進出(1970年代)

取りあえず、独断と偏見で「日比谷焼打事件から玉音放送まで」との副題を付けている。即ち、ナショナリズムは高揚し、爆発的運動を展開する場合と、感情の高ぶりを抑えて沈潜する場合とがある。これの近代日本での代表がそれぞれ「日比谷焼打事件」と「玉音放送に感涙する皇居前の人々」なのだ。

沈潜するナショナリズムは、確か吉本隆明が童謡を素材にした「日本のナショナリズム」で論じていたと思う。彼の云う「大衆の原像」とは如何なるもので有ったのか、興味がある。

但し、筆者は「日比谷焼打事件」と「玉音放送」の間に、「大正デモクラシーにおける普通選挙権」を置いてみたい。政治制度史で特筆に値する事案だからだ。おそらく、昭和陸軍の台頭によって歴史の中に埋もれているのが伊藤隆氏の大正期「革新」のように思われるからだ。

当然、新書版も随分と出版されているだろうから、読みながら考えていきたい。

      
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「玉音放送」の意義と「終戦」の意味~象徴天皇制・戦争放棄規定への道

2014年08月24日 | 歴史
日本でのラジオ放送は1925年7月に開始され、受信機の普及と共に、音楽、演芸、スポーツ中継、ドラマなどの多彩なプログラムを提供し、娯楽の主役となった。更に、1941年の太平洋戦争開戦後は、戦局進行と共に大本営の機関と化し、戦況発表及びプロパガンダ番組が終戦まで続いた(Wiki)。

大本営の機関化したラジオ放送による情報の直接的供与と、米軍による空襲の日常化による罹災者の発生は、島国に住む一般国民にとって、戦争に直面するという意味において、これまでにない戦争体験となったはずだ。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」130815』

政府がポツダム宣言を受入れ、無条件降伏することを国民に知らせるのは、本来、首相で良いはずだ。しかし、政府そのものが実質的に崩壊し、天皇が最終の意思決定を行った以上は、国民的納得を得るには天皇をおいて存在しなかった。ラジオというメディアが発達していなければ、天皇の肉声という直接的通知はなく、新聞号外のお知らせになったに違いない。
 『敗戦の日と終戦の日の違い130820』

この記事に書いたように、政府・軍にとって敗戦であることが、天皇を介することによって、「耐えがたきを耐へ、忍びがたきを忍び」という情緒的説得によって、国民に知らせることにより、民間人であり、戦争の被害者であった一般国民は敗戦ではなく、終戦を切実に実感することとなった。

更に、玉音放送は、天皇が日本政府のとって最高の権力者であると共に、国民に対しては“権威者”、ここで権威とは発信者(天皇)のメッセージを受信者(国民)がそのまま受け入れること、として振る舞うことを示した。

ここに、後の日本国憲法における“象徴天皇”の下地が形成されている様に思える。日本は1925年に成人男子による普通選挙が実施され、民主主義の素地があることは確かであった。しかし、天皇の処遇は、旧体制側の国体護持へのこだわりも残って、最大の政治問題として関係者が意識していたはずだ。

玉音放送に対する国民的受諾は、必ずしも天皇の言葉に納得というわけではなく、一つは軍ファシズムからの解放感、もう一つは日常生活に浸透した死の恐怖からの開放感に基づいた感情の様に思われる。

その間の事情を、永井陽之助は『解説 政治的人間』(「政治的人間」所収1968)において、坂口安吾「堕落論」を引用しながら、以下の様に表現する。

「正直なところ、大多数の日本人はホッとしていた。安吾が、「運命に従順な人間の姿は奇妙に美しい」という言葉で表現する様な焼け跡の中で、食べるものは乏しくとも、一種の開放感と、無所有の自由、平等感がそこにはあった。それは永遠の庶民が持つ被治者的安定への回帰から生まれる、やすらぎであった。」

「緒戦の勝利の興奮と陶酔がさめて、戦時経済の重圧と、空襲、強制疎開等の、私生活そのものの戦争化が進行するにつれて、庶民の意識には、一種の無関心、買い溜め、買い漁り、サボタージュの形で終戦はすでに始まっていたからだ」。

この様に、一般庶民が、生活体験から日本政府の降伏を、「敗戦」とは考えずに「終戦」と実感したことは、後の日本国憲法における“戦争放棄”の下地が形成されていたことを示している様に思える。

以上に述べた様に、玉音放送が天皇の権威と戦争に対する庶民意識とを結びつけたとも解釈できる。
また、その後のいわゆる人間宣言のなかで、天皇は五箇条のご誓文を入れたことを、「日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す」との目的と述べており、戦前の政治体制を批判する立場を取り得ることを示唆している。

