散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

橋下市長に連なるオポチュニストの群れ~大阪市・公募区長の「過激発言」と「その削除」~

2012年06月30日 | 政治
「政治的オポチュニストは様々な形で表れる。…問題なのは精神病理的な傾向を有する人間が権力への渇望を満たそうとしたとき…我が国において台頭するのは難しい。」(『素顔を現した「大阪維新の会」のオポチュニストたち(2012/6/22)』)この認識を変える必要はないが、少し警戒が必要な状況ではあるな、との感覚を持つような報道が現れた。
大阪市の新区長が「右翼があかん政治家を殺さへんようになった」とツイッターに掲載したとの報道だ(朝日、毎日6/23)。
大阪市の公募で浪速区長に就任する人物。昨年4月に上述と共に「殺す必要は無いが、菅直人は出会ったら殴る、覚悟せよ!」との趣旨の発言をした。報道によれば、市が公募区長の就任予定者を発表した6/21、投稿内容が不適切だと考えてツイッターのアカウントを削除している。

このような、ツイッター上での「過激発言」と区長公表後の「その削除」という一連の行動の中に権力への渇望を満たそうとするオポチュニストの日本的な形態(西欧社会とは違った)が露出されているのだ。ナチスドイツで指導者グループに台頭した人間ならば、「過激発言」を削除することはなく、胸を張って「今でも同じ考えでいる」と言ったであろう。

『軍国支配者の精神形態』(「現代政治の思想と行動」所収)において丸山真男は自らの行為を自らの責任と胸を張るナチス指導者に対し、責任逃れの言い訳に終始する軍国日本の支配者との鮮やかなコントラストを描き出している。責任のない立場の時は気楽に本音を語り、立身出世が可能になると、自らの発言に責任を待たず、トカゲの尻尾切り宜しく取り消す処に、軍国日本の支配者の矮小な精神構造を引きずっているかのように見える。

これが、オポチュニストの本領だと言えば、それまでではあるが、軍国日本は否定されても、その根っこにある自己責任を回避するカルチュアは依然として残り、政治的に混乱した状況の際に、急浮上することがあり得ることが示されている。「個人の意見は違うのだが、なりゆきというものがある」「まわりに迷惑がかからないように対処する」という論理によってだ。

更に問題は、激しい競争のなかで橋下市長以下の面接試験をかいくぐって区長に選出されたという事実である。ごく普通には唯の人であり、論文、面接においてその政治的気質を見抜くことは困難であろう。一方、橋下氏以下の判定者がこの種の人間に惹かれる傾向もあることも示している。何故だろうか?

公募区長として選出されたのであるから、政策提案もそれなりに見栄えがするはずだ。一方で、ポール・ヴァレリーが言うように、政策のみならず、政治的気質も人物選択には必要なのだ。「気質から、創造派であるものと保守派であるものと破壊派であるものとがある。各個人はその言葉の党や念願の党ではない、その存在とその行動様式、反動様式の党であるその真の党に入れられるべきだ。」(『党派』「現代世界の考察」所収)。

就職試験の面接もそうだが、試験官が必ずしも的確な判断ができるわけではない。それは面接テストの前にふるい分けができており、ある一定の基準にかなった人間だけが残っているとの前提があるからだ。しかし、政治家に対する判断も、そのイメージも様々である。また、面接官も様々であり、無意識には自らの好みに従って判断するものだ。存外、性格テストを入れたりしたほうが、総合的な判断になるのかもしれない。

しかし、問題の核心は気質であって、それは矮小であってもついてまわる。過激にして破壊的な政治的性格は何らかの形で発揮されるであろう。右翼少年・山口二矢は「個人的恨みなし、天誅を下す」と社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺した(1960/10/12)。安保騒動の後である。

今、脱原発デモが行われているという。橋下市長は脱原発論者で、大飯原発再稼働に最初は反対した。その橋下市政のメインテーマである特別区構想実現の第一歩である区長公募において、破壊的気質を一端に示すオポチュニストが合格した。しかし、そのオポチュニストの眼鏡に叶った山口二矢は、右翼の黒幕に使嗾されたというのではない自立した17歳のテロリストであった(「テロルの決算」沢木耕太郎)。今後、橋下市長と大阪維新の会の周りで何が起こるであろうか。

      
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大阪維新の会、素顔のオポチュニスト~家庭教育支援条例案、政治的真空状態へ~

