散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

省時間ビジネスとしての地方議員事業~職業としての「口利き」

2015年07月31日 | 地方自治
地方議員の仕事とは何だろうか。それは先ず対価を考える必要がある。所属する自治体から給与を支給されるわけでが、言うまでもなく、それは選挙で当選するからだ。では、住民からの得票と取引する中味は何か。一番広く言えば、住民への福祉施策になるが、非常に狭く言えば「口利き」になる。国会議員も似たようなものだと云われれば、そうかもしれない。

そこで口利きとはどんな仕事かと考えれば、多くの場合、口利きと云えば裏社会を想定するだろう。しかし、所謂、黒幕なり、フィクサーは社会的必要性があるからこそ存在できる。即ち、電話一本で問題を解決し、見通しの利かない状況を晴らしてくれるからだ。それは「省時間ビジネス」との言葉で表現できる。
(永井陽之助『他人の経験―省時間ビジネス』(「時間の政治学」所収1979))

ここでは、例えば、住民個人の「自分の子どもを保育園に入れて欲しい」との注文から、「費用が安いので認可保育園に入れたい」、「兄弟を同じ保育園に入れたい」、更に多くの住民の要求になるであろう、「保育園を増やして欲しい」、「空き地があるから、そこに保育園を建てて欲しい」との政策提案に至るまでの依頼に対する対応を広い意味での<口利き>と称すれば、地方議員の仕事は省時間ビジネスに収まってくる。

現代社会では情報の拡散は広く、また、早い。一方、競争は激しく、時間は短縮し、即決が求められる。行政的決定はその機構の中での計画、調整、審議などを経て行われるから時間が掛かるし、その内部はブラックスボックスであり、透明感に乏しい。従って、省時間ビジネスは益々求められ、その重要性は消えることはないであろう。比較的容易に解決できる問題に関しては、住民からの通報を受けた地方議員が、携帯一本で行政に連絡する形は依然、健在である。

一方、組織活動における透明性も求められる。従って、政策に関することは、「議会での質問」でこなす必要が出てくる。また、政策として行政が取り上げなければ、解決が難しい問題も増えてくる。そこで、先ず、具体的な政策に練り上げるまでの時間等を質問によって短縮しようとの発想になる。

更に、地方議員にとってみれば、議会での「個人質問」は、自らの存在意義を住民にアピールする大きなチャンスになる。ここで狭い意味での「口利き」から広く議会での「質問」までが、一つの「省時間ビジネス」として成立することになる。

住民からの要求に対応する議員の行動である以上、それは投票への見返りを計算してのことだから、職業としての「口利き」として成立する。ここに省時間ビジネスが地方議員事業という新たな事業を生み出す。

ここにおいて、狭い意味での「口利き」だけで、議会での質問は行ったこともないというベテラン議員も却って目立つようになる。住民にとって、質問の有無を調べることは容易だから、議会ウォッチャーと呼ばれる人たちが槍玉にあげるのは必然の成りゆきだ。

一方、先の記事で述べた様に、細かい地域単位の話に終始することが多く、自治体経営に対する論点・争点を設定する議論は首長・行政にお任せが実情だ。従って、省時間ビジネスを営む地方議員という個人事業主が増加することになる。議会改革を標榜する議員もこの個人事業主に分類される。あたかも、定年退職した団塊世代に個人事業主が増えるように、である。
 『議会報告会の現状とあり方~地方議員と住民の姿勢が試される150729』

しかし、議会改革は個人事業主によって行われるものではない。個人事業主の集合体である会派組織が関与する課題なのだ。特に地方議会の会派組織は、著しく保守的であるから、形式的な改革に応じても、実質的に意味のある改革を実行するわけではない。そこで、住民の顔色を窺うように、情報提供の施策を進めることになる。

ここで問題は個人事業主と会派組織によって運営される議会が、必然的に自治体経営に対応できないということだ。即ち、自治体経営のおける経営者、通常の株式会社における取締役、を輩出できないということだ。おそらく、現在の「二元代表性」と呼ばれるシステムでは無理なのだ。

既に旧聞に属するが、欧米諸国では様々なシステムが試みられ、その一つに、首長の配下に議員から経営幹部を引き上げる方法があるとのことだ。議会内閣制との呼び方だったと覚えている。
即ち、議会の中に、「経営幹部―個人事業主」の組織をつくるだ。これで解決がつくとは、必ずしも思わないが、検討の余地はあると考える。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“議会改革ゴッコ”が終わる時~住民の見方は変わらない

