散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ブログの出発点へ~初心へ戻る

2021年09月13日 | 回想

昨日(2021年9月11日)は、テロ組織アルカイダによる米国での米同時多発テロ事件から20年に当たる日である。その現場での追悼式での祈りは、テレビからも何か心に通じるものを感じた。20年後の筆者の生活は大きく変わることのない日常だが、一瞬にしてあり得ざる出来事に遇い、亡くなった方たちを思うと…黙祷するだけだ。

この事件は本ブログのスタート(2011年5月3日)とも深く関係する。
その後、イラク戦争等を挟み、新たに米大統領となったオバマはテレビで緊急発表する(2011年5月1日夜(日本時間2日午後))。上記テロ事件の首謀者、国際テロ組織アルカイダの最高指導者、ウサマ・ビンラディン容疑者(54)を殺害し、遺体を収容したと。
本ブログはオバマの“正義はなされた”との言葉にテロと同じような衝撃を受け、国際政治も含め、改めてフォローしようとの気持ちで始めた。

その後は地方自治の問題に係わって、ブログを書く時間が無くなる。
最近復活させたが、自分史の校正等で…。今回、米国のアフガン撤退に関して感じた問題が幾つかあり、初心に戻って今後順次書くつもりでいる。

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追悼 山崎正和~戯曲から文明批評まで

2020年08月22日 | 回想
劇作家・評論家で文化勲章受章者の山崎正和が8月19日に亡くなられた(86歳)。

若い頃に社会の見方、そのなかでの自己の位置付けを考えるうえで、その著作を集注的に読んだ方のひとりだ。永井陽之助、山口昌男、江藤淳、吉本隆明…と共に。合掌!

最近ようやく書き上げた「自分史」の中で、氏の著作との出会いを次の様に表現した。

 タイトルに惹かれ、「後白河上皇対清盛」の対決を描く戯曲を読む。大学四年生、その日の実験が一段落つき、図書館で暫しの休息、傍らの新刊雑誌から中央公論を取って目を通したときだ。生い茂る「夏草」のなか、「野望」を賭けたツワモノどもが空しく蠢く様相が頭に浮かぶ。後白河上皇に、どこか現代に通じる冷徹な政治家像を感じる。


  副題「脱産業化の芽生えたときを掲げた60年代同時代史を新鮮な試みと感じる。世相史に載るような断片をコラージュしながら社会全体の流れを構成する。著者の時代認識を基にその方向性を示す。副題がそれにあたる。

 但し、BB世代はほぼ学生時代に対応する。社会にどっぷりと浸かってはいない。関心を持ったのは70年代の自分自身と関係する部分だ。サラリーマンの意識調査で従来の「勤勉型」「実直型」と異なる新しい二つのタイプを挙げる。ひとつは「商業文化適応型」で従来型に対する反逆派だが、従来型と表裏の関係にある。しかし、もう一方の「多趣味開拓型」は前者を超え、最も都会型の意識と評価する。

 更に関連して「60年代は政治学と文化人類学が大衆化した時代」と述べ、永井陽之助、山口昌男をそれぞれの学のスターのひとりとして紹介する。更に、この現象を「…戦前のような哲学の流行はなかったが…物事を根本的に考える態度の芽生え…」と評価する。

 何だ、自分もその型の範疇か?永井政治学ゼミの面々を想い起すが、卒業後は散らばる。しかし、著作が売れているから関心を持っている人も多いはず。世間は広い、仲間も何処にいると考え、改めてカルチュアスクールなどに行く気になる。

「或るベビーブーマーの生活世界~個人・住民・市民」(私家版)
 第9章(3)山崎正和と時代精神~変貌する社会の中で

 今、本棚を見て氏の『このアメリカ』と『アメリカと私』(江藤淳)が並ぶ。
 タイトルの差、正面からアメリカに挑む前者と、私の視点からアメリカと対峙する後者との差が、このふたりの命運を暗示しているように思える。

