散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

政治的人間から企業的人間へ~トランプ大統領と米国政治の転換

2017年01月19日 | 政治理論
明日予定のトランプ大統領就任式は、“企業的人間”と米国流ポピュリズムの流れとの奇妙な合体から生じた儀式だ。今や社会的人間から企業的人間に進化した人たちが、政治的人間を押しのけ、政治世界のトップリーダーに躍りでる。

『政治的人間』(「柔構造社会と暴力」(中央公論社)所収)において永井陽之助は、先に亡くなったキューバのカストロの「我々は政治家ではない…社会的人間だ。キューバ革命は社会革命だ」、との発言を引用し、政治問題と社会問題との区別をなくそうとする傾向を批判した。

しかし、社会問題のなかで経済問題の比重は膨れ上がり、更に、企業・市場・金融問題が政治課題として浮上している。
日本の株価もその「つぶやきと発言」の度に揺れる。株価が時価である以上、トランプの考え方によって状況が流動化することを市場が予測し、敏感に反応をもたらすのはしかたがない。それは彼の企業的センスによる産物だからだ。

最近の米国大統領選には上院議員、州知事の経歴を経た人が立候補することが多かったように思う。彼らを政治的人間とすれば、企業経営者としてのし上がったトランプは企業的人間と云えるだろう。その人事においても企業経営の経験者からの起用が多いようだ。

トランプが選挙時に発言した政策は、具体的であり、それが直ぐに現実可能であるかはさておいて、即時的である。「メキシコ国境に壁を作る」との発言がそれを象徴する。最近の「国境税」も同じように、単純明快である。

企業家は単一の目標に対して最も技術的合理性(効率)の高い手段を選択する。それはまた、時間の観念も含まれるから、短期間で達成することに傾く。問題があれば、駆け引きを行うが、それは損得勘定を基盤にするから考え方として即時取引に似ている。

しかし、「現代の複雑な利害関係の気の長い、迂回した調整よりも、単純な技術的解決、権力による問題解決に短絡されやすい傾向を意味している」(永井前掲書)。
トランプが廃止を掲げた「オバマケア」の行方が重要になる所以である。即時廃止をすれば、それは将に権力による短絡的な問題解決になる。しかし、解決したわけではなく、混乱を招く処に政治問題の難しさが存在する。

トランプが、複数の課題のそれぞれに単純な回答を与えれば与えるほど、世の中の混迷が深まるかに見えるのは、多くは政治問題であり、それらが相互に影響を与え合う問題であるからだ。フォードであれ、トヨタであれ、一つの企業の投資問題であれば、単純な回答が得られる。但し、その案から別な問題が発生するのだが。

夏目漱石は『道草』の最後に、「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起こったことはいつまでも続くのさ。ただいろいろな形に変わるからひとにも自分にも解らなくなるだけのことさ」と主人公に言わしめた。
米国政治劇場の主人公は、果たして同じ心境になるのだろうか。



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リズム中心の現代的弦楽合奏~「MUZA」ニューイヤーコンサート

2017年01月03日 | 文化
地元川崎市のミューザには、正月連休で、時間があるときに行くことが多い。連休はどうしても机に向かって文章をパソコンに打ち込んで作成しているか、本を読んでいるときが多い。そこで頭を休めるために、劇場で音楽に浸ることも良いのかな、と思っている。ふたり連れで私は誘われるほうだ。
普段、ほとんど出向かないのは、ミューザの中途半端さによるのだろう。

川崎市のいわゆるハコモノであり、市が100%出資する法人が指定管理者として運営している実質市営の存在だ。業務委託金は年間5億円程度、そのうえ、市職員の天下り先にもなっている。そんなこともあってか、建物の造りも劇場の感じがしない。雰囲気がまるでないのだ。

午後2時に開演、3時半頃に終演になったが、前後の時間帯の川崎駅周辺は混雑していた。しかし、それはミューザとの行き来のためではなく、川崎大師との行き返り、あるいは買物客のようだった。ミューザの館内は比較的空いていて、2階は半分程度、3階はほとんど空席であった。

今回は新年の恒例の催し物、東京交響楽団室内合奏団(第1バイオリン5名、第2バイオリン5名、ヴィオラ4名、チェロ4名、コントラバス2名)、コンサートマスター、ゲレフ・ニキティン(1964年、ロシア生まれ、バイオリン)による演奏会だ。ニキティン氏自身もバイオリンを演奏し、挨拶、合間の話は、少し片言が混ざった日本語を使って、内容も面白い。