2015年07月30日 | 地方自治
「議会改革は道半ば。市民のための議会であるために。」というブログ記事(白井トオル・小金井市議会議員)のタイトルに違和感を持った。記事の内容は同市議会の協議内容の経過報告で特段の感想はない。それにしてもタイトルの後半部に何の意味を含めているのか、と気になった。

川崎市議会を語る会のツイッターで知ったので、以下をリツイートした。
「何故、市民のためなのか?何故、議会と議員が自治体運営を良くしていくためと言えないのか??甘い言葉は甘い意識の反映なのか ???」。

すると、「議会活動の究極の目的は、より良い自治体運営を通して市民福祉の増進であると認識しているためです。「自治体運営をより良くする」というのはあくまで手段ですよね。」との回答があった。

成る程、と合点がいった!
“究極の目的”と大仰な言葉を使い、それが“福祉の増進”という決まり文句で収まっている。だからブログ記事のタイトルにも“市民のための議会”という改革を標榜する議員たちの、ある種の、決まり文句を使うことになる。

これを読んで想い起こしたのは北海道栗山町議会のことだ。
議会改革を始め、それを日本初の議会基本条例に結実させた。その条例は総合計画を自治法第96条第2項の議決事件としている。

更にその条例に基づいて、2007年度における総合計画の審議において、行政側案に対し、対案として総合計画議会案を作成、2008年2月に臨時会にて総合計画を修正可決したのだ。
その後、今日に至るまで、議会基本条例及び議会改革において、栗山町議会を乗り越える議会は現れていない。これは福島浩彦教授が指摘する処である。
 『「市民による川崎市議会白書2011-2014」基本構想140325』

今や栗山町の余りにも突き出した業績に刺激され、議会改革を掲げる議会はタケノコの様に増えた。しかし、その中味は薄まり、議会改革は“議会改革ゴッコ”になっているかのようだ。川崎市議会では議会の目標では無く、議会局の目標に議会改革が掲げられているとの話も聞こえてくる。議会改革もそろそろ終焉に向かうように感じる。

筆者自身としては、先の統一地方選挙の結果とその前後の雰囲気から何となく感じていたことが、明確になってきたとの思いである。結局、住民の議会に対する見方は変わっていない。松阪市議会に対する住民のリコール署名運動はその象徴的事象にも見える。

川崎市の場合も、市議会に対する市民の見方は似たようなものだ。
前々回の市長選の際、自民、民主は独自候補を立てたが、阿部市長に敗れた。前回は自公民で阿部後継の秀嶋氏を推したが、無党派で孤軍奮闘した福田現市長に秀嶋氏は破れ去った。議会各会派の推薦は市民に対する影響は、極めて限定的であることに変わりないのだ。

そこで議員心理としては、支持者を固めると共に、一般住民に対しては、腫れ物を扱うように、「住民の皆様にお役に立つ」「住民のための議員・議会」とのキャッチコピーに縋るようになる。特に所謂、地盤を持たない改革派議員も例外では無い。

そうであっても、自らを主張する方法は工夫の余地はあり、先にも記事にしたように、議会改革を掲げて上位当選した若手議員、重冨氏(無所属)の様な方もいる。駅頭においても同じ話を続け、少しずつ支持者を獲得していったのだ。
 『自共伸長、民維衰退、25歳の無所属新人が大健闘!~川崎市議会議員選挙150416』
 http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/4d653a24f70e1062b74412e25f095d4c
問題は「議会活動の究極の目的は市民福祉の増進」などと軽々しく言わないことだ。マックス・ウェーバーに倣って言えば、「究極の目的、そんなのは単なるおしゃべりに過ぎない」のであって、市民福祉の増進も公的業務に携わる人は誰でも究極の目的になる。即ち、自己の限定性も認識せず、何も考えずに、話をしていることを暴露しているに過ぎない。

議会改革の原点は議事内容を質的に向上させることにある。例えば、議会が総力を挙げて「総合計画」に取り組むとすれば、組織形態から調査体制に至るまで改革すべき事項の山となるだろう。それにも係わらず、と言える人たちこそ改革の旗手としての資格がある。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議会報告会の現状とあり方~地方議員と住民の姿勢が試される

2015年07月29日 | 地方自治
“いわゆる議会改革”は随分と進んだ様に見える。マスメディアもそれなりに取り上げているし、「改革度のランク付け」も定常的に評価する団体もある。しかし、それにも関わらず、それ故に、それとは関係なく、いずれの理由かで、住民が関心を地方議会の仕事内容を見直した様には見えない。

最近、木下斉氏は次の様に云う。「…自治体経営に対する議論よりも…国単位の争点を議会に持込む。…地方議会は自治体の自治を進める様に機能してほしい。…しかし、有権者側も深く認識していない。」(ツイッター2015/7/26)。

