散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

精神疾患を生きる~素敵な共同体

2023年06月16日 | 文化

昨日(15日)、久しぶりに映画を観た。「川崎市アートセンター」は川崎市の岩波ホール的な存在、『アダマン号に乗って』は「ぼくの好きな先生」「人生、ただいま修行中」などで知られるドキュメンタリーの巨匠ニコラ・フィリベール(仏)が見出だし、表現へと導いた、奇跡のような共同体が描かれた感動的な作品(2022年作)だ。

パリのセーヌ川右岸に係留されている船アダマン号は、精神疾患のある人々のためのデイケアセンターだ。ここでは仕事をする人も、お客さんも、みんながそれぞれの役割を果たしながら、ともにふれあい、喜びを分かち合う。23年ベルリン国際映画祭・金熊賞(最高賞)を受賞した。

因みに「adamant」とは、英語で「断固とした」「頑固な」という意味を持つ形容詞だ。

「ぼくの好きな先生」「人生、ただいま修行中」などで知られるフランスのドキュメンタリー監督ニコラ・フィリベールが、パリのセーヌ川に浮かぶデイケアセンターの船「アダマン号」にカメラを向けたドキュメンタリー、2時間の大作。

パリの中心地・セーヌ川に浮かぶ木造建築の船「アダマン号」は、精神疾患のある人々を迎え入れ、文化活動を通じて彼らの支えとなる時間と空間を提供し、社会と再びつながりを持てるようサポートしている、ユニークなデイケアセンターだ。

そこでは自主性が重んじられ、絵画や音楽、詩などを通じて自らを表現することで患者たちは癒しを見いだしていく。そして、そこで働く看護師や職員らは、患者たちに寄り添い続ける。誰にとっても生き生きと魅力的なアダマン号という場所と、そこにやってくる人々の姿をカメラワークで捉えている。

観客は30名程度であっただろうか、その一人として筆者は映画の中での会話、やりとり等を理解できなかった。会話が進んでいる感じがしなかったからだ。繰り返し、言い直し、聞き違い…何を話しているのか。2時間の大作、最初の30分から45分あたりまでは、同じことが続くのか…との思いだった。

しかし、その後、そんな遣り取りに意味がありそうだと気が付くようになった。各人が何かに関心を持ち、それに拘り、それを周りの人たちが理解すると、喜びの表情を表すこと等、理解しながら観るようになる。バライティに富んだ精神疾患の人たち、その人たちを理解しながらサポート活動をする人たち。その世界が描かれている。壮大な世界が!観ながらそう感じとれたのは90分を過ぎた頃か?とんでもなく見事な作品だと坐り直したはずだ。ところが、暫く熱中した頃には眠りに落ちたらしい…。気が付けば、ラストシーンで俳優名が…、慌てたわけではないが、席を立つ。

この記事を書いている今も…奇跡のような共同体の豊かさを始めて感じとれたと。

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憲法25条における「文化」の意義~『生活保護制度』の問題点(2)

2020年08月06日 | 文化


重冨たつや議員(川崎市議会)主宰、市民参加可能な研究会(6月)の続きになる。
筆者が見出した以下の問題点の二番目について述べる。

1)生活保護との表現が意味する処→個人の活動領域(=生活)全体を監理する
2)憲法25条における「文化」とは→生存権の中での位置
3)捕択率(保護世帯数/保護水準以下の世帯数)が低い(~15%)→何故?