2012年06月22日 | 国内政治
『スイミー』としての橋下徹(3)(2012/3/5)」において以下の懸念を書いた。
1)急速に膨張する集団には政治的オポチュニストも存在するので、その発露を抑える。
2)討論を越えた過剰な言語はネガティブな攻撃性を助長し、1)にフィードバックされると悪循環になる。

政治的オポチュニストは様々な形で表れる。初歩的なのは、個人的な利益に係わることだ。しかし、問題なのは精神病理的な傾向を有する人間が権力への渇望を満たそうとしたときであり、ナチスドイツの中核を担った群像であるが、我が国において台頭するのは難しい。

上記両者の中間的存在として、自ら信奉する極端な政策を具現化しようとする少数派政治集団がある。この場合、反対勢力の存在も含めて通常の政治状況では非常に実現しにくい政策であることが一つのポイントである。「家庭教育支援条例案」を担いだ大阪維新の会大阪市議団の一部がその一例と考えられる。

前回記事のように、「家庭教育支援条例案」は、脳の機能障害である「発達障害」を親の愛情不足に起因するとしており、更に、それを虐待と同列に置く表現をしたことから関連団体などが抗議し、結局、大阪維新の会は条例案を白紙撤回、陳謝に及んでいる。この「親の愛情不足」イデオロギーは親学推進協会を実質的に主宰する高橋史朗が唱えている。

しかし、高橋氏には発達障害や脳科学に関する専門家の査読を経た学会論文はなく、橋下氏も言うように何ら科学的根拠はない。むしろ疑似科学である。
乙武洋匡氏が述べるようにである。 http://togetter.com/li/297720

その親学推進協会が深く政治家と結びついており、親学推進議員連盟がこの4月に設立されている。会長は自民党・安部晋三議員である。ここに世相に反映される『問題点』をすべて“親の愛情不足”に還元する発想、すなわち「親の愛情不足」イデオロギーを政治宗教とする議員団体が成立したのだ。

その親学議連が5月末「発達障害を予防する伝統的子育て」をテーマに勉強会を開催し、もちろん高橋氏が講師、関係者の抗議が殺到、議連側は最終的に陳謝したと6/12付・毎日新聞に報道された。

更に、先の「家庭教育支援条例案」が問題化する少し前に安部氏と松井大阪府知事が会談したことが報じられたはずだ。ここまでくると全体像が想像できるように繋がる。大阪維新の会には松井府知事がそうであるように、自民党・保守派出身の方も多々いるであろう。

橋下市長は2012/5/3付けツイッターで「発案議員グループが作成し、これから市議団政調会にかけるという段階」と言い訳に苦労している。しかし、この発案議員グループこそが “政治的オポチュニスト”の正体である。おそらく、松井知事を含めた旧自民党で政治的には右派に属し、安部氏の政治的イデオロギーに親和性を持つ人たちであろう。

では何故、大阪市が「親学議連・親学推進協会」に目を付けられたのであろうか。ここで、『政治的真空状態としての大阪市』にぶつかる。今の大阪市の行政機構、特に教育行政は混乱している。それは橋下改革によって既存の“制度”が否定され、しかし、その後は構築に時間の係る“制度化”よりも、条例・規則・罰則等の機構化に走りがちなところが見えるからである。教師のなかで、どこに向かって仕事をしていくのか、戸惑いがある人が出てきても不思議ではない。

有効な支配を継続する分岐点-制度型/機構型(2012/5/5)」で述べたように、法体系・組織体系を構築しても、それを動かす “制度”としての行動規範を醸成していかない限り、長期的には安定した体制は望めない。

この間隙を縫うのが政治的オポチュニストの集団である。個人的な利害に係わる人間は個々の問題であり、精神病理的な傾向を有する人間は現れにくい。結局、警戒すべきは極端な政策へ走る集団である。維新の会の議員以外には、特別顧問(例えば古賀氏、飯田氏)が挙げられる。今後もウオッチが必要である。

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大阪維新の会・「家庭教育支援条例案」の本質~すべてを親の愛情不足に還元する政治宗教~

2012年06月16日 | 国内政治
有効な支配を継続する分岐点-制度型/機構型(2012/5/5)」で述べたように、大阪維新の会大阪市議団の一部が「家庭教育支援条例案」を企画した。これがツイッターを駈け巡った。しかし、発達障害は、脳の機能障害であって、親の愛情不足などではないことが本質であり、これは調べれば簡単に判ることだ。スルーされた橋下市長への乙武洋匡氏の説明がこれらをまとめている。

