「政治的オポチュニストは様々な形で表れる。…問題なのは精神病理的な傾向を有する人間が権力への渇望を満たそうとしたとき…我が国において台頭するのは難しい。」(『素顔を現した「大阪維新の会」のオポチュニストたち(2012/6/22)』)この認識を変える必要はないが、少し警戒が必要な状況ではあるな、との感覚を持つような報道が現れた。
大阪市の新区長が「右翼があかん政治家を殺さへんようになった」とツイッターに掲載したとの報道だ(朝日、毎日6/23)。
大阪市の公募で浪速区長に就任する人物。昨年4月に上述と共に「殺す必要は無いが、菅直人は出会ったら殴る、覚悟せよ!」との趣旨の発言をした。報道によれば、市が公募区長の就任予定者を発表した6/21、投稿内容が不適切だと考えてツイッターのアカウントを削除している。
このような、ツイッター上での「過激発言」と区長公表後の「その削除」という一連の行動の中に権力への渇望を満たそうとするオポチュニストの日本的な形態(西欧社会とは違った)が露出されているのだ。ナチスドイツで指導者グループに台頭した人間ならば、「過激発言」を削除することはなく、胸を張って「今でも同じ考えでいる」と言ったであろう。
『軍国支配者の精神形態』(「現代政治の思想と行動」所収)において丸山真男は自らの行為を自らの責任と胸を張るナチス指導者に対し、責任逃れの言い訳に終始する軍国日本の支配者との鮮やかなコントラストを描き出している。責任のない立場の時は気楽に本音を語り、立身出世が可能になると、自らの発言に責任を待たず、トカゲの尻尾切り宜しく取り消す処に、軍国日本の支配者の矮小な精神構造を引きずっているかのように見える。
これが、オポチュニストの本領だと言えば、それまでではあるが、軍国日本は否定されても、その根っこにある自己責任を回避するカルチュアは依然として残り、政治的に混乱した状況の際に、急浮上することがあり得ることが示されている。「個人の意見は違うのだが、なりゆきというものがある」「まわりに迷惑がかからないように対処する」という論理によってだ。
更に問題は、激しい競争のなかで橋下市長以下の面接試験をかいくぐって区長に選出されたという事実である。ごく普通には唯の人であり、論文、面接においてその政治的気質を見抜くことは困難であろう。一方、橋下氏以下の判定者がこの種の人間に惹かれる傾向もあることも示している。何故だろうか?
公募区長として選出されたのであるから、政策提案もそれなりに見栄えがするはずだ。一方で、ポール・ヴァレリーが言うように、政策のみならず、政治的気質も人物選択には必要なのだ。「気質から、創造派であるものと保守派であるものと破壊派であるものとがある。各個人はその言葉の党や念願の党ではない、その存在とその行動様式、反動様式の党であるその真の党に入れられるべきだ。」(『党派』「現代世界の考察」所収)。
就職試験の面接もそうだが、試験官が必ずしも的確な判断ができるわけではない。それは面接テストの前にふるい分けができており、ある一定の基準にかなった人間だけが残っているとの前提があるからだ。しかし、政治家に対する判断も、そのイメージも様々である。また、面接官も様々であり、無意識には自らの好みに従って判断するものだ。存外、性格テストを入れたりしたほうが、総合的な判断になるのかもしれない。
しかし、問題の核心は気質であって、それは矮小であってもついてまわる。過激にして破壊的な政治的性格は何らかの形で発揮されるであろう。右翼少年・山口二矢は「個人的恨みなし、天誅を下す」と社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺した(1960/10/12)。安保騒動の後である。
今、脱原発デモが行われているという。橋下市長は脱原発論者で、大飯原発再稼働に最初は反対した。その橋下市政のメインテーマである特別区構想実現の第一歩である区長公募において、破壊的気質を一端に示すオポチュニストが合格した。しかし、そのオポチュニストの眼鏡に叶った山口二矢は、右翼の黒幕に使嗾されたというのではない自立した17歳のテロリストであった(「テロルの決算」沢木耕太郎)。今後、橋下市長と大阪維新の会の周りで何が起こるであろうか。