その後も昭和天皇の姿勢は現天皇に引き継がれ、自民党政権が現憲法を批判し、改憲を狙う立場を鮮明にするなかで、現憲法を擁護し、その明治憲法との連続性を指摘する立場に立つという、非政治的立場にありながら、政治的に極めてユニークな存在になっている。それが、非政治的存在としての権威を纏って存在することもまた、興味深い。

     
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村上泰亮「生涯設計計画」1975年~三木内閣の基本政策案

2014年08月20日 | 歴史
田中内閣は、輿望を担って佐藤政権を引継いだ(72/7)。日中国交回復(72/9)によって政権は出発したが、列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生し、影を差し始めた。
 『成り上り者としての日本1973年140619』

続けて、第四次中等戦争(73/10)による第一次石油危機の勃発により、相次いで発生した便乗値上げ等により、さらにインフレーションが加速、1974年における国内の消費者物価指数が23%上昇、狂乱物価と呼ばれた。

更に、角栄自身の金脈問題によって田中政権は脆くも崩壊した(74/12)。その後を、椎名裁定によって引き継いだ三木武夫は、佐藤栄作までの高度経済成長政策、それに続く、角栄の日本列島改造論に変わる新たなビジョンを提起した。

それは経済学者・村上泰亮を中心に起案した「生涯設計<ライフサイクル>計画」であり、本記事では村上らが執筆した「生涯設計計画」(日経新聞社1975)をもとに、その骨子を紹介する。
次回に、総論を執筆した村上と成熟時間の問題を提起した永井陽之助の「中央公論1975/11月号」誌上での対談を紹介する。

当時、公害だけでなく、人口移動、情報化等の高度経済成長による歪みが、社会に強く意識される一方で、その高度経済成長により、先進工業国家の仲間入りを果たし、米国からは競争相手とみられるようになった。その状況は“ふるさと喪失”と“国際化の波”という言葉で表されていた。
 『イメージギャップの中の日本040614』

一方、世界も転換期にさしかかっていた。
ローマクラブが資源と地球の有限性に着目し、MITのデニス・メドウズらに委託した研究「成長の限界」は1972年に発表され、それは「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしている。

もちろん、ニクソンショック、オイルショックは現実の構造変化の結果であり、恐らく、田中から三木への変化は田中個人の金脈問題を越えて、それらの構造変化に田中は耐えられないとの国民的判断が基盤にあったように推察する。

そこで、「生涯設計計画」の冒頭は「国民はいま転換を求めている」で始まる。それは福祉国家への転換であり、それを生涯の各段階で体系的に保障し、各人が生きがいを追求することを可能にしようとする。

そこで目指す人間像は「強く、安定した、自由な個人」である。
生涯を通じて安定した生活が保障されることにより、各個人が長期的な判断のもとに、社会的連帯を重んじ、正面から課題に立ち向かい、自らの生きがいを追求していうことが期待されている。

その柱として、誰でも、
1)どこでも、いつからでも始められる教育制度
2)努力すれば、家を持てる制度
3)ナショナル・ミニマムを得られる社会保障制度
4)安心して老後を送れる社会

以上を国として満足させるようにし、後は強い個人がそれぞれの目標を追求することになる。但し、この計画に関して、官房副長官を長とした連絡会議が発足したが、目立った成果はなく、三木首相の退陣と共に立ち消えた。

提言である以上、学者を中心とした記載であっても平板であることは免れない。それでも、その時代の雰囲気を反映しながら、個人に立ち戻って、その生涯を貫通する計画を立案したことは、おそらく、日本政府にとって初めてのことと思われる。従って、その意義は大きいと言えるだろう。

…40年後の現在、この計画を読むと、特に奇異なこともなく、当たり前のことを書いてあるように思える。…では、曲がりなりにもこのビジョンは各個人の掌中に収まっているだろうか。そして、社会的連帯は重んじられ、強く、自由な個人として各々が活動しているだろうか。疑問も次々と湧いてくる。

その評価は個々人の問題になるが、当時、二十代であった筆者が生活上において強く意識したのが家を持つことだった。政府の政策に関心を持たない若い世代であっても、自らの家を持つことを意識していた人は多かったと思う。その意味では時代を鋭く捉え、その視野を広げた点で、後世に残る成果物と評価したい。

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民間人を大量殺戮した第二次世界大戦~空爆・核兵器からゲリラ・テロへ