これに対して筆者は以下の様にコメントした。「地方議会において、国単位の争点を持込むこともあるが、細かい地域単位の話に終始することも多い。自治体経営に対する形式的な質疑はあるが、論点・争点を設定しての議論はみられない。結局、そこは首長・行政にお任せが実情だ!」(ツイッター2015/7/26)。

結局、議会改革といっても、僅かな例外を除いて、肝心の“自治体経営”に正面から取組み、首長と議論することによって、存在感を見せる地方議会は無い。多くの地方議会は市民に対してオープンになることで、却って市民と共に、今まで以上に、地方議会特有の身近な問題を中心に、自閉していくかの様だ。

その自閉的状況が爆発するのが、例えば、昨今の安保法制問題だ。報道によれば、これに関連して、これまで405議会が反対あるいは慎重審議の「意見書」を議決している。おそらく、世論調査結果、マスメディアの論調、地域の○○の会等の活動が社会的圧力になって、議会を動かしている様に思える。

さて、昨今、これまでの議員による支援者向けの個人報告会ではなく、議会が主宰するする「議会報告会」が開催されている(川崎市議会議員は全く無関心であるが)。しかし、そこで住民に対して何を報告するのか?明確な考え方を持つ議会は皆無に等しいようだ。

そのため、報告会に集まる住民の数が少なく、一旦休止をする議会もあるとのこと。住民の意見を聞いてみると、「決まったことの報告だけでは面白く無い」「自分たちも云いたいことがある」とのことだ。

筆者は川崎市以外の議会が主宰する「議会報告会」に参加したこともあるのだが、その雰囲気は、上記の住民意見と同じだ。数人でグループを作り、議員を囲んでの意見交換を行う議会も増えている。しかし、そこでの話題は住民各人の身近な問題になり、他の住民には関係のないことを話す人も多いのだ。議員個人に対する住民個人の陳情なのだ。

何故、そうなるのか。議会の元来の実際的な機能がそのようなものであり、更に加えて、議会が、「住民にための施策を行うことが議会の役割」との姿勢で会に臨むからだ。すると住民も、会に出る以上は、個人が持つ日頃の不満を議員に聞かせることになる。あるいは、そのようなモチーフを持つ人たちが、あえて議会報告会に参加する様になる。

議会として報告し、住民と意見交換する第1の項目は、自治体経営・運営に関することだ。続けて、それを政策にブレークダウンし、身近な問題に繋げること、何を実施するにつけても必要な亀、人員を具体的に示すことなども話す必要がある。更に、住民の意見に議員としての見解をつけることも大切だ。そのためには、議会において、自治体経営・運営の関する首長との議論が必須なことは言うまでもない。

その上で、議会報告会に住民が多く集まらないようであっても、忍耐強く継続すれば、良いだけのことだ。少なくとも議員になって、これまでの議会を変えようとする人たちを中心として、少数の住民が熱心に参加し、議論する場となることが議会報告会の必要性を判断する先ずの基準と筆者は考える。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人も外国人、明治神宮の観光客~持続的平和の基盤

2015年07月26日 | 現代社会
ここ2,3年、外国の方を案内して都内の観光地を訪れる機会が多くなった。
誰でも直ぐに思いつく場所に行くことが多い。ということは、他の外国人も多いということになる。

先日は3人で明治神宮へ行った。原宿駅で降りて久し振りに内苑へ行って、筆者自身はお参りするつもりになっていた。前に行ったのが何時だったのか、思い出せないほど、以前のことだ。もしかして、20年以上も前のことだったかもしれない。

新宿駅南口の方に見えるノッポビル、有名なビルだろうが、名前は知らない、そのビルが、鬱蒼とした森の間から見える場所があるのだが、そんな風景を見ることができたのは始めてだ。要するに以前に行ったのは、南口再開発よりも前だったことが判る程度のことなのだ。

山手線で新宿を過ぎる辺りから、雨が降り出した。雷雨の様相を示していたのだが、来た以上は目的地へ入るほかはない。駅を降りた処で、早速、「カサ~!カサ~!」と張り上げる声が耳に入る。東南アジア系と思われる若者が色とりどりの単色の傘を1本400円で売っている。早速、色違いを3本買って、正面の鳥居へ向かった。

しかし、にわかの黒雲が上空を襲うかのように原宿駅側から広がり、大粒の雨が落ちてくる。咄嗟に入口近くのコーヒーショップに走り込み、少し順番が出来ている列に並んだ。その後、何秒かで雷が轟こと共に、一斉に大粒の雨が揃って地面に落ちてきた。

