散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ノーベル平和賞に相応しいアジアの地域機構を~FT紙提案と日米同盟~

2012年10月28日 | 国際政治
EUノーベル賞の起原は第二次大戦直後、仏独中心に構想された石炭鉄鋼共同体であり、ここで平和の構造の基盤が造られた。これに倣って、東アジアにおける日本の「軽武装・非核・平和憲法」を基にした経済大国化も、アジアにおける手本として、ノーベル賞候補になっても良いのではないかと、10/1310/16の記事で述べた。

一方、英ファイナンシャルタイムズ(FT)紙は、同様にEUの受賞からアジアへと発想し、眼は未来へ向け、「ノーベル平和賞に相応しいアジアの地域機構を」(10月25日付)と提案した。
FT紙が言うように、アジアは欧州よりもはるかに複雑で、重複した組織は存在するが、EUと同じ役割を果たせる幅広さや奥行きを持った組織はなかった。そこで、その空白を埋めてきたのは、パックス・アメリカーナだった。米海軍のプレゼンスは、多くのアジア諸国が自国の驚異的な経済成長を描くことのできる安定した背景を提供してきた。

これは否定できない事実である。これに筆者の主張を載せれば、「米海軍―経済成長」の先駆けは講和条約―日米安保で構築された日本の姿である。従って、アジア・太平洋地域の石炭鉄鋼共同体に相当するのが、日米同盟ということになる。東西の冷戦下、ヨーロッパではソ連が東欧を支配し米国と対立し、アジアでは朝鮮、ベトナムで熱戦が起こり、中国が米国と対立した。
そのなかで形態、機能はそれぞれ異なるが、共に西側同盟としての役割を果たしたのだ。

FT紙は、日中をアジアの仏独に相当し、東西の異なるブロックに分かれたことをヨーロッパとの違いにしているが、これはアナロジーとしては強引に過ぎる。因みに筆者の考え方でアナロジーがあるとすれば、仏独対露に対して日米対中である。ここで大切なのは、東―東南アジアだけでなく、東―東南アジア・太平洋地域として考えることだ。実はFT紙も同じ考え方だ。豪前首相・ケビン・ラッド氏が「パックス・パシフィカ」と呼ぶアジアの制度を提唱したと述べているからだ。その目的は、地域の不安定化を回避し、米中戦争を防ぐことだ、という。

これには先ず、米国政府が中国の台頭の正当性を認め、中国政府が地域における米国の継続的なプレゼンスを認めることが起点となる。この制度が米中による地域分割にならないように、ASEAN諸国が中心的な役割を担う。重要なのは中国の反応だ。地域の秩序を再構築する構想を支持するか、アメリカによる「封じ込め」だと結論づけるか、別れ道になる。

最後に、触れられていない「日本」を考える。日米安保のもと、経済大国・日本の「軽武装、非核」の姿勢はこれまでと同様に「東ー東南アジア」の今後の発展にも寄与し、他国も認める体制だ。この現状は将来にわたって、東ー東南アジア・太平洋地域における平和の構造の基盤になるはずだ。日本は基本的に“現状維持国”である。中国の軍備増強につられて、日本単独の考え方で自主独立・核武装などに変更することは不安定要因になるだけである。

      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本が自立するとき~再考、米国に対する防衛~

2012年10月26日 | 政治
日本が自立の道を歩もうとする時、直ちに直面する課題は、2012/5/32012/10/22の記事で書いたように永井陽之助が「平和の代償」(中央公論社、最近、復刻版刊行)で述べた『日本の安全保障の問題で、多くの論者がまったく視野の外においている盲点』である『米国に対する防衛』に尽きる。
更に、井上寿一が「吉田茂と昭和史」(講談社現代新書)で述べるように、自立と依存の間の矛盾を解決する方法は『再度、日米戦争を行い、日本が勝つこと』である。

これらは極論である。あるいは、常識的に、戦争にならず、また、戦争に巻き込まれないように、独立を維持するだけの軍備を備え、賢い外交活動を行うこと、と言えば良いかもしれない。しかし、この極論に対する答を準備せずに、国政に携わることはできないはずだ。

「平和の代償」の中に収められた三論文が書かれた当時(1965-66年)、米中ソ三国の緊張関係のもとで、ベトナム戦争の行方が世界から注視を浴びていた。日本は自民党単独政権での安定はあったが、その自民党では吉田ドクトリンを引継ぐ佐藤政権の回りにも、米国の核持込み・安保強化から単独核武装に至るまでの多様な右派が存在していた。一方、社会党を中心とする左翼側も、非武装中立から有事駐留、中ソとの同盟に及ぶ広範囲の政治勢力が存在した。

この状況のなかで、永井は“大東亜戦争”の歴史的意義は、“アジア人の解放”という後からのコジツケではなく、太平洋に対峙する日米が手を握るために支払われた『巨大な代償』であり、常に留意すべき国防と外交の第一原理は、米国を敵にまわさないことだと、その本のなかで言った。これは自民党右派に対する基本的批判である。
一方、共産圏に一歩近づいたイメージを米国に与える中立化では、太平洋戦争で米国が日本本土に上陸しようとした直前の包囲網下におかれる。これを妄想と笑う人は心の底から米国に依存して、安心しているお人好し、と社会党及びその回りの知識人を批判した。

この両翼に対する批判は、いまでも妥当性を有していると思われる。もっとも、社会党はすでになく、非武装中立の残滓は僅かに社民党に託されているようだ。ここで、元自民、元社会、元民社、元社民連の連合体・民主党の立ち位置が明確でないことが良くわかるだろう。

戦後日本の国是「吉田ドクトリン」ではなく、普天間基地移設問題では日米同意を破棄する「超反米」的な色彩で、なんとなく「自立」、しかし、反米とまではいかずに「日米安保は堅持」する。その一方、鳩山元首相を始めとして、米国との信頼関係を損なうことが多い。これは、米国に依存して、安心しているお人好し、でなければ、取れる態度ではない。当然、そのお人好しぶりは中国及び韓国から試される。これが昨今の尖閣諸島・竹島の背景であろう。

問題は、近いうちにおこなわれる総選挙で、巷間、言われているように、自民党・公明党が政権を奪取した場合である。安部氏は自民党のなかでは右派に近い。しかし、先ずは、米国との信頼関係を再構築する道を進むであろうが、米国大統領選挙、中国指導者の世代交代の行方も絡んで、その先をどう描くかは不明であるからだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「吉田ドクトリン」は永遠なり~非核・軽武装・経済大国への道~

2012年10月22日 | 政治
僅か5回で構成したNHK「吉田茂―負けて勝つ」は、対占領軍・米国との交渉、国内政治の軋轢を交互に挟んで、早いテンポで講和条約までを描ききった。永井陽之助は、その間に築かれ、それに沿って復興から歩んだ戦後日本の基本構想・戦略を“吉田ドクトリンは永遠なり”と喝破した(「現代と戦略」(文藝春秋社)1985)。

『安全保障と国民経済』を論じて永井は、「戦後わが国が欧米なみに、軍事支出と武器輸出に依存する軍事ケインズ主義という麻薬に汚染されそうなった最初は、朝鮮戦争の特需ブームにわく1950年代前半だった。この甘い誘惑に抗して、今日の非核・軽武装・経済大国という、特異な国際的地位と繁栄を築いた功績誰か。」と述べる。時、あたかも、ロン・ヤスの日米軍事技術協力の時代である。

井上寿一は近著「吉田茂と昭和史」(講談社現代新書2009年)において、終章「吉田ドクトリンの行方」において、その後の国内状況をレビユーしながら、高坂正堯が「宰相吉田茂」において『負けて、勝つ』の吉田路線に明快な答を出すと共に、正当化したと論じた。更に、「吉田路線は吉田の意図を超えて、しかし「吉田」の名を冠した「ドクトリン」となって、その耐用年数を増していった」述べ、永井の命名を位置づけた。
なお、この著作は文献も豊富に用い、記述も判り易く、新書として良質に感じた。

一方、ブロガー・池田信夫は「吉田茂の呪い」の中で、上記の井上の本の中から、“吉田ドクトリンの矛盾”を引き出し、最近の沖縄を巡る混乱は吉田ドクトリンの「負の遺産」だとする。「呪い」というマイナスの価値を与える表現が、何を意味するのか不明である。しかし、吉田ドクトリンに対する積極的評価でないことは確かだ。これに対して井上は、その矛盾を解く方法が一つだけあると言う。それは日本が再び米国と戦争し、勝利すれば良い。しかし、その決意がなく、あっても勝利の見込みがないのであれば、この矛盾に耐えるしかない、と述べ、永井の宣言は今でも有効とする。おそらく、池田にしても日米戦争は考えていないだろうし、他の解を提案しているわけでもない。