2014年08月16日 | 歴史
昨日の正午を期して戦没者追悼式の合図に合わせて黙祷した。
どこからが始まりか、どの地理範囲かも判らない。日本が引き起こした日中戦争、太平洋戦争を含めた第二次世界大戦(WWⅡ)の民間人を含めた戦没者、特に戦闘状態に巻き込まれて思わぬ死をもたらされた人たちを考えてだ。

過日、母親から聴いた、「東京大空襲において、九段のお濠のあたりから、四谷、新宿を経て、桜上水まで夢中で歩いて逃げた話」は、イメージの“映ろい”はあるが、ある種の凄まじさを感じる。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」~花森安治の創造力130815』

不確かな統計だが、WWⅡで死亡した人数は、日本及び全世界で以下だ。
 戦闘員 212-230万人 戦闘員 22-30百万人
 民間人  50-100万人 民間人 38-55百万人
 (Wiki:第二次世界大戦の犠牲者)

別の資料で歴史的なデータを展開すれば以下になる。
二つの世界大戦はそれ以前、以後の戦争と比較し、戦没者は圧倒的に多い。更に、WWⅡをWWⅠと比べれば、戦闘員で2-3倍、民間人に至っては4-5倍にもなる。

 
WWⅡについて、一つの資料をとって、各国展開をすれば以下の様になる。


ソ連、中国の民間人の戦没者を含めた数の多さは、共産主義革命と、どの程度関連するのか、更に、ポーランドにおける民間人の死者の圧倒的多さは、独ソに挟まれ、その両国に対して、ワイダ監督が執念をこめて描く抵抗運動の激しさを示す象徴なのだろうか。

ここまで死者が多くなったこと、就中、民間人の死者が激増した理由には、次の因子が挙げられるだろう。
1)科学技術の発展による武器の発達(航空機、核兵器…)
2)国を挙げての総戦力戦の様相(リソースの破壊:施設から人へ)
3)ゲリラ・テロ的な手段の導入(非戦闘地域の戦場化)
4)イデオロギーによる“絶対の敵”意識の創出

現代は「核兵器による抑止」を基盤にして、大戦は免れているが、逆にゲリラ・テロ的な手段は世界的に拡散している。政治的イデオロギーだけでなく、ナショナリズムあるいは宗教を掲げた戦いは凄惨を極め、戦闘に関わり合いのない人びとの生活を巻き込んで、容赦なく破壊していく。

そのなかで、原爆・空襲・沖縄等を含めた戦没者追悼式の意義は、益々重要性を帯びていると筆者は感じる。その一方で、「靖国神社問題」は戦前のイデオロギーという克服したはずの問題を内に含んで中途半端に漂っているようだ。

      
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敗戦の日と終戦の日の違い~権力から社会への「情報」の循環

2013年08月20日 | 歴史
8/15は終戦の日と呼ばれる。何故、敗戦の日ではないのだろうか?この疑問は多くの人に共有され、マスメディアでも時に浮上するが、大きな話題になることはない。どこかで抑制が効いている感じだ。これも「空気の支配」なのだろうか。

勝利を祝うことはあっても敗戦を記念する必要はない。これは敗戦の日と呼ばない明快な理由だ。スポーツ大会でも負けたものは単に帰るだけだ。「終戦」は勝者/敗者の共通する事象であるが、問題は勝敗だ。しかし、直接に戦ったのではないが、その中で被害を被ったものたちにとって「終戦」は切実だ。

やっと終わったか!これが玉音放送に対する一般人が感じたことではないか。太平洋戦争末期、東京大空襲を始めとした各地の空襲、一般人が巻き込まれた沖縄上陸戦、広島・長崎への投下、ソ連の参戦、この時期の何かのときに「いつ終わるのか」との思いを抱いたとしても、当然のことだ。

天皇を始め、戦争指導者層はポッツダム宣言の「無条件降伏」が出された時、戦後処理を覚悟したはずだ。この時、近いうちに「敗戦の日」になることは共通の認識になったはずだ。それ故、「一億玉砕」を主張する人間もいたのだ。しかし、それは権力集団内部の戦いで、一般社会からは閉ざされた世界のことだった。

その社会から隔離された権力を、情報経路として再び社会へ開放したのが玉音放送であった。それを聴いた一般人の様相がメディアを通じて権力側にも伝達されたはずだ。ここで天皇と一般国民の間に「情報の循環」が生じる。指導者層、中間層もまた、同じ情報に接したはずだ。

一般国民の圧倒的な支持、何も言わずに黙認という形であるが、これが聴く側の態度だと、権力側は感じたに違いない。サイレントマジョリティという言葉を使うには、この時が一番適切で、後にも先にもこれに及ぶものはないだろう。