ショップ内は追加の椅子も含めて満員で、少し遅れれば、入ることも出来なかったほどだ。一段と激しくなる雷雨のなかでショップ内は話で賑わっていた。見れば、欧米人、中国人、韓国人、東南アジア人がそれぞれグループごとに退避していたのだ。日本人は他に一つのグループだけであった。

回りを異なる国々の外国人に取り巻かれた中で、このエリアの中では自分自身も外国人に過ぎない、のだと強く感じた。しかし、この集団は互いに見ず知らずでも、互いに余暇を楽しむ、そして互いにそのことを知っている集団なのだ。

ビジネス社会の様に仕事をする分けではない。大学の様に勉学する分けでもない。このような小社会が出来たのは、観光客が集まる場所を嚆矢とするのではないか。その中で、日本の中での日本人観光客も多くの外国人観光客に囲まれて、外国人として自らを感じることも新たな体験かもしれない。

雷雨が上がって、広く、長い参道を歩いて本殿へ向かう道においても、この“外国人観光客の中のひとり”という感覚は変わらなかった。それでも、子ども時代に遡って、明治神宮の中で遊んだことを思い出すこともしばしあって、これまでにない感覚を自らの中に発見した思いを持った。

グローバル化を象徴する観光客の姿ではあるが、その中で諸外国から余暇を楽しむ人たちが集まることは、平和な、しかし、活気に溢れる社会を持続的に築く基盤になるとも感じることが出来た日であった。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「安保関連法案」とは何だろう?~集団的自衛権と後方支援

2015年07月20日 | 国内政治
安全保障関連法案のどこが憲法に触れるのか?憲法審査会で3名の憲法学者が「違憲」と表明したのも関わらず、内容自身について、必ずしも理解が深まる方向へ向かっていない。探してみると、元外交官で、退官後も安全保障問題を研究する美根慶樹氏が「the Page」において詳しく解説している。

先の記事で述べた様に「閣議決定」の文章は極めて分かり難く、国民に理解され難い様に書いているとしか思えない。元外交官の方が冷静に判り易く書くことは国民と政府との間に立つことになり、騒ぎばかりが目立つ中で、貴重な存在だ。

法案の具体的な内容は、「自衛の範囲・程度」に関わることと、「国際貢献」に関することに大別でき、形式的には2本だけだ。その中の「平和安全法制整備法案」は既存の法律10本を改正するもの、また、「国際平和支援法案」は新規の法律だが、実質的にはかつて存在し現在は終了している法律、「テロ特措法(2001年)」「イラク特措法(2003年)」を改正するもの。
 「平和安全法制整備法案」と「国際平和支援法案」
  
   [図表]衆議院で審議されている安全保障関連法案の内容

従って、国会で審議されている11本の法律案は、すべてこれまでの法律を改正するものとみなせる。

「周辺事態」を「重要影響事態」に衣替え
改正法案(重要影響事態法)は、条文から「我が国周辺の地域における」を削除、地理的限定を撤廃した。世界中のどこでも日本に対する脅威があり得るとの認識だ。場所を問わないので「重要影響事態」と呼ぶ。

現在、自衛隊が行動できるのは「武力攻撃を受けた場合など」だが、改正案(武力攻撃事態法)は更に以下の「1」を「存立危機事態」として追加した。今回の法整備で『集団的自衛権の行使』を認めた結果であり、焦点の一つだ。

    
[図表]集団的自衛権を発動できる条件である「存立危機事態」など新3要件

国際貢献は湾岸戦争以来の新しい事項だ。
先ず、国連の平和維持活動であり、冷戦後に急増、日本も1992年に初参加した。自衛隊の海外活動になるが、「国際平和支援法案」の場合は、日本の防衛ではなく、平和と安定のため各国が協力することが主眼だ。

「PKO」への参加、「多国籍軍」への後方支援も認めている。発生する事象そのものに内在する政治的理由から一方(親米国側)の当事者への荷担が問題だ。筆者は、国際貢献によって「日米安保の借りを返す」という現政府の発想をみる。今後は、この姿勢が対米従属の象徴になり、トラブルと共に、国際的批判を受けることを懸念する。

     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集団的自衛権の行使とは何か~閣議決定の構造

2015年07月18日 | 国内政治
集団自衛権の「解釈改憲」を巡って、自衛隊及び個別的自衛権の認知は無から有を生じさせた憲法9条2項の解釈で有り、集団的自衛権はそれを量的に広げたものとの議論を紹介した。即ち、国際情勢の変化に伴う憲法13条「国民の生存権」を全うするための解釈変更との論理だ。
 『「安保関連法案」と憲法解釈~コモンロー的接近は可能か150717』