生活保護法の最初は憲法25条から始まることは周知だ。
生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務〕
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

そして、幾つかの訴訟が最高裁まで進み、生存権に関する判断が下されている。しかし、「文化的」とは何かについて議論された様子はみられない。

憲法のなかで他に「文化」と書かれた箇所を探してみたがなかった。法律・政治の世界では文化は無縁なのだろう。そこで「日本国憲法25条、文化的」でネット検索した処、最初の画面に以下の研究の「レジメ」が記載されていた。

「日本国憲法第25条「文化」概念の研究 ―文化権(cultural right)との関連性―」
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2017/6187.html

そのレジメの中で、特に「文化権」の概念及び「憲法成立過程の議論」が生活保護の内容の再定義を迫るものに感じた。特に後者において、その研究で著者は以下のように述べる。

憲法第25条第1項はGHQ案には存在せず、国会審議の過程で社会党提案によって挿入された。日本国憲法成立過程では、憲法第25条に限らず「文化」が論じられる場面が多々あり、その中でも頻繁に用いられたのは「文化国家」論であり、“附帯決議”でも言及された。

憲法25条第1項への挿入の立役者は森戸辰男と鈴木義男だ。彼らは生存をつなぐのに留まらない生活を表現するのに「文化」という文言を用いていた。特に鈴木は「人格的生存権」を提唱し、単なる生存とは明確に区別する立場をとる。

大正期に広まった「文化」概念は文化主義論争等の議論を通じて、人間のよりよい生の実現を目指す理念として、生活と結びついてその理想を語るものとして用いられた。日本国憲法第25条は、生存維持を保障される権利と、文化的生活を保障される権利を一体として生存権として保障すべきという回答を出したと言える。
しかし制定後の学説・判例において、第25条第1項は単なる経済的な生存維持に矮小化していった。その遠因として、生存権と生活権の区別の不徹底が挙げられる。

著者の結論は見事であり、大きな問題的だと筆者は考える。
また、著者は文化権の視点から議論を進めており、法律学者の対応も求められる。

以上の議論を踏まえ、その再定義として例えば、文化的生活の基盤として「平日と休日」の区別、文化人類学的な「ハレ」と「ケ」の循環、具体的には地域における展覧会、音楽会、美術展、遊園地等の休日券配布を考え、また、本人の研鑚、子弟の教育等の援助等の必要制をと筆者は考える。





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オペラ・蝶々夫人~一直線の対立のない悲劇

2017年02月04日 | 文化
第二幕の有名なアリア「ある晴れた日に」から劇は悲劇に向かって急激に流れ出す。蝶々さんが結末の自害の場面で使う短刀は武士であった父の形見で、「恥を忍びて生くるなら、名誉と共に果つるべし」と銘打たれている。ここで、蝶々さんがピンカートンへ話した劇の冒頭に繋がる。それは一直線の悲劇なのだ。

第一幕から三年の月日が流れるが、その間は蝶々さんが悲しみにくれて待っているだけの時間になる。一方、ピンカートンは自分が忘れられているかも、と考えている。両者のすれ違いがあるだけで劇的なものは何もない。

第二幕では、蝶々さんを支えるスズキの存在感を大きくし、その後に出てくる子どもの三人でのやり取りのなかで、蝶々さんができるピンカートンとの和解へと話を進める。それは、子どもをピンカートンに引渡し、自分はピンカートンへの失望ではなく、子どもの将来のために死ぬこと、それが運命的であることを強く示すことになる。その急激な盛り上がりの中で、観客は、その運命の悲劇性に感動し、結末を迎える。

プッチーニが「この劇は終末に向かって解釈抜きに、何も介させず、恐怖の効力を失わないままに疾走しなければならない」と書いたそうだが、それはこの物語の本質を見抜いた言葉だ。第一幕の部分でも、最後の蝶々さんとピンカートンとの愛の二重唱のあたりは盛り上がるが、全体的には冗長性を感じるほどだから。

しかし、劇と云えば対立的要素を含むのだが、この話は、その面白さではなく、愛の誤解が招いた若き女性の悲劇だけに焦点を充てる。従って、登場人物はすべて、物語を引き立たせる役割を背負っているだけだ。すると、他の設定、父親が武士として自害、蝶々さんのキリスト教への改宗・親戚の離反、さらには子どもの存在、もまた、悲劇性を高めるものとして使われていることが良く判る。