エルガー「スペインの貴婦人」に始まり、続いて、ピアソラ「ブエノスアイレスの四季」。編曲されて、かつ、ヴィヴァルディ「四季」を引用して曲に織り込んでいるという。しかし、聴いていても、わからず、最後にバイオリンで冒頭の部分が弾かれて、誰でもわかる、その部分だけがわかった。それでも会場は拍手で包まれた。

出だしの「夏」は歯切れ良く、次の「秋」は鋭い響きで始まる。現代的にリズムをとる弦楽合奏は始めて聴くのだが、素人にものりやすい演奏だ。「冬」でけだるくなり、居眠りの時間であったが、続く最後の「春」は小気味よく、スッキリと目が覚めて体もリズムをとった。

後半は、チャイコフスキー「フィレンツェの想い出」、第一楽章~第四楽章と続くが、流石に全てを聴くことはできない。それぞれの楽章の終わりで目を覚まし、次の楽章は始めの部分を楽しむが、睡魔には勝てない。アンコールの「ワルツ」は聞き慣れた曲で調子に乗ってフィナーレを迎えることができた。



     
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幻想の中の紙芝居~「語り」と「絵」が引き起こす物語

2017年01月02日 | 回想
小学校へ上がる前は目黒駅から少し離れた処の親戚の家に一家で間借して生活していた。近くに空地があって子どもたちの溜まり場、遊び場になっていた。紙芝居屋のおじさんが来るときがあって、そのときは遊び仲間からひとり離れてその紙芝居を見ないようにした。実は見たくてしかたなかったのだが。

家ではおやつの時間が決められていた、母が買い置きを分け、家で食べるように仕付けられていたのだ。何も買えないから見るわけにはいかない。小銭をもらっての買い食いはさせてもらえない。

おじさんは自転車できて、拍子木を打ち、子どもたちに来たことを気づかせる。もちろん、子どもたちもそれっとばかりに集まる。エビセンのような薄くて軽いせんべい、あんず、ジャム、水飴などを先ずは売る。

この売り買いで即興の“紙芝居劇場”ができあがる。
それは特にうらやましくはなかった。しかし、紙芝居屋のおじさんが空地に来たときは、何も買えないから見るわけにはいかない。遊び仲間からひとり離れて見ないようにした。だが、話は聞える、実は聴き耳は立てていた。

絵を見ていなくても話は面白い。
おじさんが絵の登場人物になりきって、オーバーなセリフ回しで演じながら、ナレーターにもなって話を盛り上げていく。その盛り上げ方がドキドキさせるのだ。ただ、絵を切り替える処はわからないから、その瞬間に何が起こったのかは話が再び始まってからわかるだけだ。

ある時、おじさんが「こっちへおいで」と云ったら、仲間のひとりが「外での買い食いはダメなの」と答えてくれた。親切なおじさんは、「こっちへきて見てもいいよ」と云ってくれた。何しろ、話は面白かったから聞えるだけでなく、集中して聴きたかった。近寄って、後ろの脇から絵を見ながら聴いた。

実際の絵を見ながら話を聴いていると、絵を離れて登場人物の気持ちになって話の盛り上がりについていけるのだ。いま考えると、おじさんの「語り」と「絵」がシンクロナイズして互いに繋がっていく。変わらない「絵」が、変わっていく「話」を支える様に、見る人のイメージを変える働きをして、“物語”へと導くのだ。

家には絵本があって、それはそれで興味を持ったが、イソップ物語みたいなもので、ドキドキするような、あるいは笑い出すような物語性のある内容のものではなかった。漫画はダメで、朝日新聞の「サザエさん」「クリちゃん」しか見ることのできる漫画はなかった。

話の中味は覚えていないが、“正義の味方”が活躍するのがやっぱり面白かった。「黄金バット」が流行っていたらしいので、それも含まれていたかもしれない。おじさんが大きな声で抑揚を作る話し方は、親、幼稚園の先生がときたま話す「お話」の話し方とは全く違っていた。

その後、子どもたちがその年頃になったとき、夜寝る前に絵本を読むことがあった。確か「三びきのやぎのがらがらどん」(福音館)だったと思う。やぎが登場する場面、一番大きなやぎの処で、紙芝居屋のおじさん流に一段と大きな声を張り上げて、「おれだ!おおきいやぎのがらがらどんだ!」と、セリフを怒鳴るようにしたら、キャーと云って喜んでいた。
自分も結構、面白がって何度も試みたのだ。

      
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