後に60年安保闘争の中で当時の岸首相が「後楽園で野球を見ている人」と国会で答弁したが、その象徴性は玉音放送と比べようがなく小さいのだ。

その意味で「終戦の日」を決めたのは一般国民の黙示的反応が基盤にあったからだ。従って、それは決して「敗戦の日」にはならない。召集され戦った人たちも含めて戦後はここから始まるのだ。


      
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日本近代史における歴史家の役割~“終戦の日”の視点から

2013年08月18日 | 歴史
戦前の歴史に関して安部首相は「歴史認識について歴史家に任せるべき」と国会で答弁した。この5月に韓国、中国、更に米国から日本の軍国主義復活に対する警戒感が報道される中で、モグラが首を引っ込める黙殺の態度を示したのだ。

批判に対してまともに反論するわけではなく、いつものように批判を黙殺する態度であった。これを受ける形で、歴史家・加藤陽子氏は8/15の「NHK 視点論点」において、歴史家の役割を次の様に語った。
 
日本の近代史、特に戦争において、
1)歴史家の最も重要な役割の一つは、死者と生者とをつなぐ仲介者にある。
2)戦争の原因と、国家が国民に行った説明が異なることを伝える。

近代史は近い過去であるが故に、亡くなった人と、生きている人間の社会との時間的距離が近い。従って、歴史家は死者と生者とをつなぐ仲介者になれる。「戦没者を追悼する」場合、生きる者の都合によって戦没者の思いを忖度する態度ではなく、多様な戦没者の声の中味それ自体を知ろうとする態度が大切だ。

それには、NHKがネットで提供する「戦争証言アーカイブズ」が最も参考になりそうだ。日本兵だけでなく、開拓団員、従軍看護婦、引揚者、朝鮮半島出身軍属、台湾高砂族、満州国兵等900名以上の人が語っている。
 
以上が1)に相当し、次が2)になる。
ここで1936年の満州事変に関する計画者・石原莞爾がその計画理由を例にとって説明されている。

軍及び在郷軍人会は、満州事変を中国ナショナリズムの昂揚に対する危機感から日本の満蒙権益を擁護するために起こしたと説明する。しかし、事変の計画者の念頭には中国の姿はなく、将来的に予想されるアメリカとの戦争の際の基地、また、ソ連の脅威に対抗するための全満州の軍事占領だけがあったのだ。

現在を捉え、将来を予測する際に、過去の事例と対比しつつ判断をするが、そのファイルは良質で豊かである必要があり、これこそが歴史家の務めだ。

以上の加藤氏の態度は、具体的な日本近代史を踏まえて、有意義な論点・争点を提起するものと考えられる。

      
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京都を再建した山本覚馬~八重の桜の世界

2013年08月14日 | 歴史
ドラマでは八重の兄・山本覚馬が京都を再建した姿が描かれている。山口昌男「「敗者」の精神史」(岩波書店)の表現では、「会津の敗者たちの中でひときわ際だっているのは、山本覚馬の場合である」(P184)。8/11放送の「第32回 兄の見取り図」がそのクライマックスになる。八重はその取組に協力していく。
 
本の中では山本覚馬に始まり、様々な交流関係が広がっていく処が描かれている。「これらはいずれも、薩長の藩閥政府の秩序感覚に慣れ親しんだ感性からは出てこない近代日本の関わり合い方であり、それ故に「敗者」の精神史を貫く糸となるような関係または系譜であると言えるであろう」(P217)。

ドラマの冒頭、京人形の業者たちに、外国への輸出を奨める。日本の人口3500万人全員へ売っても60年間ではいくらになるのか?との問いかけから輸出へと話を進める。これも本に書かれている処だ。

博覧会は東京での開催の前をいき、第1回は明治4年西本願寺、第2回は本願寺、建仁寺、知恩院で行われた。この企画の話もドラマに載せられている。そして物語の中心となる同志社大学創立へと導かれる。新島襄の登場だ。

岩倉具視率いる欧米使節団の通訳として新島は参加している。不平等条約改正を断られた時、木戸孝允と大久保利通が一大使節団の派遣でやり合う場面が設定されているが、単なる政局の口喧嘩の域を出ず、使節団派遣の意味等の深い議論には全く届いていない。

会津の仇役として、描いているだけの様に見え、これではドラマが安っぽくなるだけだ。三島由紀夫であれば、木戸対大久保に岩倉を絡ませて、明治政府の苦しい立場とそれを乗り越えるアプローチでの対立へ昇華させたであろう。あでやかな山川捨松の登場の導入役だけになり、残念なプロットではあった。