新国立劇場での公演を一昨日(2017/2/2)の夜に観たのだが、3等の2階袖席は見やすくできており、充分に楽しめた。冬場で寒くなければ、周辺を散歩したい処だったが…今回は無理せずに新宿西口地下で食事をして、そのまま京王新線に乗った。

家人にぜひ観たいと言われていたので、特に、話に関心はなかったが、音楽性には触れておきたいので、タイミングとしては良かった。

振り返ると、無理して作った話にはなるが、それを支えるのはオペラという大掛かりな音楽劇で、鍛え上げた歌唱とオーケストラとのコラボという芸術性ということになる。

その意味で蝶々夫人役の新国立劇場オペラ研修所出身(第3期生(2000?03年)) 安藤赴美子は、簡素な日本的舞台設定の中で日本女性の心情を見事に表現していた。特に感情がこもる場面での歌唱は、やや音声が細くなるような気もするが、それが却って日本的なるものを感じさせるのかもしれない。

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リズム中心の現代的弦楽合奏~「MUZA」ニューイヤーコンサート

2017年01月03日 | 文化
地元川崎市のミューザには、正月連休で、時間があるときに行くことが多い。連休はどうしても机に向かって文章をパソコンに打ち込んで作成しているか、本を読んでいるときが多い。そこで頭を休めるために、劇場で音楽に浸ることも良いのかな、と思っている。ふたり連れで私は誘われるほうだ。
普段、ほとんど出向かないのは、ミューザの中途半端さによるのだろう。

川崎市のいわゆるハコモノであり、市が100%出資する法人が指定管理者として運営している実質市営の存在だ。業務委託金は年間5億円程度、そのうえ、市職員の天下り先にもなっている。そんなこともあってか、建物の造りも劇場の感じがしない。雰囲気がまるでないのだ。

午後2時に開演、3時半頃に終演になったが、前後の時間帯の川崎駅周辺は混雑していた。しかし、それはミューザとの行き来のためではなく、川崎大師との行き返り、あるいは買物客のようだった。ミューザの館内は比較的空いていて、2階は半分程度、3階はほとんど空席であった。

今回は新年の恒例の催し物、東京交響楽団室内合奏団(第1バイオリン5名、第2バイオリン5名、ヴィオラ4名、チェロ4名、コントラバス2名)、コンサートマスター、ゲレフ・ニキティン(1964年、ロシア生まれ、バイオリン)による演奏会だ。ニキティン氏自身もバイオリンを演奏し、挨拶、合間の話は、少し片言が混ざった日本語を使って、内容も面白い。

エルガー「スペインの貴婦人」に始まり、続いて、ピアソラ「ブエノスアイレスの四季」。編曲されて、かつ、ヴィヴァルディ「四季」を引用して曲に織り込んでいるという。しかし、聴いていても、わからず、最後にバイオリンで冒頭の部分が弾かれて、誰でもわかる、その部分だけがわかった。それでも会場は拍手で包まれた。

出だしの「夏」は歯切れ良く、次の「秋」は鋭い響きで始まる。現代的にリズムをとる弦楽合奏は始めて聴くのだが、素人にものりやすい演奏だ。「冬」でけだるくなり、居眠りの時間であったが、続く最後の「春」は小気味よく、スッキリと目が覚めて体もリズムをとった。

後半は、チャイコフスキー「フィレンツェの想い出」、第一楽章~第四楽章と続くが、流石に全てを聴くことはできない。それぞれの楽章の終わりで目を覚まし、次の楽章は始めの部分を楽しむが、睡魔には勝てない。アンコールの「ワルツ」は聞き慣れた曲で調子に乗ってフィナーレを迎えることができた。



     
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「カルメン」、舞踊的表現~アントニオ・ガデス舞踊団公演

2016年09月19日 | 文化
曇り空、時たま雨が降る中、お祭りで賑わう渋谷。カルメンを芸術的に味わうには悪くない雰囲気だ。随分と昔に見た映画「血の婚礼」のことを覚えている。