これを報道したマスメディア各紙の反応は賛否に割れた。
朝日「この暴挙を超えて」、東京「9条破棄に等しい暴挙」、毎日「政治もしばしば暴走」であり、日本が戦争に巻き込まれることへの懸念を表明する。
一方、読売「抑止力向上へ意義深い」、産経「『助け合えぬ国』に決別」、日経「助け合いで安全保障を固める道へ」であり、集団的自衛権の行使容認は抑止力として働き、戦争を防ぐ機能を有すると評価する。

では、その元となる閣議決定「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(15/07/01)は何を示しているのだろうか。
題名からして、意味のない表現「国の存立を全う」「国民を守る」と意味不明の表現「切れ目のない」に修飾された「安全保障法制」であるから、中味がそれらに沿って曖昧なのは読む前から判る。

その構成は比較的長い「前文」に始まり、「2」が主要な箇所である。しかし、前文には書いていない「改憲解釈」が目玉であって、「3」に出てくるのだ。
1.武力攻撃に至らない侵害への対処
2.国際社会の平和と安定への一層の貢献
(1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
(2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置
4.今後の国内法整備の進め方

先ず、「前文」において、戦後の国際環境は変化し、今や、「どの地域に紛争等が発生しても、日本の安全保障に直接的な影響を及ぼし…どの国も一国のみで平和を守ることはできない」と述べる。この余りにもアバウトな認識で、何を具体的にするのか?以降の内容はすべて「?」になりそうで、苦笑せざるを得ない。

施策は大きく二点、1)は当然として、新たな狙いは2)になる。
1)日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上
2)国際社会の平和と安定に貢献するため、国内法制を整備

「1.武力攻撃に至らない侵害への対処」では、何を閣議決定するのか良く判らない。紛争は宣戦布告に始まるものではなく、それは日本の真珠湾攻撃の様にサプライズアタックを意味するわけでもないが、互いの小さな行動に対する誤解等から始まる。ここで大切なのは、潜在的敵対国との普段のコミュニケーションだが、そうは書いていない。「武器使用」のことだけだ。

「2.国際社会の平和と安定への一層の貢献」とあるが、これが狙い目だろう。
「(1)後方支援と「武力の行使との一体化」において、従来の支援活動は「後方地域」、「非戦闘地域」であったが、それを「現に戦闘行為を行っている現場」以外とするらしい。

これは空間的・時間的に概念が変わってしまう。これまでの活動場所は決まっていたが、今度は、戦闘場所以外すべて含まれる。どう見分けるのだろうか。更にご丁寧に「現に現場」なのだ。これは戦闘が終われば「現場」ではない。

ここでの疑問は「武力攻撃に至らない侵害」とのギャップである。ゲリラ戦の場合、突如、非戦闘員が戦闘員になり、歩いていたら、自爆テロに出会った等、何が起こるのか、判らない。そのような場所での支援を期待されているのであろうが、それに参加する自衛隊のリスクは高くなる。

「(2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用」
ここでも、官僚の作文でグダグダ書いている。結局、邦人救出において、自衛隊が活動することを謳っている。

「3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置」
ここが問題となる「改憲解釈」の部分だ。「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される危険がある場合、必要最小限度の実力を行使することは、憲法上許容される」とある。

これは「日米同盟の抑止力を向上」とは、趣をことにする。ホルムズ海峡封鎖などが安倍首相の口から出てくるからだ。読んでみると、官僚的な重複と支離滅裂さが目立ち、実際に紛争が起きたときにトップが指導力を発揮できるのか?それが一番の心配になる。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「安保関連法案」と憲法解釈~コモンロー的接近は可能か

2015年07月17日 | 国内政治
実りのある議論は国会でも、マスメディアでもなかった割には、単なる騒ぎだけが世の中全体に押し出されているように感じていた。それを象徴するかのような採択前の委員会風景(7/15付)だ。

  

50年以上も前、米国滞在時に「キューバ危機」に直面し、死ぬかもしれないと本気で考えた永井陽之助は、日本の微温的な泰平ムードを“愚者の楽園”と評した。氏はその時の衝撃をバネに国際政治の研究を志し、「平和の代償」の出版に至った。

その中で、「…デモをやる学生、国会をレスリング場と錯覚している代議士たち、…これを『運動の快楽』と呼ぶ。別にふざけているわけではない。…」と述べる。存命でこの写真を見たとき、“愚者の楽園”と評するだろうか。