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口述史の“史”はどこで保証されるか~編集者への些細な疑問

2017年04月11日 | 回想

豪華メンバーの編集による山崎正和氏の口述史(オ-ラルヒストリ-)、「舞台をまわす、舞台がまわる」(御厨他編、中央公論新社2017/3/15)を読んでいる最中の疑問だ。それは山崎の口述の中に永井陽之助を「大学紛争のもうひとりの犠牲者」とする部分があるからだ。

京大経済学部の鎌倉昇を過労で非常に早く亡くなった人(1972/7)と指摘した後で、永井を大学紛争のもうひとりの犠牲者として「永井さんが論文を書かなくなったのは、東工大での一戦のあとです。」と述べる。

過労死と執筆中止とは大きな違いだと考えられるが、山崎は鎌倉の前に、九州大学で自殺した先生も引き合いに出している(鬼頭英一、哲学者、1969年9月没)。ちなみに、永井が亡くなったのは2008/12である。

さて、山崎のいう「ある時期からまったく書かなくなった」との時期は何時を指しているのだろうか。共に中央公論社刊行の書物「柔構造社会と暴力」「多極世界の構造」から確認すれば執筆状況は簡単にわかる。少なくとも東工大紛争の後で、執筆が止まっている形跡は全くない。

先ず、東工大紛争の最中に学長補佐を務めながら「ゲバルトの論理」(69/5)を書いた。他の仕事もこなしながらで、病気で二ヶ月間入院したとのことだ。紛争は7月の警察の学内導入、その後の夏季休暇を経て69年9月から授業を再開し、平常に戻った。

永井の論文は以下のごとく、米国の政治社会、外交政策及び政治暴力と精力的に展開されている。筆者も少人数グループでの講義を受講していたから、この時期は山崎の云う「ある時期」ではない。
「米アジア政策の転換とその政治的背景」(70/1)
「ニクソン外交と内政」(70/5)
「現代社会と政治暴力」(70/8)
「解体するアメリカ」(70/9)

筆者の問題意識は口述史の間主観性だ。
即ち、「口述史」は「回想録」とは異なる。それが「史」であるなら、責任の主体である編集者は「口述」を「史」とする役割を背負っているはずだ。一方、「口述」の主体である語り手は、自己の記録をベースに出来るだけ正確な記憶を呼び戻す責任を負うはずだ。

今回の指摘は些細なことであって、全体の記述に影響を与えるものではないと考える。しかし、口述の性格としてあちこちへ飛び火することはあり得ることで、それが一つの面白みでもある。従って、口述の「史」の部分を正確に記述へ変換するのは簡単ではない部分を含むことを示している。今後、多くの人からの批評に関して注目していきたい。

    
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幻想の中の紙芝居~「語り」と「絵」が引き起こす物語

2017年01月02日 | 回想
小学校へ上がる前は目黒駅から少し離れた処の親戚の家に一家で間借して生活していた。近くに空地があって子どもたちの溜まり場、遊び場になっていた。紙芝居屋のおじさんが来るときがあって、そのときは遊び仲間からひとり離れてその紙芝居を見ないようにした。実は見たくてしかたなかったのだが。

家ではおやつの時間が決められていた、母が買い置きを分け、家で食べるように仕付けられていたのだ。何も買えないから見るわけにはいかない。小銭をもらっての買い食いはさせてもらえない。

おじさんは自転車できて、拍子木を打ち、子どもたちに来たことを気づかせる。もちろん、子どもたちもそれっとばかりに集まる。エビセンのような薄くて軽いせんべい、あんず、ジャム、水飴などを先ずは売る。

この売り買いで即興の“紙芝居劇場”ができあがる。
それは特にうらやましくはなかった。しかし、紙芝居屋のおじさんが空地に来たときは、何も買えないから見るわけにはいかない。遊び仲間からひとり離れて見ないようにした。だが、話は聞える、実は聴き耳は立てていた。

