散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

心のケア~専門知と世間知との間

2021年06月19日 | 精神・心理

 臨床心理学者の東畑開人氏によれば、「心のサポーター養成事業」という厚労省管轄の政策があるそうだ(朝日新聞「社会季評」6月17日付)。
 安心して暮らせる地域作りのために「メンタルヘルス、うつ病、不安など精神疾患への正しい知識と理解を持ち、メンタルへルスの問題を抱える家族や同僚等に対する、傾聴を中心とした支援者」を十年で百万人養成する計画、今年度予算は3千万円弱。実際の中身は心の問題には素人の住民に2時間程度の研修を受講させる程度のことだという。

 「素人に毛を生やす程度だが、この毛が貴重なのだ」、「本当の主役は素人であるからだ」と氏は述べる。最初に対応、最後まで付き合うのは、専門家ではなく家族、友人、同僚などであるからだ。逆に言えば、付き合わざるを得ない側面を持つ人たちなのだ。

 ここから氏は素人と専門家の間を架橋することに関心を向ける。
 ここが悩ましい問題であるし、その評論のポイントにもなる。氏は哲学者カントが「世間知」と呼んだ市井の人の智慧を持ち出す。これを臨床心理学の「専門知」と並べるのだ。

氏は言う。
 前者は、人生にある酸い、甘いについての、ローカルに共有された知である。この世間知が、精神的に悩む人の回復プロセスを想像させ、必要なケアを準備し、コミュニティーに彼の居場所を確保する。素人たちはこの世間知に基づいて、互いを援助しあう。
 しかし、世間知にはコミュニティーから人を排除する力もある。不機嫌が続き、イライラが募ると、世間知は彼を持て余すため、孤立していく。
 その際は専門知が解毒剤になる。「うつ病?」と誰かが言いだす。周囲は彼に医療機関の受診を勧めたり、特別扱いしたりできるようになる。
 この素人判断こそが、心のサポーターに生えたささやかな毛だ。うまく専門家につながれば、そこで適切な理解を得ることができるし、すると彼の不機嫌さが悲鳴であったことがわかる。「厄介者」はケアすべき人に変わる。

 即ち、心のサポーターとは、専門知を浅く学ぶことで、とりあえずの応急処置や専門家につなぐことを身につけた素人なのである。専門知が世間知の限界を補う。
 一方、専門知はときに暴力にもなる。「うつ病」「不安障害」と名指しされ、心理学や医学の問題にされる。すると、人は孤立する。世間知によってクライアントの生きている日常を想像できないと、支援は専門知の押し付けになり、非現実的になる。
 専門知が世間知の限界を補い、世間知が専門知の暴走を制御する。両方がせめぎ合うことで、苦しんでいる人の複雑な事情を複雑なままに理解することを試みる。
 心のケアとはその試みを積み重ねることだ。複雑に理解されることが、その人らしさを保証し、コミュニティーに居場所を作ることになるからだ。それが孤立を和らげる。

 このせめぎ合いが両者(専門知と世間知)の架橋を築くとは、とかく互いに敬遠しがちな間柄への挑戦であって、実りのある成果へ繋がる方法論にも思える。
 しかし、問題は残る!哲学者カントのレベルでの世間知とは!?