一橋大・齊藤誠教授が7/13に「『個人の尊厳』が犠牲になってはならないという言葉は、とても印象的」とツイートされた。この言葉を含んだ慶応大・山元教授が受けたインタビュー記事、「解釈改憲」に筆者は捉えられた、それも有りかと。

翻って、解釈改憲の議論は、米国流の法律万能主義とは異なり、英国のコモンローとアプローチが逆の様だが、考え方は似た方向にある様に感じた。コモンローとは、不文法のことで、慣習や判例を積み重ねて、「法」として機能していることを指す。自衛隊に関する合法性もまた、自衛隊の具体的な活動を評価して、徐々に浸透していったものだろう。

山元教授は次の様に云う。
1)自衛隊は戦力の保持を禁止する憲法9条2項と正面衝突、自衛隊は違憲との解釈がつい最近まで学説では多数説。
2)しかし、自衛隊は今日では合憲性と法的安定性を獲得、学界の内外で個別的自衛権も含めて多数が法的に認める。
3)これは「0」を「1」にしたと言えるほど質的にインパクトは大。
4)個別的自衛権から集団的自衛権は、「1」から「2」へ量的に進んだ程度。

筆者は今の今まで、革新系の学者、団体の多くは自衛隊違憲説であって、単に既成事実を認め、現実に屈服しているだけだと思っていた。しかし、2014/9/29の国民安保法制懇の意見では、従来、自衛隊違憲説の学者も個別的自衛権肯定論に転換し、国民熟議の賜物と評価している。

そこまで自らが変わったことを、現実直視の結果だとも言えずに、国民熟議とは良く言ったものだ。これに対して、これからも熟議を続ければ良い、というのが山元教授の主張なのだ。足下を掬って、尤もと言う他はない。

即ち、条文の解釈は理論的に論証できるものでもなく、各政治主体がそれぞれの利害に対する考え方から、好ましい解釈を行い、政治的に闘うと考えれば、熟議のプロセスを継続するが、民主主義の営みにとって重要なはずだ、と説明する。ところが、集団的自衛権容認は違憲と言い切って戦う立場にいるのが、国民安保法制懇なのだ。結局、自衛隊違憲論のときと姿勢は変わらないのだ。

さて、解釈改憲をコモンロー的に進めていくには、これまでの慣習を積み重ねていくことだ。自衛隊の変遷、日米安保の変化、日本外交の対応、周辺諸国交・防衛政策の変化・軍事力の変化等を辿り、相互関係を絞り出すことだ。特に中国の台頭、北朝鮮のミサイル・核開発、東南アジア諸国の経済的飛躍等の要因は今後の予測を更に必要とする。

抽象的言葉と賛否論が単に飛び交っている国会の現状は、多くの国民に理解の手掛かりを与えるものはない。国会とは、そんなものだとの印象を覆す議員がひとりでも出てきて欲しいところだ。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なでしこ・宇津木瑠美選手(2)~サッカー観と対米国戦の見方

2015年07月16日 | スポーツ
宇津木選手がブログに書き込んだ対米国戦と米国チームの感想だ。
「結果は、優勝はできなかったですが、今の私にはその力がまだ足りないということ、アメリカの選手達の凄まじいパワー、キラキラした子供のような気持ちにすらなりました!」。この感想は試合終了後のインタビューでの表現、「10分間で決着が付くサッカーもある」と繋がっている。

筆者は「日本は米国の自己主張に反発せず、そのプレーに付いていくだけ…。諦めない姿勢が「我慢」を生み、米国選手に心理までも簡単に読まれた」と考えた。
 『米国に“自己主張”を許した“諦めない姿勢”~「なでしこ」の意義と課題150706』

しかし、「アルガルベカップ感想」を読むとなでしこの状況と今後の進むべき方向に対してしっかりとした見解を示す。勿論、佐々木監督及び選手達とも共有するのだろうが、フランス体験が染み込んだ鋭い感覚に基づいている。
「順位は厳しいものに…同時に課題も見えて…。今回の大会は日本のサッカーと海外のサッカーの特徴の違いが出た大会…。」

そこで宇津木選手は、リスクに対する考え方を例にとる。
「海外の選手のプレーは勢いがあるなぁと…長所をより伸ばすことが基本にある…とことん攻めたりして良いプレーを出していく…ただ、それにはリスクも伴う。けど海外の場合、個が強いからリスクを抑えるポテンシャルがある。」

「日本の場合、体格的に海外の選手にかなわない…リスクが失点につながる。だから組織をつくって、忍耐強く耐えて、相手のプレーさせないことで勝利をつかんできた。」

「海外はリスクをおかして、チャンスに賭けられる。日本はリスクをおかさないことが勝利への近道。良し悪しではない。
今まではそれで結果が出ていたから良かった。けれど海外のレベルが上がって、日本が勝てなくなった。だから新しい一手が必要な段階に来ている。」

