散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

批判が表面に出始めたアベノミクス~経済学会・対抗馬によるカオスの生成

2016年08月21日 | 経済
批判が表面に出始めたアベノミクス~経済学会・対抗馬によるカオスの生成

「未来への投資を実現する経済対策」28兆円は2016/8/2に閣議決定された。
しかし、ようやく、と云うべきか!安倍政権の経済運営に対してその周辺から批判が出始めている。
「かき消される進言 経済学界、安倍政権と溝」(日経8/18)は、両者の隙間風と表現しているが、その程度ではなく、その溝は深い感じだ。

記事は、6月開催された日本経済学会のテーマ「エビデンス(証拠)に基づく政策立案・評価と政策研究」において、内閣府の担当者も登壇する中での大竹文雄・大阪大学教授の発言を紹介する。
「政府の側から研究者に数年先までの政策課題をわかりやすく示してほしい」。

専門家によるデータ分析を政策に反映させ、税金の無駄遣い、効果が乏しい政策を回避しようとする考え方が、世界の潮流になりつつある一方で、「日本の政策決定にはエビデンスが欠けている」との危機感を大竹教授らが持っている。

従って、先ずは、政策課題の提示が大切になる。ただ、翻って考えると、「エビデンスに基づく」ということが、改めて問題にされていることだ。
エビデンスに基づかない政策」は特別なものを除いて、本来、あり得ない。

政府の役割は、社会・経済の動向を把握し、その状況に基づいて中長期計画を策定すること。更に、その計画に基づく予算の策定・実行を行うことだ。当然、基本的な統計データ等を基盤にすることになる。
これまでの安倍政権の足跡は、「表向きは意見に耳を傾ける姿勢を示すが、有権者に受けそうな項目をつまみ食いしているだけで一貫性がない」ことを示すことは確かだ。後は、理由づけ、言葉の飾りのために学者を活用している。

その結果は、二度に渡る消費増税の延期に端的に表れる「アベノミクス」の手詰まり感だ。「3本の矢」(金融緩和・財政出動・成長戦略2012/12)は消滅した。
続く、「新3本の矢」(強い経済・子育て支援・社会保障2015/9)が目標と共に出現したが、エビデンスに基づいた実行可能な具体策が必要だ。しかし、華やかな言葉の後には何も続いていないような感がある。従って、政権崩壊のケースだけではなく、日本経済そのものの行方も心配される雰囲気だ。
 『安倍首相は第二の東條英機になるのか~「政策総動員」と「清水の舞台」160806』

記事の中で「ここで諦めるわけにはいかない」と語る土居教授は、政府の税制調査会、社会保障制度改革推進会議などに参加する。そして、「安倍官邸の目が届いていない分野は多く、データを基に議論を積み重ねていけば、経済学者の意見も政策に反映される」とみる。踏ん張りを期待したい。

学会だけでなく、自民党の中からも経済対策にクギを刺す発言が出てきた。次期の党総裁選を狙う石破茂氏だ。
TV番組の収録の中で、安倍政権が打ち出した「28兆円の経済対策」について、「公共投資がどれほど生産性を上げるか検証しないと、未来への負債になりかねない」と、バラマキ政策を批判した。

「総論はみんな賛成…中身はどうだ?補正予算は下手すると財政規律をおかしくする。予算委員会で検証し、政府は正しい、と理解を得ることが大事だ」。
更に、黒田バズーカ砲・異次元金融緩和策について「バズーカは破壊力は強いが、射程は短い。金融緩和もいつまでもできるものではない」という。

先の内閣改造で地方創生相を離れて、安部総裁への対抗馬として実質的に名乗りを挙げたとみられている。従って、政権への批判的言動は、今後の動向を含めて注目に値する。

以上述べた二つの事象は、直接的な関係はないし、その思惑も異なる。
しかし、そろそろアベノミクスにも厭きた人心に広がり、最近の首都圏の天気の様に、所々に雷雲を生成し、それが集まりながら大きな雨雲として流れを創出していくようにも思われる。
カオスの理論が何かを示唆するように。

      
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象徴天皇機関説~「天皇-国民間」の、「仝」による、「仝」のための

2016年08月12日 | 政治
天皇陛下の国民へのビデオメッセージ、以下の様に、平易に聴き取った。
象徴天皇という新たな仕事に就き、国事行為はあるものの、新たな意味づけを求めて、仕事を開発してきた。その仕事は国民にとっても十分に意味のあること、天皇の一身の状況から減らすことではなく、継続的に発展させるものだ。

それは仕事に関すること、陛下のお気持ち云々の問題ではないと感じる。即ち、新憲法のもとで始められた「象徴天皇制度」における機関としての天皇の業務を定め、その継続と発展の必要性を主張したものだ。

その意味で、以下の二つの文がポイントとして読み取れ、かつ、筆者の問題意識のもとで、印象に残ったものだ。
『日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。』
『天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。』

以上の議論は、勿論、戦前における陸軍・文部省による「現人神」と伊藤博文が構築し、美濃部達吉が法的に議論を展開した「天皇機関説」との相克の歴史を念頭においたものだ。戦後、“国民統合の象徴”という機能を憲法の規定として与えられ、国事行為も設定された。国民的理解としては、余った時間は動植物等の自由な研究に活用し、余生を過ごすようなイメージだったのではないか。

しかし、皇太子時代の美智子妃との結婚が、ミッチーブームを沸き起こし、テレビの普及と共に一つの社会現象とし国民一般にも大きな影響を与えたことが、現天皇の皇室に対する考え方に大きく影響を与えた様に思われる。
「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言した1956年から2年後のこと、本格的な高度経済成長時代へ突入したときだ。