絵を見ていなくても話は面白い。
おじさんが絵の登場人物になりきって、オーバーなセリフ回しで演じながら、ナレーターにもなって話を盛り上げていく。その盛り上げ方がドキドキさせるのだ。ただ、絵を切り替える処はわからないから、その瞬間に何が起こったのかは話が再び始まってからわかるだけだ。

ある時、おじさんが「こっちへおいで」と云ったら、仲間のひとりが「外での買い食いはダメなの」と答えてくれた。親切なおじさんは、「こっちへきて見てもいいよ」と云ってくれた。何しろ、話は面白かったから聞えるだけでなく、集中して聴きたかった。近寄って、後ろの脇から絵を見ながら聴いた。

実際の絵を見ながら話を聴いていると、絵を離れて登場人物の気持ちになって話の盛り上がりについていけるのだ。いま考えると、おじさんの「語り」と「絵」がシンクロナイズして互いに繋がっていく。変わらない「絵」が、変わっていく「話」を支える様に、見る人のイメージを変える働きをして、“物語”へと導くのだ。

家には絵本があって、それはそれで興味を持ったが、イソップ物語みたいなもので、ドキドキするような、あるいは笑い出すような物語性のある内容のものではなかった。漫画はダメで、朝日新聞の「サザエさん」「クリちゃん」しか見ることのできる漫画はなかった。

話の中味は覚えていないが、“正義の味方”が活躍するのがやっぱり面白かった。「黄金バット」が流行っていたらしいので、それも含まれていたかもしれない。おじさんが大きな声で抑揚を作る話し方は、親、幼稚園の先生がときたま話す「お話」の話し方とは全く違っていた。

その後、子どもたちがその年頃になったとき、夜寝る前に絵本を読むことがあった。確か「三びきのやぎのがらがらどん」(福音館)だったと思う。やぎが登場する場面、一番大きなやぎの処で、紙芝居屋のおじさん流に一段と大きな声を張り上げて、「おれだ!おおきいやぎのがらがらどんだ!」と、セリフを怒鳴るようにしたら、キャーと云って喜んでいた。
自分も結構、面白がって何度も試みたのだ。

      
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幻想の中の東京大空襲~病床で蘇る母の記憶

2016年01月01日 | 回想
関東大震災(大正12/9/1)と太平洋戦争の末期における東京大空襲は、東京を襲い、多くの住民の命を奪った大災害。前者は自然の力によって、後者は人間の力によってもたらさられた。

筆者の祖母は震災時に東京下町で暮らしており、筆者の母親を身ごもっており、震災の1ヶ月後、10/12に母親を生んだ。
下町は昼時の炊事、木造家屋の倒壊、折からの強風の条件が重なり、大火災となって、祖母は大きなお腹を抱えて逃げ惑ったと云う。周囲の人たちは「逃げられて良かったけど、流産だろう」と話していたと、筆者は母の姉から聞いた。

勿論、母親は関東大震災の体験はないから話さない。
しかし、その年に生まれ、その後、実家は幡ヶ谷近辺に引っ越して、商売の布団屋を続けていたというから、東京に住み続けていたのだ。すると、二十歳前から太平洋戦争は始まり、二十歳過ぎに、米軍空襲の洗礼を受けたことになる。

母親は東京大空襲のことも話すことはなかった、つい最近までは。
しかし、米寿を迎えた頃に、体調を崩し、気持ちの上でも不安定になり、入退院をしばし繰り返した時期だ。午後に見舞いに行くと、少し眠っていた処を起こしたらしく、前の晩は寝付けなかったとのことで、うつらうつらしながら病気の症状を話し始めた。

何がキッカケだったのか?それが戦争当時の話になり、母は空襲のことを想い起こしたらしい。
日時はわからない。今の千代田区九段の辺りに勤務先の事務所があって、空襲で家事になって、火の手が押し寄せてくる。それで、事務所から表に出て逃げた。同じ事務所に勤めていた父(筆者の)が防空頭巾を「これを被って逃げなさい」と云って、くれたと云う。