「日本の場合、組織の力が世界に通用する強い武器です。この強い武器があるからこそメリットを出していける。なぜならリスクが失敗しても、組織が補えるだけの力があるから、リスクを恐れずに新しい一手を出せる。個をもっと出したり、色をもっと出したり、それらの相乗効果を生んだり…。」

この認識は正しいと思うし、予選に至るまで、システム、選手の適性等を試したのは、その模索であった。筆者も「宇津木、有吉、岩渕の3名は「なでしこ」にないものを持込み、課題を照射するが故に、貴重…」と書いた。
 『攻守に多彩なプレーを展開、ポスト・澤の布陣~「なでしこ」の意義と課題150706』

しかし、決勝T以降のシステムに懸念もあった。
リスクを恐れてか、積極的にボールを受ける動きが乏しくなると、連鎖反応的に全員の活動度が落ちることだ。対米国戦は、それが出てしまったのだ。

しかし、リスクに対する彼我の相違と日本のとるべき方法について認識があったからこそ、試合後の発言が出来たのだと思う。その意味で宇津木選手の冷静な発言は、フランスにおいて、苦労しながらも築いてきた“姿勢”を見事に表現している。今後の研鑽と活躍が期待できる所以である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なでしこ・宇津木瑠美選手~2011年W-Cup、川崎市表彰へ

2015年07月15日 | スポーツ
表題は4年前に別のHPで記事(110729)にした出来事。以下の内容も当時の記事をベースに書き加えている。
今回は準優勝であるが、前回と違ってレギュラーとしてボランチに定着、競り合いでのボールキープの巧さ、体を張った強さで活躍し、豪戦では最優秀選手にも選出された。従って、その名前も広く知られる様になったと思われる。

宇津木選手は川崎市高津区を拠点に活動する地域のクラブチーム「川崎ウィングスFC」(現在はNPO法人)で小学生時代は育った。後に引用するご本人の経歴では、高学年では、川崎F・ジュニアにも所属していたとのこと。

川崎市少年選抜チームも協会が組織しており、宇津木選手の実力からすれば、男子の代表とも遜色なく、そちらにも所属していたかもしれない。同じ学年には、権田修平(現東京FC)、高山薫(現湘南ベルマーレ)がJリーグで活躍している。

筆者も川崎市高津区に在住し、地域のサッカークラブの代表を務め、そのクラブにも少女チームがあったから「ウィングス」とも大会などで試合をしたこともあり、宇津木選手のプレーを見る機会もあった。
技術、身のこなしは抜群、県下の大会で4年生の時、6年生選手を抑えて最優秀選手に選ばれたこともあるとの話をコーチの方から聞いた。

筆者が「なでしこ」の試合を見るキッカケは、宇津木選手の存在があるからだ。地元の地域クラブで育った選手が若くして代表に入り、その後、レギュラーとして起用されるのか、気になっていたからだ。澤、宮間、阪口と好手が揃う中で、左利きMFとして、いつ、何処のポジションでレギュラーになれるのか。

女子サッカー選手を育成するうえでの問題は、中学生時代。学校のクラブ活動で女子チームを作れるほどの生徒は集まらない。さりとて、男子に入って、となるとバリヤが大きい。

地域のサッカークラブも、男子を含めて基本は小学生以下を対象にする。グランドがなかなか見当たらない関係で、ジュニアユースチームを作るのは難しく、中学校のクラブ活動へ送り出すことになる。
従って、少なくとも女子サッカー選手には“断層”ができる。

日本の学校教育、上から作られた機構による指導と、地域活動との接点のあり方を私たちに考えさせる問題だ。その根は、非常に深い。

宇津木選手の経歴は、ご本人のブログによれば、
Youth career
1994 - 2000 Kawasaki Wings FC
1998 - 2000 Kawasaki Frontale Junior
Senior career
2001 - 2002 NTV Menina, JAPAN
2002 - 2010 NTV Beleza, JAPAN
2010 - Montpellier HSC, FRANCE
National Team
2005 ‐ 2008 JAPAN U20
2005 ‐ JAPAN

2001年に日テレ・ベレーザの下部組織チームである日テレ・メニーナに入団、同年度の皇后杯全日本女子サッカー選手権大会出場を経験した。翌2002年からはメニーナに在籍したままベレーザに登録されるようになった。

2005年、高校生時代に「20歳以下」及び「正代表入り」しているので、将来を嘱望されていたであろう。しかし、花開いたのはフランス・モンペリエHSCへの移籍加入以降である。