スローモーションでのラスト・決闘シーン、舞踊表現とはこういうものか、と圧倒された。それは、フラメンコ独特の靴音のリズム・サパテアードとの対照の妙をも感じさせた。ある面からみれば、歌舞伎の見得にも通じるものかとも思った。

「カルメン」でも生きていたが、それと共に力強いフラメンコ、男の体はしなり、女の柔らかで、強い自己表出は靴音のリズムと共に高揚感と緊張感を生み出す。ガデスの真骨頂と思わされた。



ナタリー・ステージから転載)

その単純な物語はオペラで知り、更に歌手が唄いあげる詩の中に、カルメンのイメージはいわば膠着されている。ハバネラのテープが流れるなかでの踊りは、先ずオペラを想い起させる。これはしかたのないことだ。

しかし、踊り手のエスメラエルダ・マンサーナスの表現に見入っていると直ぐに、それは新たなカルメンのイメージになる。言葉で表現しようとすれば、オペラも踊りも同じかも知れない。しかし、感じ方は異なり、それも次の瞬間は変わっていく。ほとばしる情熱!生粋の愛!生々しい情念!何とも言えないのだ。

見ているうちに、女性の踊りの中に、インドネシア・バリ島のケチャックダンスでの、若き女性のしなやかな体の動きによるゆっくりとした表現を想い出した。内にこもる情熱・愛・情念を表現しているのではないか…それは「チャ・チャ・チャ…」というリズムに乗っていた。カルメンもまた、靴音と手拍子に乗っている様に!

アントニオ・ガデスは、スペイン内戦が勃発した1936年、バレンシア州に生まれ、十代で巨匠ピラール・ロペスに見出され、瞬く間に舞踊界のスターとなり、フラメンコ舞踊を一地方の民族舞踊から、世界の舞台芸術に創り変えた。

2004年、ガデス他界後は、彼の愛弟子ステラ・アラウソ監督がその遺志を継ぐ。新生アントニオ・ガデス舞踊団が結成され、世界中の舞台で絶賛を浴びている。

ガデスの世界観を体現する『フラメンコ組曲』。
フェデリコ・ガルシア・ロルカの作品を舞台化した『血の婚礼』。
筆者が観賞した代表作といわれるメリメの『カルメン』。
以上が今回の公演で行われる作品だ。すべてを見たかったが、時間と金との問題で絞った。

公演会場のオーチャードホールは始めてだ。デパートの裏側にいつの間にかできていた。狭い空間を何とか生かした感じがするが、座席が前後で互い違いになっているのではないため、前の人の頭に遮られて、左に右に頭を振って見ざるを得なかった。最近は映画館でも、こんなことはない。せっかくの公演が十分に楽しめなかったのは、残念だ。


     
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復讐なき愛の世界を素描~モーツァルト「魔笛」考2

2016年01月30日 | 文化
フランス革命勃発の2年後、1791年に魔笛は初演され、今、新国立劇場の公演を筆者は鑑賞してきた処だ。モーツァルトがその時代に何を感じたのか、それが作品にどんな影響を与えたのか、良く判らない。しかし、ドン・ジョバンニ的な世界は遠ざかったと云えるだろう。

そうは云っても、アンシャンレジーム体制は依然として根強いはずであるから、様々な活動がそこに入り込んで、押したり、引いたりしながら、少しずつ新たな時代が顕れ始めてきた処なのだろう。


 
 新国立劇場 
従って、明確な主人公はいない。プログラムの中で出演者のトップを占めるのは、神殿の大祭司・ザラストロ(写真中央に立つ)、続いて王子・タミーノ、夜の女王、女王の娘・パミーナ(写真・中央で膝間つく)の順である。この4名に加えて、道化役のパパゲーノが主役群になる。

ザラストロが中心にいるのは、彼が他の4名の運命を握る存在として描かれているからだが、一方、声域がバスの処は、主役というよりは、狂言回しの役目とも云えるのだ。注目すべきは話の進め方であり、倫理的啓蒙主議で、説得的なのだ。