走りと歩きを繰り返しながら急ぐが、熱気が押し寄せて、お濠に飛び込む人もいたらしい。カーチス・ルメイ将軍が率いる米軍の絨毯爆撃とは、焼夷弾である地帯を囲み、火の海の中で住民が逃げられない様にするとのこと。

市ヶ谷―四谷―新宿と逃げて、京王線の桜上水まで行った。そこには事務所の人たちの疎開先があり、寝泊まりできるようになっており、暫くはそこで暮らしていた。こんな話であった。

病気で衰弱した状態、それも睡眠不足で、半ばうつらうつらの状態であるから、どこまで正確なのか、心許ない点もある。しかし、その経験談の真実は、話の正確さではない。そのなかに潜む経験によってもたらされた“心的ショック”にあるように思われる。

母は俳句を嗜み、素人だが、芭蕉から多くを学び、「奥の細道」を辿ったりもしている。筆者は母の姿と話から、芭蕉の辞世の句と云われる
  「旅に病んで、夢は枯野を駈け巡る」 を何とは無しに思い浮かべた。
芭蕉を真似たのでは無く、芭蕉と同じ様な体調にあることをどこかで感じ、今まで言わずに止めておいたものが蘇って、溢れる様に出てきたのではないか。

これは息子の独りよがりかもしれないが。
それにしても、震災と空襲のなかで生まれ、そして生き抜いた母を思うと、自分自身もまた、運命が少しずれれば…、と不思議さを感じるものだ。

      
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幻想の中の新宿駅西口~檻の中の子犬たち、自らの鏡として

2015年01月06日 | 回想
新宿ミラノ座が年末に閉館した。
新宿の変貌に付き合っていてもキリがない。しかし、昨年の7月に所用があって新宿辺りまで出掛けた際に、ついでに西口辺りで変わらずに残っている処を写真にでも撮っておこうと思いついて、カメラを持って行った。



思い出横丁はアジア系の外国人の名所になった様で、正面の看板も立派に掲げ、昔の面影は残しながらも、意識的に存在感をアピールしているみたいで、少し違和感を持った。外人観光客もチラホラいて、こちらもカメラを持っていたから同じ様な存在と化してしまったのかと思って、シャッターに手を当てるのに気後れを感じた。
  
横丁を入ると、見慣れた風景の中にも、少しずつ感じが変わっている店屋もあった。大学一年生の終わり頃から三年生の途中まで、帰り道で晩飯をよく食べたツルカメ食堂は時間の関係なのか、閉まっていたのが残念だった。


  
高校性の頃も、思い出横丁の中に入ったが、これは興味本位であって、特に何か食べたわけではない。高校性にはチョット入りにくい雰囲気もあったからだ。酒を飲む年では無かったし…。

それよりも残念だったのは、最初の写真にある「東口近道」へ向けて右へ入り、突き当たった処にあった子犬屋が無くなっていたことだ。


  
今流で云うペットショップと書いてある「清水園」、その向かって右隣の自販機の処に、「川原ケンネル」があったはずだ。自販機を少し右へ行くと、JRガード下の抜け道に続く。ともかく、二軒が並んでいたことは確かだから…左隣だったかも知れない。

この二つの店先に出ているガラス張りの檻の中に、子犬たちが入っていた。可愛いらしいこと夥しいから、休日には、人集りがする。おそらく、子犬と共にこの店を覚えている人は多いのではないか!

しかし、「檻の中の子犬たち」を見ると、奇妙に自分たちの存在を象徴していると、ふと、思うようになった。中学生時代だろう。自意識に目覚めた頃、高度経済成長は軌道に乗り、オリンピックの準備で東京は急激に変貌していた。

檻は「受験競争」を意味していたのかも知れない。
景気の波はあっても、社会全体としては少しずつ豊かになって、前途は明るいと感じられた。その中で、戦後ベビーブーム世代の子ども達を、軌道を外さないように、監視しながら見えない檻の中で育てている。子犬のように!

