散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

日本は恒常的な電力危機!~歪んだ体制を是正へ

2022年03月28日 | 現代社会

今月の20日過ぎ、急に東電の電力が最大供給ギリギリになり、テレビでしきりに節電を呼びかける事態になった。何で急に?しかし、止まったら大変!急いで器具の利用をセーブした。原因は気温低下による暖房需要増加、及び3/16発生の地震の影響で福島県新地発電所等の火力発電所が損傷を受けたことであった。

しかし、一両日で「節電呼びかけ」も解除、その後は何も話題にならない。それは疾風のように現れ、疾風の様に去って行った、月光仮面のように…。そして何事もなかったように、マスメディアはウクライナ/ロシアのニュースに集中する。


何かおかしい、大雪、地震は今後もあるだろう。しかし、電力供給体制については、国会及びマスメディアでは話題にもならない?…去年もあったような?
そこで過去のファイルを調べてみる…昨年の冬。以下の論をチェックしていた!。

「ブラックアウトの危機!「電力緊急事態宣言」を出すべきだ」
  竹内 純子 言論プラットホーム アゴラ 2021.01.10
以下、要点を筆者としてまとめてみる。

電力緊急事態、電気不足。理由は二つ。

「その1」寒波による電力需要増大
寒波で電力需要が伸びていること。
日本海側は雪が積もり、太陽光の多くが何日間も(何週間も)“戦力外”。

「その2」燃料不足
発電設備の量不足は、電力需要のピーク時を抑制して凌ぐことが必要。

電力の特殊性…需要と供給のバランスが崩れると一部だけの問題ではなく、全体が崩壊する。2018年9月の北海道で起きたブラックアウトを想起!そこで、工場等の大口顧客に電力使用を止めて頂く(電気代は通年で割引く)等が必要。

今回(昨年冬…筆者注)の問題は、二つ目の理由。LNG(液化天然ガス)の不足。
LNGの調達不足が全国的に深刻化している原因は、中国での寒波や炭鉱事故、中国と豪州の政治問題から中国が豪州産石炭の輸入抑制措置を取り、その代替として天然ガス依存が高まったこと、韓国でも公害対策として石炭火力を16基停止させて天然ガスの利用が増えたなどの事象が重なり、東アジアのマーケットが影響を受けたとの推測が可能。
豪州やカタールなど天然ガスの産地でトラブルがあったという話も仄聞。
東日本大震災後、「日本のLNG調達は長期契約で割高な買物」と批判を受けた。電力会社が「殿様の買物」をしているという批判だったが、長期契約減の影響とも推測できる。

「事態に備えて備蓄をしておけば」?…天然ガスは-162℃の超低温で液化、輸送・貯蔵する。だが、低温冷却用タンクを大量には持てず、LNGは長期保存には向かない(1-2カ月)。
石油は半年分国内備蓄(オイルショックの後の石油備蓄法)、一方、LNGは2週間分程度の国内在庫。更に、LNG船から陸にLNGを荷揚げする際、太さ数十センチのパイプの接続要。冬の日本海側荒海での接続作業はNGの日もある。冬ではこの作業は不安定。

欧州では、域内に天然ガスのパイプラインが走り、その必要はない。地続きの国は安価に安定的に(欧州もロシア産の天然ガス依存度を高めて、痛い目を見た)調達できる。日本は液化して輸送、ガスに戻して利用する。コストも安定供給リスクも他国と同等に語れない。再エネ比率など含めて、エネルギー政策を他国と安易に比較することはできない。

LNG調達のリードタイムは通2カ月程度、早く国民に周知、電力節約しなければ燃料が底をつく。この危機を報じているメディアは一部、各電力会社のHPには節電のお願いを出していない。異様!危機は深刻になってからでは遅く、一刻も早く国民の協力を仰ぐべき。

こういう危機に対応するのは、
1)「原発無くても電気は足りる」と言う
  原発反対の方たちでもなく
2)「CO2を大量に出す石炭火力をまだやっているの?!」と言う
  温暖化対策に熱心な方たちでもなく
3)「既存電力は腐っている。自由化して競争させなきゃだめだ」と言う
  電力システム改革をした政治家や官僚の方たちでもなく
4)「石炭火力の比率が高い電力会社からは投資を引き上げる」と言う
  金融関係の方たちでもありません。

エネルギーミックスの必要性を訴えていた、電力会社の人たちです。そして何かあった時に責任を押し付けられるのも、その人たち。

なお、既存電力に腐った部分が多くあるのは知って、批判的に見ている。ただ、それと安定供給の担い手、担える制度・体制を作ることは別問題。
 政府(規制機関)が出す権限は「電力緊急事態宣言」ではなく「節電要請」!

竹内氏の論稿をまとめてみると、関係者の間に歪んだ体制を読み取ることができる。政府のリーダーシップの基に、しっかりと体制を組む必要があるのではないか?

 

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筆者と読者の間に~自分史余滴(1)

2022年03月14日 | 個人史

自分史の完成を昨年の今頃、(『市井人の自分史として』2021年3月11日付)報告した。しかし、発行に及んだのは年末(12月10)、家族・親族・恩人・友人・知人へ配布を始めたのは今年になってからだ(1月10日~)。現在は読んで頂いた方たちからの感想等をまとめる段階に入っている。

家族といえども、本人の半生に亘って知るわけではない。友人は学校、職場が中心になり、本全体での一部分だけが共通の話題になることが多い。逆に、本人は気が付かなかったことを教わる機会にもなる。そこで読者のひとりにもなり、改めて考えてみることになる。
表題の様に「読者と著者の間」に立ち、著作の批評が頭に浮かべる。即ち、既に著者という特殊な読者が誕生するのだ。

そこで、その立場から、改めて調べ、考えたことを書いていこうと思う。

感想等のなかに、自分では怖くてできないスポーツでケガをした方がおられた。そこで何気なく思い浮かんだ『過剰の生』(バタイユの有名な言葉)との感想を送り返す。そのエネルギーに自分にないものを感じ、共感の表現としたからだ。
ところが、その出典がわからない。バタイユの著作あるいはそれに対する評論等は読んだ記憶がない…思い出したのは、山口昌男の本のどこかで読んだ?

本棚の本を探すハメに陥るが…幸いにも見つけ出す。

「道化はその限界を知らぬ放恣な性格の故に、定住の世界に安住することを許されない。あらゆる慾において彼は限度というものを知らない。それは多分、ジョルジュ・バタイユ的表現を用いれば道化が「過剰の生」の表現である故なのであろう」(「道化と詩的言語」、『道化的世界』山口昌男著,筑摩書房(1975)所収,P22)。
なお、本書は様々な論稿を集めたものであり、「道化と詩的言語」の初出は『ユリイカ 1971年6月号』と記載されている。

自分史『或るベビーブーム世代の生活世界』では、第九章「社会と文化を知る」で70年代から80年代を中心とした若き日の読書、観劇等の遍歴を記載する。
山口昌男は永井陽之助、山崎正和、松本亮と共に熱中の対象であった。上記の本は引用していないが、引用した『未開と文明』『人類学的思考』『本の神話学』と共に道化シリーズの一冊として愛読書であることは間違いない。

しかし、「読者と著者の間」の人間にとって…表題の「生活世界」のなかで、バタイユ的、道化的、<過剰の生>があるのだろうか?こんな思いが湧いてきた。読者の方はどう考えるだろうか?<間>人間には未だ十分な説明ができていない!

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