『大阪維新の会による家庭教育支援条例(案)は、「発達障害の原因は、育て方が悪いから」と読み取れるものでした。このような誤解によって苦しめられている人が、たくさん存在しています。一人でも多くの方に読んでいただければ。』

何故このような紛いもの、誤解するふりをして、「脳の機能障害」を「親の愛情不足」へ押しつける考え方がまかり通っているのか?それは世相に反映される『問題点』を、すべて“親の愛情不足”に還元する発想が、その政治集団の根底にあるからだ。

何でも良いのだ!“親の愛情不足”と言えさえすれば!「発達障害」は単にそのターゲットに選ばれたに過ぎない!これが今回の『家庭教育支援条例案』に関する事件の本質であり、恐ろしい「政治宗教」と言うべきである。

では、その「政治宗教」の種明かしを試みよう。
毎日新聞大阪夕刊5/7付けによる「家庭教育支援条例(案)」の概要は、
▽「親の学び」の手引を配布。母子手帳に学習記録を記載
▽保育・幼稚園で年1回以上「親の学び」カリキュラムを導入
▽保育・幼稚園で保護者の一日保育士(幼稚園教諭)体験を義務化
▽保護者対象の家庭用道徳副読本を作成し、配布
▽中学生?大学生に乳幼児の生活に触れる体験学習を義務化
▽発達障害課や、部局が連携した発達支援プロジェクトを設置
▽乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害やそれに似た症状を誘発する大きな要因と指摘され、それが虐待や非行、引きこもりなどに深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる
▽わが国の伝統的子育てによって(発達障害は)予防、防止できる。子育ての知恵を学習する機会を親やこれから親になる人に提供

注意すべきことは、愛着形成の不足が、最初は軽度発達障害の誘発と、やや軽く書かれているが、次に虐待、非行、引きこもりに深く関与していると、重く書かれていることだ。言いたいのはここであって、発達障害はダシに使われたことが明白である。発達障害の当事者にとっては迷惑も甚だしいことだ。

また、“親の愛情不足”の発想は、子どもの虐待においては顕著であり、これを否定する人はいないはずだ。しかし、それなら虐待する親だけを対象に、その防止を考えれば良い。また、非行、引きこもりになると、単に親の問題だけでなく、友人関係等の社会的環境の問題が出てくる。ところが、発達障害になると乳幼児の頃からの親との関係だけにクローズアップが比較的可能になる。おそらく、ダシに使われた理由は、この辺りであろう。

もう一つ注意すべきことは、虐待、非行、引きこもりと異なる事象を並記、これに「など」を加えていることだ。これは虐待と非行、引きこもりを同じレベルで捉えることであり、つまりは、子どもに関して悪いとされていることはすべて、愛着形成の不足に起因するといつのまにか言っており、すり替えの論理だ。

ここまでくると、本当の狙いは別にあることが判然とする。問題の核心を文言から合成すれば、太線部分「愛着形成の不足、伝統、道徳」である。愛着形成の不足が社会生活での問題を引き起こすが、伝統的な方法によって愛着形成を可能にできる。これにより道徳の回復を図り、社会生活を安定化させる。簡単に言えば、他のことはさておいて、子育てに関しては「昔は良かった、昔に返れ」と『三丁目の夕日』よろしく、郷愁を呼び覚ましているのだ。

従って、その実現へ「昔と同じ」ように上から目線の庇護的、かつ、官僚的な押しつけの、手引・副読本の「配布」、カリキュラムを「導入」、体験を「義務化」が並べられる。これが『家庭教育援助条例案』と呼ばれるものの全体像だ。

この考え方が受け入れられる土壌は『戦後憲法における「機構信仰」 (2012/10/4)』で述べた政治的中間層の心理(法体系を社会秩序形成の基準)がある。これについては、別に議論が必要だ。

        
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山口二郎教授は古賀茂明特別顧問と似たもの同士~野田首相の大飯原発記者会見を巡って~

2012年06月09日 | 国内政治
大阪市特別顧問の古賀茂明氏「停電テロ」発言を「背信の風土」を醸成し、社会を解体へ導くと記事にした。

そこでは、「停電テロ」という極端な表現を発想する根底にあるものを摘出し、“自己認識”を求める成熟した態度ではなく、他者を自らの信仰へ誘い込もうとする疑似宗教者の態度である、と批判した。