そして今、ペットと共に暮らす高齢者は、当時の自らの状況をペットに逆照射しているかのようである。

      
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幻想の中の歴史物語史2~55年前の歴史全集が判明

2015年01月03日 | 回想
昨日の続き。記憶を頼りに紹介した歴史全集の全貌(近代日本文学館所蔵)をFB上で教えて頂いた。合わせて全集の写真も送って頂いた。深謝!
それは、少年少女日本歴史小説全集20巻(講談社)であった。
 『幻想の中の歴史物語史~日本武尊から西郷隆盛まで150102』

先ずは、全巻を以下に示し、その後、自分の記憶を検証してみよう。古ぼけた写真は、自分にとって感動的だ!

  
  

少年向けの物語として、主人公を合わせて書いておく。
「熱火の王子」は天皇家の若き王子であったが、名前は思い出せない。また、「蒙古襲来」は蒙古の独り相撲であり、ヒーローは「神風」と云わざるを得ない。それが悲劇の特攻隊に表現され、今でも、世界的に知られているからだ。

     題名       著者    主人公
 全集1 原始少年ヤマヒコ 白木茂著  山彦
 全集2 日本武尊物語 佐藤一英著   日本武尊
 全集3 熱火の王子 中沢巠夫著    中大兄皇子の仲間
 全集4 天平の少年 福田清人著    行基
 全集5 遣唐船物語 高木卓著     吉備真備
 全集6 八幡太郎義家 真鍋呉夫著   源義家
 全集7 少年源為朝 久米元一著    源為朝
 全集8 源氏の若武者 小山勝清著   源義経
 全集9 曽我兄弟 花村奨著      曽我十郎・五郎
 全集10 蒙古きたる 海音寺潮五郎著  「神風」
 全集11 千早城の旗風 太田黒克彦著  楠木正成
 全集12 決戦川中島 松本清張著    武田信玄
 全集13 南海の快男児 野村愛正著   織田信長
 全集14 少年太閤記 吉川英治著    豊臣秀吉
 全集15 風雲関ヶ原 多田裕計著    徳川家康
 全集16 少年天草四郎 南条範夫著   天草四郎
 全集17 少年忠臣蔵 高野正巳著    大石内蔵助
 全集18 幻のオランダ船 那須辰蔵著  高野長英
 全集19 海援隊長坂本竜馬 貴司山治著 坂本竜馬
 全集20 南洲西郷隆盛 田岡典夫著   西郷隆盛

昨日、16冊まで内容を覚えていたことまで書いた。残りの4冊は以下だ。「1原始少年ヤマヒコ」「4天平の少年」「9曽我兄弟」「16少年天草四郎」。
以上の4冊に共通しているのは、青史からは、周辺的事象になっていることだ。

ヤマヒコは神話物語の世界であるから、戦後の時代では歴史から外れる。全冊のなかで、この一冊は読んだ記憶が全く残っていない。思い出せないのだ。

曾我兄弟。日本三大仇討ちの一つとして、舞台芸術の世界には存在するが、単に私的な恨みだ。忠臣蔵は広く大衆的事件であること、加えて、お上の裁きへの抗議を含めて公的な意味をつけているかもしれないが。

天平の少年。社会福祉活動をした僧・行基の話があったことは覚えていた。手元にある山川の学習参考書(詳細日本史研究)を繰って、同じ頃に僧・玄肪、聖武天皇に取り入った悪役として登場、が書いてあり、すっきりと思い出した。

天草四郎、これも蘇った。キリスト教迫害被害者の象徴的存在であるが、歴史的には単なる反乱者だ。日本の宗教史そのものが、歴史の中でどうように位置づけられているのか。戦前の天皇制下での問題なのだろう。