今後は覚馬を脇役にして、八重と新島との出会いから結婚へと話は進むであろうが、覚馬は「置き去りにされ負け派の都市と何ら異なることのなかった京都を、ほとんど一私人で立ち直らせ、その後の時代への適応を助けた」「覚馬なくば、京都は学問の府の位置を獲得することなく、陰の薄い第二の奈良というに止まっていたかも知れない」(P194)、重要な仕事をした人物であった。

しかし、NHKドラマは京都を会津と同じく敗者の地として描くことが出来るだろうか。

      

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政治暴力への道を開いた全学連~60年安保闘争の意味

2013年08月06日 | 歴史
昨日の記事で、1957年公開の日露戦争映画から1964年の東京五輪にかけて大衆的ナショナリズムが解放され、では、その間の60年安保闘争の位置づけは?と考えた。丁度、青木昌彦氏の「私の履歴書 人生越境ゲーム」を読んで少し気になる処もあって、改めて全学連と安保闘争の意味合いを考えてみた。
 『初めて旭日旗を見た日露戦争の映画~我が内なるナショナリズム130805』

筆者は大学紛争の世代であるから、小学6年生の時の安保闘争は、似顔絵の得意な友達の清水昆氏を真似た岸信介首相の出っ歯の横顔を覚えている程度だ。従って、筆者の関心は大学紛争の「ゲバ棒・火焔瓶」から内ゲバ・テロ・ゲリラに至る政治暴力との関連の部分である。

大学に入学した時に、学友会はクラス担当委員を決めており、その方がクラスの集まりに来ていた。何を話したのか覚えていないが、その方は「昔、丸山眞男。今、吉本隆明」と言っていた。そこで、吉本の本を読み、全学連ブンドの姫岡怜治の文章を引用し「戦後世代の政治思想」と高く評価していたのを知った。その姫岡が経済学者・青木昌彦であることは、氏がマスコミに顔を出した時に判ったはずだ。

羽田空港首相訪米阻止、国会乱入による死亡者発生等の激しい闘争の後に、安保条約が自然承認され、岸首相は退陣、その後は「経済の季節」へ向かった。これに対する青木氏の評価は「敗北」ではなく、「国のかたちをめぐるゲームのあり方を変えた、即ち、岸流の軍事・経済統制の選択は出来なくなった、その時代へ導く触媒の働きをした」というものだ。

戦前の統制経済を引きずることは出来なくなったのは確かだ。しかし、それは戦後民主主義の成行であった。特に政治機構と社会との間に「権力の循環」が成り立つようになり、世論調査による内閣支持率がマスメディアによって開示され、選挙においても多数党は変わるようになった。

岸首相はデモ隊に囲まれた国会の中で「今も後楽園球場は人でいっぱいだ。多くの声無き声は実は我々を支持している。」に類した発言をした。この後半の部分の発言、“声なき声”が本質を突いている。ここが権力の循環を意味するからだ。そして、更に大切なことは、後楽園にいる人たちが支持しなかったからこそ、岸は退陣したのだ。ブンドが急進的な役割を果たした、その闘争によって、岸が退陣したわけではないのだ。

後楽園いる人たちは「岸内閣と社会党・共産党との対決」による不毛な政治を否定したのだ。当然、全学連の暴力闘争にも反対したのだ。青木氏にはこの認識が欠けている。いや、欠けているというよりも、黙殺しているのだ。そうでなければ、自らの存在を否定することにも成りかねないからだ。

それは、青木氏がいみじくも言っているように、氏の目的が「旧来左翼の言葉だけの前衛党神話を壊す」ことであるからだ。後楽園いる人たちは、前衛党神話などには関心が無い。それはコップの中の嵐だ。世の中の動きはそれを遙かに超える速さで進んでいた。従って、姫岡理論も破産したのは共産党と変わりない。

ブンドの後始末の処で、北小路敏氏が登場したのは象徴的である。何故なら、氏は中核派幹部として大学紛争の時代にも有名であったからだ。かくして、全学連活動のDNAは北小路敏とその回りの人たちを介して大学紛争に引き継がれた。当然、青木氏の活動もそのDNAの形成に貢献しているはずである。

この政治的暴力に関する副作用は強烈であった。無関係の人たちも含めてどれくらいの人たちが死傷したことであろう。青木氏にもその責任の一端は当然ある。しかし、氏は全共闘をよりラディカルと評価しているだけである。おそらく中核派など活動とは区別しているのであろうが、政治暴力に対する感覚の鈍さは気になる処だ。

      
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