昨日、野田首相が記者会見において、国民生活を守るため、大飯原発3,4号機の再稼働が必要と表明した。また、中長期的に原発を重要な電源と位置づけ、更に「夏場限定の再稼働」を電力価格高騰による産業空洞化、雇用の喪失、突発停電による病院等での生命の危険を理由に挙げて否定した。

これで一件落着、あとは大飯原発の地元・福井県の同意を待つばかりになったが、賛否両論は依然としてネット上を賑わしており、その中で今朝(2012年6月8日)、おや?という意見にぶつかった。それはツイッター上での山口二郎北大教授の発言である。氏は以前に橋下・大阪市長の政治スタイルをハシズムと批判し、橋下氏とテレビ番組で論争して世評は敗北とされた人である。以下に引用する。

『山口二郎@260yamaguchi 前にも書いたが、戦犯に敗戦後の政策を決定させてはならない。東電、経産省、御用学者が戦犯であることは言うまでもないが、戦犯を免罪する政治家も戦犯の仲間入りである。』

『52年前、市民は安保反対を叫んで国会を包囲し、岸信介を退陣に追い込み、憲法を守った…大飯再稼働反対を叫んで官邸を包囲するのは、52年ぶりの街頭デモクラシーの復活である。安保も原発も、戦犯に国策を決めさせてはならないのである。』

戦犯とは戦争犯罪人である。私たち一般人は、仲間内で何か失敗があって「アイツがセンパンだ!」と冗談で言うこともある。しかし、これは戦争犯罪人を意味しない。ところが、政治学者・山口氏が岸信介を引き合いに出していう”戦犯”は冗談であるわけがない。東京裁判における戦争犯罪人と同じということだ。
また、「戦犯を免罪する政治家も戦犯の仲間入り」ということは野田首相もまた、戦争犯罪人と呼んでいるのだ。

ここで戦争犯罪(人)に関する止めどもない議論をする必要は無い。ただ単に政策上の違いがあり、その最終決断をした首相に対して、最高級に侮蔑する言葉を投げつけた、ということを指摘すれば足りる。その人が、故永井陽之助氏が奉職し、『政治意識の研究』(岩波書店(1971))に収められた諸論文を研究された北大に現在、在籍するとは!戦う政治学者を標榜するから致し方ない処だろうか。

また、「安保反対を叫んで…憲法を守った」というのは修辞である。「安保反対を叫んだが、その条約は可決された」だけであり、憲法は直接的に関係するものではない。岸首相は極東国際軍事裁判におけるA級戦争犯罪人に指定されていたが、不起訴になっている。従って、60年安保のときのことで戦争犯罪人と言うのは、刑期を終えた人間を依然として犯罪者と呼ぶのに等しい。

しかし、政治学者・山口氏はこれらのことを十分承知のはずである。知っていて読む人の攻撃性を励起し、「東電、経産省、御用学者」をいつのまにか『人道の敵』に導くように仕向けている。このレトリックは単に荒っぽいだけであるが、同行の士には敵に対する憎しみを増す効果がある。スポーツでの敵は、試合が終われば仲間であるのに対してだ!

東電を「戦争犯罪人」と呼ぶことは具体的な事象、対立を超えて「」の烙印を押すことになり、関電の仕事を「停電テロ」と呼ぶことと等しい。共に「不信・背信の風土」を醸成し、社会を解体へ導くことになる。ここに、山口教授を大阪市特別顧問・古賀茂明氏と同列に置く理由がある。

一方、橋下・大阪市長は読売新聞に対し「渡辺恒雄主筆が氏のことをヒットラーに喩えるのは、国際マナー違反」とツイッター上で反論している。これは正論である。また、今回の野田首相発言に対し、氏は「電力会社の利益を考えた」と指摘したとの報道である。

先にも述べたように首相は電力価格高騰による産業空洞化、雇用の喪失等を例示して説明しているのであるから、反論はその土俵で行うのが常識的であり、具体的になる。却って、何も理解しないでの発言であり、上辺だけだと感じてしまう。
橋下氏の最近の発言は少ないだけではなく、力を感じさせない。この点に関しては別稿に譲るが、少なくとも、ここでは、山口氏・古賀氏のレベルの発言ではないことは認めておこう。

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橋下市長は「電力不足=リスク大」を認識、管前首相の「何とかなる」を痛烈に批判!