自分が読んだ記憶を想い起こし、印象に残る人物を改めて挙げると、千早城・楠木正成、島原の乱・天草四郎、社会福祉活動・行基、蘭学者・高野長英あたりだ。教科書、本、テレビ等で著名な人物はそれらによって、子どもの頃に読んだ本のイメージがかき消され、
 “覚えてはいるが、印象には残っていない”のだ。
なるほど…そうか。これは自分として大きな発見に思える。

      
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幻想の中の歴史物語史~日本武尊から西郷隆盛まで

2015年01月02日 | 回想
小学生の頃は野球、読書、それにラジオを聴きくことで過ごしていた。
 『幻想の中の野球少年140101』

読書では、昨日の記事の様に「少年探偵団」に導かれ、続いて読んだ少年少女歴史物語全集は何巻だったか覚えていないが、皇国史観のもとに書かれていた。それが表題にもあるように、「日本武尊」から「西郷隆盛」までだ。おそらく、小学4年生の頃に読んだのだろう。
 『幻想の中の読書事始め~ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団150101』

一冊ずつ作者は別で、海音寺潮五郎だけは今でも覚えている。但し、そう思ってググってみても、著作一覧からは、それらしきタイトルは出てこない。代表作は「天と地と」で、上杉謙信の生涯を川中島の戦いまで描き、1960-1962年に『週刊朝日』に連載された。NHK大河ドラマになり、また、映画にもなった。

ただの記憶違いかもしれないが、更に記憶を逞しくすれば、当時の大衆歴史小説家が作者として選ばれていたように思える。できれば、この全集ごと調べてタイトルと作者を明らかにしたいと思っている。

歴史とは、過去のことであるが、それが整理され、過去の中でその意味合いが明らかにされて始めて歴史として広く認識される。従って、古い昔は何があったのか人の記憶からは忘れ去られ、また、資料も散逸して良く判らない。

一方、近い過去は、その意味合いが決められず、あるいは、解釈に立場の違いが表れて、認識が定まり難い。まだ、生存者が残る直近の過去は尚更だ。従って、直近を除き、その間の過去を“歴史領域”と呼んでみる。

従って、「日本武尊」から「西郷隆盛」までが当時、この本を企画した編集者及び作家の“歴史領域”だった。日本武尊の印象は、おそらく、その後に観た映画の印象が強く残り、本の内容は全く覚えていない。一方、西南の役で西郷が敗れ、城山で自害して(別府晋介に)介錯されたことは覚えている。

物語史としての歴史観は、当時、西郷の死を明治維新の完成とみて、そこで終わっている。父親の言葉は、「西郷がやっても勝てなかったから、そこで不平をもつ士族の人たちも諦めたんだよ」であった。そこは今でも、奇妙にも覚えている。

西郷は明治維新の功労者、政府と対立はしたが、岩倉具視が策謀者的に描かれ、取り巻きが反乱を企て、正直者として神輿に乗った人間として描かれている。勿論、徳川側も勝海舟による江戸城明け渡しで身を引いたことでその後の歴史から消えている。そこでは少なくとも悪人はいない。これが『「日本武尊」に象徴される天皇家による統一に始まり、「西郷隆盛」の死によって終結した明治維新により新たに統一された日本』を示す皇国史観の骨格が、鮮やかに残されている。

では、どこまで“小学生時代の本の記憶”が残っているのだろうか。

「日本武尊」の次は「大化の改新」。蘇我入鹿が悪者であり、中大兄皇子、藤原鎌足が倒す。次は、「遣唐使」。阿倍仲麻呂、吉備真備を中心に、帰朝できない悲劇の仲麻呂と政争に巻き込まれる真備。