ザラストロは民衆の支持を受けて、その歓声に迎えられる中で登場する。しかし、熱弁を振るって民衆を率いるわけではない。静かに、説得するのだ。そのためもあってか、セリフの多いオペラになっている様に感じた。象徴的なのは、合議制で王子・タミーナに試練を受けさせるか否かを決める場面だ。
ひとりが立って「彼は王子だ」との言うと、「それ以前に人間だ」と返す。

また、パミーナから「母に復讐をしないで」と嘆願されると「復讐は考えていない」と応える。モーツァルトは啓蒙・説得・和解の精神をこの大祭司に与え、話を進めてゆく。従って、夜の女王は、挑戦すること無く、復讐に燃え立つ心をもって、地獄に落ちていく。

ドン・ジョバンニ亡き後の人物像は、「ザラストロ」と「夜の女王」に分裂したかの様だ。それでも、そのアリアは個人の怨念を世界への復讐として表現し、愛の心情を切々と唱う娘を超える存在感を示していた。それは、フランス革命以降の革命の姿を無意識の中で予感していたかの様でもある。その中で、モーツァルトは復讐なき、愛の世界を僅かに素描していたのかもしれない。

      
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ドン・ジョバンニ亡き後の人物像~モーツァルト「魔笛」考

2016年01月29日 | 文化
ドン・ジョバンニは地獄に落ちて死んだ。その人物像を継続させることは、モーツァルトにとって、できないはずだ。それを永遠に残すためには、尚更のことだ。では、次の作品は如何なる人物像を描くのか?特に男性像だ。
「魔笛」は傑作との評価を受けている。その要素は認めたとしても、娯楽としてだけではなく、作品として如何なる形でモーツァルトが成熟に向かっていたのか?昨日の国立新劇場では、それを実際のオペラ鑑賞の中で確かめたかった。

印象だけを取りあえずランダムに挙げれば、以下の様になる。
1)主人公がいない
2)セリフが多いー神父と王子の対話、神父が賛否を問う→無主人公に対応
3)道化の進化―対応女性の登場
4)悪女の存在感 アリアに表現
  ・個人の怨念を世界への復讐として表現
  ・心情を切々と唱う娘を超える ジョバンニを女・悪へ転換
5)異端の宗教集団―一般人の支持基盤大きい
  ・神父―復讐はしない 和解へのアプローチ→“バス”(低音)で表現
  ・合議の場面を設定―王子の前に人間 救済する
  ・宗教は世界を支配するのではなく、人間を救済・世界を保護・維持

印象に残るのは、やはり「夜の女王」だ。ドン・ジョバンニと同様に、地獄に落ちて死ぬ。この地獄に落ちるシーンは共に、歌舞伎「義経千本桜」の平知盛が錨を体に巻き付けて海に身を投げるシーンと何処か似ている、というか、想い起こさせる。自らよりも圧倒的に巨大なものに負ける姿を表現しているからだろう。

「夜の女王」のアリアは前半も、後半も圧倒的な迫力で観客に迫る点では、女心を切々と唱い上げるアリアとは、全く別な表現形態になっている。ドン・ジョバンニが女になって、世界に復讐を試みているかのようだ。筆者にとってここが一つのポイントと感じる。

      
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虚の世界にも生きたサイドミラーとしての知識人~澤昭裕氏の訃報

2016年01月17日 | 文化
朝、起きて一通りの準備の後、いつものようにメール、ツイッタの順で閲覧したら国際環境経済研究所所長の澤昭裕氏の名前で奥様の文章による、ご本人の訃報に接した。
「夫 澤昭裕は1月16日午前2時39分に永眠いたしました。亡くなる2日前に最後の原稿の仕上がりを確認後、緩和ケア病棟に移り家族と友人に看取られ、穏やかに旅立ちました。2月に遺稿となる記事が雑誌に出ます。読んでいただけたら幸いです。」