2012年06月04日 | 国内政治
大飯原発稼働を巡る動きは最終段階になった。当初、夏場の電力不足を認めていないなかった橋下・大阪市長もようやくにして「電力不足」の状況を認めると共に、そのときのリスクが非常に大きいこと、相対的に「原発」のリスク意識がこれまで過剰であったことを理解したようだ。

関西首長連合の会合には欠席しながら、連合として原発稼働へ舵を切るように導いた後、6月4日(月) のツイッターでは次のようにつぶやく。
http://twilog.org/t_ishin/date-120604

「そして今回ばかりはちょっと恥ずかしいですね。僕も大飯再稼働に加担したのですから。大飯については事実上容認としましたが原発問題は第2ステージに向けて頑張ります。」

「大飯の件について。判断基準は ①安全性 ②電力需給のひっ迫性 ③国家経済。
③の国家経済の件は今回度外視しました。これは中長期的なエネルギー政策、原発政策と絡めて判断するもの。」

「今回は大飯が再稼動して事故を起こすリスクと、計画停電になったときのリスクの天秤だ。安全が第一というのは簡単だ。しかし計画停電となった時のリスクを、安全第一論者は何も語らない。安全第一と言いながら、計画停電となった場合にどれだけの安全を脅かすのか全く語らない。」

特に、『判断基準』以降については、これまで“聞かない”セリフである。
この基準とそれに基づく状況判断は、おそらく4月以降、経済学者・池田信夫氏とのツイッター・ブログを介してのやりとりによって生まれたのではないか。

『橋下市長の「撤退する勇気」』の中で、池田氏は述べる。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51792465.html

『橋下氏はかなり前から再稼働反対論の筋が悪いことは理解していたのではないか。
5月11日には、次のように(橋下氏は)かなり率直な発言をしている。

池田さんは法治論を展開している。それは認める。…ただここで難しいのが国家経済ですね。ここは池田さんの論に理ありです。正直ここはお手上げです。…また、リスク論も池田さんの主張には説得性がありますが、最後は対策の不完全性の諦め。

このとき私は「橋下さんはもうわかっていて、落とし所をさぐってるんだな」と思ったが…』

この池田氏が引用した橋下発言は、6月4日の簡潔にまとめられらツイッター発言に対応する。であるから、5月11日の発言以降、この問題に対するツイッターでの発言はなく、沈黙を破っての今回の発言になったのであろう。

そして6月4日の最後の発言は、管前首相の無責任さを痛烈に批判する。管前首相こそ、安全第一との殺し文句で浜岡原発を止め、日本の電力危機を作った張本人であるからだ。あとは精神論で「何とかなる」とだけ軽く語る。これは市民運動家として政治活動に入り、本来の政治家になり損ねた人間の悲喜劇である。だが、菅首相のままであったなら…ブラックユーモアだけでは済まされない。

市民生活が本当にリスクを抱えると考えるとゾッとすると共に、現状にホッとする思いだ。

原発ゼロ「何とかなる」 再稼働問題で菅氏 2012.6.3 産経
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120603/plc12060300330000-n1.htm
 菅直人前首相は2日、静岡県湖西市内で講演し、原発再稼働問題に関し「場合によっては国民もかなり我慢しないといけない。しかしそういう気持ちをもって対応すれば、止まった状態でもこの夏、何とかなると思う」と述べた。

  
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山下真・生駒市長『橋下徹論』とヴァレリー『党派』(2)~「創造と破壊」との相克に関する一考察~

2012年06月02日 | 政治
山下真・生駒市長のツイッター5/25「橋下徹論」をポール・ヴァレリーの『党派』と突き合わせて浮かんできた感想の2回目。参考資料は以下。
山下真ツイログ
ポール・ヴァレリー「党派」『全集12 現代世界の考察』(筑摩書房)

大飯原発が再稼働確実に向かう中で、山下氏は5/31の朝、橋下市長の態度について「つぶやき」を残し、筆者はそれを通勤途上の電車で読んだ。そこで、偶々覚えていたヴァレリー「党派」の冒頭部分を引用して返信した。
山下氏「…大阪維新の会は、何を錦の御旗にして、国政に進出するのだろう。まさか、権力奪取そのものが目的とは言えないだろうし…」
筆者「かつて国に対していきり立たなかった党派はない ヴァレリー」