大阪市の新区長が「右翼があかん政治家を殺さへんようになった」とツイッターに掲載したとの報道だ(朝日、毎日6/23)。
大阪市の公募で浪速区長に就任する人物。昨年4月に上述と共に「殺す必要は無いが、菅直人は出会ったら殴る、覚悟せよ!」との趣旨の発言をした。報道によれば、市が公募区長の就任予定者を発表した6/21、投稿内容が不適切だと考えてツイッターのアカウントを削除している。
このような、ツイッター上での「過激発言」と区長公表後の「その削除」という一連の行動の中に権力への渇望を満たそうとするオポチュニストの日本的な形態(西欧社会とは違った)が露出されているのだ。ナチスドイツで指導者グループに台頭した人間ならば、「過激発言」を削除することはなく、胸を張って「今でも同じ考えでいる」と言ったであろう。
『軍国支配者の精神形態』(「現代政治の思想と行動」所収)において丸山真男は自らの行為を自らの責任と胸を張るナチス指導者に対し、責任逃れの言い訳に終始する軍国日本の支配者との鮮やかなコントラストを描き出している。責任のない立場の時は気楽に本音を語り、立身出世が可能になると、自らの発言に責任を待たず、トカゲの尻尾切り宜しく取り消す処に、軍国日本の支配者の矮小な精神構造を引きずっているかのように見える。
これが、オポチュニストの本領だと言えば、それまでではあるが、軍国日本は否定されても、その根っこにある自己責任を回避するカルチュアは依然として残り、政治的に混乱した状況の際に、急浮上することがあり得ることが示されている。「個人の意見は違うのだが、なりゆきというものがある」「まわりに迷惑がかからないように対処する」という論理によってだ。
更に問題は、激しい競争のなかで橋下市長以下の面接試験をかいくぐって区長に選出されたという事実である。ごく普通には唯の人であり、論文、面接においてその政治的気質を見抜くことは困難であろう。一方、橋下氏以下の判定者がこの種の人間に惹かれる傾向もあることも示している。何故だろうか?
公募区長として選出されたのであるから、政策提案もそれなりに見栄えがするはずだ。一方で、ポール・ヴァレリーが言うように、政策のみならず、政治的気質も人物選択には必要なのだ。「気質から、創造派であるものと保守派であるものと破壊派であるものとがある。各個人はその言葉の党や念願の党ではない、その存在とその行動様式、反動様式の党であるその真の党に入れられるべきだ。」(『党派』「現代世界の考察」所収)。
就職試験の面接もそうだが、試験官が必ずしも的確な判断ができるわけではない。それは面接テストの前にふるい分けができており、ある一定の基準にかなった人間だけが残っているとの前提があるからだ。しかし、政治家に対する判断も、そのイメージも様々である。また、面接官も様々であり、無意識には自らの好みに従って判断するものだ。存外、性格テストを入れたりしたほうが、総合的な判断になるのかもしれない。
しかし、問題の核心は気質であって、それは矮小であってもついてまわる。過激にして破壊的な政治的性格は何らかの形で発揮されるであろう。右翼少年・山口二矢は「個人的恨みなし、天誅を下す」と社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺した(1960/10/12)。安保騒動の後である。
今、脱原発デモが行われているという。橋下市長は脱原発論者で、大飯原発再稼働に最初は反対した。その橋下市政のメインテーマである特別区構想実現の第一歩である区長公募において、破壊的気質を一端に示すオポチュニストが合格した。しかし、そのオポチュニストの眼鏡に叶った山口二矢は、右翼の黒幕に使嗾されたというのではない自立した17歳のテロリストであった(「テロルの決算」沢木耕太郎)。今後、橋下市長と大阪維新の会の周りで何が起こるであろうか。