筆者もまた、テレビでそのパレードを見ていた。
皇族あるいは華族から選ばれる皇室の慣例を破り、初の平民出身の皇太子妃として注目の的となった妃殿下との交流模様も雑誌の特集として競って書店の店頭に並んでいた。当時の昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったとされており、筆者も父が好んで買っていた週刊朝日を読み、また、父からもそのような話を聞いたことを覚えている。

それは、国民と皇室との距離を一気に縮めたと言ってよい。…そして、今、テレビを通してメッセージは、終戦を告げる玉音放送とは、「天皇-国民」の距離を著しく縮めると共に、天皇をイメージする国民の気持ちが親近感に満ちたものに変わったことを示しているようだ。

玉音放送は、“「天皇=国」の、による、ための”企図であったが、今回のメッセージは表題に示したように“「天皇-国民」の、による、ための”新たな提案を含んでいて、機関としての「象徴天皇」を具体的な姿として理解させるものだ。

国民へ直接、呼びかける形での気持ちの表現は、『お言葉』の中にも書かれているように、日本各地への訪問での経験がその基盤になっているのであろうが、更に、その底には結婚に対する国民的反応をパレードの中で実感し、その後、象徴の行為として発展させたことによるのだろう。

『皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅…その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ…』との言葉は、天皇・皇后の一体感と象徴としてのその実践と実感を示している。

しかし、マスメディアへのリークを通じて国民へ生前退位の意向を天皇が表明するという、異例の行動に関する報道を見聞きしていると、依然として政治・メディアの世界では戦後民主主義が根付いていないように感じる。

先ず、天皇の企図が伝えられた後、安倍首相は「コメンを差し控える」と発言、政府関係者もかなり冷淡であった。宮内庁関係者は「そのような事実はない」とまで言い切った。

戦後憲法では、天皇は政治と切り離され、象徴となった。しかし、天皇は形式として国会招集という国家元首並の役割が規定される。その人間が、その進退を意思表明できないとは、民主主義を危うくするものだ。

世俗宗教しかない日本において、「象徴=世俗現人神」を求める右翼的欲求が依然として安倍首相の取り巻きに一つの勢力として存在するのであろう。それを突破することは、憲法改定問題と共に、戦後日本の課題なのだ。

      
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安部首相は第二の東條英機になるか~「政策総動員」と「清水の舞台」

2016年08月06日 | 政治
「人間たまには清水の舞台から眼をつぶって飛び降りることも必要だ」とは、
対米宣戦の際、首相・東條英機が心境を述べた言葉として、近衛文麿が伝えている(丸山眞男『軍国支配者の精神形態』「現代政治の思想と行動」)。

筆者がこの言葉を覚えているのは…
その分厚い本が政治学を学ぶ上で、必須の文献であること、更に、その論文も永井陽之助が『政治を動かすもの』(1955)だけではなく、『同盟外交の陥穽』(1971)の中でも、日本の政治過程における政策決定過程で表れる特質として指摘しているからだ。

それだけではない。この言葉に接した当時、“首相とはこんなものか”と異様に感じたのだろう。そうでなければ、安倍首相の“政策総動員”という言葉から、反射的に「東條英機=清水の舞台」を想い起こすこともないだろう。
最近の朝ドラ「とと姉ちゃん」が少し前に描写していた様に、当時は国民総動員体制だったこともある。

一方、東條英機も貧乏くじを引いていた、とも云える。
近衛が辞職した後、開戦首相として昭和陸軍独裁の象徴的人物と見られたからである。当初の真珠湾襲撃は山本五十六の手柄になり、暗転して、その後の惨敗に至る軌跡は、すべて東條の責任と単純に評価されている。
明治維新以降の歴代首相の評価は様々だ。離陸した日本が第一次世界大戦後、墜落に至った過程においても首相は交代している。しかし、マイナスの評価だけを強いイメージとして残しているのは東條だけのように思われる。

手詰まり感のある「アベノミクス」、場合によって、激しいインフレに陥る可能性もある政治・経済運営だ。それを象徴するようなイベント「一億総活躍・地方創生全国大会」において安倍首相が講演した。
 『消費増税先送り後、4つの経済シナリオ~公的債務圧縮への道160715』

「地方創生」、「一億総活躍」は安倍政権の掲げたキャッチフレーズだ。しかし、既に色あせた感があり、今では全く顧みられない「三本の矢」と同じ命運を辿るだろう。だが、首相は「アベノミクスの果実を生かし、アベノミクスは道半ば…」と強調したと云う。

しかし、「一億総活躍」に続くのは今回の「政策総動員」だ。ここで“総”が被っていることが特徴だ。そこで、「活躍」を除けば、「一億・政策総動員」となり、戦前の「国民総動員体制」に似たスローガンだ。首相は独裁を主導した軍人の象徴としての東條と似たようなメンタリティの持主と見られるかも。

現状の日本政府は1000兆円を超える債務を抱える。果実を生かしたとしても、事業規模28兆円超の経済対策は、今年度の補正予算だけではないが、過去3番目に大きく、大規模だ。市場の信認を失う危険もある。
将に「清水の舞台」へ上ったのだ。安部首相の心境は!

舞台から飛び降りたのではないと考えた理由は、いわゆる「真水」と政治的に称される国と地方の直接支出が事業規模全体の25%程度、6兆円超であるからだ。しかし、巨額の財政投融資が含まれ、リニア中央新幹線を中心に公共事業に支出することを逆にみればどうなるか。

後世の歴史家は、ここで首相が「清水の舞台」から飛び降りたと評価する可能性もある。勿論、日本だけではなく、他の先進諸国を含めた世界経済の今後の動向による。但し、同じ発想で政治・経済運営を続けるならば!

      
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