この間の経験が宇津木選手に作用していたことは、本人もまた、話をしているところだ。今回のW-Cupでの活躍を踏み台として更にスケール大きく育つことが予感される。期待したい。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「全力を尽くす」から「諦めない姿勢」への転換~なでしこジャパンの敗因

2015年07月14日 | スポーツ
なでしこジャパンの澤選手は、今回のW-Cupの代表選手に選出されたときのインタビュー記事において、「選出されたとき、諦めずにやってきてよかったと感じた。自分のためにやることがチームのためにもなる。全力を尽くしてやり切るだけ」と答えている。これはごく、自然に出てきた言葉だと感じる。

しかし、マスメディアを中心に“なでしこ”の言葉が世間に浮遊し、世間を賑わしてくると、単なるチームの愛称が、どこかチームのアイデンティティを表現する何かに変質していったかのようであった。佐々木監督を始めとして、選手達はチームの一体感を意識的に強調しながら話をする様になってきた。

大会が始まる。予選が3試合共に1点差であった。緒戦のスイスは欧州においても実績があり、特に点差に違和感はない。しかし、次の2試合は選手の入れ替えなどがあったにしても、相手の頑張りが目立った試合であった。

今考えれば、決勝戦を予感させる姿が垣間見られたのだ。なでしこはリスクを取った攻めが出来ず、敵が積極的な攻勢に出ると、押されてしまう姿が出ていた。選手達はここで、先にある決勝Tでの厳しさを予感していたとも推察できる。

決勝Tに入って蘭、豪、英と試合毎に相手チームのパワーは強まり、厳しい試合となった。英との闘いでは後半の英の猛攻にタジタジとなった場面もあった。おそらく、得点は入らず、延長・PK戦も視野に入れざるを得なかっただろう。しかし、岩渕投入から攻勢に出て、川澄の積極的なクロスが敵のオウンゴールを誘って勝てた。

ところが、この辺りから「最後まで諦めない」という言葉がなでしこのキャッチフレーズであるかの様に、メディアが捕らえるようになったと感じる。いみじくも佐々木監督は、米国に破れた後に、「最後の最後まで諦めないで走り切るという姿を見せられた。」とまで言う。監督から呪縛に罹ったようだ。

冒頭の澤選手の言葉に戻ろう。
「これまで、諦めにやって良かった!今後は全力を尽くしてやり切る!」
大切なのは「全力を尽くす」であって、これが行動基準になる。「諦めない」はあくまでも結果論に過ぎない。これがスポーツ選手のごく普通の姿のはずだ。

しかし、高まる期待に「全力を尽くす」ではなく、「諦めない」を強調するようになった。この言葉をもとに、自らのサッカーを展開しようとするとき、具体的な行動指針は何も出てこない。何かを積極的に行うという際の言葉ではなかったからだ。一方、米国は試合開始から全力を尽くして自己のサッカーを押しだそうとプレーした。

試合が終了していくばくか経った今、圧倒的に多い、なでしこへの感謝、「諦めない姿に感動した」の風潮に筆者は違和感をもったのだ。何故だろう、との疑問を持って考えた時、ふと思いついたのは、平安時代、その全盛を誇った藤原道長の詠った有名な和歌であった。

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

「この世は自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように」との現代語訳がネットで示されている。しかし、ここで思い浮かんだのは、「満月の欠ける」ことに対する一種の恐怖心が無意識に潜んでいた?ことだ。

「全力を尽くす」といっても本当に出来るのか?という疑問が頭に浮かんだとき、何か欠けているものが、との不安が過ぎる。その不安を打ち消すには、一歩引いて「最後まで諦めない」とすれば欠けるものがなく、“完璧”だ。

しかし、この考え方は相手との闘いではなく、自己との闘いという閉鎖的な心理に自らを追い込む危険性を孕む。特に同調的雰囲気の下で、社会的圧力に晒されるとき、これに立ち向かうにはよほどの自己認識に達していないと難しい。
平安時代から現時点に至るまで、私たちの社会は、この点、変わってないのかも知れない。

先の記事において以下のことを書いた。何故こんなことに、との疑問に対する回答が今回の記事にだ。
「開始早々から米国は攻勢に出た。しかし、日本は米国の自己主張に反発せず、そのプレーに付いていくだけであった。日本選手は米国選手に対して距離を置いて下がり、フリーでプレーする十分な間合いをと時間を許した。諦めない姿勢が「我慢」を生み、米国選手に心理までも簡単に読まれてしまったのだ。」
 『米国に“自己主張”を許した“諦めない姿勢”~「なでしこ」の意義と課題3』


      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする