散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

歴史を振り返る意味~書評『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著

2017年06月17日 | 現代史
教科書的知識からすれば、二月(三月)革命をロシア革命の始まりとして、十月(十一月)革命でボリシェビキ政権がその二月革命で生まれた臨時政府を倒した。
すると、二月に生まれた臨時政府は、十月の時点において、
(Ⅰ)成長途中であった
(Ⅱ)成長できずに衰退していった
基本的にはその二つのいずれかで、ボルシェビキの蜂起に敗れたはずだ。

副題の「破局の8か月」とは、臨時政府が勢いを増しながら崩れていく過程の表現である
。即ち、(Ⅱ)が正解になる。しかし、著者はその過程を丁寧に追う。臨時政府にとってだけの破局か?との問いを引っ提げてだ。
 しかし、その問いを投げかける意味が筆者には良く判らないが。

 以下、著作の言葉を「」の中に書き、その他は筆者のコメントとする。

(1)「十月革命は根本において誤っていた展望に促されて起こった革命」(Pⅴ)。
この断定が以下の記述に必要とは思えない。
(2)「十月革命クライマックス史観と著作の史観とは違う」(Pⅵ)。
(3)「それは裏返しの十月革命クライマックス史観と呼べる」(Pⅷ)。
“裏返し”の意味が判らない。

(4)「ロシア革命で滅びたものについても考えてみる必要がある」(P?)。
(5)「何よりも先ず、臨時政府について考える」(Pⅵ)。
(6)「ロシア史のなかので二月革命から十月革命までを考える」(Pⅶ)。

これは見掛け以上に困難な課題を設定して取り組んだ著作であり、その意欲は書評(毎日新聞3/5)を読んだ潜在的読者へ十分にアピールするものだった。しかし、読者となったひとりとしては“平凡な、余りにも平凡な”内容に、期待を持ち過ぎたことに対して反省を余儀なくさせられた。

二月革命から十月革命の間に新しい解釈が可能になるような深みのある考察がなされたわけではない。民衆レベルでの政治意識を地域、職業等に分解して理解が進んだわけでもない。エリート集団内の内情を説明しているのが主だ。

それ故か、議論に変化を付けようとして、タラレバが繰り返される。
「WWⅠが起こらなかったならば、ロシアの…」(P10)から始まり、

二月革命に関しては、
「この「私的議会」で議会下院が自ら権力をと決めていれば、ロシア革命の…」(P27)
「仮に皇帝が大本営を離れずに、全力で首都鎮圧を指揮したならば…」(P34)

七月危機については、
「このとき、反政府勢力を徹底的に弾圧すれば…」(P133)
「この共謀(ケレンスキーとコロニーロフ)が頓挫しなければ…」(P160)

こういうことを並べても人は賢くなれないのではと、考えてしまう。

レーニンによって、革命の形態が変わったのだ。
それは本文の次の二つを関連させて考えることができる。

(ⅰ)二月革命は「女たちの叫びで始まった」(P22)。これは自然発生的な現象だ。
これを契機に「1917/3/2、革命ロシアに新しい政権―臨時政府が誕生」(P42)した。

(ⅱ)一方、十月革命でレーニンは意図的に革命を引き起こしたのだ。
「現状の力関係から出発せず、より「弁証法」的に考えていた。つまり、自分自身が動くことで、力関係に変化を及ぼし、展望を変えていく…」(P205)。

この点に関して残念ながら著者は何も気が付いていない。

従って、レーニンの人物像も「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児」と単純極まりなく描かれるだけだ。
筆者なら「砂場で建物を創って遊ぶ幼児」とでも描くだろう。砂場(社会)の砂(大衆)を水(例えば四月テーゼ)で濡らし、少しずつ固めて移動し、積み重ねて建物にする。砂の性質をよく理解していたのだ。

著者と筆者のレーニン像の違いはジキル博士とハイド氏にようにも見える。
スティーブンソンの原作は19世紀後半の作品だ。社会における見えない亀裂が二重人格者、革命主義者を生み出していたのかもしれない。漱石もまた、「明暗」のなかに不気味な人間像を描いていた。農民社会から自らを隔絶させた貴族社会の自由主義者、社会主義者には手の追えない性格を有する人間像かも知れない。

更に「エリートと大衆の格差」を論じるには、文学的素養も必須であり、それらを織込めば記述にふくらみも出て理解も促進されるだろう。但し、ロシアの場合は民族的・宗教的背景が欧米諸国と異なり、トランプ現象等を念頭においた最近の政治状況には馴染むとも思えない。

ロシアの今後を占うにはプーチン現象との対比が必要だ。その点、著者の問題意識の立て方に安易さを感じる。ロシア革命の教訓は先ず国内問題に対してであり、ロシアの変貌が世界へ影響を及ぼすからだ。

     


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レーニン主義の理解~ロシア革命後100年”を考える前に(3)

2017年06月10日 | 永井陽之助
カンボジアのクメールルージュによる自国内大量虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻、中越戦争の一連の事件が起きたとき、佐藤昇との対談「『死か再生か、岐路に立つ社会主義』(「朝日ジャーナル」所収、1979/3/30号)」のなかで、永井陽之助は「…社会主義と共産主義(マルクス・レーニン主義)を区別すべき…マルクスとレーニンとは非常に違うんだ…」と発言している。
 『永井陽之助のマルクス観~レーニンとの違いを強調 2014/12/18』

そこでは、社会主義=マルクス、共産主義=レーニンとして、マルクス・レーニン主義を解体し、死に瀕しているのは共産主義であって、社会主義ではない」とも指摘した。

アジアの共産主義国の連鎖反応から、後の東欧・ソ連の連鎖反応による共産党政権の崩壊を予測したかのようである。それは更に『戦争と革命』(「現代と戦略」所収1985文藝春秋社)において詳しく分析されており、以下に引用する。

レーニンはクラウゼビッツ「戦争論」を徹底的に研究し、抜粋と傍注に下線、感嘆符等を付けて「クラウゼビッツ・ノート」を残した。レイモン・アロンは「戦争論」にレーニンの「ノート」を参考にして哲学的考察を加え、「戦争を考える」(政治広報センター1978、レーニンについてはP74-103参照)を著わした。

レーニン主義とは、国民の同士の対立である近代戦争に基礎を置く戦争の技術と理論を、階級間の闘争の革命理論に転換し、暴力行為の内政化を徹底的に押し進めたものである。

敵と味方を区別することが戦略論の第一歩であり、国民を階級に入替え、戦争の技術を革命の技術に翻訳し、フルタイムの職業軍人ならぬ職業革命家を擁する参謀本部ならぬ前衛政党組織を創り出した。即ち、自然発生的な大衆運動としての革命に替って、事前に計画し、準備、動員、組織する作為的な共同謀議の集団を動かすことになった。

1968年頃の大学紛争だけでなく、爆弾テロ、浅間山荘事件から最近になって何十年ぶりに犯人逮捕へ結びついた街頭闘争などの源はレーニン主義にある。スターリンもまた、レーニンの考え方を極限まで押し詰めたものと見なすことができる。

以下は筆者の感想である。
ロシア革命では1905年革命、1917年2月革命、10月革命へと進む中で、以下の順に、改革派からレーニン派(強圧派)へ主役が入れ替わった。
(1) 貴族を含む自由主義者 (2)メンシュビキ (3)ボルシェビキ
ソ連崩壊後のロシアもまた、似た様に改革派から強圧派へ主役が入れ替わったように思える。
(1) ゴルバショフ (2)エリツイン (3)プーチン
これは歴史の必然性なのか、いたずらなのか?

なお、敵概念については以下に説明がある。この議論での焦点は“絶対の敵”になる。
『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~「パルチザンの理論」2011/06/18』

在来の敵
王朝時代の戦争における敵。戦争は、外交目的のゲーム、兵士は傭兵からなる。民族感情、愛国心を欠く兵士にとって、敵は憎悪の対象ではない。一定のルールのもとで行われる決闘に近い。従って、極めて人道的である。

現実の敵
フランス革命によって触発されたナショナリズムを基盤に、人民戦争の形態で芽生え始め、フランス軍に対するスペインのゲリラ戦で明確な形をとった。現実の敵イメージは、激しい憎悪を、戦闘は過酷さを伴った。

絶対の敵
侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージである。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となる。

      


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生かされなかった旅順の戦訓~ロシア革命後100年”を考える前に(2)

2017年06月09日 | 永井陽之助
一昨日に確認した、二十世紀「戦争と革命」の時代はロシア1905年革命と日露戦争に始まった、との認識からは表題の事項も的外れではない。ただ、その認識をやや唐突に書いたので先ずは補足しておく。
 http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/e6958206d041fbc2337e9f7cd1f0ee0f
林達夫は、「ヨーロッパ全体の植民政策が受けている報い」との世界史的見方を日露戦争への視点とし、その戦争が進歩的ブルジョアと旧体制国家との戦いとしたレーニン説に注目する。ブルジョアをも?み込んだレーニン革命は1905年革命を契機とするのであれば、WWⅡ・中国革命に至る過程の出発点は明らかである。

そこで疑問がでるのは二十世紀という区切りだ。永井陽之助は冷戦研究プロジェクト(成果は叢書・国際環境全10巻(中央公論社))のなかで親交を深めた英国・ワット教授の世界大戦の著作から次の指摘に目から鱗が落ちる思いをしたと述べる(『攻撃と防御』「現代と戦略」所収、文芸春秋社1985)。

1870年代以降、めざましいテクノロジーの発達度は、それに追いつく軍部の能力をはるかに超えて加速された。WWⅠの西部戦線で多くの死傷者を出したその理由は、重砲の弾幕、鉄条網、機関銃の新たな出現であって、それらは日露戦争で最初に登場したものだ。即ち、日露戦争こそは最初の近代戦争だった。
WWⅠが世界で最初の近代戦争との思い込みを覆されたことが「目から鱗」なのだ。

続けて永井は他にも航空機、タンク、毒ガスの登場を挙げるが、陸戦の兵学上、攻撃と防御の戦略理論に決定的な影響を与えたのは、特に機関銃の登場であったと述べる。そして何よりも問題なのは「重砲の弾幕、鉄条網、機関銃の出現がこれまでの戦略的通念を覆すものであることをほとんどの参謀本部は気づかなかった」ことだと述べる。

更にそれは単に気が付かなかっただけではなく、西欧の没落の根源をつくったとする。引用はジョージ・スタイナーからだ。
「第一次世界大戦の死傷者は単にその数が多かっただけではなく、彼らの死が選り抜かれた人たちの惨死だったことだ。…激戦地でイギリスの精神的、知的才能の一世代は皆殺しにされたのであり、選良中の選良であった多くの人材がヨーロッパの未来から抹殺されてしまった」(「青髭の城にて」みすず書房1972)。

なお、引用した永井の文献の副題は「乃木将軍は愚将か」である。ご存知の方も多いと思うが、“愚将説”は司馬遼太郎が著作で述べた処であり、これを永井は「後知恵」としてすでに「冷戦の起源」でも反論している。
この文献では、更に広い見地に立って、戦略論を展開すると共に乃木将軍に関する文献も含めてその横顔も心温まる表現でデッサンしている。


     

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『旅順陥落』林達夫、1950年~“ロシア革命後100年”を考える前に

2017年06月07日 | 現代史
歴史事象は区切りの年になると、色々理由をつけた形での話題にされる。ロシア革命後100年も例外ではない。数年前はWWⅠ後100年でその話題にはロシア革命も含まれている。それでも取り上げられるのは革命の視点があるからで、なお、昨今のポピュリズムを含むと現代的話題性も持ち込める。

池田嘉郎著『ロシア革命-破局の8か月』にもその様な視点が含まれると沼野充義氏は述べる(毎日新聞書評欄2017/3/5)。これから読むのだが、その前にロシア革命に関連する書物で印象に残る部分を確認することも大切だ。

表題のエッセイは70年近く前に書かれたもので、多くの知識人が共産主義に畏敬の念を払っていた時代だ。何しろ丸山眞男がスターリン批判に触れたのはその批判の後の論文であった。更に日露戦争を、帝国主義だけでなくロシア革命も含めて理解する頭脳を持っていた人も林以外にいただろうか。

論文のなかで、日露戦争に関する文献で最も示唆深く読んだ文献として先ず『白き石の上で』(アナトール・フランス)を挙げ、「ヨーロッパ全体の植民政策」が受けている報いとの見方賛意を示す。

一方、もう一つの文献が、『旅順陥落』(レーニン)である。「進歩的ブルジョアジー国家日本が、ロシアの旧体制国家に勝利した」と日本の肩をもったレーニンの見解に林は注目する。日露戦争での敗北が続く戦闘のなかで、1905年の革命(第一次革命)が起こり、ニコライ二世に譲歩を余儀なくさせたことと密接に関係するとの見方からだ。

ここから二段階革命論へ進むのではなく、林は、スターリンが第二次大戦のおけるソ連の対日参戦を日露戦争の復讐と理由づけたことを、レーニンを引き合いに出して批判する。ここまでくると、レーニンが生きていれば、スターリンと同じことを言ったかもしれないとも言えて、的外れの批判にも思える。

ただ、二十世紀前半を彩った「戦争と革命」の時代は、1905年革命と日露戦争に始まったとの認識を70年前に、曲がりなりにも示している処に『旅順陥落』の大きな意義があるように思える。

一方、林はマルクス・レーニン主義とスターリン主義とを区別するために、この論文を引き合いに出したのかも、との疑問も湧いてくる。即ち、スターリン主義はレーニン主義を引継いで、レーニンの「プロレタリア独裁」を極限まで追い詰めた形態ではないか、との疑問である。

国際的にはハンガリー動乱、プラハの春を押しつぶし、ブレジネフドクトリンへ続くソ連の政策、カンボジア虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻、中国のベトナム侵攻に至るアジア共産主義国の連鎖反応、中国での文化大革命、天安門事件での騒乱状態の出現である。

流石に1950年当時において、ここまで見抜くことができる知識人はいなかった。それはやむを得ない。しかし、振り返ってどこまで認識が行き届いたのかを冷静に検証することは大事であろう。
明日は永井陽之助の論考から考えてみたい。

     


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