散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

川崎市は特別自治市を目指す(3)~住民自治への視線

2022年11月13日 | 地方自治

先の(1)、(2)から時間が経ってしまった。最後に県からの独立に関する課題にして「住民自治」について問題提起する。

30次地制調「大都市制度の改革及び基礎自治体の行政サービス提供体制に関する答申」(2015年6月)では、人口の減少に触れる一方、人々は点在、単身世帯が増大、対人サービスの重要性は益々高まり、指定都市では市役所が大規模化、個々の住民との距離が遠くなる。そこで住民の意思を行政運営に反映することが課題と指摘する。

東京都の場合は都心地区に「特別区(23区)」を設置して、区長、区議会議員を公選としているのは周知の通りだ。また、大阪都構想の場合は、大阪府を解消して特別区設置案まで進んだが、周知の様に府民投票で否決されている。

これに対して川崎市は全7区の中で5区は20~25万人台、2区が15万人程度、合計150万人規模となる。
市案は行政区を据え置き、市庁の内部組織とする。区長は任命(但し、議会同意要)、区議会は設置しない。しかし、これでは制度としての「住民自治」には及ばないと考える。

筆者の私案は特別区として「区長公選」、区議会は設置せず、市議会に「各区特別委員会」を設置して各区選出議員を所属させる。
また、住民の意思を行政運営に反映させるため、区長は会議等で無作為抽出等を用い住民参加を活発化すべきであろう。

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川崎市は特別自治市を目指す(2)~県と市の対話不全

2022年11月04日 | 地方自治

前回(10/24)に引き続く表題。地方制度調査会(地制調)の首相宛答申(第30次:2013年)を紹介しながら川崎市と神奈川県の対応に触れてみる。

先ずは地制調の法的位置づけ(地方制度調査会設置法)を確認する。
(目的) 第1条 この法律は、日本国憲法の基本理念を十分に具現するように現行地方制度に全般的な検討を加えることを目的とする。
(設置及び所掌事務) 第2条 内閣総理大臣の諮問に応じ、前条の目的に従って地方制度に関する重要事項を調査審議するため、内閣府に、地方制度調査会を設置する。
蛇足だが、憲法92条「地方自治の本旨」から95条までが「地方自治」に係る。

30次地制調「大都市制度の改革及び基礎自治体の行政サービス提供体制に関する答申」(2015年6月)では、前文で日本の人口減少に触れる。
平成38年(2026年)には1.2億人を、60年(2068年)には1億人を下回ると。更に集落の数はそれほど減少せず、人々は国土に点在、単身世帯が増大、対人サービスの重要性は益々高まると指摘する。以上から基礎自治体を類型に分けて、課題を論じる。

指定都市制度は「第2 現行の大都市等に係る制度の見直し」で論じられる。
1)その制度は昭和31年(1956年)に創設されたが、以降50年以上、基本的枠組みは変更されていないと指摘する。
2)更にこの間、県と指定都市との間に「二重行政」が顕在化、それらは税配分も含めて指定都市に権限を移すことを指摘する。
3)但し、県側が移譲に懸念を示した事業は両者で協議会を設置すべきとの指摘だ。
4)一方、指定都市では市役所が大規模化、個々の住民との距離が遠くなり、住民の意思を行政運営に反映することが課題と指摘する。

答申から9年が経過、2)、3)を合せて、県と指定都市の間で話は進んだのか?
答申では73項目の事務が指摘されているのだが。

協議会が県と川崎市で設置されたとの話はない。県、横浜、川崎、相模原の四首長懇談会による意見交換程度のことだ。或いは、指定都市市長会・大都市制度実現プロジェクト等での活動に止まっている。
更に4)指摘の住民との距離の問題については基本的枠組の検討はない。

デッドロックの状況を解くカギはどこにあるのか…私たちにできることは?

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母の死:白寿を迎えた後に~自分史余滴(10)

2022年11月03日 | 個人史

十月は母が生まれた月だった(大正12年10月12日)、また、亡くなった月にもなった(令和4(2022年)10月28日)。享年99歳、「白寿」の祝いを終えて間もなくでもあった。更に十月は父の命日(昭和42(1967)年10月22日)でもある。

母の父(祖父)は会津に育ち、結婚後、上京して下町で布団屋を営む。しかし、妻に先立たれ、後妻(祖母)を迎える。そして大正12年9月1日、関東大震災が発生、下町は昼間の地震で出火し、火に包まれる。祖母は大きくなったお腹を抱え、子ども達を連れて逃げ惑ったそうだ。母の直ぐ上の兄(三、四歳?)は、付近の小名木川で船に乗って逃げる際、「足を滑らして行方不明のままであった」と祖母に聞かされた。また、連れられ、毎年の慰霊式に行ったそうだ。

一方、祖母は流産を心配されたそうだが、無事、出産に至る。
秀子と名付けられたが、本人は火が出て生まれた子だから、「火出子=秀子」だと言われたそうだ。この名前の由来には、筆者は江戸っ子の意気地を感じる。

 

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