ツイッタをフォローしていたから当然なのだが、この形での訃報は初めてであり、文面から死を見極めて準備したことが窺われ、終末を迎えることを意識した日頃の活動に関して、しばし考えさせられた。

氏の論考は東日本大震災によって発生した原発問題だけでなく、エネルギー問題、ひいては環境問題を含めて広範囲にわたる。筆者は、その全貌を理解することは困難であることは判っているなかで、少しでも理解を進めようとする姿勢で、氏の論考に接する機会を持つようにしていた。

筆者は車を運転しないが、表題のサイドミラーとは、正面から直視するわけではなく、かといって、バックミラーで後方の注意を怠らない対象でもなく、ちらちらと横目でみて状況を把握するために、閲覧することを比喩している表現だ。
但し、いずれにしても筆者が密かに用いている方法なのだが。

筆者が正面から直視する対象のひとり、経済学の齋藤誠・一橋大教授が2015/12/23付けのツイッタで澤昭裕氏について以下の文を示した。
「「原発事故から5年 福島復興のタブーに挑む」で提示した建設的な課題解決の方向性と,人々がタブー視してあえて語ろうとしなかった重要な政策課題を取り組む勇気ある姿勢に,若干感ずるところがあったので小文を書いた。」

筆者は教授の近著『震災復興の政治経済学』(日本評論社刊行)を是非読もうと、川崎市図書館に借用を登録している。しかし、出遅れて比較的長い行列待ちになっている。
それでも、教授がコメントを付けていることに注目し、以下の論考を読もうと思っていた矢先のことでもあった。
「WEDGE REPORT 2015年12月26-28日」澤昭裕・2016年への提言(前・中・後篇)
福島のタブーに挑む・その1 除染のやり過ぎを改める
福島のタブーに挑む・その2 被ばくデマ・風評被害の根絶
福島のタブーに挑む・その3 賠償の区切りと広域復興

しかし、それ以上に関心を引いたのは、新年明けのブログ(1/4付け)における以下の「私の提言 ―総集編―」である。
「これまでこのブログも含めて、さまざまな場で日本のエネルギー政策に対して私見を述べ続けてきた。積み重ねてきた提言すべてを読んでいただければ、筆者が描いていた一筋の細い道をご理解いただけるかもしれないが、それも難しいであろう。そのためここで改めて、筆者がどのような視点でその時々のテーマを選定し、提言を行ってきたかについて、全体像を整理してお伝えしたいと思う。」

これだけの用意をするとは、自負を持ち、極めて真面目に仕事をこなしていたのだろうと想像する。誰にでもできることではないし、試みようとする人もごく少数に限られるであろう。

ただ、筋書きに描かれたような死に方にネット経由で知ることは、見ず知らずのネット上の読者に対して、死にあたって、メッセージを送るという行為があって初めて成立するものだ。
それは別の面で、“虚の世界”においても生きていると実感した人間によってのみ可能であろう。極めて現代的な、余りにも現代的な知識人の生き様のようにも感じる。

     
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新たな分野を切り拓くノーベル文学賞~平和な、余りにも平和な日本

2015年10月09日 | 文化
2015年のノーベル文学賞は、ベラルーシの作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)に授与された。授賞理由は「様々な人々の声を同時に響かせた、苦難と勇気の記念碑となる作品」とのことだ。

アレクシエービッチ氏=ロイター

ジャーナリスト活動の傍ら執筆した「戦争は女の顔をしていない」(85年)、「アフガン帰還兵の証言」(89年)、「チェルノブイリの祈り」(97年)は人々の声を集めて作品に仕上げる聞き書きの手法であり、ノンフィクションそのものだ。

これまでの文学賞の分野は、当然ながら小説を中心に、戯曲、詩であり、僅かな例外として、1953年受賞の英国元首相・チャーチルの「伝記」がある。しかし、今回の受賞は例外では無く、今後も続く新たな潮流と考えられる。

統合欧州に雪崩れ込むイスラム難民に象徴される様に、国境を超える機構の発展と広く住民を巻き込む戦乱の拡大がクラッシュする世界、これが現代世界の一面だ。その中で、多くの人々はサイレントマジョリティとして生活する。

しかし、一人ひとり、その声を聴こうとすれば、多くのことが語られるであろう。それを集めてモンタージュ写真を作るように構成していけば、現実の像が描かれる。そんな手法の様に思われる。日経の「私の履歴書」のようなサクセスストーリーとは真逆な方向においてだ。早速、図書館で借りて読もう。
処で、日本ではアレクシエービッチに匹敵する業績を挙げた方はいるだろうか?

ノーベル文学賞として近年、話題に登るのは、村上春樹だ。昨日のNHKニュースでも候補者のひとりとされていた。しかし、そのニュースでの紹介で「ベストセラー作家」と呼ばれていた。「こりゃダメだ!」というのが筆者の直感であった。別に、ノーベル賞を取るかどうかではない。この様にしか呼ぶことができない作家が、どんな価値を体現しているのか、と感じたからだ。

ハルキストと呼ばれる一群の人たちがいるのは特に関心は無い。しかし、騒ぎに便乗して、これをマスメディアがニュースに取り上げることを訝しく思うだけだ。

筆者は今、中上健次が存命ならば、と思うのだが。その文体は聴き語り風な表現も入れて、未だ読んでいないアレクシエービッチに似た処があるようにも、勝手に想像を膨らましている。

しかし、毎年のハルキ騒動が次第にマスメディアによって増幅される様にも感じて、安保法制の騒ぎと?がり、頭の中でシンクロナイズしてくるのを打ち消すことができない。平和な、余りにも平和な世相の中で、次第に閉鎖的な世界が作られ、その中で踊っているうちに、「ふたりのために世界はあるの」の状況に陥るのではないか。その頂点が2020年のオリンピックだろうか。

      
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知の地域づくりと図書館の役割~片山前総務相の講演(H20/1/27)から

2013年09月30日 | 文化
先ず、講演を聴いた時の筆者の感想を当時のままで書いておく。
『知的立国は地域において自立した市民により支えられる。市民の自立には、質の高い「教育」と「知の拠点」の存在が必要である。その「知の拠点」が図書館である。従って、「義務教育」と「図書館」は無償である。』

図書館についてこれだけ根源的なミッションを与えたのは初耳で、最近稀にみる創造的な提案と感じた。これがショックです!「義務教育」と「図書館」が並置されていることも。「地域の学習拠点」或いは「地域を知る窓口」としての図書館という位置づけは、川崎市ならずとも良く聞かれるが。

筆者自身、今も市立図書館のお世話になり、また、レファレンスに関しては、都立中央図書館を利用し、その有用性は疑う余地はない。ところが話では、市民自治の基盤としての地域図書館、それも地域活動を含めてレファレンス機能の充実がポイントとのことで、途中から自分のことに引きつけて聞いていた。

講演内容も図書館だけでなく、経験に基づいた自治行政のあり方にも時間を割き、有権者の意識改革として、選挙で選び、ダメだったら次の選挙で落とす、直ぐにという場合はリコールする、これが基本、と強調していた。

以下、講演内容の抜粋(レジュメとメモから)になる。

1)「知的立国と知の地域づくり」

「知的立国」とは
科学技術立国…科学技術の力で国民を豊かにし、世界に貢献する
文化芸術大国…質の高い文化芸術が国民を心豊かにし、世界の人々を魅了する
清潔で透明性の高い政府…土建国家、軍事大国、金満国家でなく、教育を重視
自立した市民…良質の政府を形成し、科学技術や文化芸術を支える賢明な市民

「知の地域づくり」とは…自立した市民により知的立国を地域で支える
「市民の自立」とは
自ら考え、自ら判断・決定し、自ら行動する
自己の潜在能力を十分生かして自己実現を図り、社会に貢献する
自立には、質の高い「教育」と「知の拠点」の存在が必要
…「義務教育」と「図書館」が無償の理由