結局、日米同盟は、日本の隣国のなかで米国が最強の国家であるが故に、日本として防衛しなければならない第一優先の国であることの帰結である。すなわち、同盟が最大の防衛になるということだ。永井は「平和の代償」においてもこのことを力説している。
http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/d5bf19e2411c9e77abce18f9546dc1f7
『日本の安全保障の問題で、多くの論者がまったく視野の外においている盲点は、米国に対する防衛の問題である』。50年後においても、この言葉は未だ有効だということを私たちは噛みしめる必要がある。

       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦後日本」のノーベル平和賞受賞の可能性~「EU」からの連想~

2012年10月16日 | 国際政治
「ヨーロッパを争いの地から平和の地へと変えた」という受賞の理由は、第二次世界大戦終了後、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が構想から僅かな年月で実行へ移されたことがポイントだ。ここから「戦後日本」の受賞を考えるのは飛躍だろうか。

非核・軽武装・平和憲法」のもとでの経済復興から経済成長への道のりは、アジア諸国に大きなインパクトを与え、韓国、台湾、香港、シンガポールの台頭に対して良き目標となった。平行して、米国と同盟を組み、講和条約、沖縄返還、日中国交回復を進め、国連中心の外交路線を推進している。

現在では更に中国、東南アジア諸国との貿易及び生産施設の建設等の民間レベルの交流は当然、人的交流を飛躍的に拡大させ、平和の基盤となる国家間での相互理解をもたらしている。

一方、冷戦下で、朝鮮戦争、ベトナム戦争という熱戦が行われ、日本は一方の当事者である米国と安全保障条約を結び、一方の側に立って協力した。しかし、冷戦にしても、熱戦にしても日本そのものが当事者ではない。また、歴史的にみれば、真珠湾攻撃によって米国をアジア・太平洋地域に引きずり出したのは日本とも言える。太平洋を挟んで相対峙した日米が、必然的な理由があったとはいえ、同盟を結んだことは、それだけで、アジア・太平洋地域に一つの平和の構造を与えたと言っても良いのではないか。

従って、ヨーロッパにおける仏独の戦争を封じこめた「欧州石炭鉄鋼共同体」がサンフランシスコ講和条約に象徴される「日米同盟」であったと言える。これには軍事的側面が日米安保条約として存在するのは確かだが、一方、ドッジ構想から進められた自由主義経済政策の展開が重要であろう。米国進駐軍に豊かな社会の片鱗を感じ、軍事支出を抑え、米国に追いつけ、追い越せを目指した処に民生・福祉中心の経済体系が出来てきた所以であろう。

国民経済と安全保障を論じて永井陽之助は『吉田ドクトリンは永遠なり』と喝破した(「現代と戦略」P47講談社(1985))。日本人が無意識のなかに感じた終戦直後の実感こそが日本を「軽武装・経済大国」という人もうらやむ特異な国家を築いたことの源のはずだ。改めて世界に対してアピールしても良いはずだ。その意味で佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのは、ピント外れと言わざるを得ない。改めて、ヨーロッパの知性が日本の地位を見直すことを期待したい。

         
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

EUのノーベル平和賞受賞の起原~仏独中心の石炭鉄鋼共同体~

2012年10月13日 | 国際政治
EUのノーベル平和賞受賞は意外性を持っていた。これまで個人が圧倒的に多く、次に機構(組織)が受賞される場合にあった。しかし、国家の受賞はなかった。27か国が加盟するEUは国家を超える機構としてもユニークな存在で有り、特異な実験的存在である。受賞理由は「平和と和解、民主主義と人権の確立という大きな成果を挙げ、ヨーロッパを争いの地から平和の地へと変えた」である。

その発端は、1950年4月17日に仏政治家のジャン・モネが提案し、仏政府が外相の名をとり、シューマンプランとして1950年5月9日に発表した仏独の石炭、鉄鋼の共同管理計画である。後年、この間は歴史が動いた22日間と呼ばれる。独仏の国境に近い仏ロレーヌ地方の鉄鉱石と独ルール炭田の石炭を利用した独の鉄鋼生産、これを戦後の秩序にどう組み込んでいくのか、大きな課題であった。更に、東欧を傘下に収め、東独を占領するソ連の脅威への対抗も必要だった。

「繁栄と社会の進歩を達成するために、ヨーロッパ各国は連邦を結成するか、『ヨーロッパ的実体』を作り出し、単一の経済単位にならねばならない。…フランスの将来はヨーロッパの問題を解決することにかかっている。」
この意見書をモネ氏は1944年に、すでに仏亡命政府に提出していた。この構想の具体案を思索し、上記の石炭、鉄鉱の共同管理に辿り着いた。これをシューマン外相が僅かな日時で以下のように提案した。「仏独の石炭・鉄鋼の全生産を、他の欧州諸国の参加を認める組織における最高機関の管理におく」「経済発展の共通の基盤、欧州連邦の第一歩」「仏独の戦争は不可能」。
(以上は「ヨーロッパ型資本主義」福島清彦(講談社現代新書)2002年)

ともあれ、短期間で仏政府提案にした構想力、政治的実行力には舌を巻く。更にそれが今日、EUへと発展した処に多くの人に共通の課題意識を感じる。

少し話はそれるが、“共通管理”から橋下氏の竹島日韓共同管理を思い浮かべる。
http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/c4a4175e8226ccf9d4e7a637331cc5f4
橋下氏が本気なら、他国の監視機関による管理も考えるはず…本気ではないのだ。

欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)のことは小学生のときに知った。「朝日少年年鑑」に載っていたはずだ。日本が資源のない国で鉄鉱石は輸入し、石炭は生産するが、良質なものは輸入、貿易は赤字…。工業立国になることが必要…。その中で、欧州経済共同体(ECC)に拡大した頃ではないか。それと共にソ連のスプートニクなどの東風も吹いていた。一方で高度経済成長も実は始まる時代でもあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

領土問題を乗り越える間接戦略~ロシアとの経済協力関係を再構築~

2012年10月08日 | 国際政治
領土問題に対し、橋下氏は発言を続ける。韓国の弾道ミサイル射程距離を800キロに延長する米韓協議、西日本全体が射程に入るなら日本も加わり、日韓の外交問題も解決すべきと主張する。領土問題など無視されるだけだ。対北朝鮮問題に加わるなら、オスプレイを含めて沖縄基地問題を処理すべきだ。それに「法支配を理想、しかし、現実を直視」との矛盾をどうするか、哲学、戦略もない。

この問題に対するアプローチも先の語録で引用した「平和の代償」に参考となる考え方が述べられている。三部作の中心『日本外交の拘束と選択』のなかで、目標と戦略を論じ、「日本外交の中期目標を、中国との国交回復と、正常な外交関係の確立におく。その主目標達成の戦略としては、迂回的、間接的アプローチを最良の策と考える。」と述べ、外交行動に広い選択の自由を与えることを説いた。具体的には対ソ接近から東欧との友好関係を切り開き、味方の極大化を図る。「国際政治は幼稚園の遊戯ではない、みんな仲良くお手々つないでとはいかない。」

このアナロジーは明らかである。再登場したプーチンは、メドジェーエフの国後訪問路線を保留し、北方領土問題を広く経済関係の中で捉える発想への転換を図ったようだ。自由貿易を掲げるWTOに156番目の加盟国として8月22日に入ったことに象徴される。輸出額の約70%が石油、石油製品、天然ガス等のエネルギー資源で占められ、経済の最も重要な指標は原油価格が現状だ。しかし、価格が不安定な資源に頼るわけにはいかず、自由貿易体制のもと新たなる発展を図る時期に差し掛かったとの認識であろう。

最近の尖閣諸島、竹島に関連し、北方領土を含めて議論する向きがあるが、それは違う。ミソもクソも一緒にしてはいけないのだ。ロシアは歯舞・色丹を分離して「二島譲渡」を議論したことがある(ウキペディア「領土問題」)。

先のAPECを開催したウラジオストックは、インフラを急速に整備、自動車産業、LNG生産プラントも誘致、東アジアの拠点になりつつある。本格的にアジア・太平洋国家としてロシアが自己主張を始めた機会を、日本としても捉える必要がある。それは経済関係を中心とするが、領土問題も絡まることは必然だ。橋下氏は安易に「解決」というが、そうではなく、何とか乗り越える努力の中に、日本の発言力を大きくし、中韓への圧力も掛けられ状況に進めていくことだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史に組み込まれたサンフランシスコ講和条約~吉田茂 in 『負けて、勝つ』

2012年10月07日 | 国内政治
講和条約の調印式がテレビドラマの主題になったことがこれまであっただろうか。「ドラマ」「映画」でググってみても本編以外は出てこなかった。歴史書、歴史書教科書等は別にして、このドラマによって「戦後から講和条約までの時代」はようやく歴史として物語られるようになったとの印象を受けた。