自ら権力を得るために、現権力に反対するのが「党派」であると簡潔に、深く、ユーモアを持って表現されている。では、ヴァレリーの立場は?「…特に、体系など持たず…疑わしいことは疑い、疑わしくないことは決して拒絶しないという自由をまだ持っている人々…」に本書を捧げると、序言に記している。

しかし、断るまでもなく、ヴァレリーの言う意味での“自由人”は俗に言うリベラル、リヴァタリアン、新自由主義者などではない。

さて、山下氏はツイッターでの橋下市長の熱心な支持者に以下の傾向を見出し、
1)本質的でないこと、つまり瑣末なことで相手を批判すること
2)言葉が感情的で品がないこと
次のように分析する。

「…この傾向に気付いて、また、私は新たな発見をした。この特徴は橋下市長と同じ…」「支持者も政治家に似てくるのか、似ているから熱心に応援するのか」
この傾向は橋下スタイルの本質的な部分のようであり、それを捉えた感覚と分析はさすがに鋭いものがある。

その分析によれば、政治に対して不信(=過信)を持ち、しかし、それを表現できないで生活していた人が、彗星の如く現れた救世主によって感情を励起され、品のない攻撃的言語を用いるようになった、と推察できる。この熱心な層が橋下支持の中でどの程度の重みがあるのか、不明だが、好むと好まざるとに拘わらずその情報に晒された人が共通して感じるのは、おそらく、その一方的な激しさだ。

ヴァレリー「気質から、創造派であるものと保守派であるものと破壊派であるものとがある。各個人は、その言葉の党やその念願の党ではない、その存在と行動様式、反動様式の党であるその真の党に入れられるべきだ」(「党派」P46)。特に政治状況が熱せられてくると、ヴァレリーの言葉は真実味を帯びて感じさせる。それは気質を励起し、顕在化させるからだ。

創造も保守も破壊も、人間の属性であるから、ひとりの人間にはそれぞれの要素が潜むはずだ。単に分類するだけでは表面的な理解に終わるだろう。いや、創造性が高い人間は破壊的要素も大きいのかもしれない。山下氏がツイッター上で遭遇したことは、シェークスピアが『ジュリアス・シーザー』で描く処のローマ市民の反応に似ているように思う。

しかし、市民が駆け去った後、アントニーが「あとはなりゆきに任せればいい」と言うように、熱せられた政治状況を感じる人間にとって、創造と破壊を意識的に使い分けることは極めて困難なのだ。橋下氏の思惑を越えて反応する層の圧力が、コントロールされずにネット上を闊歩している印象を受ける。何故か?行政の既得権益を規制する橋下市長の施策によって、彼らの感覚に“権力の味”が付け加わったからではないだろうか?ここでは破壊が全面化する。

「結果の平等よりも機会の平等を重視、自由競争により既得権益をぶっ壊して、閉塞感を打破」するのが橋下市長の政策であり、しかし、それは「激烈な競争の結果、新たな既得権益層が出てくる一方、競争に敗れた人は今以上に苛烈な状況」をつくり、「日本より市場主義が徹底し、社会保障が貧弱なアメリカに近付き、今よりもっと閉塞感のある社会」にすると山下氏は主張する。

ツイッター上では政策を言い表せないように思うが、橋下氏を介しての山下氏の主張は極めて単純であり、一方的な立場の表明になっている。しかし、どのような政策であれ、その主張の方法、更に実現の方法に政治的気質が反映する処に問題があるとヴァレリーは注意を促している。ここに政治家・山下市長と自由人・ヴァレリーの立ち位置に差異が現れてくる。

筆者は「『スイミー』としての橋下徹 2012/3/5」で以下のように指摘した。
1)急速に膨張する集団には政治的オポチュニストも存在する。従って、その発露を抑えることが必要になる。
2)討論を越えた過剰な言語による攻撃は、不特定多数の有権者に対し、ネガティブな攻撃性を助長することが想像できる。
3)更に2)の攻撃性が1)にフィードバックされると悪循環になる。

山下氏の指摘は2)にミートする。しかし、問題は3)である。大飯原発問題での態度、突如に大阪維新の会によって提出された「家庭教育支援条例案」、これらは既に3)の現象に突入しているかのようである。このことは橋下氏の政治スタイルが「曲がり角」にきたこと、リーダーシップとしても分岐点であり、移行時期にきたことを示唆している。以下が取りあえず、筆者の試論になる。
「有効な支配を継続する分岐点-制度型/機構型 2012/5/5」

       
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