「図書館のミッション」とは
…「誰のために」、「何の目的で」存在するか
…図書館は市民の自立を支えるための「知の拠点」
…現状、図書館は個別に分断され、子どもと高齢者の利用

「地域図書館」とは
…市民が自ら考え、自ら行動するために必要な知識や精報を提供
(例えば以下のような分野)
 ・地球環境問題と地域の取組み
 ・基礎的自治体のあり方と市町村合併への対応
 ・草の根自治を知る…欧米の地方自治に関する情報など
 ・教育…北欧の教育事情に関する情報など
 ・文化芸術…日常的に文化芸術に親しみ、心豊かな生活を送るには
 ・仕事…職業に必要な技術、制度、経済、統計などの情報や知識を提供
 ・生活や子育て…地域や家庭のカの弱体化を補う、的確な情報提供機能が必要
 ・健康と病気…病気や健康に関する情報提供、個人の健康回復や心の平安
  →「闘病者文庫」(知・情報の分類と統合により役立つ存在に)
 ・地域の歴史や文化、伝統などの資料・情報
  …市民主体の「地域の自立」に欠かせない

大学図書館…学生と研究者、それに経営・事務部門に対しても支援
県庁図書室…職員が中央官庁に依存しないで政策立案に必要な資料・情報にアクセス
議会図書室…議員が執行部に依存しないで必要な資料や情報を入手できる
      →中央官庁、執行部は都合の良い情報だけを出す 確かめる・裏をとる必要
学校図書館
 ・子どもが主体的に学ぶ『生活習慣』を育む一将来の地域図書館の良き利用者に
 ・職業・就業観を養う一自立し職に就くイメージを掴み、進路選択に自信を
 ・教職員の教材づくりや様々な仕事のサポート

図書館がミッションを果たす
 …資料・情報と利用者との媒介機能(司書)が不可欠
  ・司書の役割
 …情報を分類、整理、まとめる アドバイス・支援 司書なし→貸本屋
  ・多くの自治体では十分な予算、人員が確保されていない現状…蔵書、司書
  ・図書館行政が「質素」な東京都…3,000億円の財源余剰を国に召し上げられる

2)図書館の整備充実など「知の地域づくり」から見た自治体改革のあり方

教育委員会(5人の教育委員)は自立し、住民・保護者から信頼されているか
 学校経営者の自覚とマネジメント能カ…現場の課題を解決する気概と力量
 独自の財政権ない、関係予算・議案について首長から意見を聴かれる法的権利

首長の「知」に対するリテラシーは高いか…図書館のミッションを理解?
 一般に政策選択がハード事業などに偏る、文化や芸術、教育への関心は低い
 財政難に陥った原因一過去多くの自治体は『非知」の事業で大量の借金

議会のリテラシーはどうか
 教育委員の選任に同意し、ハード事業中心の予算を承認してきたのは議会
 市民全体の視点でのシステム改革ではなく、個別案件を口利きで処理する傾向
 多くの自治体議会は、「知の地域づくり」でリーダーシップがとれない
 有権者の意識改革と議会制度(選び方、選ばれ方)の改革が求められる

自治体の行政改革と知の地域づくり
…指定管理など自治体業務の外部化をどう考えるか
 利用者に提供するサービスの質の向上につながるか
 『知の拠点」が質の高い組織・集団として持続可能か
 単にコスト縮減のためのツールに堕している、非知性的行政改革の典型例

自治体の予算は、全体について広い視点から優先劣後が論じられているか
 予算編成過程の透明化一主権者である住民に対し十分な情報公開
 ・議会は予算・決算を十分に審議・審査しているか
  …根回し・談合、八百長と学芸会はないか

行政改革は総務省主導でなく、現場の必要に基づき行うべき
 総務省主導の行革、質を問わず量(定数・予算削減)のみに関心
 …安かろう、悪かろう
 行政改革は本来役所・議会と市民との対話で決められるべきもの

     
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