続いて、源平時代、「東北の蝦夷征伐」、「保元・平治の乱」、「平家物語」。安倍氏、清盛が悪者であり、八幡太郎義家、源為朝、頼朝・義経の活躍と悲劇。

次は、「蒙古襲来」。これも日蓮の映画の印象が残っており、善悪を超えた“神風”の存在が際立っている。

次は、南北朝。「楠木正成と千早城」攻防の話は印象に残っている。南朝の後醍醐天皇側を善として、足利尊氏を悪者にしている。その後の応仁の乱は描かれていなかったように記憶している。物語の中心人物に欠けていたからだろう。

次は、戦国時代。「川中島」は信玄を中心に謙信を配し、「信長・秀吉・家康」はそれぞれ若き時代から描かれ、3冊あったはずだ。

続いて、江戸時代。「忠臣蔵」は吉良が悪者、「解体新書」は高野長英が主役で、大塩平八郎の乱があり、水野忠邦が悪者だ。

そして、「海援隊長・坂本龍馬」は題名を覚えている。海援隊長が珍しく聞こえたからだろう。最後の「西郷隆盛」になる。

以上、少なくとも16冊は覚えているようだ。それぞれ主人公がいる物語であって、結局、それが歴史を覚えるキーとなる。結局、その後の日本史も時代的な概念は理解していたから判り易く、世界史、地理、政経・倫社の社会科にも関心を持ったのはこの歴史全集のおかげだろう。

しかし、物語は単に「面白い話」という以上ではなく、その点、真田十勇士の猿飛佐助、霧隠才蔵の話と変わりない。皇国史観もイデオロギーではなく、物語として受け止めたのが一般的ではないだろうか。逆に言えば、それだけ、影響が広い。NHK大河ドラマも同じだろう。

      
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幻想の中の読書事始め~ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団

2015年01月01日 | 回想
小学生の3年生の頃だったと思う。
父親と一緒に初台通りの商店街にある、いつもの本屋さん「錦秀堂」に行ったことがある。本を読むことは、絵本から始まってそれまでにもあったと思う。一方、父親は読書のクセをつける時期だと考えたのだ。おそらく…。

錦秀堂さんでは、親父さんが店番をしていて、息子さんは頼まれた本、あるいは定期的に購入される雑誌、刊行物などを配達していた。

下の写真が店構えで、造りはそのままだが、今はお米屋だ。正面のガラス戸に「○×米店」と書かれ、商品もコメ関連だ。しかし、写真の軒の横に、紛れもなく、「本」と書かれている。この軒は変えずに、店の中だけ品物を変えただけだ。昔の錦秀堂は廃業したが、店自身は続いていて、何かホッとした気分になった。


 
ここは交差点の角になり、写真右側の道路は、右へ京王線・初台駅から国立第2劇場に、左へ環状6号線の代々木八幡駅陸橋の手前に通じる。一方、それに横断する道路は、左へ環状6号線に、右へ母校・幡代小学校に通じる。

国立第2劇場へは、偶にオペラを観に行く。
そのとき、時間を少し繰り上げて初台駅に行き、その付近を、あるいは幡ヶ谷駅へ行って、初台へ戻りがてら、勝手知ったる小道、横道を通り抜けてゆく。何か同級生に出会うような錯覚を誘う冒険をしている感覚で、自分のテーマにした「散歩から探検へ」を楽しむのだ。

話を戻して、自分としてはマンガを読みたいと思っていたのだ、その頃は…。しかし、家にはマンガを置いていなかった、まあ、禁止されていたようなものだ。父親は少年文庫、少年少女文学全集の中から選ぶことを期待していたのかも知れない。しかし、錦秀堂の親父さんが進めてくれたのは、何と、江戸川乱歩「少年探偵団シリーズ」だった。

自分には予想外であったが、渡りに船と内心は大喜びでもあった。
当時も今も、「少年少女純文学」という枠組はないと思うが、あえて云うなら、少年探偵団は「少年少女大衆文学」に属していたとも云える。即ち、赤胴鈴之助、まぼろし探偵、月光仮面などのマンガ寄りの読み物とみなされていたようだ。