小学校高学年のときに「少年少女・日本の歴史」全集を通して読んだことを思い出す。「日本武尊」で始まり「西郷隆盛」で終わる。それは日本人の歴史が明治維新までだと暗示する。55年前は、それ以降は「現代」に繋がったままで、ある程度まで共通認識が構成される「歴史」ではなかったと考える。当然、軍国主義と敗戦、更に戦後改革、日米安保を評価する基軸が分かれることが影響する。

今は、「坂の上の雲」の影響もあってか、日露戦争までは歴史に組み込まれているようだ。それ以降は未だに歴史物語的表現は得ていない。上述の全集のタイトルに表現されるように、物語にはヒーローが必要だ。

その意味で、雲をつかむような坂の上から、下へころがる時代は物語的表現ができない。僅かに「真珠湾攻撃」の山本五十六が挙げられるだけだ。これも「ミッドウェイ沖海戦の大敗」を不運で片付け、視察の際、偶々米軍に遭遇して撃墜された悲劇の提督に仕立てて成り立つことだ。もちろん、暗号を解読されたあげくの出来事であり、その間抜け振りは見て見ぬふりをする以外にない。

戦後改革の主役はマッカーサーであった。新憲法の挿話は全編それを確認する。一方、第二次内閣の成立後の講和条約交渉では、その憲法第9条を盾にして吉田は再軍備を先ずは拒否し「講和条約=経済再建の道」を突き進もうとする。「商人的国際政治観」の発露であった。しかし、ダレスとの交渉は厳しかった。ドラマは交渉の場を手短に表現し、テンポは速い。その結果、講和条約、安保条約、行政協定と分けて決めた処などは判りにくい。しかし、ここに米国に対して『戦争に負けても、外交交渉で勝つ』の醍醐味が表現されている。

物語第1回は吉田が終戦工作の露見で憲兵に逮捕され、監獄に入れられているシーンから始まる。憲法第9条改定・再軍備を拒否し、米軍駐留・軽武装に止めたのは、米国だけでなく、復活を企てる旧軍部に対する勝利とも言えよう。これに関し、戦後60余年、ようやく歴史として共通認識が得られたようだ。

          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナム戦争の時代に米中接近を予測~永井語録4

2012年10月02日 | 永井陽之助
『米中接近のもつ虚の性格を誤解して、日ソ関係や台湾の犠牲のうえに、中国に深入りすぎた感に思える田中外交は、いま対ソ、対米、対東南アジア外交で急速に行動の自由を失いつつあるように思える。その巨大な代償を払って日本の得たものが、二頭のパンダだけであったとしたらそれは冗談にもならない。…』

『現代の情報化時代における外交のもつ、虚実の交錯する、屈折したあやというものを感じとる感覚を養わないと、われあれは、いつまでたっても国際社会の子供にとどまるだろう。ことに、テレビ時代の外交は、官僚外交の停滞化に満たされない大衆の焦燥感を吸収して、大衆消費社会の“象徴的外交”となっていく傾向があるからなおさらである。』

『「多角的勢力均衡外交」という古典的な19世紀外交パターンに移行することで、米中接近が可能になったという冷厳な歴史的現実のなかに、理想主義者の理論的破産をみなければならないはずである。』

『…現在、ヨーロッパで生じている実の緊張緩和―プラントの東方外交の展開、東西兵力引き離し、戦略兵器制限交渉、全欧安保等の動きと対応して米中接近がその論理的帰結として推論しうるはずである。』

『政治や外交における予測や判断は、若干、ペシミスティックで批判的であるべきと、日頃、私は考えている。少なくとも、日本の政治や外交を担当し、日々その任に当たる人々は、未来に対する、おののきと、絶え間ない警戒と、最新の注意が必要となろう。』

『明治の指導層が、冷徹な現状認識と骨身をけずる不断の努力によって、国家経営に当たっていたことは誰でも知っている。指導層の側の悲観的ともいえる厳しい警世の姿勢と、一般国民の側にある健康な楽観の結びつきこそ、国家興隆の兆しであって、その逆は、おそらく国家衰亡の兆であろう。』

 「多極世界の構造」中央公論社(1973) 所収
  『序にかえて』P9, (初出1973)、上側3カラム
  『あとがき』P306, (初出1973)、下側1カラム

「筆者コメント」
本の題名の「多極」は米ソの二極体制から移行する歴史的動向を捉え、副題に「国際情勢と予測」と書かれている『序にかえて』は、永井氏の国際政治に対する基本的態度を表している。米中接近の予測はその中から生まれた。この段階で日本における国際政治学はようやく誕生したと言えるのではないか!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする