これは、「お前がバカなんだよ」とひとこと言われて終わるような話だ。
小学校の3,4年生、1957年頃だと思う。ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、映画『明治天皇と日露大戦争』が大ヒットした年である。高度経済成長に突入したと言っても、その恩恵は未だあまり肌で感じられない頃であっただろう。
『初めて旭日旗を見た日露戦争の映画~我が内なるナショナリズム130805』
それでも、適当に親から小遣いを貰っている子どもたちも増えていたと思う。小学校の校門の直ぐ近くに商売道具の箱をもって、ゴザを敷き、その上に座って店を広げて、子ども相手に商売を始める男が訪れた。
何の商売か?
「粘度」を「型」(建築物、動物、ヒーロー等)に押し付け色々な形を作り、その粘度に色彩を付け、作品とする一連の作業から収益を得る商売だ。従って、「粘土」「型」「色粉」を売るのが主であるが、その回転を速め、また、購買意欲をそそるために、作品の品評を行い、回転を速くするのがミソである。
そこに登場するのが、ビットコインならぬ“点数券”である。ここまで説明すれば、どんな商売だか、大凡の見当は付くと思う。作品に点数を付け、それを金券として制作者に渡す。作品(粘土)は販売者が回収する仕組みである。
子どもにとっては、その“点数券”が遊びの資金となり、高い点数を取るために、作品の制作に集中されるようになる。作品は店先に展示されるから高い点数を取った作品を制作した子どもは注目され、その制作過程は他の子どもの見学の対象となる。それは、その子どもにとって名誉価値を生み出すのだ!
子どもを作品制作に集中させ、それを名誉価値の創造へ結びつけたことこそ、そのインチキ商売の工夫と社会への貢献があったのだ!
当時、高度経済成長が始まり、技術者人材育成の必要性も教育界の話題になっていたとしても不思議ではない。それと共に社会全般に教育熱が高まり、受験競争なる言葉もマスメディアを介して話題になっていたかもしれない。その中で、子どもを評価する親や世間の眼も一元化されていく状況もあったかに見える。
その中で、子どもの創造性を刺激する商売が忽然として目の前に現れ、小遣いの範囲内において出来るという場が設定されたとすれば、その理屈はともかく、その遊びに惹かれる子どもも多くいたことは理解できる。
現代のビットコインはそのような創造性を刺激するものは何も含まれない。受験競争は金融の世界においてマネー獲得の名誉価値を作り出したかのように見える。コンピュータの画面に現れたマネーの桁数に自己満足を得るまでに、人間の自我に経済的価値観が浸透しているのだ。
さて、当時の世界に戻ろう。
その商売の初期には「粘土」「型」「色粉」は売れた。その後、点数制度の中で商売が安定してくると、点数券を使うリピーターからの売上げは少なくなり、新規参加者の増加に売上げは依存する。しかし、その小学校の周辺がせいぜいであって、基本的には閉鎖的空間である。
そこで使われる手法は点数券の販売である。少しおまけを付けて、金と点数券を交換するのだ。作品の名誉価値は点数によって表現されるから、それは容易に点数そのものに転化される。特に名誉価値を得た子どもほどその傾向は強くなる。閉鎖的空間の中では、点数券の方が現ナマよりも価値が高くなるのだ。
そこで作品を介さずに、現ナマと点数券の交換が起こる。こうなると、その男は「ハーメルンの笛吹き男」(阿部謹也(ちくま文庫))の様に見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/98/8bff5f1143db611d9323a4166eaaf29c.jpg)
しかし、それが最終的な仕事だったのだろう。毎日とはいかないが、適時、商売に来ていたその男は、或る日、パッタリと来なくなった。子どもにとって、大量の不良債権が手元に残されるわけだ。しかし、子どもは現在に生きる存在だ。名誉価値が得られなくなった以上は、作品制作の意欲は消え、他に関心が移るだけだ。親に言えば、冒頭の言葉が返ってくるだけのことは判っているのだ。
小学校の3,4年生、1957年頃だと思う。ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、映画『明治天皇と日露大戦争』が大ヒットした年である。高度経済成長に突入したと言っても、その恩恵は未だあまり肌で感じられない頃であっただろう。
『初めて旭日旗を見た日露戦争の映画~我が内なるナショナリズム130805』
それでも、適当に親から小遣いを貰っている子どもたちも増えていたと思う。小学校の校門の直ぐ近くに商売道具の箱をもって、ゴザを敷き、その上に座って店を広げて、子ども相手に商売を始める男が訪れた。
何の商売か?
「粘度」を「型」(建築物、動物、ヒーロー等)に押し付け色々な形を作り、その粘度に色彩を付け、作品とする一連の作業から収益を得る商売だ。従って、「粘土」「型」「色粉」を売るのが主であるが、その回転を速め、また、購買意欲をそそるために、作品の品評を行い、回転を速くするのがミソである。
そこに登場するのが、ビットコインならぬ“点数券”である。ここまで説明すれば、どんな商売だか、大凡の見当は付くと思う。作品に点数を付け、それを金券として制作者に渡す。作品(粘土)は販売者が回収する仕組みである。
子どもにとっては、その“点数券”が遊びの資金となり、高い点数を取るために、作品の制作に集中されるようになる。作品は店先に展示されるから高い点数を取った作品を制作した子どもは注目され、その制作過程は他の子どもの見学の対象となる。それは、その子どもにとって名誉価値を生み出すのだ!
子どもを作品制作に集中させ、それを名誉価値の創造へ結びつけたことこそ、そのインチキ商売の工夫と社会への貢献があったのだ!
当時、高度経済成長が始まり、技術者人材育成の必要性も教育界の話題になっていたとしても不思議ではない。それと共に社会全般に教育熱が高まり、受験競争なる言葉もマスメディアを介して話題になっていたかもしれない。その中で、子どもを評価する親や世間の眼も一元化されていく状況もあったかに見える。
その中で、子どもの創造性を刺激する商売が忽然として目の前に現れ、小遣いの範囲内において出来るという場が設定されたとすれば、その理屈はともかく、その遊びに惹かれる子どもも多くいたことは理解できる。
現代のビットコインはそのような創造性を刺激するものは何も含まれない。受験競争は金融の世界においてマネー獲得の名誉価値を作り出したかのように見える。コンピュータの画面に現れたマネーの桁数に自己満足を得るまでに、人間の自我に経済的価値観が浸透しているのだ。
さて、当時の世界に戻ろう。
その商売の初期には「粘土」「型」「色粉」は売れた。その後、点数制度の中で商売が安定してくると、点数券を使うリピーターからの売上げは少なくなり、新規参加者の増加に売上げは依存する。しかし、その小学校の周辺がせいぜいであって、基本的には閉鎖的空間である。
そこで使われる手法は点数券の販売である。少しおまけを付けて、金と点数券を交換するのだ。作品の名誉価値は点数によって表現されるから、それは容易に点数そのものに転化される。特に名誉価値を得た子どもほどその傾向は強くなる。閉鎖的空間の中では、点数券の方が現ナマよりも価値が高くなるのだ。
そこで作品を介さずに、現ナマと点数券の交換が起こる。こうなると、その男は「ハーメルンの笛吹き男」(阿部謹也(ちくま文庫))の様に見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/98/8bff5f1143db611d9323a4166eaaf29c.jpg)
しかし、それが最終的な仕事だったのだろう。毎日とはいかないが、適時、商売に来ていたその男は、或る日、パッタリと来なくなった。子どもにとって、大量の不良債権が手元に残されるわけだ。しかし、子どもは現在に生きる存在だ。名誉価値が得られなくなった以上は、作品制作の意欲は消え、他に関心が移るだけだ。親に言えば、冒頭の言葉が返ってくるだけのことは判っているのだ。