ラジオ、テレビでも番組として放送されていたが、ラジオを聴いた記憶は残っていない。しかし、「ぼ、ぼ、ぼ…」との出だしで始まる主題歌はリズムがあって、友達と一緒に口ずさんでいたことは確かだ。そこで、少年少女大衆に親しまれることになったのだと思う。読んでいるか否かは次の問題なのだ。
 
そのときは、既に全集として揃っていたはずだから、「怪人二十面相」から始まって、読んだ後に次から次へと続編を、その場でツケにして買って、読んでいたのだ。何巻あったのか、覚えていないが、確かに読書のクセは付いたと思う。



写真は我が家にあるポプラ社刊行の全集(全26巻)である。当時は他の出版社から出版されていたように思う。何故、買ったのか、子どもたちに読書のクセをつけいと、自分が考えたからだ。だから、これは自分のものではなく、子どもたちのものだ。しかし、買ったときは自分も読んでみようと思っていた。

今では、仕事も辞め、ブログも書かなくなった後の楽しみとして読むのはとっておこうと考えている。

      
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靖国神社問題と「ビルマの竪琴」~弔いの意味

2014年03月02日 | 回想
安倍首相の靖国参拝は依然としてどこかで燻り続ける問題だ。
国の為に死んだ人を慰霊するという言葉から直ぐに想い起こすのは、ビルマ戦線で死んだ兵士達、誰とも判らない兵士達の遺骸を弔うために、僧侶となり、ビルマに残った水島上等兵の話だ。

小学生のとき、NHKラジオ日曜名作座で聞いた「ビルマの竪琴」、“オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ”というインコ(加藤道子)の叫びは強く印象に残っている。

日曜名作座は1957年4月から始まったという。3年生のときだ。聴いたのは3,4年生のときの様に思う。父母、兄と一家4人で何回続いたのか判らないが、毎回楽しみにしていた記憶がある。そのテーマ音楽も鮮やかに蘇る。

翻って、楽しみの根源は、僧侶が水島なのか否か、という探偵的な興味が大きかったように思う。物語の帰趨からすれば、関係の無い人間が出て来るわけでもなく、水島のはずである。では、何故、単純に名乗り出ないのか?謎が大きくなるわけだ。丁度、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに親しみ始めた頃だから、作者を探偵小説作家と考えたようだ。その後も原作は読んでいない。


 
話に戻って、クライマックス。部隊が日本へ帰還する前日、収容所の柵の外に姿を現した僧侶に対し、仲間が一緒に日本に帰ろうとの思いを込め必死に「埴生の宿」を歌う。遂に僧侶は竪琴を取り上げて「仰げば尊とし」を奏で、“今こそ分かれ目~、いざさらぁ~ば”を残して、別れを告げる。
翌日、部隊に1羽のインコと封書が届く。インコは“アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ”と叫ぶ。これで、一先ず安心になり、「水島の手紙」は船中で隊長によって隊員へ読まれる。

しかし、「仰げば尊とし」の印象を残した「手紙」の内容は、その時の筆者にとっては、衝撃的であった。
ビルマ僧の姿で隊へ戻ろうとする水島は、無数の日本兵の死体を目にする。打ち捨てられた遺体の山に衝撃を受けた水島は、それらの霊を葬らずに自分が帰国することは許されないと考え、遺体がある限り、留まる決意をし、僧侶となる。

何ものも生み出さず、ただ、毎日、同じ様に遺体を葬る作業をする。いつ、終わるかも判らずに、一生続けるのか。その決意をしたことが衝撃的であった。それは自らの生涯を見てしまうと言う意味で、深い穴へ吸い込まれる様な感覚を与えるものだ。

しかし、弔うということは、「その時の、その場の決断」それ自身なのだ。それを外した後は単に儀礼の弔いが残るだけだ。そうであれば、戦没者を弔うことは、いつ、いかなる場でも可能になる。靖国であっても、千鳥ヶ淵であっても、あるいは別の場所でも良い。

      
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